悪役令嬢になる方法を一緒に考えてくれませんか?
「そうだわ、悪役令嬢になりましょう」
シルヴィラは読んでいた小説をぱたりと閉じた。本を書架に戻し、決意を胸に図書館を颯爽と出て行く。
**
同時刻。一人の男性が図書館のある別棟に向かっていた。
背が高く、さらりとしたダークブルーの髪。薄い水色の瞳を持つ端正な顔立ちの男性だ。
彼、アリスター・ハリンソンが命じられている仕事は、この学園の生徒の「調査」をすること。
この学園は王家や高位貴族から下位貴族まで通う全寮制の学園。
下位貴族でも優秀な人材を見つけることを目的に設立された。
まだまだ身分制度は色濃く残っているが、国をよりよく変えて行こう、平等な国にしていこうと進み始めた今。身分関係なく有能なものを登用しようと考えているのだ。
アリスターは目立たないように自身も生徒として過ごしながら、調査をしている。
身分を盾に悪事を働いている者がいないか、大勢に埋もれてる優秀な人材がいないか。
ついでに、身分関係なく優れた人を見つけて自身の結婚相手も探すように言われているが、これはまだ見つけられていない。
今日もアリスターは「調査」のために、散歩をしながら生徒たちの行いを見つめていたのだ。
本館の二階から渡り廊下に進む。
別棟はほとんど人通りはない。二階を一通り歩いたアリスターは一階に下りようとしたのだが。
二階から一階を睨みつける一人の女生徒を見つけた。
硝子のように輝く銀髪をなびかせながら、彼女は階段の手すりを確認したり、手を前に突き出す動作をしている。
彼女は、シルヴィラ・ヴェリテ。公爵令嬢だ。
別名 絶対零度の人形令嬢。雪のように白い肌に硝子玉のように透き通った瞳。
彼女の評判をまとめると、
「美しいのだけれど、あそこまで能面だと気味が悪いくらいね」「美しさが余計に怖いわ」「なんだか呪われそう」「あら、目があったら凍るとも聞いたわよ」
端的にまとめると、人間味がないほど美しいことと、表情の変化が相まって、不気味に感じられ敬遠されているのである。
シルヴィラはこんなところで一体何をしているのだろうか。
「ここから突き落とせば……大怪我を負うでしょうね」
アリスターの耳にはっきりとした独り言が届いた。
この別棟は古く、改装も一度もされていないため、この二十段はある階段はかなり急だ。
ここから落とされたら、怪我をすることは間違いないだろう。
「手すりもつかまりにくいわね」
シルヴィラは手すりを確認している。木製の手すりは平べったく、普通に降りる時には手を貸してくれる存在だが、落とされた人間が掴めるものではない。
シルヴィラは手にしていたメモに何かを書くと「別棟は人があまり誰も近寄らない」と呟いた。
ひとけのなさを確認しようとしたのだろう。
シルヴィラが辺りを見渡したために、二人の目線は交わることになった。
「…………」
「…………」
シルヴィラは小さく礼をすると、何事もなかったようにその場から立ち去っていく。
アリスターは視線だけで彼女を見送る。
(まさか誰かを突き落とそうと? 僕に見つかったことが抑止になるといいのだが)
シルヴィラの言動は、見過ごせないものだ。アリスターはしばらくシルヴィラを調査することにした。
アリスターは彼女を数日間監視し、シルヴィラが〝誰を突き落としたいのか〟わかった。
気づいてしまったのであれば、止めなくてはならない。
そしてアリスターは、シルヴィラが三階の窓から鉢植えを落とそうとしている現場に遭遇することになる。
**
授業後、アリスターはシルヴィラが階段をのぼっている姿を発見した。
(念のため、あとをつけてみるか)
彼女はアリスターに気づく様子もなく、背筋をのばして颯爽と階段をのぼっていく。
そのまま三階の空き教室に入った。
この教室は魔法薬学の物置でもあり、所狭しと鉢植えや瓶、植物、薬草などが置いてある。教室は普通の大きさなのにスペースはほとんどない。
アリスターが廊下から教室の中を覗けば、植物に囲まれたシルヴィラは一つの鉢植えを抱えていた。
ぐねぐねと動く薬草をシルヴィラはじっと観察している。
「……これが当たれば、無事では済まないでしょうね」
三階から鉢植えを落とし、それが下を歩く人にぶつかったら……!
