第98話:始動 <薫サイド>
見直しました。
ー0746―
錦駅東改札口からは左右に南北の地下通路が伸びており、正面には真っすぐの通路が地下商店街の中央を通り抜け、東出口(E3出口)に繋がっている。
東改札口の左右、つまり北地下通路と南地下通路に入ってすぐの所には、それぞれ男女のトイレが並んで設置されており、北出口(E1出口)と東出口(E3出口)の左右にも男女それぞれのトイレが設けられている。
更に南地下通路の途中、二つに分岐した所にもトイレが設置されているので、錦駅の東側にあるトイレは計五ヶ所ということになる。
ちなみに出口はE1からE7までの七ヶ所。E1は北地下通路の先、E2は地下商店街の北東の角、E3は東出口で、E4は南東の角、E5はそこから伸びた通路の先にある。
残りのE6とE7は南地下通路の二つに別れた先に、それぞれ設けられていた。
本部テントを出てしばらくすると、水草薫は北島亜紀一尉から錦駅の見取り図を渡されて、それらの通路、出口、トイレの配置を頭に叩き込むように言われた。
本部のテントが置かれた駐車場は、北地下通路に面している。但し巨大な駐車場なので、テントの所から歩くとだいぶ時間が掛かる。
「遠いですね」
「ああ、奴ら、わざと錦駅から一番離れた所にテントを張ったんだ」
「そうなんですか。私、あそこが一番涼しいからだと思ってました」
「いや、たまたまあそこが涼しかっただけだろう。あそこは出口にも近いんだ。要するに奴ら、臆病なんだよ」
つまり、テントを張った所は地下通路から最も離れていて、更に駐車場の出口に近いから、すぐに逃げられるということだ。だけど薫には、できるだけ犯人に悟られない為といった理由もあるように思えた。さっきみたいに騒いでいたら、警官が集まっているのが犯人に筒抜けだからだ。
ちなみに、この駐車場がこんなに広いのは誰もが乗用車を私有していた時代の名残りであって、最近は常にガラガラらしい。それなのにある程度の空調が効いているのは、非常にもったいない気がする。
そうこうするうちに、ようやく出口のサインが見えてきた。その下には「地下鉄錦駅・地下商店街方面」と書かれている。
今しかないと思った薫は、思い切って亜紀に訊いた。
「あの、私、今日は何をやれば……」
「前にも言ったと思うが、別に何かをしようとか思わなくて良い。ただ……」
「ただ?」
「アンテナを高くして、注意深く周囲に気を配っておくことだな」
漠然とした答えが返ってきた。
「まあ、あれだ。水草が何もしなくても良いんだったら、それはそれで良かったと思うことだ。今回は空振りだったとしても、また別の機会を探してやるさ。何も焦ることはない」
何だか良く分からない回答だが、取り敢えず薫は「はい」と返事をしておいた。
「ただ、ひとつだけ言っておくが、自分の身は自分で守れよ。もちろん、私も菜々もできるだけのことはするが、いつも一緒にいられるわけじゃないし、一緒にいても仕方がない。だから、必要だと思えば、渡してある銃を使っても良い。むしろ、使うのをためらうな。一瞬のためらいが死に繋がると肝に銘じておけ」
今度はかなり物騒なことを言われたが、やはり「はい」と答えるしかない。
すると亜紀は、ポンと薫の肩を叩いてきた。
「安心しろ。水草が命の危険を感じるようなことは、そうそう起こりゃしないさ。お前の射撃の腕は確かだ。いくら敵に遭遇した所で、お前なら撃ち負けることは、まず無い」
「でも……」
「まあ、初めてだと不安だろうが、水草なら大丈夫だろう。それに、ここは日本だ。最近は物騒になってきたとはいえ、戦場とは違う」
そう言うと亜紀はウインクをひとつ。そして、金属製の分厚い扉を手前に引いた。ギィーという耳障りな音がして、扉がゆっくりと開いて行く。
「さあ、とにかく最初は、宝探しからだ。競争だぞ」
★★★
―0753―
金属製の扉の向こうは、普通の地下通路だった。まだ八時前だというのに、思ったよりも人の数が多い。誰もが早足で薫の目の前を通り過ぎて行く。オフィース街という場所柄か、その人達の大半がスーツ姿だ。やはりこの格好は場違いだったかと、薫は密かに後悔した。
