嘆きの熙子
幼い将軍の家継は
大奥将軍居室の御休息之間で
日常生活を送っていた
熙子や月光院達は
毎朝、御休息之間に集まり
家継の出勤を御錠口で見送る
そんな或る日の朝
月光院達に目に見える変化が起こった
或る日の朝
家継のいる御休息之間で
熙子達は目を丸くして部屋を見渡した。
月光院付の女中達がみな
薄化粧だったのだ。
公家社会では白いほど上品とされている。
熙子をはじめ
抜けるような色白の公家の姫の多い大奥では
色白の姫達に合わせるように
白粉はそれなりに厚くなる。
月光院達の薄化粧は
熙子の目に異様に映った。
熙子は豊原と目が合ったが
豊原もまた、困惑している様子。
中奥に出勤する家継を見送った後
熙子は江戸暮らしが長い豊原を
大御台所御殿に呼んだ。
熙子は優雅な茵に座り
脇息にゆったりもたれて
ふんわりと豊原に聞く。
「豊原、わたくし
月光院の女中達のような薄いお化粧
見たことがないのだけれど…?」
いつもは凛としている豊原も
困惑しながら説明する。
「江戸の町の者の間では
薄化粧が通と
されているようでございまする」
熙子はそれを聞くとがっかりした。
「町の化粧…
あのような化粧が通というの?
通というのもよくわからないけれど。
大奥に挨拶に来る武家の奥方や姫は
薄いお化粧ではなかったような…
わたくしの会ったことのない
御目見得以下の武家の子女のお化粧は
どうなのかしら?」
豊原も溜息交じりで答える。
「御意にございまする。
武家の子女はあのような
薄い化粧ではありませぬ」
「では
月光院は敢て江戸の町風にしているの?
文昭院様は幕臣や大奥女中が
京に上がっても困らないようにと
幕府典礼と大奥を御所風にしたのに。
その御意思を蔑ろにするのも厭わぬと」
熙子も言い終わると溜息をついた。
部屋にいる侍女達がみな溜息をつく。
熙子は月光院に幻滅した。
まさか家宣を蔑ろにするとは。
いや、月光院は
それが家宣と家継を貶めていると
気づいていないのだろうと思った。
相変わらず月光院の部屋からは
賑やかな三味線の音や嬌声が聞こえてくる。
家宣が亡くなってから僅かの間に
月光院は自分の侍女達を
生まれ育った江戸下町風に変えてしまった。
熙子は家宣が好む雅な御所風の大奥が
無くなってしまうようで寂しく
騒がしくなるであろう大奥には
居たくないと思った。
それに江戸には頼れる親族もいない。
京が懐かしくなり
熙子の押し殺してきた本音が零れた。
「豊原、わたくし京に帰りたい。
文昭院様がおいでになればこそ
わたくしはお役に立てたと思うの。
家継公の御代になったのだから
わたくしがいなくても良いのではないかしら。
月光院がいますもの」
「な、なにを仰せになられます!
一位様がおいでにならなければ
幼い上様はどうなるとお思いですか!」
熙子の爆弾発言に
冷静な才女の豊原が動転して大声を出した。
熙子の後ろで気配を消していた家宣も
驚きのあまり叫ぶ。
『熙子、何を言う!京になど返さぬ!』
聞こえるはずのない声が聞こえて
侍女達は驚いて目を見合わせた。
が、事の重大さに
熙子の侍女達も気が動転して
それどころではない。
大御台所付上臈御年寄の秀小路が
将軍付の豊原に助けを求める。
「豊原殿、
わたくし共の手に負えそうもありませぬ。
どうか越前殿をお呼びくださりませ」
「ええ、そう致しましょう。
秀小路殿、人払いをしますゆえ
御小座敷に一位様をご案内くださりませ。
すぐに越前殿を呼びに参ります」
言うが早いか
豊原は越前を召喚しに御錠口に向かった。
急遽、参上した越前だが
いつもは冷静な越前も
必死の形相で熙子を説得する。
「一位様、豊原殿より伺いました。
京にお帰りになるなど許されませぬ。
嫡母として
上様を御後見なさるようにとの
文昭院様の御遺言でございますれば」
熙子は寂しそうに訴える。
「わたくしより若い月光院は将軍生母として
これからも威光を増すでしょう。
文昭院様のお作りになった大奥は
崩れてしまう。
わたくしはそのような大奥を
見たくないのです」
「お待ちくださりませ。
月光院様の御振る舞いや
江島殿の門限破りなどの所業は
きっとこの越前が治めまする。
何卒、一位様には大奥に御留まりになり
上様をお支えくださりますよう」
越前の必死の説得を
熙子は浮かぬ顔のまま
聞いているだけだった。
越前は中奥に帰る長い廊下を
険しい顔をしながら戻って行く。
町娘だった月光院様がいなくても
幕府にとってどうということはないが
天皇の孫や姪や従姉、大伯母であり
太政大臣の娘や姉である一位様が
京に帰られるなど
幼い上様や幕府にとっての損失は
計り知れぬ。
一位様は筆一本、言葉一つで
帝や将軍を動かしてきたお方。
京に御帰還など
絶対に阻止しなくてはならぬ…
越前は青い炎を纏いながら
相棒の白石の元に急いだ。
頼れる実家を持つ女は強い。
熙子は
月光院達の品のなさに嫌気がさして
それなら京に帰ると本音を零しただけだが
心ならずも幕府を脅す形になってしまった。
その夜、熙子の豪奢な寝室の夜具の上で
透明な家宣が取り乱して
熙子を抱きしめていた。
『熙子、わかっているのか?
京に帰ってしまえば
世と同じ寺の墓に入れぬのだぞ?
そのようなこと、世は許さぬ』
「だって、文昭院様…
月光院はあまりにございます。
文昭院様とおもうさんが
苦心して大奥を御所風にされたのに。
わたくし、このような騒がしい大奥に
いとうはございません。
それに江戸は水は
宇治茶の味がしないのですもの。
京の水が恋しゅうございます」
京の旨い水が恋しいのか…
家宣は熙子らしくて気が抜けた。
涙ぐむ熙子の尼削ぎの髪を
家宣は優しく撫でて慰める。
『誠に熙子は食いしん坊であるな。
水は致し方ないであろう。
とにかく、そなたがいなければ
朝廷との絆が切れてしまう。
なにより
世と同じ寺に入れぬではないか』
「そうですけれど…
わたくしだって幼い上様が可愛いのですし
文昭院様と同じ寺に入りとうございます」
熙子が珍しく駄々をこね
愚痴って甘えている。
そんな熙子が可愛くて仕方ない家宣。
『越前があのように言っておるのだ。
安心して機嫌を直せ。
京の味が恋しければ菓子や漬物など
好きなだけ取り寄せるが良い』
熙子は家宣の胸の中で拗ねながらも頷いた。
家宣は熙子の気持ちが
落ち着いたのを確認すると
熙子の体を優しく横たえ
胸に抱いて
子供をあやすように眠らせたのだった。
家宣と熙子は
増上寺の別々の墓に葬られましたが
1958年に発掘調査が行われた後
文昭院宝塔に夫妻で合祀されています。
家宣の熙子への時空を超えた
愛の執念を感じます。