恐ろしい言葉に、アリスターはすぐに教室の扉を開いた。
「――早まらないでくれ!」
「怪我をさせてしまうから、この作戦も無理ね」
アリスターが教室になだれ込んだのと、シルヴィラがため息をつきながら鉢植えを棚に戻したのはほぼ同時だった。
「…………」
「…………」
微妙な空気が二人の間に流れる。
「今その鉢植えを窓から落とそうとしていました?」
沈黙のあとにアリスターはおずおずと訊ねた。
「ええ。ですが危険なのでやめました」
「当たり前です。ダメですよ、絶対にそんなことをしては」
アリスターは物をかき分けながら、シルヴィラのもとまでつかつかと歩み寄る。
「なぜ鉢植えを落とそうと思ったのですか? 先日、階段から突き落とす計画も立てていましたよね」
「はい」
「あなたはパメラ・アボットを害そうとしているのですか?」
シルヴィラの瞳にわずかに驚きが浮かんだ。それを肯定と受け取ったアリスターの声が硬くなる。
「失礼ですが、数日あなたを観察させていただきました。今後そのような考えを抱かないのであれば大事にする気はありません。二度とそのような考えを起こさないよう誓っていただけますか」
「私がパメラを怪我をさせるなど、過去も未来も永久にありえませんわ」
涼しい顔で答えるシルヴィラに、アリスターは眉を寄せる。
「では、なぜ階段から突き落としたり、鉢植えを落とそうとしたのですか」
「怪我をさせてしまいそうなのでやめました」
「当たり前です。しかし、なぜそんな計画を」
「悪役令嬢になろうと思いまして」
「はあ……?」
「婚約破棄されるためには悪役令嬢になるのがよいと学びました」
シルヴィラは窓際の机に置いてあった一冊の小説をアリスターに見せた。
「恋路を邪魔する者を悪役令嬢と呼ぶそうです」
令嬢たちの中でロマンス小説が流行っている。身分が低かったり虐げられている女性が、素敵な男性に見初められて幸せになるお話だ。
アリスターも流行りを知るために何冊か読んでいたから「悪役令嬢」たる者も知っている。
恋する二人の障害となる存在だが、その障害を乗り越えることによってさらに二人の愛は深まるのだ。
大体、身分の高い令嬢が二人を引き裂こうと嫌がらせなどを行う。
「まさか、それで階段や鉢植えを落とそうとしたのですが……!?」
アリスターの言葉にシルヴィラは小さく頷いた。
「私はロマンス小説を二十冊読んだのですが、十二冊で階段から落とし、六冊で窓から物を落としていました。しかしこれでは怪我をさせてしまいます」
「それはそうでしょうね」
「私は悪役令嬢になりたいのですが、パメラを怪我させたくもないのです。怪我をさせない悪役令嬢像を探しているのですが」
大真面目にシルヴィラはそう言った。表情から何を考えているのかは汲み取れないがどうやら困っている。
「……あなたは婚約破棄をしてほしくて、悪役令嬢になりたいと思っていらっしゃるのですね」
「はい」
「それは、キール・ウエストンとパメラ・アボットのためですね」
シルヴィラは今度は小さく口を開けて、アリスターを見た。
キール・ウエストンは、シルヴィラの婚約者の名だ。
「あなたは……ハリンソン伯爵家のアリスター様でしたわね。鋭い観察眼をお持ちですので、なぜ私が悪役令嬢になりたいのか気づかれたことでしょう」
シルヴィラは目を伏せた。西日が射し、彼女の長い睫毛が白い肌に影を落とす。
「アリスター様、お願いです。悪役令嬢になる方法を、一緒に考えていただけないでしょうか」
シルヴィラの硝子玉のような瞳が寂し気に揺れた。
**
シルヴィラとキールの婚約は、二人が生まれる前から決まっていた。
王族を輩出したこともあるヴェリテ公爵家。そして、ヴェリテ公爵家に代々仕えるウエストン子爵家。
シルヴィラが生まれる数年前。当時の当主であったシルヴィラの祖父が「次に生まれたヴェリテ家の子とウエストン子爵家の子を婚姻させる」と宣言した。
ヴェリテ公爵が暴漢に襲われ、ウエストン子爵が命を懸けて守ったことにいたく感謝したのだという。
その宣言通り、一年後にキールが生まれ、そのまた一年後にシルヴィラも生まれ、婚約者となったというわけだ。
ウエストン家は住み込みで働いているため、二人は兄妹のように育ったのだという。
「ですから私たちは婚約者というより、仲の良い兄妹なのです」
シルヴィラはそう締めくくり、お茶を一口含んだ。
二人は場所をカフェテリアにうつし、詳しい話に及ぶことにしたのだ。
食堂に隣接しているガラス張りのお茶ができるスペースで、ガラス張りの向こうには庭園が広がり、季節の花を楽しみながらお茶をすることができる。
今の時間は誰もおらず、気兼ねなく話を進めることもできる。
「しかしなぜ、あなたの婚約者であるキールとあなたの友人のパメラを結婚させようと思ったのですか」
「二人が惹かれ合っているからですよ」
シルヴィラは当然のように答え、アリスターを見た。
その瞳は「あなたも気づいたでしょう」と言っているように見える。
「ええ、そうですね」
アリスターは戸惑いつつも肯定した。
アリスターは数日、シルヴィラを監視しているなかで、彼女と親しい二人に気づいた。
彼女の婚約者であるキールと、シルヴィラの唯一の友人であるパメラだ。
三人で何度か一緒にいる場面を目撃し、アリスターは違和感を感じた。
キールがパメラに、パメラがキールに向ける表情が他の誰かに向けるものと異なることを。
それはあからさまなものではなく、時間にすると一秒足らずの一瞬のことだ。きっと本人さえ気づいていないであろう一瞬の熱。
「ですから、悪役令嬢になろうかと」
「それは飛躍していませんか」