通路に出ると、亜紀は改札口の方に早足で歩き出した。薫も後に続こうとするのだが、人の流れに逆らう形なので歩きにくいことこの上ない。
それなのに亜紀は、ごく自然な歩きで、どんどんと先に行ってしまう。まるで忍者のようだと、薫は思ったのだった。
しばらく歩くと、その亜紀がさっと女子トイレの中に消えた。
なーんだ。亜紀さん、さっきからトイレを我慢してたんだね。
そう思って薫もトイレに入ってみると、亜紀は薫の方にちらっと顔を向けて、「水草、タンクの中を探せ」と言う。つまり、このトイレの中にお宝があるという訳だ。
女子トイレの中は、そこそこ混み合っていた。出勤前とあって単に用を足すだけじゃなく、髪の毛をいじったり、簡単にお化粧を直す人もいるからだ。
そんな中を亜紀は、ずかずかと奥に入って行ってしまう。すると、ちょうと個室のドアがひとつ開いたので、出て来た女性を押しのけるようにして、中にするっと入ってしまった。
後ろで待っていたオバサンが大声で、「ちょっとアンタ、待ってるってのに何、横入りしてんのよ」と喚き立てているが、たぶん、亜紀の耳には届かないだろう。
仕方がないので、薫も次に開いたドアからさっと身を滑り込ませる。急いで閉めたドアをドンドンと叩かれたが、気にしない。
亜紀に言われたとおり、重いタンクの蓋を持ち上げてみるが、何も無かった。
ハズレだ。
すぐに出ようとして、ふと汚物入れが視線の片隅に映った。しゃがんで蓋を開けると、スーパーのビニール袋に包まれた何かが奥の方に見える。
薫は、恐る恐る端っこを摘み上げる。中に入っているのは、拳くらいの大きさの「何か」だった。
プラスチック製の不気味な塊。表面はなめらかで、カプセルのような形態をしている。色はダークグレー。
薫は、卵のようだと思った。
いつ爆発するか分からない、悪魔の卵。それが卵だというのは、人に死をもたらす爆発によって悪魔の誕生を促すといった逆説的な発想である。
不思議と恐怖は感じなかった。
薫は、その物体を五秒ほど見詰めた後、個室のドアを十五センチほど押し開けて亜紀を呼んだ。
「亜紀さん、お宝、ありました」
決して大きくはないが、良く通る鈴の音のような声だ。
亜紀は隣の個室に居て、すぐに出て来てくれた。
ドアを大きく開けて、薫と入れ替わる。彼女は、汚物入れの蓋が開いていることにすぐ気付いて、その中を覗き込む。そして、ボソッと「大当たりだな」と呟いた。
周囲の人達が何事かと騒ぎ始めたのを余所に、亜紀は薫に言った。
「水草、お前はすぐに近くの警官を呼んで来い。あっ、その後は、ここに戻って来なくて良いからな。急げ」
薫が慌てて外に向かうと同時に、亜紀が大声を張り上げた。
「皆さ-ん、すぐに外に出て下さ-い。爆発物らしき物が見付かりましたー」
その声を背中で聞きながら、薫は桃色ワンピの裾を大きく翻し、改札口の方に駆け出した。
★★★
―0800―
『ただいま東改札口を閉鎖しております。お客様には大変ご迷惑をおかけ致しますが、西側の改札口の方にお回り下さいますようお願い致します。繰り返します。ただいま……』
改札口に着いた薫の耳に、アナウンスが届いていた。薫は資料を見ているし、事前のミーティングでも知らされていたことなので、別に驚きは無い。
問題は、目の前の改札付近の警官達が全員、忙しく動き回っていて、誰に話し掛けたら良いのか分からないことだった。
ところが、その場に来てみると、そんな心配は全く必要無かった。すぐに薫は、警官達に捕まってしまったからだ。
「君、今から、地下鉄のホームに行くところかな?」
「ごめんね。今日はこっちの改札は使えないんだ」
「ほら、お姉さんの誘導に従って、あっちの東出口の方に向かってくれるかな」
どの警官も薫が朝、挨拶したことなんて、ほんのひと欠片も頭に残っていないようだった。
あんだけ目立っていた筈なのに、もう忘れちゃうなんてひどい。
