1.
「ロン、残念なお知らせだ」
流石の僕でも、文字通り首根っこを掴まれたのは初めてだった。小猫みたいに持ち上げられて、そのまま門の外に放り投げられた。いくら下が土だからって、放り投げるのはちょっとよくないんじゃない?
そうして、その犯人こと、ジェニファさんを見上げれば、かわいそうなものを見る目が返ってくる。僕は頬についた土を拭って言った。
「なんだいなんだい、僕を外に連れ出すなんて。デートのお誘いにしてはちょっと強引すぎるよ、ジェニファさん」
「どこの誰があんたなんかとデートするって?」
「えっ? 違うの? いいんだよ、遠慮なんてしないで。僕は全ての女性の味方だからね。勝手口から出したってことは、よっぽど知られたくないんだね。大丈夫、僕、口は堅い方だから」
「あんたの口の軽さは、あたしはよーく思い知らされてるんだよ」
「わお。うっかり美しい人の前に行くと、閉ざしたいものも開いてしまうよね。例えば心の扉とか」
「あんたのその浮ついた口が閉じてるとこなんか、あたしは一度も見たことがないけどね」
これはよっぽどお怒りらしい。思い当たる節は色々あるんだけど、やっぱりこのあいだジェニファさんの大切にしているうさぎのぬいぐるみ(テリーちゃん)をお嬢様にバラしてしまったのがいけなかったかな。こう見えてかわいいもの好きな所とか、とても良いと思うんだけれど。
僕がそうこう考えている間に、ジェニファさんはポケットから小さな袋を取り出した。そして、その袋の口を開いて、中身を足元に落とす。小さな硬貨が3枚、僕の前に散らばる。
「手切れ金だよ。受け取りな」
「手切れ金って」
「これ以降ベリル家と関わるなってことだよ」
ジェニファさんはあっけらかんとしてそう言った。
要は、この家ではもう働けないってこと。何だって? この僕を追い出そうっていうのかい?
「待ってよ。たったこれだけ? 退職金にしちゃ少なすぎないかい? 今月の給料だってもらってないし」
流石の僕も反駁せざるを得ない。それなりにちゃんと働いてきたつもりだよ、これでも。働いた分の給料をもらう権利は、僕にだってあるはずだ。
けれども僕の予想とは反対にーーもしくはむしろ予想通りに、ジェニファさんは呆れた様子だった。頭痛がするとでも言いたげに、わざとらしく頭を押さえて見せて。
「あんたの給料はあんたが壊した壺の代金と差し引きしてもマイナスにしかならないよ。1ジェニーでももらえるだけありがたく思いな」
「だからって3ジェニーじゃ、明日のパンしか買えないじゃない。帝都の物価高なめないでよね」
「あんたの行いを省みてからものを言いな」
確かにこの間、お嬢様と屋敷内で追いかけっこをしていたら、高価そうな壺を割っちゃったけど。旦那様の大切にしていた壺らしいけど。だからってこの仕打ちはあんまりじゃないか?
「壺の1つだけで心優しい旦那様があんたみたいのでも追い出すわけないだろう。これまでのことが積もりに積もった結果だよ。とにかく、もうベリル家とは関わらないように。いいかい? 次に会ったら容赦しないからね」
ベリル家を司る鬼女将・ジェニファさんにそう言われたら、流石の僕でももう一度この門を潜ることは許されない。もしもその行為が許されるようになったとしても、僕がそれを許さないからね。
僕が諦めたと判断して、ジェニファさんは門を閉じ、屋敷に帰って行った。帝都に来て、ベリル家に拾われてから2年。今になって思い返せば、色々なことがあった。その度にベリル家には世話になったし、数多の迷惑をかけてきたけど、その恩返しもできないままに追い出されてしまった。
僕はジェニファさんが実は戻ってきて、「嘘よ。あんたの居場所なんてここしかないんだから。ほら、とっとと入りなさい」なんて言ってくれるんじゃないかと小指のささくれくらいは期待したけれど、当然そんなことはなく。仕方なく落とされた3ジェニーを拾って立ち上がる。僕の白いシャツもカーキのパンツも、サスペンダーからキャスケット帽、それから靴下に革靴まで、みんなベリル家が僕に与えてくれたものだけれど、これは餞別として僕が受け取っていいらしい。最後の最後まで温情痛み入るってやつだ。流石の僕も、住む場所働く場所だけでなく、着るものまでなくなったら、公の場で裸の変態としてしょっ引かれるところだった。