「私、冷徹な悪役令嬢と言われていますのよ」
シルヴィラはどこか自慢気な顔で微笑んで見せる。感情のない瞳と薄く微笑んだ唇を見ると悪人面ともいえなくも……ないかもしれない。
たしかに遠目から見ると彼女は凍てついた表情だと思っていたが、こうして話してみるとわずかではあるが表情は伝わる。
「……やはり、縦ロールの方がよろしいでしょうか」
返答に困っていたアリスターに、シルヴィラは真面目な顔で質問した。
「はあ」
「私の読んだ二十冊のうち、十八冊はそうでしたから」
「そういう方もいらっしゃるかもしれませんね……いえ、そうではなく、なぜあなたが悪役令嬢になる必要があるのですか? 婚約の解消は簡単にはいかないかもしれませんが、あなたが了承しているのであれば可能だと思いますし、あなたが悪役にならなくとも」
「おっしゃるとおりなのですが……」
シルヴィラは目を伏せて、もうひと口お茶を飲んだ。
「ウエストン家のためですか?」
「……あなたはやはり探偵ですの?」
「誰でもわかることだとは思いますよ」
シルヴィラの実家であるヴェリテ公爵家は、この国有数の貴族である。ヴェリテ家との婚姻はどれほどの益をウエストン子爵家にもたらすのだろう。
ウエストン家としては、ぜひともこの婚姻を結びたいだろう。
「愛し合う二人ならば、それくらいの覚悟もあるのではないですか?」
「それではいけないのです。二人は駆け落ちなどは絶対にしないでしょうから」
「家のために? その程度の愛ならば、あなたが奮闘する必要もないのでは?」
「いいえ、私のためだからです」
シルヴィラは澄んだ瞳をアリスターに向けた。
「二人は理性的で恋心を認めることは決してないでしょう。二人は私を一番大切にしてくれているのです。二人の選択肢の中に、自身の恋心を優先する選択肢などありません」
「……二人は浮気をしているわけではないと」
「それはそうでしょう。決して二人きりで会うこともありませんし、お互いのことを私の前で口にすることもありません。私を挟んでいる関係に過ぎず、学園生活が終われば彼らが視線を交わすことすらなくなるでしょう」
シルヴィラの言葉は苦し気に揺れる。安易に口を挟むことが憚られる程度に。
「二人は恋心を死ぬまで隠し続けますし、私の婚約解消の意図に気づいてしまえば、罪の意識から結ばれることはありえないでしょう。そういう二人なのです」
シルヴィラの語尾は自然と優しくなり、彼女の表情には暖かさが灯る。
シルヴィラが二人をどれだけ大切に思っているのか、彼女の表情からもありありと伝わる。
「つまり、あなたの有責で婚約を解消しようと。……二人が幸せになれば、あなたはどうなるのですか」
「小説のように国外追放……されることはないでしょうね」
「されたいのですか」
「異国を学んでみたいきもちはあります。……ですが、悪役令嬢の立ち振る舞いをすればヴェリテ家に迷惑をかけることになりますよね」
小さな声を出すと、シルヴィラは力なく微笑んでみせた。
「シルヴィラ様……」
慰めようと彼女の方を見れば、シルヴィラはなぜか期待がこもった瞳でアリスターを見ていた。
「アリスター様は探偵でいらっしゃいますよね」
「探偵……」
では、ないけれど。
学園を調査をしている立場だ。広義ではそうとも言えるかもしれない。
「私が悪役令嬢になる方法を一緒に考えていただけませんか」
「僕が、ですか」
「ええ。私一人ではなかなか思いつきません。パメラが傷つかず、二人の恋が成就する方法はないかしら」
アリスターがつい頷いてしまったのは、シルヴィラの切なげな表情を見てしまったかもしれない。
**
アリスターの作戦そのいち。
『二人の恋心を無理やり覚醒させればよいのではないか?』作戦。
「いくら結ばれない相手といえど、一度走り出した恋は止められないそうです」
アリスターはロマンス小説片手にそう言った。
シルヴィラから依頼を受けて一晩悩んで、なんとか振り絞った考えである。
昨日と同じく二人は、魔法薬学の物置で作戦会議を行っている。
優雅にカフェテリアでお茶とならなかったのは、連日二人で並んでいては周りに怪しまれる可能性があるからだ。
「なるほど。どうすればよいのですか」
ぐねぐねと動く鉢植えを抱えながら、シルヴィラは神妙な面持ちで訊ねる。
「あなたの話を聞くに、二人きりになったことがないのでしょう。いつもあなたを挟んで、とのことです」
「はい。お茶やランチの場でも、私が先に抜けるとなればお開きとなるでしょうね」
「ですから、強制的に二人にしてしまうのはどうでしょうか」
アリスターは片手を広上げた。
「例えば、この物置にそれぞれ用事で向かわせて、外から鍵をかけてしまうのです」
「監禁ですか」
「いや、まあ、三十分もすれば解放しますが……偶然二人きりになってしまうのは、致し方ないことですから。二人も罪の意識などなく、扉が開くまで一緒にいてくれるでしょう」
「それはよいかもしれません。幸いこの部屋は広くありませんし、会話が弾むかもしれません」
鉢植えや薬草、がらくたに囲まれて椅子に座っているシルヴィラとアリスターも、向かい合えば膝と膝は拳一つ分の隙間しかない。
二人きりなうえに物理的な距離も近い。
「会話がなくても意中の人といれば、きっと意識してしまうでしょうからね」
「そして最後に私の仕業だと明かすわけですね……! パメラをいじめる悪役令嬢になれるでしょう」
髪の毛をさらりとかきあげ、シルヴィラは口の端をつりあげる。
その様は悪役令嬢になっているのだが……。
「いえ、あくまで偶然、としなくてはいけません。これがあなたの仕組んだこととわかれば、二人はあなたの意図に気づくかもしれません」
