黄昏
江島が高遠へ預けられ
世の騒がしさも落ち着いた頃。
梟の鳴く夜深く
年に数度しか帰宅しない越前の自宅に
筆頭老中の土屋相模守と白石
閉門を解かれた幕府呉服商の
後藤縫殿助が闇に紛れて訪れていた。
相模守がお茶を啜りながら
渋く甘い声で呟く。
「御城が静かになりましたなぁ」
「これで、収賄を働く不届き者も
減りましょう」
美しい越前が感慨深く相槌を打つ。
幕府の権力を得ようと
月光院や江島に群がっていた幕臣や商人を
一掃した達成感が充ちる座敷。
「縫殿助も難儀であったのぅ」
相模守がつややかでふんわりとした
見るからに美味しそうな饅頭を頬張りながら
縫殿助を労る。
「相模守様、忝うございます。
これも家康公より代々の我が家の
御役目にございますれば。
この度、働いてくれた手代二人は
私が手厚く後の面倒を見ますので」
縫殿助は大商人らしい福々しい笑顔で答えた。
芝居見物の座敷で情報収集をしていた
縫殿助の手代の清助は遠島
次郎兵衛は追放。
主人の縫殿助が芝居小屋にいなかったので
呉服店は短期間の閉門で済まされた。
相模守がおかわりの饅頭に手を伸ばしながら
白石に声をかける。
「白石殿の台本通りに事は終わった。
芝居小屋と御城の魑魅魍魎も消え
すっきりしたのぅ」
白石は額に火の皺を薄っすら浮かべ微笑む。
「御老中様方のお力にございまする。
縫殿助もご苦労であった。
これで我らは
文昭院様に顔向けができましょう」
白石はこの機会に、芝居も改革。
芝居小屋の二階三階と
茶屋や自宅への通路の建築を禁止。
一階のみの簡素な作りとし
簾や衝立の使用や役者の接待を禁止し
営業時間は夕刻までと決めた。
これは火事の多い
江戸の防火対策でもあった。
それに、この事件より数年前
新五郎の弟と尾張藩主の未亡人と
密通事件が江戸下屋敷であり
幕府としても頭を痛めていたのに
江島の騒ぎ。
大奥女中による収賄も
家宣が生前に法度を出して戒めていたのに
月光院が将軍生母となると勢いを増した。
月光院達は家宣の意志を蔑ろにし
幕府の法を破り泥を塗り
熙子と近衛家を追い落そうと企み
私利私欲に走った。
将軍家宣と家継の気高い御代を守る為には
不埒な月光院派を
叩き潰さねばならなかった。
越前が不思議そうな顔をして
饅頭を食べ続ける相模守に問いかけた。
「相模守様は
月光院様が宮路殿になりすまし
役者通いと不義密通の為に
御城を抜け出していたのを
いつから御存知だったのですか?」
相模守は冷ややかで軽蔑を含んだ目で
食べかけの饅頭を見ながら呟く。
「いつからとな?
月光院様の役者買いは
文昭院様が病の床につかれてからよ」
そう言うと食べかけの饅頭を
口に放り込みもぐもぐと食べた。
越前は呆気にとられ口をあんぐりさせ
数秒口を戦慄かせたあと
やっと言葉を零した。
「なんと…文昭院様が病にお苦しみの中
役者買いをしていたですと…?
文昭院様への感謝など欠片もなかったと…
将軍の御母上が役者買いなどと…
幼い上様がどれ程傷つかれるか…
惨い、惨すぎる…月光院様は
なんと空恐ろしい女でござろうか」
越前は膝の上の拳を握り締めた。
そして、
流石何十年も御城勤めを果たして来た
老中相模守の情報網に
越前と白石は畏れ入るばかりだった。
大鉈を振るう事となったが
収賄を嫌い、遺言にまで残し戒めた
亡き家宣の意志に報い
家宣の最愛の妻熙子と将軍家継
そして幕府と朝廷の絆を守る事ができて
白石と越前、老中達は安堵している。
次の日の午後
熙子は御対面所に越前と白石を呼んだ。
簡単ではあるがお吸物やお酒で労う。
家宣が将軍になり
本丸に引越した祝いの料理と同じもの。
「越前、白石
月光院と江島の事も
月光院の新しい女中達の手配も
それから日頃
幼い上様を支えてくれてありがとう」
熙子と越前、白石は
甲府時代からの長い付き合いもあり
御簾を上げて熙子が直に声をかける。
「勿体のうございまする」
珍しく白石が緊張している。
滅多に見られない白石の姿に
越前は苦笑いである。
越前は微笑みながら熙子に視線を移すと
ゆらりと透明な何かが揺れた。
目を凝らすと
熙子を腕に抱いている家宣が現れ
越前と目が合うと頷いた。
良くやったと褒めてくれたのだ。
越前は、胸と目頭が熱くなった。
ここで泣いてはいけないのに。
今度は白石が怪訝な顔をして
越前を見ている。
熙子は越前が家宣に気づいたと察し
はんなりと助け船を出す。
「越前は下戸であったかしら?
誰か、お酒の代わりに
二人に御茶と御菓子をあげてたもれ」
熙子の鈴の鳴るような声に
侍女達が華やかに動いて
越前の涙は誤魔化された。
和やかに簡素な宴の時間が流れていく。
それから暫く経った頃
月光院の父 元哲が亡くなった。
月光院の失脚に失望し
生きる気力を失ったのかもしれない。
月光院の実家の勝田家は
寄合旗本のままで大名家になることはなかった。
四代家綱の母方増山家と
五代綱吉の母方本庄家は
それぞれ大名家となっていたが。
不思議な事に月光院が若き日に仕えた
浅野内匠頭の正室 瑤泉院も
元哲と同日に身罷る。
そして、月光院の部屋には
江島達の代わりの上級女中に
公家の姫達が入った。
表向きは従三位の身分に合わせた形だが
内実、熙子や豊原の監視下に置かれた。
二度と不祥事のないように。
奇妙な事に元哲が亡くなると
家継は大奥の御休息所から
中奥に住まいを移した。
家継の世話も病気の時以外は
男達だけでするようになった。
家継が大奥に来るのは
将軍の日課、朝の御仏間の御参りの時だけ。
家継に同行するのは大御台所熙子。
月光院は様変わりした部屋の簀子縁に立ち
夕暮れの小さな庭を寂しく眺めていた。
家継のいない大奥に越前は来ない。
月光院は櫻田御殿の頃から恋い慕う越前に
会える機会をも失った。
同じ頃、熙子も大御台所御殿の
壮麗な庭を眺めていた。
(そろそろ紫陽花が見頃であるな)
透明な家宣が腕の中の熙子に話しかける。
(左様にございますわね。
文昭院様、あちらを御覧遊ばせ。
池の近くの紫陽花が美しゅうございます)
熙子が滝の二筋掛かる築山の
紫陽花を眺めながらうっとり答えた。
(では、観に参ろう)
(少しお待ちくださいませ)
熙子は家宣を見上げてそう伝えると
御化粧の間に入る。暫くして
熙子は家宣が生前贈った羽衣のような
紫陽花の刺繍の打掛を纏って現れた。
出家して透明感を増した熙子は
あの時よりも美しい。
思わず、家宣は美しい熙子を抱きしめる。
家宣は熙子の髪を優しく撫で囁いた。
「この紫陽花の打掛を
覚えていてくれたのだな」
そして
熙子の白くしなやかな手を取ると
紫陽花の咲き乱れる庭に向かったのだった。
完
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