薫が頭の中でそう思っていると、「君、保護者の方は一緒じゃないの?」と言ってくる人までいた。その人は、「仕方がないなあ。誰か女性警官に案内させるから、そこで待ってて」と言い残して、どっかに行ってしまった。
薫が、「あの、トイレで爆弾が……」と言い掛けても、アナウンスの音が大きくて彼らの耳には届かないようだ。それに、ここは人通りが多過ぎて、立ち止まっていることすら難しい。アナウンスの影響もあってか騒然としていて、誰もが慌ただしく動いている。
そうこうするうちに、二人の若い女性警官がやって来て、そのうちの一人に腕を掴まれてしまった。
「ほら、こっちに……」
「あの、私……」
「だから、さっさと歩いて……」
「私、軍のものですけど」
「えっ、軍って……」
「何のことかなあ。お姉さん達、忙しいんだけど……」
何を話そうにも、周囲が煩くて相手に届かない。女性警官達は薫の両脇をしっかり固めていて、何が何でも薫を東出口の方に連れて行こうとしている。
マズいと思った薫は、大声を張り上げた。
「もう、いい加減にしてくださーいっ。私、今朝、挨拶した水草ですっ。北島一尉の部下の水草准尉です」
亜紀の名前を出した途端、薫の腕を掴んでいた長身の女性警官が反応した。立ち止まって、薫の顔をしげしげと見詰めてくる。最初は不思議そうにしていた反対側の小柄な女性警官も、すぐに気付いてくれたようだった。
「そう言えば、その桃色のワンピース……」
「美鈴さん、ほら、朝のミーティング」
「あ、春菜ちゃん、思い出した」
「それより、爆弾らしき物が見付かったんです。すぐそこの女子トイレの中。至急、無線で近くにいる巡回班に連絡を取ってもらえません……」
薫が最後まで言い終わらないうちに、長身の女性警官が無線機に向かって、大声で喋り始めていた。彼女の音声はほとんどの警官に届いていたようで、近くにいた警官達が問題のトイレの方に走って行く。
改札口の手前まで戻って、さっき迄薫がいたトイレの方を見てみると、前には無かった橙色のカラーコーンが三つ、通路を閉鎖する形で置かれていて、そこに警官が二人立っていた。そして、男子用も含めて、トイレの入口にも警官が立っている所からすると、どちらのトイレも使えなくしたようだ。
亜紀の姿が見えないということは、まだ中にいるんだろうか?
まあ、いいや。
そっちは、亜紀さんと警官達に任せておけばいい。
薫は、反対側の方に目を向けた。そっちの南側地下通路の入口も橙色のカラーコーンが置かれ、閉鎖されていることが見て取れた。
薫は、その場で一度、大きく深呼吸をしてから、そっち側のトイレを確認すべく歩き出したのだった。
★★★
―0803―
薫が向かったのは、改札口を挟んで反対側にあるトイレだった。ところが、南側地下通路の入口に置かれたカラーコーンに近付いただけで、そこにいた警官二人が寄って来てしまった。しかも、さっきまで薫に声を掛けてきていた警官達と比べて、かなり柄が悪い。『まるで、天王シネマの前で良く見掛けるチンピラみたい』と薫は思った。
目付きが悪く、頬と口元がだらしなくにやけている。髪の毛なんかは淡い茶色で、一人はツンツンと上に尖っていて、もう一人は後ろで束ねていた。そして、どちらも耳にはピアス。あ、髪ツンツンの方は、華にもピアスだ。
薫がはっきりと「軍の水草ですが」と言っても、全く聞く耳を持たない様子。彼らもまた、今朝のミーティングのことは、覚えていないんだろうか? だとしたら、相当に頭が悪い輩に違いない。
そして彼らは、口調も横柄だった。
「えっ、何? 俺ら、忙しいんだけどー」
「そうそう。お前みたいな子供の相手してる暇ないわけ」
「分かったら、さっさとあっち行きな」
「ほら、しっしっ」
「きゃっ」
ムッときた薫が口を尖らせて抗議しようとしたら、髪ツンツンの方が前に出て来て、薫の二の腕をギュッと掴んだ。そのまま改札の方に引き摺って行こうとするので、薫は彼のむこうずねを思いっ切り蹴ってやった。
「痛ってえ。何しやがる」
「うるっさーい。先に暴力ふるってきたの、あんたじゃない」
「腕、掴んだだけで、暴力じゃねえだろ」
「りっぱな暴力でしょうが」