「さて」
いつまでもこんな路地裏の地面に這いつくばっていたって仕方ない。新たな働き口を見つけないと。
僕は手切れ金の3ジェニーをポケットに入れた。3ジェニーじゃ丸パンを1つ買ったらなくなってしまうけど、それでもないよりはよっぽどいい。帝都といえど、1本路地に入れば薄暗い。こういう薄暗いところには、ネズミが湧きやすいってのはどこも同じだ。
「さようなら、ベリル家。僕がこの屋敷の敷地内に入ることは二度とないけど、どこかでまた会えたらいいな」
野良犬みたいなものだった僕を置いてくれたベリル家には感謝しかない。まあ、よく2年ももったものだと思う。かなりおかしな言動をしていたのにも関わらず行く当てがないだろうからと住み込みで働かせてくれた当主様の器の大きさは計り知れない。いつか必ず恩返しをしようと誓って、僕はその場を後にした。
さて。これからどうするか。それが問題だ。
表通りに出れば、何だかいつもより賑わっているような気がする。僕はキャスケットを深く被って、通りの人混みの中に足を踏み入れた。人の海に流されるままにたどり着いたのは、どうやら広場だった。
帝都ケールテープの中央広場だ。
偉大なる皇帝、ダミアン・パトラスの銅像を中心に、円形の広場になっている。レンガ敷きの広場は人で埋まり、あちこちに屋台が出ている。女性たちが籠から花びらを投げて散らす。僕のキャメルのキャスケットにもローズピンクの花弁が舞い降りた。
「そうか。革命祭か」
今から10年前、ここはトラメナス王国の王城前広場だった。石畳の広場には大きな噴水が水を高く噴き上げ、その権威を象徴していた。
それが火の手に包まれたのが、10年前のことだ。トラメナス王国第12代国王、バスティア=ローンベルト・ヴィ・レシピアム・トラメナスの訃報から始まった次期政権争いは、国中を巻き込んだ戦争となった。各地で王女派と公子派が対立を露わにする中、赤き騎士団を率いる第3位王位継承者、ダリアン=ドロワーツ・シュナイツ・トラメナスによって、王女セレスティアが病死したという報せが瞬く間に広まった。その遺体は公にはされなかったが、ダリアンの手によって討ち取られたことは、民衆も察するところだった。生前、彼女はダリアンによって憂き目を見させられていたことは、広く知られることだったから。
第2位王位継承者、グランタニス公子が継承権の放棄を表明したことで、その戦乱は終わりを迎えるかに思えた。しかし、民衆はダリアンが王の地位を得ることを許しはせず、その首を討ち取った者こそ、赤き騎士団を従えていたダミアン・パトラス。現皇帝その人である。
そして、ダミアン・パトラスがダリアンを討ち取ったことを祝うのが、この革命祭だ。革命祭はおよそ1週間に渡って執り行われるが、こうして花弁を散らし始めるのは2日目から。昨日は騒がしさを感じなかったし、今日がその2日目なのだろう。
帝位に就いて以降、毎年華やかさを増す革命祭は、皇帝の権威を示すものともなっている。
「以来民主的な政治が行われ、その領土を広げ、帝国と呼ばれるに至った……。慕われているな、ダミアンは」
僕の知るダミアン・パトラスは、いつも無口で無表情で、瞳に輝きのない、つまらない男だった。そんな男も、権力を得れば変わるのだろうか。いや、そんなことはない。銅像のダミアン・パトラスはいつか見たようなつまらなそうな表情で、街を見守っている。そういうやつだ。
広場の一部から、女性たちの湧き立つ声が聞こえてきた。花を散らしていた女性だ。
何となく気になって、僕は人の流れにどうにか乗って、そちらへと近づいてみる。
「見て! 皇帝陛下よ!」
「今日も凛々しい御尊顔〜!」
「あっ! こっちを見たわ!」
「笑った! 今の私に向けてよね!? 待って今日私死ぬかもしれない!」
「大丈夫、あれは栄養だから!」
いつの世も女性たちは元気で美しい。どうやら、件の皇帝が広場へ顔を出したらしい。短く切り揃えられた黒髪に、ネフライトの瞳。元騎士団長の名に恥じないがっしりとした体躯。氷のように冷たい表情は、「凛々しい」と人気で、少し困ったようなはにかみにキュン死するレディーは少なくない。
