簪
中奥に落ちていた若い娘の簪
それは千代田の城の風紀の乱れを表していた
大御台所熙子や
御側用人越前達は
幼い将軍家継の世を守ろうと手探りの日々
大奥の将軍居室である御休息之間で
家継を囲んだ団欒が終わり
熙子が自室の大御台所御殿に戻ると…
熙子が部屋に入ると
守護霊になった
透明な家宣の気配が現れた。
家宣は熙子の部屋の外では
気配を消している。
敏感な者に気配が気づかれて
幽霊が出るなどと
妙な噂が流れては厄介。
熙子の大御台所御殿は
生前から家宣が入り浸っていたので
元々気配が濃く残っており
侍女達は違和感がないらしい。
「一位様、お戻りなされませ。
夕餉の御仕度ができておりまする」
上臈御年寄の秀小路が出迎える。
熙子の膳の隣には
家宣の褥と脇息も置かれ
同じ膳が影膳として供えられていた。
影膳といっても
家宣は熙子と一緒に
三度の食事をしているが。
家宣は透明だが
食べ物の味を楽しむことができる。
熙子が膳の前に座ると
御年寄の桜木の手によって
椀の蓋が取られ
魚の身がほぐされる。
家宣の膳も同様に
御年寄の花浦によって
椀の蓋が開けられた。
鯛の煮付け
茶碗蒸し
豆腐と出汁の寒天
白いんげん豆の金団
今宵も豪華な献立が
膳に並ぶ。
熙子の食事は
毒見を含め十人分が用意されるので
そのうちの一つが
影膳として供えられても
手間はかからない。
だから
大御台所御殿以外の者に
知られることはない。
家宣と熙子は
微笑み合いながら
夕餉を楽しむ。
将軍時代の家宣と熙子が望んでいた
甲府宰相時代の桜田御殿のような
毎日毎食を共にする二人。
熙子の白く細い美しい指が持つ柳箸が
泳ぐように
甘い金団を口に運ぶ。
美味しそうに
金団を食べる熙子の顔を
家宣は隣で慈しんで見ていた。
やがて夕餉が終わり
お茶が運ばれてくると
二人は想念で会話する。
(家継は幼いのに頑張っているようだな)
(はい。
それにとても愛らしゅうございますわね。
越前にかくれんぼをねだるなんて)
(うむ。
越前は子供をあやすのが意外に上手い)
(はい、意外ですわね。
あら、文昭院様
夕餉をゆっくりし過ぎたようですわ。
そろそろ上様のおねむの時間です。
お話をしてあげないと)
(では、参るか)
(はい、文昭院様)
二人は微笑み合い
再び御台所御殿を後にする。
熙子が部屋から出ると
家宣は気配を消した。
長い畳の廊下を
御休息之間に向かって
熙子一行が歩いてゆく。
御休息之間の近くには
将軍生母 月光院の居室がある。
こじんまりとした一角だからか
月光院の部屋からは
三味線などの鳴り物の音や
女中たちの賑やかな声が響いていた。
熙子は足を止めると
美しい眉を顰めた。
もうすぐ
幼い上様の御寝の時間だというのに
騒々しいこと
熙子は優美な袿をついと翻すと
家継の部屋に向かった。
将軍居室の御休息之間では
家継が白綸子の寝間着に
着替えて待っていた。
家継は
熙子が部屋に入ってくると
駆け寄って足元に抱きつき
熙子を見上げて可愛いおねだりをする。
「ははうえ おはなし よんで」
賢い家継は
物語が好きなのだ。
「はい、上様。
それでは今宵は
小さいけれど勇敢で賢い
一寸法師のお話にしましょうね」
熙子の父
太閤 近衛基煕が持参してくれた
絵巻物を紐解く。
一流の上方の絵師によって描かれた
一寸法師の物語に
家継は目を輝かせると
熙子の袖を可愛く掴み訴えた。
「ははうえ よも
おわんの おふね のりたい」
子供が一度は夢見る
お碗の船。
熙子の頬が弛む。
家継を膝に乗せると
優しく言い聞かせた。
「上様は将軍であらしゃいますから
大きな御座船にお乗り遊ばしませ。
もう少し大きくなられましたら
御浜御殿に参りましょうね」
「うん、ははうえ つれていってね」
可愛く聞き分けの良い上様に
周りの奥女中達も微笑んでいる。
物語が終わるころ
家継は眠くなったのか
愛らしい仕草で目を擦った。
丁度その時
月光院が部屋に入ってきた。
家継が眠るまで見守るのは
月光院の役目。
月光院に任せて
熙子達は部屋を後にした。
熙子は
いつ家宣と同じ姿になってもいいように
準備を始めている。
あちらには
熙子の子供達
豊姫や夢月院達も待っているから…
熙子が御殿に戻ると
秀小路が小さな千代結びを
熙子にそっと手渡した。
千代結びを解くと
紙には『その』と書いてあった。
熙子は
秀小路と花浦に目配せをすると
秘密の船着き場に向かう。