「なんと」
「ということで、僕が仕組みますのであなたは何もしなくて大丈夫です」
「承知しました」
わかりやすく肩を落としたシルヴィラに、アリスターは微笑んだ。
**
翌日。アリスターの仕掛け通り、パメラとキールはそれぞれ物置に向かうことになる。
「どのように仕掛けたのですか?」
物置の隣の部屋に待機したシルヴィラが訊ねると、アリスターは肩をすくめる。
「たいしたことはしてないですよ。教師陣からそれぞれ頼まれごとがあることにしました」
「どのようにして先生がたを」
「静かに。足音が聞こえてきました」
アリスターが指を口に当てると、二人の距離はおもいのほか近づいた。
二人はそっと廊下の様子を伺ってみる。
茶色の短髪の男子生徒が物置に入ったところだった。柔和でおとなしい雰囲気の彼は、シルヴィラの婚約者・キールである。
隣の部屋からがさごそと物音が聞こえ始めると同時に、メモを片手に女生徒も廊下に現れた。くるくるの巻き毛と丸い瞳が愛らしい小柄な少女、パメラだ。
アリスターはジャケットから小さなガラス玉を取り出し、二人はそれを覗き込む。
隣の部屋に同じ物を置いていて、映像が共有されるようになっている。壁一枚挟んでいても、これを見れば様子がうかがえるのだ。
「あら……キール様?」
「パメラさん」
薬草を袋に詰めていたキールの表情が強張り、先客がキールだと気づいたパメラの表情も固まる。
「どうしてここに?」
「ユア先生から頼まれごとをしまして」
「ああ、僕もなんだ……ははは」
「そ、そうなのですね」
キールの眉毛がわかりやすく下がり、パメラも視線を左右に彷徨わせた。二人が動揺していることは見て取れる。
「ええと、ここは狭いですから。お先にどうぞ。私は廊下で待っていますから」
「いや、僕が出て行くよ。もう終わったんだ」
彼は袋を見せたが、(偽)依頼した分量にまったく足りていない。
やはり二人きりになることを意図的に避けているのだろう。
キールは慌てて部屋を出ようとするが、物が雑多に置いてある狭い部屋だ。
「うわっ」
「きゃ」
二人はぶつかり、パメラがバランスを崩した。
助けようとしたキールが手を伸ばし、その手をパメラが掴んだが……二人とも床に倒れこんだ。
はたから見れば、キールが押し倒したような体勢になる。
「す、すまない……!」
「いえ、私こそ……!」
慌てたパメラが起き上がろうとするがうまくいかず、二人は至近距離で見つめ合った。
「…………」
「…………」
数秒固まってから、お互いパッと身体を離す。キールの耳や首まで真っ赤に染まり、パメラの瞳には涙が溜まる。
――恋を自覚する瞬間を、シルヴィラとアリスターは目撃した。
「ああ、えっと、すまない。では、失礼します」
慌ててキールが立ち上がり扉に向かう。袋に詰まった薬草を忘れるほどだ。
パメラも夢から醒めたように立ち上がって部屋の奥に進む。
「あれ、えっ?」
キールの戸惑った声に、パメラも振り返った。
「扉があかない……」
「ええっ」
ぐ、ぐ、と必死に力を入れているが、もちろんアリスターの仕掛けで扉は開かないようになっている。
パメラも扉に近づいて確認してみるが、やはりあかない。
「どうしたのでしょうか」
パメラが上を見上げれば、キールと目が合った。
「…………」
「…………」
瞳は雄弁に語る。お互いに好意を持っているのは明白だ。
「閉じ込められてしまったみたいですね」
「……ここはあまり人の来ないフロアだし……窓からなにか合図でも送るか……」
「そ、そうですね。それにユア先生も気付いてくださるかも……」
「では、少し待ちましょうか」
二人もようやく冷静さを取り戻してきたらしい。
動揺しつつも、この場で待つことを選んだようだ。
「さて」
アリスターがシルヴィラに視線を向ける。彼女はじっとガラス玉を見つめたままだ。
「物置の扉は三十分後に開くようにしていますから、僕たちもここを去りましょうか」
「ええ。これ以上、盗み見するのは、馬に蹴られて死んでしまえというものですね」
シルヴィラが目を細めて微笑み、アリスターは彼女を心情を想像して何も言えなかった。
**
「アリスター様、おかしいです。二人の距離は縮まる様子がありません」
数日後、アリスターは悲痛な面持ちのシルヴィラに物置へ呼び出された。
二人で窓の外を眺めながら会話を始める。
「それどころか意識的に避けている気がするのです」
「というと?」
「以前は三人で授業や食事をとることもありましたし、パメラとの予定のあとにキールと約束があれば、二人は挨拶くらいはしていたのです」
真面目な二人は、当然のごとく気持ちを押し隠そうとしているのだろう。
自覚してしまえば、同じ場にいることなどできないはずだ。
二人はシルヴィラのことを想い、彼女を傷つけまいとしている。
「しかし二人が恋を自覚したのは間違いないでしょうね。だからこそ、意識的に遠ざけているのです。第一段階は完了しました」
「では、私が悪役令嬢になる第二段階ですね」
「一度悪役令嬢からは離れましょうか」
ロマンス小説をぱらりとめくったシルヴィアをアリスターは止めた。小説には栞がいくつか挟んであり、ちらりと見えたページはぎっしり書き込みがあった。小説を教科書だと思っているのかもしれない。
「あら、パメラだわ」
シルヴィラが窓の外にパメラの姿を発見した。
図書館方面に向かっていて、本を抱えているから返却でもしにいくのだろうか。
「あら、キールも」
図書館側からキールが現れた。二人はお互いの様子に気づくことはない。
アリスターが指を二人に向ける。パメラに向かって一陣の風が吹き、風に煽られ手から本が零れ落ちる。