噂には聞いていたけれど、随分人気なようだった。皇帝の周りに、人が吸い寄せられていく。その流れにうっかり飲み込まれた僕は、いつの間にか皇帝の立つステージの近くまで押し流されていた。
金属製のステージの周りに、人々が群がっている。壇上の中心に聳える、装飾されたマイクの前に立って、皇帝はためらいがちに口を開いた。
「親愛なるユーズパトラの民たち。こうして革命祭を祝えること、嬉しく思います」
マイクによって拡大された音声は、街中に響き渡る。落ち着いた声音に、人々は必死になって耳をそば立てている。
「ユーズパトラ帝国の建国から、10年の節目を迎えました。あの戦火から、これだけの発展をしたのは、皆さんの力があってこそでありーー」
その瞳が、手にした羊皮紙から、広場の人々へと向けられる。あの瞳に、僕が映ることはない。彼が見ているのは希望だから。
それでも、なんだか目が合ったような気がした。そして、その静かな瞳が、少しだけ見開かれたような。
「ーー亡きトラメナス王国前国王、及び王女殿下への哀悼の意を示すとともに、」
僕はこの場を離れなくてはならないような気がした。
キャスケットを目深に被り直し、踵を返して、人混みを掻き分けていく。チッと舌打ちをするのが聞こえたけれど、そんなこと気にしていられない。
皇帝はありきたりな言葉で挨拶を締め括った。拍手喝采。街中国中から、割れんばかりの拍手を浴びるその広場を僕は後にする。ここでやることはない。僕は早く、次の仕事先を見つけなきゃいけないんだから。
「おい、そこのお前」
ようやく人混みを抜けて、路地へ入ろうとしたところで、後ろから声をかけられた。
呼び止められたからには立ち止まらざるを得ない。特にこういう、相手が帝国警備隊の場合なんかは。
「なんでしょうか?」
僕はできる限りのにこやかな笑顔で応対する。僕の笑顔で許されなかったことはまあまああるけど、大体はなんとかなってきた。
警備隊のおにーさんは、怖い顔で僕を睨め付けていた。そんなに怖い顔をしなくても、僕が逆らうことはないってのにね。
「どこへ行く?」
「いや、どこだってよくありませんか。えっ、まさか僕があまりにも素敵すぎて引き止めようって? いやだなぁ、お仕事中のおにーさんを引き止めちゃうなんて、僕ってば罪つくり⭐︎」
「黙れ」
正直おにーさんにはあんまり興味はないんだけど、仕方ない。いや、本当に僕がどこに行こうと構わないと思うんだけど。
どう答えたものかと考えあぐねていたら、無骨そうなおにーさんの肩口から、チャラそうなおにーさんが顔を出した。
「いやぁ、ごめんね。こいつ仕事は出来るけど、人の機微とかに疎くって」
「そんな感じがします」
「おい」
警備隊は2人1組が基本。どうやらこのおにーさんたちはバディのようだ。
「俺はレインハルト、こっちはロナウドね。まあ見ての通り帝国警備隊なんだけど。君の名前を聞いても?」
「ロン・ジェイデン。見ての通りの美少年です」
「は?」
強面の方ことロナウドがあからさまに「何言ってんだこいつ」みたいな目で見てくるけど、気にしない気にしない⭐︎
チャラい方ことレインハルトも、ロナウドのことは無視して続けた。
「へえ、いくつ?」
「17ですね」
「17歳って少年じゃなくない?」
「そうなんですか? じゃあ美青年です」
「やっぱ美はつけるんだ」
「イケメンと呼んでくれてもいいですよ」
「遠慮しとくよ」
レインハルトはにこやかに言った。つれない男だ。
「それで、お忙しい帝国警備隊さんが僕に何のご用ですか?」
「うん。ほら、今日は革命祭だろう?」
「そうですね」
彼らの後ろには今も皇帝を中心に人だかりができている。僕が先ほど必死の思いで抜けてきたところだ。
「それで、ちょっと、王宮に犯行予告的なものが届いてね」
「おい、ハルト」
ロナウドが厳しい目を送る。その犯行予告的なものというのは、機密事項か何かなんじゃないだろうか。僕は嫌な予感がするのを止められなかった。逃げたい。全力で。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。