大御台所御殿には
万一の脱出に備えて
船好きの家宣が
船着き場を作っていた。
それは秀小路や花浦など
一部の者しか知らされておらず
御殿の奥の目立たない部屋の
秘密の扉と通じている。
細工を解き扉を開け
燈火で照らしながら
暗く長い通路を抜けると
大きな黒い鉄の扉が現れた。
花浦が
扉についている金具を
五回叩くと
扉の向こうから
「その」と答えが返ってきた。
扉を開けると
そこに越前達、数人が
明かりを持って待っていた。
家宣の信任厚かった
旧甲府家臣達。
熙子たちは泊めてある船に乗り込む。
船の中は
まるで大御台所御殿のよう。
天井には百花が描かれ
華やかな几帳や褥などが置かれ
豪奢だが寛げる部屋になっている。
柔らかな灯が
ゆらゆらとした水面の影を
船の障子に映していた。
幻想的な灯りに照らされた越前が
懐から簪を取り出し
熙子に献上する。
そして
江島の七つ口の遅刻と
中奥に落ちていた簪の話をした。
「畏れながら
一位様におかれましては
何かお気づきのことは
ござりませぬでしょうか」
越前の問いかけに
熙子は美しい顔を曇らせた。
「江島のことは
わたくしの耳にも入っている。
一部の女中達が浮足立っているのも。
様子を見ていたところです。
中奥で簪とは言葉もない。
わたくしの力がないばかりに
大奥を抑えきれず
先の上様にも申し訳なく」
熙子が既に
風紀の乱れを憂慮していたと知り
越前は、流石先代主君 家宣の
最愛の女性と感歎した。
熙子と越前達は差し当たり
中奥と大奥を
注意深く探り
現状を把握することとした。
それから暫くした
或る日の中奥。
「えち、こぼしちゃった」
家継が白湯を零し
着物を濡らして困った顔をしている。
「おやこれは…上様、
大丈夫でございますよ。
お風邪を召されてはいけませぬから
直ぐに着替えましょう」
越前は微笑みながら
懐から懐紙を取り出して
家継の着物を拭く。
「某が御着替えを持って参りまする」
小姓の田中が
着替えを控室にいる女中の元に
取りに行こうとしたが
越前が止めた。
「よい、私が行く」
簪の件がある。
越前自ら探りに行かなければ。
なにか手がかりがあるかもしれない。
越前が御錠口近くの
奥女中の控えの間の傍まで来ると
襖の奥の座敷から
男女の秘やかな声が漏れ聞こえた。
越前は静かに
暫く様子を窺っていたが
衣擦れの音までし始めるではないか。
越前は涼しい顔で
勢いよく戸を開けると
薄暗い部屋の隅で
抱き合っていた男女が
驚いて飛び離れた。
暫くして目が慣れたのだろう
襖を開けた逆光の男の顏が
越前とわかると
二人は真っ青になり平伏す。
越前は女に近づくと
懐から簪を取り出し見せる。
「これは、そなたの簪か?答えよ」
若い女は目を見開いて震えていたが
観念して頷いた。
「そうか。
では、二人共わかっておろうな」
美しい越前が凄みを増し
背筋の凍るような冷たい声で告げる。
「もっ、申し訳御座りませぬ」
男は冷や汗を流しながら
声を絞り出す。
次の日
男は病気を理由に来なくなり
そのまま退職した。
女は
家継が将軍になる前からの
世話係の若い御中臈で
こちらも病気を理由に宿下がりをして
そのまま退職となった。
将軍付御中臈と
家継の若い近習が
毎日のように顔を合わせるようになり
いつしか恋仲になったという。
若い男女の恋は常とはいえ
千代田の御城で色恋とは
許されぬこと。
このことは
幼い将軍 家継の
威光を損なうことなので
内々に処理された。
熙子の前で
将軍付き上臈御年寄 豊原が
額を畳に擦り付けんばかりに
手をついていた。
「この度はわたくしの不行き届きにて
このような事態となり
誠に申し訳なく
お恥ずかしゅう存じまする」
熙子の顏も、また、暗かった。
「そなたのせいだけではない。
わたくしの力も及ばず。
でも、上様が御幼少であるゆえ
みなの気が緩みがちになっているのでしょう。
といって、
このまま放っておくわけにもゆかぬ」
「誠に御意にござりまする」
豊原の冴えるような美しい顏にも
焦りが見えた。
熙子は手にしている扇を
微かに指で打ちながら呟く。
「さて、どこから手を付けたらよいものか…
豊原
先の上様の頃と変わったことはないか
すべて調べよ」
「畏まりましてござりまする」
豊原は再び平伏すと
熙子の部屋を後にした。
『ようやく動き出したようだな』
気配を現わした家宣は
白い炎を纏い
苦々しく言い放った。