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御鈴廊下

江戸城本丸大奥

大御台所御殿(おおみだいどころごてん)の庭は

咲き誇った桜の花で桜色に染まっていた。


熙子は

庭に面した部屋の御簾(みす)を上げて

満開の桜を愛でている。


熙子の座っている隣には

家宣が生前使っていた

脇息と(しとね)が置いてあり

側には茶托が置かれ

茶碗からは

湯気が白い糸のように揺らめき

艶やかな高坏には

良い香りのする葉が巻かれた

桜餅が盛られている。


まるで

誰かが座っているかのように。



そう、その褥には

透明になった家宣が座っていて

腕に熙子を抱いていた。


熙子は幸せそうに微笑んでいる。


家宣は熙子の守護霊となり

愛しい熙子の傍を

片時も離れない。


死して尚

相変わらずの溺愛振りである。



「一位様、

 そろそろ上様が

 中奥からお戻りでございます」


上臈御年寄(じょうろうおとしより)の秀小路が優しく

熙子に声をかけた。


熙子は家宣に微笑むと

幼い上様を迎えるために

御鈴廊下に向かった。



幼く可愛い鍋松は

七代将軍 家継となり

嫡母の熙子は

家宣の遺言に従い

家継の後見人として大奥に留まった。


熙子は落飾(らくしょく)

天英院と号し

朝廷より従一位を賜り

一位様と呼ばれている。



一方、中奥では

可愛らしい幼将軍 家継が

侍講(じこう)新井白石の講義を終えた御褒美を

越前守(えちぜんのかみ)にねだっていた。


「えち、よは がんばったよ。

 かくれんぼ。ね?」


可愛い将軍のおねだりに

越前の美しい顔は溶けてた。


越前は家継の父

先代将軍家宣に

影のように

片時も離れず仕えていたが

幼い家継にも同様に仕えている。


「畏まりまして御座いまする。

 それでは越前が隠れまする」


優しくそう言うと

御座之間から姿を消した。


家継は紅葉のような可愛い手で

顔を抑え数を数え始めた。


「いーちにーい」


越前は

これから家継を大奥に送り届けるので

中奥と大奥を繋ぐ

御鈴廊下に近い座敷に隠れる。


座敷は薄暗く

何かが越前の足に当たった。


拾い上げると

それは女物の(かんざし)


越前は怪訝(けげん)な顔で

簪を袱紗(ふくさ)に包むと懐に仕舞う。


「えち、どこ?」


家継の可愛い声が聞こえて来た。


家継は

小姓の田中と佐々木に

片っ端から襖を開けさせている。


幼いとはいえ

将軍は自ら戸を開け閉めしない。


遂に

越前のいる座敷の襖を開けさせた。


「えち、みつけたー」


家継は越前に走り寄ると

抱きついた。


「ああ、上様に見つかってしまいました。

 上様の勝ちにございまする」


「よが かったから

 えち だっこせよー」


家継は誇らしげに甘えている。

その可愛いことといったら。


またも越前の美しい顔が溶けた。


「御意にござりまする。

 では、一位様と月光院様が

 お待ちにございますれば

 大奥に参りましょう」


将軍家の男児は

十歳まで大奥で養育される習慣で

家継も幼いので

大奥の将軍居室である

御休息之間で寝起きしていた。


越前は家継を抱き上げると

御鈴廊下のある御錠口に歩き出す。


御錠口近くには

奥女中控えの間がある。


女人禁制の中奥だが

家継が幼いので

待機する事になっていた。


控えの間の前で

伏せて待つ御中臈の簪を

越前は、通りすがりにチラリと見る。


髪に乱れはなく

簪も綺麗に飾られていて

異常はなさそうだった。


家継と越前が御錠口まで来ると

中奥側から鈴を鳴らし

錠を解き

花鳥風月の描かれた杉戸が

開けられる。


「上様の御成-りー」


杉戸の向こうでは

熙子と

家継生母月光院や

将軍付上臈御年寄(しょうぐんづきじょうろうおとしより)豊原達が

揃って待っていた。


月光院も

朝廷から従三位を賜った。


大奥の首座は

大御台所 天英院

次席は、将軍生母 月光院となった。



「上様ごきげんよう。

 さぁ、御休息之間に参りましょう」


熙子が嫡母として

家継を迎える。


家継は熙子の顔を見ると

嬉しそうに微笑んだ。


大勢の飾り立てた奥女中達が

平伏す中を

家継は越前に抱き上げられたまま通り過ぎ

その後ろを熙子達が付き従う。


御休息之間に着くと

越前に変わって

熙子が膝に家継を抱く。


そして

中奥での報告を

越前から御休息之間で受けるのが

習慣になっていた。


「上様におかれましては

 本日も御政務(ごせいむ)御講義(ごこうぎ)

