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二つの部屋


「只今戻りましてございまする。

 代参、(つつが)のう終わりましてござりまする」


月光院付御年寄 江島が

家宣月命日の代参の後の

芝居見物から戻り

月光院の部屋に報告に上がった。


月光院は江島の帰りが遅くなっても

気にせず笑顔で迎える。


「代参、大儀であった。それで

 今日の団十郎の芝居はどうだったの?」


元踊り子の月光院は

江島達の芝居見物の話を楽しみにしていた。


「それはもう、良うございました。

 花館愛護桜(はなやかたあいごのさくら)と申しまして伊達男(だておとこ)助六(すけろく)

 遊女揚巻(ゆうじょあげまき)の悲恋なのでございます。

 江戸一番の人気とのことにございました」


江島の声は晴れやかで

夢の世界の余韻を漂わせる。


月光院は落飾したとはいえまだ二十代。

楽しそうな江島の様子に

地味な尼姿で溜息をついた。


「江島が羨ましい。

 わたくしも羽を伸ばして観てみたい。

 そなた、羽を伸ばせた?」


気さくに声をかけてくれる月光院を

江島は気の毒に思い

また、優しい気遣いを有難く思った。


「御言葉に甘え羽を伸ばしすぎまして

 今日も門限の七つ(午後四時)に

 遅れてしまいました。

 月光院様には申し訳なく存じまする」


「いいのよ。(たま)の息抜きじゃないの。

 随行の女中達にも息抜きをさせないとね。

 こんな堅苦しい大奥にいたら

 気が滅入ってしまう」

 

「左様にございまする。

 随行の女中達はみな芝居を観て

 美味なる食事を喜んでおりました。

 月光院様のお優しさに

 みな感謝しておりまする」


江島の父は

甲府藩士だったが早く亡くなり

母は旗本白井家に再嫁(さいか)したので

江島は旗本の娘として

江戸の町を謳歌して育った。


月光院と江島は

共に元禄の華やかな江戸育ちの派手好(パーリーピーポー)