通りがかった親切なキールはそれを拾い上げ――本の主がパメラだと気づいた。
少し離れた位置からでも二人が動揺しているのがわかる。本を渡せばキールは走り去り、パメラも早歩きで図書館に向かう。
キールはしばらく走ってから立ち止まり、パメラが向かった方向を見つめ、また歩き出す。
パメラも振り返り、キールの背中をひっそりと見送っていた。
なんともいじらしい光景である。
シルヴィラはそれを無言で見下ろしていた。澄んだ瞳がわずかに揺れている。
「……本当にキールのことを愛してはいないのですか?」
「兄として、ですね。この愛はキールだけではありません。家族やパメラに対しても持っているものです」
シルヴィラは窓からアリスターに視線をうつした。
瞳が切なく見えるのは、気のせいだろうか。
「二人のためと言いましたが……実は自分のためでもあるのです」
「自分のため?」
「二人をうらやましいと思うのです。夫婦になればキールは私のことを大切にしてくれるでしょう。幸せな生活だとわかっています。ですが、熱のこめた瞳を向けられることは生涯なく、彼の心の一番大切な場所にパメラがい続けると思うのです」
シルヴィラは胸にそっと手を置いた。
「たしかにそれは切ないですね」
「い、いえ! それ自体はよいのです! 彼の心にパメラがいても構いませんし、むしろその気持ちは大切にしてほしいと思います。政略結婚が常の世で、キールが夫だというのは私にはもったいないほどの幸せです」
言葉を切ったシルヴィラはうつむいた。
「では自分のためだと言うのは?」
「わ、私も、恋をしてみたくなったのです……キールやパメラのように、心を動かすことが出来るような相手を……押し込めないといけないほど気持ちが溢れてしまうほどの恋を」
シルヴィラの白い肌が桃色に染まる。
(彼女のどこが人形なのだろうか)
瞳を不安げに揺らし頬を染めるシルヴィラに、アリスターの心がわずかにゆれる。
「しかしそれは浅ましく、我が儘な考えです」
照れたように言い終えるとシルヴィラは気恥ずかしくなったのか、側に置いてある鉢植えを抱えた。今日も元気にぐねぐねと動いている。
「いえ、その気持ちは僕にもわかります。僕はまだ婚約者もいない身ですが、そういった相手に出会える幸運は――」
その言葉にシルヴィラは同意するように微笑んだ。柔らかな笑顔にアリスターの鼓動が大きくなる。
「幸運は?」
「幸運は……大切にしなくてはなりませんから」
胸の音をごまかすようにアリスターは咳払いをすると、話を変えることにした。
「しかしあなたが悪役令嬢になるのはやはり難しいと思います。ヴェリテ家を巻き込むことになってしまいますし……二人は恋心も自覚したのですし、婚約解消を提案してはいかがでしょうか」
「そうなると私が有責にはなりませんわよね」
「むしろ有責になった方が二人は苦しむと思いますが。あなたを大切にしているのでしょう? 二人を見ていたら自分も恋をしたくなったと素直に打ち明ければ、わかってくれるのではないですか」
アリスターは、シルヴィラを悪役令嬢にはしたくなかった。
「ですが……私が有責にならなければ、賠償金を受け取ってもらえないでしょう」
「賠償金もなにも、あなたは何もしていませんからね」
「二人に資金を譲渡できなくなりますよね」
「恋を応援してもらったうえに支援してもらうなど、あの二人はありえないでしょうね」
シルヴィラは無言になる。怒っているわけではなく、どうやらじっくり考えこんでいるらしい。
「ウエストン子爵もアボット男爵も暮らしには困っていないと思うのですが」
二人の情報はアリスターも調べている。家が困窮していることはないはずだ。堅実そうな二人が、豪華な暮らしを送りたいとも思えない。それなりに幸せに暮らせるのではないだろうか。
「キールには目指すべき道があります。それには多大な費用がかかります」
「目指す道?」
アリスターはキール・ウエストンの情報を思い浮かべる。
真面目な生徒ではあるが、何かに秀でていることはない。
実直な人柄とまわりを見る力はあるから、ヴェリテ家を継げば領主としてうまくやっていくだろうとは思うが……。
「キールは魔力が少ないことに幼い頃から悩んでおりました。今彼は魔力を補助する魔道具の開発・研究を行っているのです」
「そうだったのですか」
「こっそりとヴェリテ家で行っていましたから。高位貴族は魔力が強いと言われています。私もヴェリテの血のおかげか、魔力はあるのですが……キールの気持ちを深く理解することは叶いません。彼の開発を心から理解し、応援できるのもパメラです。キールの話にパメラの目がきらきら輝いていました。彼女も魔力について悩みを持っていましたから。パメラがキールに対して恋心は尊敬から始まったのかもしれません」
「高位貴族にはわからない悩みか……」
「ええ。ですから魔力を補助する魔道具の開発は今まで行われていなかったと思います。今、この国は少しずつ平等に向けて動き出しています。キールの発明は未来にとって必要なものです」
シルヴィラの真っすぐな眼差しが、アリスターに届く。
「私の想いを話せば、キールはすぐに婚約を解消するでしょう。パメラと結ばれるためではありません、私を自由にするためです。婚約解消後、彼は私に遠慮してパメラから離れるかもしれません」
「…………」
「キールは志もあって素敵な男性なのですが、自分には不相応と諦めてしまうところがあります。ヴェリテ家の援助がなければ、開発も中断するかもしれません」
シルヴィラは唇をかみしめる。