 誠に御宜(およろ)しく御聞きになられまして

 ございまする」


越前に褒められた家継は

熙子に可愛く自慢する。


「えちが ごほうびに

 かくれんぼしてくれたの」


「まぁ、上様

 それは御宜(およろ)しゅう遊ばされましたわね」


熙子は

いつものように

膝の上の家継に微笑んだ。


越前も

家継の愛らしさに相好を崩しているが

月光院の美しい顔だけが曇る。


先代将軍家宣の

御台所熙子が母として

家継を養育した。


家継が将軍を継ぎ

月光院は生母として

将軍家の一員となったが

月光院が育てた訳ではないので

家継は懐いていない。


幼くして父 家宣を亡くした家継は

越前を父のように慕っているが

慎み深い越前は

臣下として一線を越えず

家継に仕えていた。


越前のそんな律儀なところが

家宣は気に入ったのだ。


報告が終わると

越前は早々と中奥に戻った。




中奥では白石が

明日の政務や講義の準備に勤しむ。


白石は家宣時代に引き続き

家継にも侍講として仕え

越前と共に

政策の中枢(ブレーン)として幕政を支えている。


白石は

越前が戻ってくると

家継を感慨深そうに褒めた。


「上様は幼いのに

 誠に聡明であらせられる。

 先代の上様のように

 御立派な名君になられるであろう。

 上様に相応しい高雅な御代にせねば」


「左様でござるな」

越前も熱く同意する。


越前と白石は

家宣によく似た

家継の聡明さや典雅な性質に

感動していた。


二人は、家宣が果たせなかった(まつりごと)

家継に実現させたいと

崇高な理想を掲げているのだった。



作業に戻ろうとする白石の側に

越前が神妙な面持ちで

静かに座り

懐から袱紗を取り出し

小花の飾りの簪を白石に見せた。


「白石殿

 これが、御鈴廊下近く

 座敷に落ちていたのだが」


白石は簪を手に取ると

眉間に皺を寄せた。


「若い娘の簪でござるな。

 これは由々しきことじゃ」


成人将軍であれば

中奥と大奥は厳重に隔てられ

原則将軍だけが御錠口を通れる。


しかし

家継はまだ四歳の幼児。


世話係りの奥女中が必要で

中奥で奥女中が待機している。


若い男女が

毎日のように顔を合わせれば

恋が芽生えてもおかしくはない。


成人将軍のいない江戸城は

風紀が乱れるのも時間の問題だった。


越前の美しい顏にも憂いが漂う。


「他にも

 妙な話が(それがし)の耳に入っておりまする」


越前はため息をつき

続ける。


「月光院様付の

 御年寄 江島殿一行が

 先の上様の

 月命日の増上寺代参の折

 芝居見物をして

 七つ口の門限に遅れたと聞き申した。

 それも一度ではないとの(よし)


白石は激高した。


「なんと!

 奥女中の

 城外での芝居見物は

 御法度ではないか!」


白石は

家宣が教養である

能や舟遊びをしただけでも

名君に相応しくないと進言したほどの

学問至上主義の堅物。


そんな白石にとって

法を破るなど(もって)ての外。


しかし

奥女中の

代参の折の芝居見物は

先代将軍綱吉の頃から

息抜きとして黙認されていた。


それが続いていたが

家宣の頃は

噂になるほど

頻繁に遅れたりはしなかったのだろう。


曲がったことが大嫌いな

白石が大噴火。


「先の上様、文昭院(ぶんしょういん)様がお隠れになって

 まだ一年も経っておらぬのに

 風紀の乱れようは嘆かわしいばかり!

 文昭院様が将軍の頃には

 このようなことはなかった。

 上様が幼いとはいえ

 なんという不忠義であろうか。

 このまま捨て置けば

 更に風紀が乱れるやもしれぬ!!!」



今回の白石の噴火には

正義感の塊の越前も

熱く同意した。


命を懸けて仕えていた

主君家宣と

その息子 家継の威光に

傷をつける行為を

二人が許せるはずがない。



家宣が亡くなり

月光院が将軍生母として

御殿向の部屋に移り

大奥の空気も変わっていた。


月光院付の

奥女中達は江戸の者が多く

芝居見物が人気なのだ。


月光院も江島も

江戸育ち。


京の姫が多い

熙子付奥女中達や

豊原のような将軍付き奥女中達とは

衣装は勿論のこと

息抜きや遊びの趣味が違う。


既に

大奥では京出身の奥女中達が

違和感を持ち始めていた。



越前は

大奥を束ねる熙子に

内々に進言する手筈(てはず)を整える。


家宣も正義感の塊の堅物だが

その最愛の妻 熙子も

厳格な堅物だった。



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