越前の青い炎
越前は
熙子(に命じた透明な家宣)の命で
幕府御用の呉服屋
後藤縫殿助を召した。
縫殿助は
その夜深く闇に紛れて
越前の部屋を訪れた。
「越前守様
こちらが御所望の御品にございまする」
縫殿助は
深い紺色の艶やかな絹の包みから
書付の束を出して
越前に献上する。
家康の頃からの代々の密偵だけあり
越前の部屋子から要件を聞いただけで
十分な資料を揃えてきた。
どうやら
江島はかなり派手にやっていて
とっくに縫殿助の網にかかっていたらしい。
越前は端正な美しい顔を
縫殿助に向け、丁寧に労う。
「よう来てくれた。
急な申しつけな上、夜分にすまぬ。
では、拝見する」
越前は一つ一つ
慎重に目を通す。
人払いをして
越前が書類に集中しているというのに
襖が静かに開き
部屋子が言い難そうに
来客を告げる。
「殿様、あの…」
部屋子がそう言い始める後ろには
既に人影が揺らめいていた。
かなり張り詰めた空気のなか
老中土屋相模守が
ふらりと越前の私室に入って来た。
流石、老中筆頭
どんな情報網を持っているのか
正確に突いてくる。
「おや、これは珍しい。
縫殿助ではないか。
久しぶりじゃのう」
誰が越前の部屋に来るのか
知っていたくせに
さも偶然のような、とぼけ振り。
「これは相模守様
ご無沙汰しております」
相模守は
四代の将軍に仕える古参。
越前よりも
縫殿助との付き合いは長い。
相模守は
越前の部屋子の持ってきたお茶を
のんびりと啜ると
当然のように
越前の読み終わった資料に手を伸ばした。
越前は片眉を少々上げて
その様子を見ていたが
いずれ
相模守にも知らせなくてはならないので
好きなようにしてもらう。
縫殿助が持参した資料には
江島の交友関係や懇意の旗本達
芝居見物の履歴
不義密通を問われても仕方ない
度々の役者買い
取り巻き商人が接待した飲食の代金まで
網羅されていた。
越前は
江島の月光院達の
やりたい放題の惨状に絶句し
怒りのあまり
青い炎に包まれている。
主君家宣は
賄賂や曲がったことが大嫌いなのだ。
家宣が先代将軍の世継に決定し
発表を翌日に控えた前日の夜
若年寄加藤が
江戸城西の丸の絵図面と大鯛2匹を
祝いとして贈ってきた。
家宣は
これを機密漏洩と賄賂と受け取り
以後、加藤を遠ざけ
加藤は自身の軽率さを悔いて亡くなった。
このように家宣は
徹底した賄賂嫌いで
将軍在任中に収賄や口利きを禁止した。
越前や白石は
そんな清廉潔白な人柄の家宣だからこそ
惚れぬいている。
江島も月光院も
桜田屋敷から家宣に仕えているのに
それを知らないはずはない。
いや
知っているからこそ
越前と白石は
月光院達が許せないのだ。
家宣が幕府の法度として
禁じた行為を
月光院達は平然と破り続けている。
家宣と家継の威光に泥を塗り続ける
月光院達を断罪するより他はない。
越前が怒りで青く燃えているというのに
相模守は書類を見ながら
飄々とした無駄に甘く渋い声で呟く。
「これは酷いのぅ。
芝居見物に役者買い
取巻きを連れた費用まで
商人に持たせ
商人との橋渡しを幕臣がして
甘い汁を啜っておる。
どれも御法度じゃ」
そしてまた茶を啜ると
懐から書付を出して
越前に渡した。
「御広敷から持って参った。
七つ口の遅刻の回数と言い訳
役人への付届けの額じゃ。
江島だけではなく
宮路らもやっておる。
役人への執り成しは月光院様よ」
「おお、流石、相模守様」
縫殿助が
相模守の手際の良さに感動していたが
越前も可笑しな感動を覚えた。
遅刻は記録してあるだろうが
付届けの額はどうやって調べたのだ…
相模守は
茶菓子の栗饅頭を摘まむと
ぼそっと零した。
「月光院様は
お美しいお顔に似合わず
なかなかの御方でありまするなぁ。
いやはや人は見かけによらぬもの。
亡き文昭院様は
賄賂や御法度は許さぬ御方であった。
月光院様も江島らも
主君に後ろ足で砂をかけておる。
忠義など微塵もありませぬなぁ」
それから
越前の部屋子を手招きすると
お茶の御替わりを所望し
越前に穏やかな笑顔で問う。
「さて、越前殿
いかがなさる所存かのぅ」
越前も茶を一口飲み
覚悟を決めた顔を相模守に向けた。
「百戦錬磨の御老中方の
御助力をお願いしたく存じまする」
ほぉと納得した表情の相模守は
縫殿助に視線を送る。
「夜は長い。
のぅ、縫殿助」
相模守の言葉を受け
縫殿助の朗らかな顔に
暗黒な笑みが浮かぶ。
「左様に。
夜は長うございまする。
じっくりと参りましょう」
天井に浮かび
様子を伺っていた家宣もまた
微かな暗黒の笑みを湛えていた。