「キールに夢も恋も叶えて欲しいのです。幼い頃から周りに疎まれていた私とずっと一緒にいてくれたのはキールです。キールは散々な言われようでした。私の悪評のせいで彼まで良くない噂が流れてしまいました」
アリスターが調査をしているときにもその噂は耳に入ってきた。
二人の家の事情を知らない者が、キールは金目当てに取り入っている。誰からも相手にされないシルヴィラは使用人と婚約するしかなかった、など、妬みや蔑みの混じった噂ばかりだ。
「パメラも私と入学初日に話してしまったばかりに、まわりから避けられるようになりました」
パメラについても同様だ。誰もシルヴィラと仲良くするものはお金目当てだと密やかに囁かれている。
シルヴィラのことも下位貴族としか親しく出来ない者だと決めつけて、笑っているのだ。
「私は二人には幸せになってほしいのです。この感情は恋ではありませんが、私は二人を愛しています」
シルヴィラの心からの声に、アリスターの胸はどうしようもなく締め付けられた。
アリスターは物置にいつも置いてある恋愛小説を手に取る。
「悪役令嬢にならなくても、恋を咎める断罪側になるのもいいと思ったのですが……確かにそれではだめか。別の作戦を考えなくては」
なにかシルヴィラの力になれないか、アリスターがそう思ったところで、
「……断罪! 思いつきましたわ!」
シルヴィラが声を張り上げた。そんな姿は初めてのことで、アリスターは目を見開く。
「私、浮気をしてきます!」
「ええ……」
「彼らの恋を断罪するのではなく、私が浮気をして断罪されればよいのですよ! これで私有責にできますし、犯罪でもありません。私から婚約破棄も言い渡せますね」
シルヴィラは胸を張り、朗々と話す。
「どのようにして?」
「男性に協力いただきます。物語のように皆の前で断罪とせずに、二人の前で打ち明ければよいのです。浮気をしてしまったと。では早速お芝居に付き合っていただける方を探してきます」
名案をひらめいたシルヴィラは早速物置を出て行こうとする。
アリスターは慌ててシルヴィラの腕を取った。
「待ってください。――そういうことなら、ちょうどいい相手がここにいるじゃないですか」
不思議そうな顔で見上げるシルヴィラに向かってアリスターはにこりと微笑んだ。
♡ ♡ ♡
それから五日後のこと。
シルヴィラは緊張した面持ちで、二人の前に座っていた。
ヴェリテ家の一室で、とても愉快とはいえないお茶会が開かれている。
休日にお茶会をしようと二人を誘えば、あまりいい顔はされなかった。意図的に避けているのだから当然ではあるが、誘われて断るのも不自然と考えたのだろう。二人はシルヴィラの誘いに乗った。
お茶やお菓子が運ばれてきても、ぎこちない空気が続いている。
「今日は二人にお話があって呼び出しました」
シルヴィラは空気を打破するために早々に切り出した。
俯きがちだった二人は何事かと不安げにシルヴィラを見る。
「わたくし、シルヴィラ・ヴェリテは、キール・ウエストンとの婚約を破棄させていただきますわ!」
凛とした声が部屋に響いた。不敵な笑みは悪役令嬢そのものだ。
「ど、どうしたの、シルヴィラ」
パメラは丸い目をさらに丸くした。
「パメラ、あなたには見届け人になってもらいたくてこの場に呼んだのよ!」
「見届け人……?」
「ええ、そう。この婚約破棄が正式なものだとね!」
「シルヴィラ一体どういう……?」
青い顔をしたキールが立ち上がる。
「わたくし、運命の恋に出会ってしまったのよ! ほほほ!」
シルヴィラは高笑いも付け加えた。
パメラとキールは顔を見合わせ、二人の視線が絡んだ。それを見守りシルヴィラはにやりと笑う。
「紹介するわ、わたくしの運命の相手を!」
シルヴィラが手を挙げると、隣の部屋からアリスターが現れた。
なぜかアリスターは正装で、比較的ラフな格好の三人と比較して浮いている。
「本日はお招きありがとうございます」
丁寧に礼をすると、微笑みを携えてアリスターが近づいてきた。
シルヴィラが今まで見てきた気さくな雰囲気はない。
演技モードに入っていたシルヴィラも呆気に取られていたが、アリスターに自分の手を取られてハッとする。
「こちらのアリスター・ハリンソン様と婚約することにいたしましたのよ」
「アリスター・ヴァリエールと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
呆気に取られているのはキールもパメラも同じで、突然現れた男とシルヴィラを見比べている。
「シルヴィラ、これはどういう……僕に何か至らないところがあったのか」
キールが眉を下げてシルヴィラを見る。
「ありませんわ! 運命の恋に落ちてしまったの」
本当はここで「地味なあなたに比べて素敵な相手でしょう!」と嫌味台詞を言うつもりだったが、どうしても言えなかった。
「……相手のお名前を間違えているのに?」
パメラが訝し気にこちらを見ていることに気づき、シルヴィラもようやくアリスターが名乗った名前が異なることに気づいた。
「というか、ヴァリエールって……」
キールがさらに顔を青くして、身体を硬直させる。
「申し訳ありません。立場上、素性を明かすわけにもいきませんでしたから。彼女にも父方の姓を名乗っていたのです」
これにはシルヴィラも目を瞬かせた。ヴァリエールといえば、王族の名である。
「ヴァリエール王国第三王子、アリスターです。私は立場や家のつながりなど関係なく、自分の意志で婚約者を選ぶように言われておりました。先日シルヴィラ様と出会い、恋に落ちてしまったのです」
滑らかに語るアリスターを信じられないきもちでシルヴィラは見ていた。
王家だなんて。どう考えても演技を頼む相手ではなかった……!
