越前、大御台所御殿へ参る
熙子の守護霊になり
付ききりのはずの家宣が
この頃、時折いなくなるので
熙子は不思議に思っていた。
今も家宣はどこかに行っている。
ちょっと寂しい気もするけれど
幽霊とはいえ元将軍。
それなりに忙しいのだろうと推察。
熙子はそれならばと
家宣が居ない時間を有効活用して
侍女達と
源氏物語を書き写していた。
公家の習慣の祝儀の品として
書籍を書き写して贈るので
暇を見つけては書き溜めている。
社交も仕事の公家は祝儀の回数も多く
かなりの量の備蓄が必要。
熙子の婚礼の祝いには
祖父 後水尾法皇から源氏物語を
伯父の後西上皇からはうつほ物語など
貴重な書籍を贈られた。
公家は遊びも仕事。
暇そうに見えるけど結構忙しい。
熙子がさらさらと筆を滑らせていると
後ろから家宣がそっと抱き締めた。
家宣は透明な存在なので
侍女達のいるところでは
二人は想念で意思疎通している。
(お帰りなさいませ)
(うむ。寂しくはなかったか?)
家宣は
愛しい熙子に頬擦りをする。
(寂しゅうございますが
文昭院様は只今お忙しいのでしょう?)
(まぁな。熙子、直ぐに越前を呼べ。
後藤縫殿助を召すよう 伝えるのだ。
江島とその周辺を調べさせよ)
(御意にございまする。
何やら不穏ですわね)
(あぁ、もう見逃せぬところまできている)
熙子は早速
花浦に越前を呼ぶよう命じた。
花浦から連絡を受けた
将軍付上臈御年寄 豊原が
越前を呼びに行く。
越前は幼い家継の送り迎えで
御錠口を通り中奥と大奥を往復していたが
大御台所御殿に呼ばれるのは初めてだった。
間もなく
越前は豊原の案内で
男子禁制の大奥において将軍 家宣と
熙子の父 太閤しか通ったことのない
大御台所御殿への近道の廊下を歩いていた。
家宣が御台所熙子の元に
通うためだけに作らせた近道の廊下。
畳敷きの廊下を彩る
優美な花が描かれた天井画と
竹取物語が描かれた襖絵などの装飾。
そして御殿の入り側から見渡す
息を呑むほどの壮麗な庭と
大御台所御殿の彫刻の見事な絢爛。
大きな築山からは二筋の滝が流れ
松や桜、紅葉などの木々が
絶妙に配置され
極楽に迷い込んだかのような庭。
御殿の欄干は朱塗り
障子や襖など彼方此方に花鳥風月が描かれて
竜宮城のよう。
千代田の城から外出することが叶わない
御台所の為に将軍が贅を凝らして造った
御殿と庭。
越前は亡き家宣の熙子への愛情の深さを
再確認させられた。
「越前殿、こちらへ」
豊原が越前を促し
熙子にその訪問を澄んだ声で奏上する。
「一位様
越前殿が参られました」
熙子は源氏物語の書写の手を止め
居間上段の茵に移った。
居間下段に通された越前が
熙子に挨拶をする。
「越前守
参上つかまつりましてございまする」
熙子がはんなりと声を掛ける。
「急に呼び出して驚いたでしょうね。
先日話していた事だけれど
後藤縫殿助に
江島とその周辺を調べさせてたもれ」
正直、越前は驚いていた。
将軍だった家宣が縫殿助を呼ぶのはわかるが
まさか、熙子が呼べとは予想外。
「これは、一位様より縫殿助のお召とは。
確かに、江島殿の度重なる遅刻は
ただ事ではございますまい。
早急に、縫殿助に命じましょう」
縫殿助は幕府御用の呉服屋だが
初代は家康の側近く仕え
それ以来、代々徳川の密偵を務めていた。
大商人の人脈を使い情報を集めて
将軍に報告するのが仕事。
将軍ではない越前が
縫殿助を使うのは気が引けていたが
いまわの際の家宣から
熙子を名代にと聞かされていたので
これで堂々と呼ぶことができる。
話が一息ついたところで
御茶と茶菓子が運ばれて来た。
栗金団と干し柿が
部屋にいる全員に振る舞われる。
みな桜田御殿からの旧臣で
かつての家宣と熙子の居間のような
雰囲気の団欒。
熙子が美味しそうに
細く切った干し柿を食べる様子を
透明な家宣は嬉しそうに見ている。
家継の話で盛り上がっているなか
ふと、越前は熙子のすぐ横に
男物の褥と脇息があることに気づいた。
良く見るとその褥に
透明な何かがいるような気がする。
怪訝に思い
目を凝らしていたら
見えたのだ。
そこに家宣がいるのが。
家宣は熙子を愛おしそうに
腕に抱いている。
そして家宣は
越前と目が合うと
にやりと笑う。
越前は
最早、会うことは叶わないと思っていた
命を懸けて仕えていた
主君 家宣に会えて胸が熱くなった。
縫殿助を呼べと言ったのは
熙子ではなく家宣であると越前は悟った。
死して尚、徳川を思う家宣に
万感の思いが押し寄せ
やっとの思いで言葉を振り絞る。
「一位様、すっかり楽しい時間に
長居してしまいました。
中奥に戻り、縫殿助を召しまする。
では、これにて失礼つかまつりまする」
そういって
深々と頭を下げて戻って行った。
中奥へ戻る大奥の長い廊下を歩きながら
家宣に会えた嬉しさに目頭が熱い越前。
越前は赤い目のまま私室に戻ると
部屋子に縫之助を呼びに行かせた。
越前は一人になった部屋で思いに耽る。
徳川や万民を思い動く家宣に
越前は心打たれていた。
この御方に仕える事が出来て
私はなんと果報者だろう。
それに、まさか再びお目に掛かれるとは。
家宣の変わらぬ熙子への愛情も。
越前は懐から
女物の守り袋を取り出すと
じっと見つめたのだった。




