嵐の前触れ
生島新五郎との
初めてのひと時を過ごした江島と
その随行員達は
また七つ口の門限に遅れてしまった。
今回も月光院がとりなすが
いつもと違い
御広敷の役人が渋い顔をしている。
「近頃、上役が煩くなっておりまして。
こちらとしましても
お庇いきれなくなるやもしれませぬ」
思いもかけない役人の小言に
月光院の高い気位は傷つけられたが
非があるのは事実。
「先々代の綱吉公の頃は
よくある事だったであろう。
これで良しなに」
口止め料を多めに包んで
御広敷の座敷を出る。
部屋に帰る長い廊下を歩きながら
月光院の心は暴風雨。
五代将軍 綱吉の頃は
なんの問題にもならなかった
七つ口の遅刻を咎められるとは。
絶大な権力を振るった
五代将軍生母 桂昌院なら
役人ごときに小言を言われるなど
あり得ないこと。
桂昌院と同じ将軍生母でありながら
この様な屈辱的な扱いに
月光院は悔しくてたまらなかった。
私だけ、いつもなぜ
こんな扱いを受けなければならないの?
美しい眉間に深い皺を刻みながら
部屋に帰り着いた月光院。
機嫌の悪い月光院に
江島の同僚の月光院付御年寄の宮路が
口元に袖を当てて言い難そうに囁く。
「大奥中に七つ口の件が
知れ渡ったようでございまする」
「なんと!」
月光院は大きな目を見開いた。
大奥は
大御台所熙子派と月光院
それから将軍家継付女中達という図式。
家宣の整備した大奥は
御台所熙子のための機能が多く
将軍付御年寄も公家の姫が数人いて
五摂家の熙子と親しい。
家宣の側室の右近と新典侍も落飾して
それぞれ法心院と蓮浄院と号して
熙子とも仲良く暮らしている。
月光院は将軍生母として
大奥御殿向きに部屋を得たが
月光院とお付きの女中達は人脈も少なく
生活習慣も熙子達とは違うので
浮いていた。
月光院達が大奥の冷たい視線に
晒されているというのに
大御台所御殿はどこ吹く風で
優雅に歌を詠み物語をしながら
静かに過ごしている。
月光院の侍女達は
口々に愚痴を零し出した。
「京の御方達は歌ばかり詠んで
何が楽しいのかしら」
「芝居見物ほど
楽しい娯楽はありませんわ」
「代参の折の
お芝居とお料理は癒されます」
「大奥は慣れない京風ばかりで
息が詰まります」
「月光院様は将軍生母なのですから
一位様に
ご遠慮なさることはございません」
「そうですわ。
ここは江戸でございます。
わたくし達がなぜ京風に合わせなければ
ならないのでしょう。
理不尽でございます」
江戸の者ばかりの女中達の言葉は
そのまま月光院の気持ちを
代弁してくれていた。
鬱憤を晴らす女中達のなか
江島が申し訳なさそうにしているので
月光院は不憫になり江島に声を掛け慰めた。
「上様が成長されれば
こんな些細なことなど
何の問題にもさせぬ。
そんな湿っぽい顔、江島らしくないわ。
さぁ、誰ぞ三味線でも弾いて頂戴」
御中臈の一人が三味線を弾き始め
それに合わせて小唄を謡い踊る女中達。
賑やかな女中達を眺め楽しむ月光院。
月光院の部屋は
家宣が整えた御所風の大奥とは
思えない雰囲気だった。
家宣は天井に浮きながら
月光院達を冷たい目で眺めている。
六代将軍 家宣 と 五代将軍 綱吉は
仲は悪かったが
公家文化導入には意気投合し
共に苦労を重ねて大奥を公家風に。
家宣はその労力を無にしようとする
月光院の愚かさを心底軽蔑した。
そもそも将軍家と徳川連枝の正室は
京から迎えるし
朝廷とは長く付合うのだから
公家風に慣れるほうが
幕府も朝廷も都合がいい。
そして
幕府典礼の公家化を加速させた事件が
いわゆる忠臣蔵。
浅野内匠頭の悲劇は
大名が公家文化に慣れていれば
防げたかもしれないと家宣は考えていた。
綱吉と熙子を動かし
太閤を京より招聘し
綱吉の御用人 柳沢とその側室や
柳沢が斡旋した家宣の側室の新典侍など
多くの人脈を使い
幕府に御所風を浸透させた。
それに月光院は
吉良邸に討ち入りを果たした
浅野家と縁があるらしい。
それなのに
月光院が肩身が狭いからと言って
江戸風に拘り
模範を示すべき立場にありながら
御法度の芝居見物を擁護し
門限破りや商人からの収賄を
諫めようともしない。
いずれ
家継の正室は京から迎えるのに
江戸風を吹かして
家継の夫婦仲を破壊するつもりなのか。
月光院が家継の生母である事を
家宣は悔やんだ。
家宣が亡くなって僅か一年で
これほど大奥は乱れている。
このままだと
幕府の金蔵を空にするほど
神社仏閣に入れ込み
世継を願うばかりに生類憐みの令を押した
桂昌院の二の舞を
月光院が演じるかもしれないと
家宣は危惧した。
月光院は熙子よりずっと若い。
熙子が亡くなれば
抑えが効かなくなるだろう。
阻止しなくてはならない。
家宣は暗い光を宿して
月光院の部屋から姿を消し
熙子の部屋に帰った。
熙子の居間では
御中臈の一人が琴を奏でるなか
熙子は侍女たちと
雅やかに源氏物語を書き写している。
月光院の部屋と
なんという違いだろう。
御所風を好む家宣にとって
熙子の部屋は、まるで極楽浄土。
優雅に筆を泳がせる
熙子の美しさに家宣は魅入られた。
家宣は熙子を
後ろからそっと抱きしめる。
大御台所として
淡々と身を正して生きている熙子が
誇らしく愛しい家宣。
家宣は熙子を抱きしめながら
思い詰めた何かを隠し優しく囁く。
(そなたは私が守る。
何があっても案ずるには及ばぬ)
(?文昭院様、何がございましたの?)
熙子は不思議そうな顔をして
家宣を見上げた。
家宣は熙子を見つめながらふっと微笑むと
熙子を安心させるが如く幼子をあやすように
優しく腕の中に抱くのだった。
月光院は薄化粧を好み
女中達が京風の言葉遣いや振る舞いをするのを
嫌ったそうなので参考にしてます。
法心院は月光院と同じ江戸出身ですが
京出身の蓮浄院や綱吉側室の寿光院と
仲良く余生を送っているので
二人の性格の違いも感慨深いです。