キールもパメラも目を見開いているばかりだ。
「と、いうわけですから。婚約破棄させていただきますわ」
冷静を装いながらシルヴィラは席に着くと手を挙げた。
メイドが二枚の紙を持ってきて、シルヴィラはそれを机の上に並べた。
戸惑いながらもキールとパメラも席につき、アリスターもにこにこと笑みを浮かべてシルヴィラの隣に座った。
「こちらは婚約を解消するという書面です。そしてこちらは慰謝料の小切手ですわ」
「慰謝料……?」
小切手の桁を見て驚いたキールが顔を上げた。
「ええ。わたくしの有責ですから。これからあなたは相手を探すのも大変でしょうから。お気持ちを受け取ってくださるかしら」
「…………」
「それからわたくしの顔も見たくないと思いますから、ヴェリテ家に帰ってこなくてけっこうですわ。邸宅を建てますから、学園卒業後はそちらで生活をすればいいですわ。そこで御婦人と住んでくださいませ」
ようやく調子を取り戻したシルヴィラは口の端を吊り上げた。
「すぐに新しい婚約をしていただいてもかまわないわ。お互い様ですからね。運命の相手は近い場所にいる――」
「…………これは受け取れない」
シルヴィラの言葉を遮って、キールが小切手をびりびりと破いた。
驚いたシルヴィラが二人を見ると、パメラの瞳には涙の幕が張っている。
「君が最近なにかこそこそとしているには気づいていたんだ」
「そ、そうよ! わたくしはここにいるアリスターと密会していましたの。きっとそれですわね」
取り繕うが、二人の悲し気な表情は変わらない。
「先日物置に閉じ込められて、おかしいなとは思ったんだ」
「硝子玉とロマンス小説を発見したの」
「そのときはシルヴィラの意図がつかめなかったけれど、今日の君の言動でわかったよ」
「…………」
「僕たちの気持ちを考えてくれたんだろう。下手な芝居までして……幻滅して顔が見たくないのはわかる。僕がしてしまったことだ、婚約破棄も受け入れる。だけど慰謝料なんて受け取れない」
「シルヴィラ、本当に許されないことをしました、ごめんなさい」
「ちょ、ちょっと待って。本当なのよ! 私は浮気をしたの!」
深々と頭をさげる二人を見てシルヴィラの胸は痛む。
二人に悲しい顔をさせたいわけではなかった。
もちろん今後二人の顔を見たくないわけがない。自分に気を遣わず結ばれて欲しいだけで。
二人に、笑っていて欲しいだけなのに……!