類友で気が合う。


芝居や音曲が好きで

良く言えば大らかで気前が良い二人。


その二人の召し使う女中達も

江戸育ちの賑やか好きを選んでいた。


たまの息抜きの芝居見物で

羽を伸ばす部下の女中達の

喜ぶ姿が江島は嬉しい。

つい芝居小屋に長居してしまう。


大奥女中の門限の

夕七つに何度か遅れてしまい

その度に月光院が

密かに掛け合って事なきを得ていた。


だが既に噂は広まり

江戸の芝居など眼中にない

公家揃いの大奥で浮いている。


徳川家は三代将軍の頃から

御台所を京から迎えていて

五代将軍綱吉の頃より

大奥に本格的な京風が広がりつつあり

六代将軍家宣の代で仕上がった。


だから江戸気風の月光院派は

家宣がまだ将軍世継だった

西の丸時代から浮いていた。


家宣の側室である一の御部屋様の法心院は

甲府宰相家の下級女中として奉公していて

大人しく真面目な働き振りにより

家中より推挙され

正室熙子の目に叶い側室に。


二の御部屋様の蓮浄院は公家の姫だが

法心院と蓮浄院は

優しい実直な性格で気が合った。


熙子も穏やかで親切な性格なので

この二人の側室とは気が合い

熙子が亡くなるまで

後ろ盾となって世話をしたほど。



月光院だけが側室の中で

一人毛並みが違うのである。


月光院は賑やかな下町浅草生まれで

浅草小町と謳われた美貌。


江戸城や大名家の奥向きでは

踊り子や奏者を雇い接待に使う習慣があり

月光院も美貌の踊り子として

いくつかの大名家に仕えた。


生来の気質が芸能人。


月光院も江島も厳格な家宣熙子時代の

大奥など向いていなかった。


月光院にとって、大奥は窮屈で辛い場所。


美貌を誇っていても大奥は美女揃い。

注目もされない

女として愛されもしない

御台所や側室達とも気が合わない

気軽に外出もできない息の詰まる毎日。


家宣が亡くなって家継の将軍生母として

ようやく大奥御殿向に居場所を得たが

居心地の悪さは変わらなかった。


熙子は朝廷から女性最高官位の

従一位を賜り幕府と朝廷の橋渡しをし

家宣の遺言で家継の嫡母(ちゃくも)として

君臨している。


家継を支える越前と白石も

熙子とは甲府宰相時代から長年の主従関係。


家宣がいなくなっただけで

女の顔触れも変わらない。


ただ、後ろ盾の

五代将軍 綱吉の側室瑞春院(ずいしゅんいん)だけは

繋がりがあり折に触れ慰め合っていた。


しかし

瑞春院の後ろ盾の綱吉と桂昌院も亡くなり

その取り巻きの親戚達も世代交代で疎遠に。


月光院の実家は家宣の意向で

三千石の無役の寄合旗本に留め置かれ

権力などない。


越前が時折気にかけてくれるだけである。


「江島…」


月光院が江島の名を呼び

思い詰めた目で江島を見つめると

江島は月光院の心中を察して人払いをした。


二人きりになった静かな部屋で

月光院は江島の膝元に泣き崩れて

辛い恋心を訴える。


「江島…越前様が冷たいの。

 上様の話ばかりで私には社交辞令だけ。

 越前様は私の気持ちにお気づきのはずよ。

 文昭院様の御隠れになった今

 越前様さえその気になってくだされば…

 どうして越前様は振り向いてくれないの? 

 私のどこがいけないの?

 文昭院様も私に無関心だったわ。

 みな私は美しいと讃えてくれるのに

 誰も私を女として愛してくれない…

 江島…苦しい…

 身も心も引き裂かれるように辛い…」


江島も泣き崩れる月光院が気の毒で辛い。

綱吉派や父の元哲の期待を背負いながら

家宣の寵愛を独占するなど遠く及ばず

(ひそか)に恋い慕う越前にも

女として見向きもされない月光院。


此程美しく生まれながら

望む物を手に入れられずに苦しむ月光院に

江島は自身を重ねる。


江島も美しく賢く生まれながら

生家に恵まれず女として愛される事を封印して生きている。


江島の膝に突っ伏して泣き崩れる月光院の肩を撫でて慰める。

月光院の恋い慕う相手はよりによって家宣に劣らない堅物の越前。

家宣と家継への忠義一筋で

曲がった事が大嫌いな越前が

月光院と不義密通などするわけがなく

月光院の恋が実る見込みはない。


「月光院様のお辛いお気持ち

 この江島、痛いほどわかりまする。

 せめて一時の現実逃避を致しましょう。

 どうぞこの江島にお任せくださいませ」


江島は優しく励ますように月光院の肩を撫で

虚空を見つめながら考えを巡らせた。


月光院と江島は

かつての桂昌院のような栄華をと夢見る。


この大奥で大御台所の熙子を蹴落とせば

将軍生母の月光院は幕府の権力を握れる。

そうなれば月光院は越前も幕府をも意のままに

この苦しみから逃れられる。


江島は主人の月光院のために

芝居見物の裏で兄の伝手を頼り

商人と遊びながら人脈を広げていた。


振興勢力(ベンチャー)を築こうとしているのだ。


月光院の頼りは

瑞春院と江島だけといっていい。


将軍生母の地位を得ても

月光院の周りは寂しいものだった。


一方、月光院の振舞いに悩む

将軍付上臈御年寄(しょうぐんづきじょうろうおとしより)豊原が

熙子の部屋を訪れていた。


一位様(いちいさま)に、畏れながら申し上げます。

 また江島殿が七つに遅れた(よし)

