9.インターリュード:月白の王女(2)
夜の闇は、ごうごうと音を立てて燃える城下の火に照らされて、どこかへ消えてしまったらしい。王城であったはずの、或いは未だその権威をすんでのところで保っている、あの大きな残骸を中心に、街を覆う煙が橙に染まっている。
セレスティアは手を引かれて、誰もいない路地を駆けていた。足下にはすっかり熱を失った煉瓦の破片と、折り重なり積もった炭が、せめてここを通る者にその痕跡をつけようとばかりに、悲しく広がっている。
黒く輝いていた靴はどこかへいってしまい、靴下は破れて、ほとんど裸足の足先からは血が滲んでいる。美しいドレス姿の面影はない。亜麻色の襤褸布を身に纏い、ただ引かれる手だけを頼りに、まだ火の残る城下を2人は駆けていた。
カーンカーンと鐘が鳴っている。火事を報せる鐘だ。火の手が上がれば自動で動く機械だ。それが息のない街に、響き続けている。
地獄というものがあるのなら、こんな場所だろうか。
それとももっと酷い場所か。
あるいはもっと、こんな世界よりも美しい場所なのかもしれない。
前を行くジャック——その名を返し、ただのテオドアとなった青年は、現実離れしたこの街を走りながら、そんなことを考えていた。
道という道はない。どこもかしこも、壊れた家の残骸と、焼け崩れた屍に埋まってしまった。鼻は疾うの昔に機能しなくなっている。聞こえる音は、街中に響き渡る鐘と、それから彼らが出てきた城の、軍勢の勝鬨の声。あるいはパチパチとまだ消えきらない火が爆ぜる音。それを埋め尽くすような業炎だけだった。
行く当てなどない。けれどもとにかく、ここから離れなければならない。
そうして2人は、誰もいない街の中、全てから逃げながら走っているのだった。ただ、組み合った手の強さだけが、2人をこの世に繋いでいた。
思い返せば、テオドアが初めてセレスティアに出会ったのも、こんな息もできないような夜だった。それから名を得て、職を得て、なんとか人として真っ当に生きられるようになったと思ったらこれだ。
あの時と違うのは、手を引くのがセレスティアではなく、自分になったということだろうか。
幼い王女様にこんな場所を走らせるというのは、テオドアとしても不本意であった。しかし、今ここで魔法を使うわけにはいかない。
まだ気付かれてはいないだろうが、彼らを追う者があるとしたら、それはクーデターを起こした第3位王位継承者・ダリアンと、それに従う兵士たちだ。彼らはセレスティアとテオドアの顔を知っているし、魔法が見える。より正しく言うならば、魔法を知覚できる。
もしここでセレスティアが魔法を使って逃げようものなら、王城に置いてきた彼らの身代わりが偽物だと気付かれてしまうだろう。そうすれば、彼らは全軍を2人へと差し向けるに相違ない。
少なくとも、ダリアン王子の元に、テオドアのかつての上官——ダミアン・パトラスがいるからには、まずテオドアのことだけは生かしてはおかないだろう。
会えばまず間違いなく、その場で殺される。セレスティアが一緒にいるということで、幾らかの隙はできるかもしれないが、それでも逃げ果せるには足りない。
向こうの通りから気配がして、テオドアはセレスティアの手を強く引いて、路地裏であったのだろう、瓦礫の陰へと身を寄せた。
互いに荒い息を吐きながら、身を寄せ合って気配を探る。繋いでいた手は離されたが、代わりにその手でがっしりと体を抱き合っている。
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ。王女様こそ」
「ティア」
「……。ティアは?」
「平気よ。あなたに比べたら」
テオドアも、セレスティアが王女の名にあるまじきボロボロさになっていることには気づいている。しかし、だからといってどうすることもできない。
「もうちょっと誰もいない場所に行ったら、手当てをしましょう」
「俺のことより、自分のことを優先してくれていいんですよ」
「その言葉、そっくりそのまま返してあげる」
セレスティアが雑に結ばれた袖を指さして言った。皇室に出入りする騎士たちの隊服は赤と白を基調としている。そこから名がついたのが、赤き騎士団。テオドアが所属していた場所である。
元々赤い隊が、よりどす黒く染め上げられているのに、セレスティアはいい顔をしなかった。隊の面々ならむしろ誇りに思うだろう。自分の血がこの国を支えるのだと。優しい王女の肩口に顔を埋めると、なんだか懐かしい香りがする。ついさっきまでいた、王宮の香りだ。死線など知らない、純粋無垢で美しい香り。
セレスティアはそんなテオドアの背中を届く範囲で抱いて、ぽんぽんと叩いた。
「ごめんね、あなたをこんなことに巻き込んで」
どうやら辺りに人影はない。人どころか、生物のいる形跡もない。セレスティアはテオドアの胸に埋もれたまま、静かな声で呟いた。
「俺は自分から飛び込んだんですよ。俺の責任を勝手に肩代わりしようとしないでください」
「私があなたを拾わなければ、あなたが死にかけることはなかった」
「そうですね。死にかけるどころか、とっくの昔に死んでたでしょう」
こういうことも初めてではない。テオドアがセレスティアに出会う前も、出会ってからも、少なくとも死線の縁で戦う必要に駆られたことは、何度もある。これだけ大規模な戦場ではなかったけれど。
それの全てが全て、セレスティアとは関係がないかと言われたら、そんなこともないけれど、それでもこうして契りを結ばなければ、テオドアはもうここにはいなかっただろう。助けていると自負するよりももっと遥かに助けられている。救われている。