この雰囲気では、じゃあ私たちが結婚しましょうかとはならない。
間違って伝わってしまっていることに喉が詰まり、シルヴィラはうまくは言葉を出せない。
「あなたがたは何か勘違いしていないでしょうか」
重い空気を区切るような声を発したのはアリスターだ。
「シルヴィラの下手な演技はその通りですし、あなたがたの想いに気づいて私たちが計画していたのも本当です」
アリスターが突然作戦を明かし始めて、シルヴィラは驚く。彼を見つめるがアリスターは微笑みを返すだけだ。
「ですが、私たちが恋に落ちたのも本当です。そのうえで、惹かれ合っているあなたがたをどうにか結び付けられないかと、シルヴィラがお二人の幸せを願った結果がこのお芝居です」
アリスターの色素の薄い瞳が楽し気に細められる。
「私は正直に話せばよいと言ったのですよ。しかしキール・ウエストン。これはあなたの研究の資金を支援したいシルヴィラが考えた必死の案なのです」
「シルヴィラ……」
キールはシルヴィラを見るが、彼女は仕掛け人にすべてを明かされて、頭が真っ白になったままでいる。
「彼女の可愛い演技とあなたがたへの想いに免じて許してあげてください。そして私たちに浮気の事実などありません。なぜなら私の片思いですから。彼女がお二人を幸せにしたいと思う良心に、私が付け込んだ一芝居なのです」
「まあ」
パメラが声を漏らして手で口を覆う。
「シルヴィラが慰謝料を支払う必要はないのですよ」
「アリスター様、それは……!」
シルヴィラが反論しようとして、笑顔で制止される。
「私もキールの研究を支援したいと思っています。これは婚約破棄の慰謝料ではなく、ヴァリエール家からの正式な支援の申し込みです」
アリスターが書類を取り出せば、王家の紋章が入った書面が現れた。受け取ったキールはまじまじと見つめる。
「シルヴィラはあなたがたの幸せを願っています。他意のない純粋な愛です。素直にその気持ちを受け取ってもらえないでしょうか」
二人は顔を見合わせ、それでも頷けないでいる。
「シルヴィラはロマンス小説を読み込んで、恋に憧れている乙女な部分があるのです。彼女の幸せを願うなら、自由にさせてあげてくれませんか? 必ず私が幸せにしますから」
目を瞬かせることしかできなかったシルヴィラは驚き、アリスターを見つめた。
隣で微笑むアリスターは、本当に今まで一緒に過ごしたアリスターなのだろうか。
これは彼の演技だとわかっていても、シルヴィラの胸はぎゅっと締め付けられる。
「シルヴィラ、ありがとう」
「シルヴィラ……本当にありがとう……」
パメラの瞳から大粒の涙がこぼれて、キールはパメラの肩をこわごわと支える。
シルヴィラの瞳からもはらはらと涙がこぼれていく。
「二人とも、これからも私と一緒にいてくれるかしら」
シルヴィラの口から本音が零れ出ると、パメラとキールが駆け寄ってシルヴィラを抱きしめた。
悪役令嬢という言葉が似合わない少女が、声を出して泣いているのをアリスターはあたたかい眼差しで見つめていた。
♡ ♡ ♡
「アリスター様の演技、お見事でしたわ……。私はうまくできずに失敗してしまったので助かりました。支援のこともありがとうございます」
二人が帰った後、シルヴィラはアリスターに頭を下げる。
「僕の仕事は学園内で調査をすることでした。ハリンソン伯爵の息子として学園に入り、身分関係なく優れている人材や成果を探し出すことが僕の役目だったのです。黙っていて驚かせてすみません」
「まさか第三王子殿下とは知らず……非礼をお詫びします。お付き合いいただきありがとうございました」
さらに深々と頭を下げるシルヴィラのもとにアリスターは歩み寄る。
「いいえ。あなたのおかげで未来ある研究を知ることができました」
アリスターが右手を差し出す。握手を求めてるのだろうか。シルヴィラは右手を差し出した。
これでアリスターとの作戦も終わりだ。最近は毎日彼と時間を共にしていたから、ここでお別れだと思うと寂しさが顔を出す。
「ところで僕の仕事はもう一つあったのです。家柄関係なく、有能な人物と結婚するように命じられていました。高位貴族で偏見のない方も素晴らしいですし、国の今後を考えられる方がいいと思っていました」
「なるほど……ですが申し訳ございません。私は友人はパメラしかおらず……パメラはキールと結ばれて欲しいですし、キールの研究のように紹介はできないかと」
アリスターはシルヴィラの右手を自分の胸元に引き寄せた。
二人の距離がぐんと縮まり、シルヴィラは驚いて彼を見上げる。
「恋をすると、心が動くと仰っていましたよね。僕はあなたといるとどうにも心臓がうるさくなるようです」
アリスターの瞳は、胸がちりと焦げ付く熱を帯びていた。
「先ほどの僕はすべてが演技ではありません。あなたと婚約したいと思っているのは事実です」
「わ、私と……!?」
「ええ。まだこれは愛だと言い切れないのですが、恋をしているのは確実だと思います」
「で、ですが……私は悪役令嬢ですよ?」
心臓を落ち着かせながらシルヴィラは言葉を探し出すと、アリスターは吹き出した。
「な、なにかおかしなことを言ってしまいましたか?」
「失礼。ですが、困った顔で赤くなっているあなたを可愛いとしか思えないのです」
熱くなった頬に手を添えられて、シルヴィラは言葉を飲み込む。
「それにあなたと話せば、すべての噂は誤解だとわかりますから周りの評判は気にしなくてかまいません。僕がそれを払拭していくのが楽しみです」
アリスターなら本当にできてしまいそうだと、シルヴィラは思った。
「どうでしょうか? 熱がこもった目で見つめられたいと仰っていましたが、少しは伝わりますか?」
水色の瞳が優しげに細められる。彼の瞳の中にうつるのは、初めて見る自分の表情だ。眉が下がり、泣きそうな顔をしている。
「…………心臓がうるさいです」
「第一段階はクリアですね。あとはこれを長く続く愛にしてみませんか。ゆっくりで構いませんから」
これが恋なのか、確かめてみたい。シルヴィラの胸の音はそう主張している。
「次は恋を一緒に考えてくださいますか」
さらに引き寄せられたシルヴィラの頬がアリスターの胸に着地する。二人の恋の始まりの音が聞こえた。
・・
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白いと思っていただけたら、ブクマ評価いただけるととても嬉しいです。