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第88話:莉子と喫茶店 <翔サイド>

見直しました。


天王市の街中まちなかの映画館、「天王シネマ」を出た藤田(かける)と桜木莉子(りこ)は、たった今観た映画の感想を言い合いながら細い路地を歩いていた。

向かっているのは、高校の頃から翔が仲間達と良く通っていた懐かしい喫茶店、「喫茶ビクトリア」。場所は、天王通り沿いの駅から少し離れた所だ。

その時の翔は、『もし、そこがもう無くなっていたとしても、天王通りだったら何か適当な店があるだろう』と考えたのだった。


未だに興奮冷め止まぬ様子の莉子と違い、翔の方は既にそれほど映画のことは頭に無かった。だから、感想を言い合っているとは言っても、ほとんど莉子だけが一方的に話していて、翔が時々相槌を打ったり、簡単なコメントを挟んだりする感じだった。

というのは、今二人が歩いている所が、天王市の中でも「治安が悪い」とされている地区であるからだ。実際、周囲の様子は、翔が思っていた以上に荒れている。それが彼には不気味であり、さっきから自然と気を張っている理由でもあった。


名古屋の名駅めいえきから天王シネマに来た時は、セルフのタクシーを使った。それは電車と歩きでは映画の開演時間に間に合わなかったからでもあるが、この地区の治安を警戒したのも理由のひとつである。

その際、自分のウェアラブル端末で天王シネマのサイトを見て調べたのだが、来場者のコメントを見ても、『昼間だったら大丈夫』だとか、『危険だって聞いてたけど、割と普通だった』といったものばかりだった。だけど、映画館側の説明には、『念の為、タクシーを使われた方が安全です』とあったのだ。

それで翔はタクシーを使った訳だが、やはり映画館側の説明は、随分と控え目だったようだ。たぶん映画館側としては、「客は呼び込みたいけど、その客が犯罪に巻き込まれても困る」という二律背反した命題の最善解として、そういう表現を使ったんだろう。つまり、「一応は、警告しましたよ」といった体裁を取りたかった訳だ。だけど、本当であれば、「タクシーで来ないと危ないよ」と書くべき所だったのだ。


考えてみれば、来場者のコメントとはいえ映画館側が取捨選択して掲載している訳だから、彼らに都合の悪いコメントなどある筈がない。急いでいたせいもあるが、映画館のサイトだけを見て判った気になってしまったことに問題がある。

だけど、タクシーの中だって時間はあった筈だ。ああ、そこで何で手を抜いてしまったんだろう。その時、もう一度ちゃんと調べておけば、こんなことにならなかったんじゃないか……。


莉子の映画の感想を適当に受け流しながら、そんな今更なことを翔は頭の片隅で反芻していた。

要するに翔は、さっきの自分の迂闊な判断を強く後悔していたのだった。



★★★



日曜日の午後ということもあり、あんな古い映画館でも八割方の席が埋まっていた。そして、エンドロールが流れ始めて少し経つと、彼らは次々と外に向かって行く。

だけど館内に照明が戻っても、すぐに莉子は席を立とうとはしなかった。映画の公判から、ずっと彼女は大泣きだったからである。

それでも何とか莉子を宥めすかせて劇場の外に出た翔は、その後、彼女を化粧室に向かわせた。


その時点で、既に客はまばらになっていた。そんな人達の様子をぼんやりと眺めながら、翔は莉子を待っていた。

今思えば、その時にセルフのタクシーを呼んでおけば良かったのだ。だけど、帰って行く客の大半が駅の方角へ歩いて行ったこともあって、翔はタクシーを呼ぶのを躊躇ためらってしまった。

たぶん彼らは同公社が大勢いたから、徒歩でも大丈夫だと考えたんだろう。それでも、タクシーに乗り込んだ客は何組かあった。今思うと、莉子のような若い女性連れの客は、たいていタクシーを使っていた気がする。


翔がタクシーを呼ばなかった理由は、他にもある。

ひとつは、距離の問題だ。この後、翔が莉子を連れて行こうと思っている天応通りの喫茶店までは、普通に歩いて十分じゅっぷんと掛からない距離だ。莉子の足でゆっくり歩いても、十五分は掛からないだろう。

一方、日曜の午後は、セルフのタクシーが捕まりにくい時間だ。つまり、待っている間に間違いなく目的地に着いてしまう。


もうひとつは、もっと単純な話だ。

この辺りが、ここまで危険だと言われるようになったのは、今から十年くらい前の翔が高校生になった頃からだ。つまり、中学の時は普通に遊んでいた場所だった訳だ。

翔の家からだって、それほど距離はない。だから翔が、つい昔の感覚で割と気軽に足を踏み入れてしまったとしても、ある程度は仕方のないことなのである。


ともあれ、化粧室から莉子が戻って来た時、それまで泣いていた莉子は、逆にハイテンションで翔に話し掛けてきた。当然、それは今見た映画の感想だ。

昨日から莉子はテンション高めではあったのだが、この時の莉子の状態は、翔が初めて遭遇するものだった。翔は、彼女が発するマシンガントークを必死に躱しながら、気付かないうちに天王シネマから足を踏み出していた。