それをこの小さき王女は認識してはくれないけれど。
「俺はあなたに感謝してるんです」
「随分酷い扱いをしてきたように思うけど」
「あなたがそれを言うんですか」
間違いなく、酷い扱いは受けてきた。けれど、それはテオドアが望んだことでもある。
どこまでだって着いていく覚悟がある。それが例え、地獄の果てに至る道でも。
それでもどうか、できることなら、地獄はもっと優しい場所であってくれたらいいと、テオドアは思うのだ。この世界は酷すぎる。背負い切るには重すぎる。
浅くなる息をどうにか抑える。血を失いすぎたのだろう、頭の奥がふわふわと軽くなるのを感じる。こんな姿を見せたくはない。そう思っても、体はそう思うようには動いてくれない。
肩にかかる重さが増えて、セレスティアは再び小さく、ごめんねと呟いた。
人間の自己治癒力では、この怪我は治らない。少なくともなくなった腕はかえってはこない。魔法を使えば簡単に元通りにできるけれど、今魔法を使うわけにはいかない。
「動ける?」
「もうちょっとだけ待ってもらってもいいですか?」
「いざとなれば私が」
「それじゃ、ここまで来た意味がないでしょう」
身代わりを置いていこうと提案したのはセレスティアだった。今頃、王城の広間に倒れる2人の屍が発見されている頃だろう。
あの広間で、王女は従者の手によって冠を載せられ、そうして従者は永遠に付き従うと誓いを立てた。けれどもそれも束の間、従者の腕の中に倒れ込んだ王女は血を吐き、毒に死んだ。従者もそれに従い、ティーカップに残った毒を呷り、王女を守るようにして、その運命を共にした。
そういう筋書きになっている。
もちろんそんなのは出鱈目で、セレスティアが魔法で作った偽りだ。騎士たちの中には貴族階級出身のものがいる。貴族は往々にして魔法を使える。もちろん例外もいるけれど、テオドアが知る中でも数名、そういう者がいる。
彼らは倒れる2人を見て、ここで何があったのか知ろうとするだろう。そうして広間に残った記憶を魔法で覗く。見えるのはセレスティアが構築した偽りの記憶であるという寸法だ。
もちろん、ティーカップからは毒が検出される。テオドアの腕を媒体にして作り出された遺体からもだ。
王女とその護衛兵士が、死期を悟り、広間で服毒心中だなんて、そんな醜聞が許されるはずもない。王女は、騎士たちが助けに駆けつけたときには病死。それに従い従者も殉死。そういう話が伝えられるに相違ない。
少なくともダミアン・パトラスはそうする。
だからこそ、ここで魔法を使うわけにはいかないのだ。魔法を使えば少なからず痕跡が残る。どれだけセレスティアの方が上手だろうと、生きていることに気付かれるにはまだ時間が経っていなさすぎる。
テオドアは頬を伝う汗を肩口で拭った。これだけ炎に包まれた街の中なのに、凍えるほどに寒い。
「行きましょう」
セレスティアは首を小さく縦に振った。
2人は支え合いながら立ち上がる。王城だった瓦礫の方から、爆発音がした。よくよく耳をすませば、それは大砲の音だった。それはきっと、祝砲だった。テオドアたちにとってみれば、それは終わりの音だった。
負けたのだ。
トラメナス王国はもうない。王がいても、民がいなければ、そこは国足り得ない。
始まりは終わりを含んでいる。小さな美しい王様は、自らが裸であることを良しとはしない人だった。だからこそ、終わるのだ。
一陣の風に、襤褸布が飛びそうになる。風に吹かれて、銀糸が揺れた。こんなときでもそれは美しく光を放っていた。
この光を失って、この世の中はどうなるのだろう。テオドアはその光しか知らない。王たるものの資質は、光によって問われるものだと思っているからだ。
「行こう」
セレスティアは来た道から目を背け、テオドアの手を引いた。ぐいと強く引かれる手に、重心が傾く。倒れるわけにはいかないと、足を踏み出し、テオドアは心の内に決意を新たにする。
目深に被られた襤褸布に隠れて、その顔は見えない。あちらこちらで爆発音が響く。家内に取り残された、新たな時代の象徴たちが、歓声を上げているようだった。
魔法の時代は終わったのだ。それはきっと、随分前から終わってしまっていた。それが分かっているから、セレスティアも、元国王陛下もこの国を終わらせた。
より暗い方へと、2人は手を取り合い、再び街だった場所を駆ける。
行くあてなどない。行き先のない泥舟は、いつ沈むともわからない。それでもよかった。
ただ繋いだ手の温度だけが、そこにある全てだった。
セレスティアがいて、テオドアがいる。互いに手を取り合いながら、なんとか死の縁ギリギリで生きている。死に方だけはいくらでも選べる。それでも生きることを選んだ。進む先が泥沼だろうと、業火に燃える煉獄だろうと、耐え難いほどの地獄だろうと、きっと2人ならば、生きることはできるだろうと、そんな根拠のない予感があった。
生きながらえて何になるかなんてわからない。生き方を選ぶことはできないかもしれない。どこまで遠くまで行けるかもわからない。それでもきっと、死に方だけは選べる。死に場所だけは選ぶ自由がある。そしてそれは今此処ではない。
少なくともここで、互いを殺し合うことだけは、どちらも望んではいなかった。だから生きる。生きるために走る。もう走っているのかさえわからないほどだ。煤が息を阻む。それでもどうにか息を吸う。
いつの間にか煉瓦は消え、柔らかな土が彼らの足を支えていた。家はない。暗く湿った木々に行く手を阻まれながらも、その隙間を縫うように、ただどこか遠くを目指している。草木が肌を傷つけていくのもお構いなく、足を踏み出した先、そこに道はなかった。