 月光院様がおとりなしになられたと

 聞きましてございまする」


豊原こそ

綱吉、家宣、家継の三代に渡り

将軍付上臈御年寄(しょうぐんづきじょうろうおとしより)として仕え

後に語られる大奥筆頭取締の立場にあった。


公家の姫の豊原は京の後宮でも東山天皇に仕えた。

東山天皇は熙子の従兄弟。

後宮と大奥を知る超有能(スーパーエリート)である。


その冴え渡るような美しい豊原の眉間に

珍しく皺が現れていた。


「それは困ったこと。

 上様にも先の上様である文昭院(ぶんしょういん)様にも

 申し訳が立ちませぬ」


熙子は溜息をついた。

月光院には呆れて愛想も尽きていた。


 月光院は将軍生母という立場を

 なんと心得ているのか…

 上様にも文昭院様にも

 泥を塗っているとわからぬのか…


家宣が心配していたことが

起ころうとしている。


「豊原、先日の申し付けた調べは如何に?

 何か変ったことは?」


熙子の問いに、豊原が曇った声で答えた。


御広敷(おひろしき)の帳簿を調べましたところ

 月光院様のお部屋の呉服などの御用が

 多くなっているようでございまする」


熙子も美しい眉間を曇らせ

豊原の言葉に微かに頷いた。


「江島たちの衣装が以前に比べて

 華やかになっているのは気づいていたけれど。

 立場が上がったとはいえ宜しくはない。

 文昭院様は

 大奥に倹約令をお出しになったゆえ」


「左様にござりまする。誠に月光院様には

 しっかりしていただかなくては

 困りまする」


熙子は豊原が気の毒でならない。


「このことは越前とよく話し合うように。

 また何かあれば伝えてたもれ」


豊原が下がった後

熙子は秀小路や花浦達

大御台所御殿の幹部女中を集め

そして、穏やかに話し始めた。


「先の上様である

 文昭院(ぶんしょういん)様が御懸念なされていた

 事態となるやもしれません。

 このような時こそみな気を引き締めて

 万事決まり事を守り慎重に過ごすように。

 そなたたちの部屋方達にも良う言い含め

 幼い上様と文昭院様の御威光に

 傷をつけぬように」


熙子の奥女中達は

選りすぐりの公家の姫ばかり。

千年生き延びた家の女達。

振る舞いに隙はない。


みな優美に顔を見合わせ頷き合っている。


熙子はその光景を満足そうに見渡すと

安心して寝所に向かった。


熙子が御中臈に髪を梳かしてもらっている隣で、秀小路が熙子を気遣う。


「一位様のことは

 きっと文昭院様がお守りくださいまする。

 私共も御恩に報いとうございまするゆえ

 どうかご安心遊ばしませ」


「嬉しいこと。

 そなたたちに火の粉がかからないように

 わたくしも気をつけるわね。

 明日、堀と本間、早川のじいを

 呼んでたもれ」


「早速に遊ばされますのね。

 畏まりまいてございまする」


熙子の命を受け

秀小路が手をついて微笑む。


熙子の寝支度が整うと

秀小路は花鳥風月の描かれた寝所の襖を

静かに閉めた。


高麗縁(こうらいべり)の揚げ畳の上には

華麗な絹の布団が重ねて敷いてあり

枕が二つ置かれている。


その布団に透明な家宣が横たわり

腕の中の熙子に語りかける。

 

『そなたには苦労ばかりかけてすまぬ』


「文昭院様のせいではございませんわ。

 それにこうして

 御傍にいてくださるのですもの。

 熙子は嬉しくてなりませぬ」


熙子は幸せそうに

家宣の胸に顔を埋めた。


家宣はそんな熙子が愛しくて髪を撫でる。


二人は何の制約もない幸せの中にいた。


毎夜家宣は熙子を腕に抱いて眠る。


熙子のいない中奥で夢見た

若かった頃の桜田御殿の寝室の如く。

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