薫は、冷ややかな目で睨み付けてやる。
「お、おめえ、俺を舐めとるんか?」
「それよりもよ、公務執行妨害の現行犯で逮捕してやろうか?」
今度は長髪の方の警官が、にやけた顔で近寄って来る。彼の手には、何やら気になる物が握られていた。
「何それ」
「手錠だよ……えっ?」
長髪が持つ手錠に薫が目を留めた時、後ろには髪ツンツンが回り込んでいた。そいつが羽交い絞めにしようと手を伸ばしてきた瞬間、サッと振り返った薫は、思いっ切り髪ツンツンに回し蹴りを叩き込む。
その場に崩れ落ちた同僚に長髪が困惑した顔を向けた時、二人から充分な距離を取った薫の手には、銀色の拳銃が握られていた。
それに気付いた長髪の警官が、震える声で「こ、こら、何のつもりだ」と叫んだ。
「お前、まさか、犯人じゃねえだろうな?」
薫は無言のままウエストポーチに片手を突っ込むと、そこから軍の身分証を取り出して彼の前にそれをかざした。
ところが、その警官はそれを見ようともせず、ただ震えているだけだ。
彼の足下で蹲っていた髪ツンツンの警官が、腹を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
「軍の水草薫准尉です。今朝のミーティングで挨拶した筈ですが、お忘れですか?」
薫が拳銃を下に降ろすと、彼らは首を激しく左右に動かした後、ハッと我に返った様子で素早く敬礼した。
「大変失礼なことをしてしまい、申し訳ございませんでしたっ!」
「申し訳ありませんでしたっ!」
「あの、通って良いですか?」
「も、もちろんであります。どうぞ、お通り下さい」
薫は大げさな仕草で掴まれた腕をさすりながら、通路に三つ置かれたカラーコーンの隙間を大股で通り抜けて行った。
★★★
-0805-
そこの女子トイレの前には、見知った顔の女の子が立っていた。茶髪で赤いデニムのホットパンツにピンクのタンクトップ。足元は白の厚底スニーカー。薫と同じで、腰にウエストポーチを巻いている。
もちろん、星野菜々曹長である。
「水草さん、大変お疲れさまでした」
彼女はニヤニヤしながら、薫の顔をじろじろ見てくる。どうやら、さっきの警官達とのいざこざを見られていたようだ。
ちょっとムッとした薫だったが、思い直して話し掛けた。
「あの、あっちのトイレで爆弾が……」
「あ、それなら知ってるよ」
星野は腰に巻いたポーチから無線機をちらっと覗かせて、薫に見せてくれる。
「それより、犯人らしき男が、この中にいるみたいなんだ。たぶん、ここはボクだけで大丈夫だから、水草さんは、あっちのトイレを見に行ってもらえる?」
くだけた口調だったけど、目は真剣だった。きっと、薫がいると足手まといなんだろうと判断した薫は、「はい」と素直に返事をする。
星野は、「そっちのトイレにも犯人がいる可能性があるから、充分に注意してね」と言って見送ってくれた。
星野菜々と別れた後、最初は早歩きだったが、まもなく小走りに切り替えた。何故走っているのかは、自分でも分からない。いや、たぶんだが、薫には予感があったのだ。
何処かに仕掛けられた爆弾が、まもなく爆発する。だから、一刻も早くそれを見付けないといけない。
本当は彼女が見付けた所で、時限爆弾の起爆装置を解除しない限り爆発は起きてしまうのだが、そこまでは頭が回らなかった。
やがて通路が分岐している所にある女子トイレに飛び込んだ薫は、四つある個室の中を大急ぎで確認していった。確認ポイントはタンクの中と汚物入れの二ヶ所、そして掃除道具が仕舞われている所……、何処にも爆弾らしき物は無い。
「良かった」
薫が小さく呟いた時だった。腹に響く爆発音と共に床が少し揺れた。
すぐに薫は、ちょうど二週間前の海の日、夕方に天王市の駅前で起きたコンビニ爆破事件のことを思い出した。
あの時と同じだ。つまり、近くで爆発が起こったということだ。何処かのトイレに仕掛けられていて、誰も見付けてなかった爆弾が爆発したに違いない。
この短い間に二回も爆破事件に遭遇するなんて、私は何て運が良いんだろうか?