それでも、ただ少しの好奇心が、僕を突き動かすのだ。
「その犯行予告的なものの犯人だと疑われてます?」
「まあ、言ってしまえばそういうことになるね」
レインハルトの顔は穏やかなままだが、その手は最初からずっと、すぐに剣を抜けるところにある。随分と警戒してくれるじゃないか。
「僕は一般市民ですよ。そんなことするわけないじゃないですか」
「俺もそうだと信じたいんだけど。でもほら、広場から離れようなんて動きをしたのは君しかいないし」
「それは、あれですよ。腹が痛くなって。あいたたたたた」
僕もわざとらしく腹を押さえて見せる。
「トイレならあっちだよ」
「人混みに押されてうまく歩けなかったんですよ。それじゃあおにーさんたち。僕はこの辺で」
別れようとした僕の腕をレインハルトが掴んだ。流石にわざとらしすぎたらしい。
「端の方は結構閑散としてるから、割と自由に動けるはずなんだけどな」
「……そんなに僕を引き止めようなんて、随分気に入られてしまったみたいですね?」
「そうそう。気に入っちゃったんだよね。君。面白いし」
「男性に好かれてもあまり嬉しくないっていうか」
「そう? 俺は結構君のことタイプなんだけど」
「うわ。見てくださいよ、これ。この鳥肌!」
「そこまで拒絶しないでくれてもよくない?」
レインハルトに鳥肌を見せつけて、その魔の手からどうにか逃れる。とはいえ、僕の前にはレインハルト、背後にはロナウドが控えているから、逃げようなんて野蛮なことはできない。こういう時は穏便に、うまいこと処理するに限る。
彼らもそれをわかっているのだろう。さっきより少し声を潜めて言った。
「さっきの話だけど。その犯行予告っていうの、気にならない?」
「気にならないですね!」
「君だけに教えちゃうんだけど。実は、この街のどこかに爆弾が仕掛けられてるらしいんだよね」
「は!?」
待て待て待て。な〜にが「君だけに教えちゃんだけど」だ。初対面の人間にそんな重要機密教えんな。
思わず取り乱しそうになる僕の背後から、ロナウドが声をかけた。
「何が『君だけに教えちゃうんだけど』だ。今日の朝刊で大々的に取り上げられてただろうが」
「シーッ。君はなんでそういうこと言っちゃうかなぁ?」
流石のレインハルトも、これには困り顔を見せる。相棒の性格なんてよくよく知っているだろうに、人を引っ掛けようとする方が悪い。
「とにかく、僕を爆弾魔と疑ってるんですか?」
「いやぁ、そういうわけではないわけでもないんだけど。一応、怪しげな動きを見せた人には全員に声をかけてるってだけなんだけどね?」
「酷いなぁ。僕は善良な一般市民なのに」
「善良な一般市民は自分のことを美青年だとか言わないと思うぞ」
「じゃあ善良な美青年ってことで」
僕がにこやかに応対してやれば、ロナウドは冷めた目を返してきた。酷いなぁ。
「じゃあ、そんな善良な美青年くんを見込んで頼みがあるんだけど」
「えっ、嫌です」
「まだ何も言ってないんだけど」
レインハルトはロナウドの言動も僕の拒絶も無視して続けようとする。
「どうせ、その爆弾魔探しを手伝えとか言うつもりでしょう?」
「うんうん。そうそう。その通り。よくわかってるじゃない」
「まあ、僕は天才なので」
「じゃあそんな天才くん」
「嫌です」
嫌なものは嫌だ。面倒ごとには関わらない! 首は突っ込まない! これが平穏無事に生きていくための鉄則なのだ。
「頼むよ。ねえお願い。手伝ってよぅ」
「気色悪いなこいつ」
「なんか言った?」
「何も?」
レインハルトはなおも引き下がらないらしい。みかねたロナウドが助け舟を出す。
「いい加減にしろ。こいつじゃないんだろ」
「いや、でもぉ……」
レインハルトの鋭い眼光が僕を射抜く。なんだか更に嫌な予感がする。
僕がもう一度断る準備をしている間に、レインハルトはポンと手を打って、人差し指を立てて言った。
「報酬ははずむよ」
「やります」
金は正義。3ジェリーしか持たない僕にとっては、喉から手が出るほどの申し出だったのだ。仕方ない。
こうして、僕は短期間とはいえ、帝国警備隊の調査に参加させられることになったのだった。