いや、これって、運が良いって言わなくない?
薫は強く頭を横に振って、変な所に行ってしまった思考を振り払う。そして、大きく深呼吸をした。
★★★
―0810―
それから水草薫の頭に浮かんだのは、北島亜紀と星野菜々の安否だった。二人とも、まだトイレの付近にいる可能性が高いからだ。
しかし薫は少し考えて、どちらの可能性も否定した。
方角的には、合っている。でも、爆発が起こったのは、もっとずっと遠くだ。とすると、北出口のトイレ辺りだろうか?
スマホの時刻表示を見ると、八時十分。犯人は、この時刻にタイマーをセットしたんだろう。
次は、何処だろうか? 時間は?
いや、ここで、そういったことは考えない方が良い。次の瞬間には、隣の男子トイレで爆発が起きる可能性だってあるんだ。予測がハズレだった時のリスクが大き過ぎる。
薫は、静かに出口まで移動した。そこから少しだけ顔を出して、外の様子を確認する。
「……あれ?」
慌てて顔を引っ込めた。
男子トイレの方でも、誰かがそっと外を覗いていたのだ。運良く薫の方は向いておらず、気付かれなかったのは幸いだった。
この時間に男子トイレにいて、しかも外を伺っていた。普通の人だったら、絶対にそんなことはしない。ということは……。
犯人が隣にいるとすると、今の所、ここは安全だろう。ただし、そいつが出た後がヤバい。
薫は、高速で頭を回転させた。
男子トイレにいるということは、恐らく男だろう。彼が男子トイレを出たら、背中から撃つか?
いや、犯人が必ずしも一人とは限らない。
更に少しだけ考えて、薫は外に出ることにした。
外にいた方が逃げられる選択肢が増えると感じたからだが、もちろん確信があるわけではない。
もうひとつの選択肢は、亜紀に連絡して指示を仰ぐことだが、それはちょっと違う気がした。一瞬、メールすることも考えたが、その僅かな時間で事態が動く可能性だってある。
再び少しだけ顔を出して、男子トイレの方を伺う。さっきの男は中に引っ込んでしまったのか、今は何の気配もない。
それでも、いつまた顔を覗かせるか分からない。
薫は静かにトイレから出ると、一気に分岐の方まで走った。足元が履きなれたスニーカーで本当に良かった。パンプスとかだったらと思うと、冷や汗が出る。
分岐から少し離れた辺りまで行って、いったん立ち止まった。そして、できるだけ隅に寄って、適当な所にしゃがみ込む。少し考えてから、コンクリートの床にハンカチを敷いた。そして、そこにお尻を下ろした途端、薫は言い知れぬ不安に襲われた。
ドキドキと高鳴る胸の鼓動を必死に抑えながら、薫は無意識のうちに右手をポケットの中に忍ばせた。そこにある硬い物体に触れると、波だった心がすーっと穏やかになった。今まで味わったことのない不思議な感覚だ。
薫は軽く深呼吸すると、改めて男子トイレの方に顔を向けて、その入口に鋭い視線を送った。
実は、怯えた薫がコンクリートの床にしゃがみ込む場所を見定めていたタイミングで、それまで彼女がいた女子トイレに彼女の良く知る人物が駆け込んだのだが、何の因果か、それに彼女が気付くことはなかった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
もう一話だけ、薫視点での事件の話が続きます。
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