そうして彼は、豹変した莉子の迫力に押される形で、こんな言葉を口にしてしまったのだ。


「なあ、莉子。取り敢えず、歩きながら話さないか?」


もちろん、この時の翔は、自分達が今いる場所が例の治安が良くない地区だといったことなど、完全に頭から抜け落ちていた。

そのことに彼が気付いたのは、適当な所で横道に入り、天王シネマの建物が見えなくなってからのことだった。


街の様子が、何処どこか変だ。

それは翔が天王シネマに着いた時から、ある程度は感じてはいたことなのだが、こうして実際に歩いてみて、初めて感じられることだってあるのだ。


翔は莉子の話を適当に受け流しながら、必死に頭を働かせた。そして、何気なく莉子をかしつつ、周囲に目を走らせる。


路地の両側には、古いアパートとか小さな木造住宅が密集している。一見すると昔と同じに見えるのだが、気を付けて診れば、人が住んでなさそうな家が大半だ。中には窓ガラスが割れて居たり、壁の漆喰が剥がれた家とかもある。

昔の商店は全てシャッターが下りたままで、既に看板は無くなっていた。道の隅にはゴミが散乱していて、腐敗衆が漂っている。黒いカラスがやたらと目に付く辺りも、翔には不気味に感じられた。


翔は、焦り始めていた。

心情的には引き返したい所だが、それはそれで問題がありそうだ。ここを何とか突っ切って、早く天王通りに出た方が現実的だろう。


天王シネマの周辺には相変わらず人気ひとけが無くて、去って行く子供達の後ろ姿を見ただけだった。でも、この路地に入ってからは、ちらほらと人の姿を見掛けるようになった。そして、そうした人達の格好が、明らかにおかしい。

見るからに汚いボロを纏っている。身体からだも何となく不潔だし、実際に匂いだってする。男女共に髪の毛もぼさぼさで、女性は化粧をしていない。その上、目が虚ろで生気が感じられない。まるで亡霊のような佇まいの人もいる。

そうかと思うと、やたらとギラギラした目付きで、こっちを睨み付けてくる女がいたりする。それから、莉子の身体を舐めるように見詰める中年男。その隣の若い男は、莉子のイヤリングを見ている。その隣の女が見ているのは、莉子の指輪のようだ。翔は、慌てて莉子の左手を握り込んだ。


「どうしたの、翔さん?」

「良いから、いそごう」


そう言って翔が更に足を速めた時だった。前方から一人の女の子が近付いて来た。彼女は薄汚れたワンピース姿で、歳は小学校に上がる前。そして、裸足はだしだった。


「お姉ちゃん、お金ちょうだい」


そう言って差し出された小さな手。

その場で足を止めた莉子は、一瞬、困惑した表情を顔に浮かべた後、ポケットから口臭防止用のドロップ飴を出して彼女に差し出した。


「ごめんね。お姉ちゃん、現金は持ってないの」


莉子がその言葉を最後まで言い終える前に、女の子は莉子の手からドロップ飴をひったくるように取って、その場から走り去っていた。


代わりに、ぞろぞろと別の子供達が集まって来る気配がする。


「逃げよう」


翔は、すぐに莉子の手を取って引っ張った。彼女は、一瞬だけとまどいの表情を浮かべたものの、ようやく周囲の異様さに気付いたのか、何とか走り出してくれた。

その莉子は、意外と速かった。彼女はワンピースにも関わらず、全力で走ってくれた。帽子が飛ばないように、空いた方の手で頭を押さえながらも一生懸命に足を動かして、ちゃんと翔のスピードに合わせてくれる。

最初の角を曲がって、少し太い道に出る。そこには、いかつい男達がたむろしていたが、構わず走り抜ける。後ろの方で野太い怒鳴り声がしたけど、振り向きはしなかった。


気が付くと、天王通りに出ていた。


実際に走った距離は、たぶん百五十メートルくらいだろう。それでも日頃の運動不足が祟ってか、翔は膝に手を付いて、ぜーぜーと息を荒げていた。そうしているうちに、全身から汗が噴き出てくる。

一方の莉子はというと、翔ほどではない。それでも、さっき翔に貸してくれたハンカチで、しきりに汗を拭っていた。


翔は尚も息を整えながら、こないだ親友の松永陽輝(はるき)が口にした言葉を思い返していた。


『翔、知ってるか、戦場で一番怖いのはなんだと思う?』


あの時、陽輝は翔にこんな風に訊いたのだ。

その答えは、「子供達」だった。


子供は人の死がよく分かっていない。だから、罪悪感なしに気軽に人が殺せてしまう。

確か、そんなようなことを陽輝は言った。


人を殺しちゃいけないってことは、誰かに教えられて知ることだ。もし、誰からも教えられることがなければ、平気で人を殺せるようになる。


果たして、それは本当なんだろうか?


キリスト教の聖書には「汝、殺すことなかれ」と書いてある。確か、モーゼの十戒じっかいのひとつだった筈だ。

でも、それって、本能なんじゃないのか?

人が生まれつき持っている本能……。


「どうしたの、翔さん?」


ぼんやり立ち尽くす翔を心配して、莉子が声を掛けてきた。


「あっ、ごめん。早く涼しい所に行こうか?」


サッと気持ちを切り替えた翔が、莉子に歩くように促す。莉子は少し怪訝な表情だったが、それでも元気に「はい」と答えてくれた。



★★★



その喫茶店、「喫茶ビクトリア」に入った途端、莉子が歓声を上げた。


「うわあ、涼しい。生き返った感じがする」


更に莉子は、ガラスケースにずらりと並ぶ色とりどりのケーキに目をやると、二度目の歓声を上げた。


「うわあ、ケーキがいっぱいだあ」


それは、無邪気な子供のような喜びようだった。


この喫茶店はケーキ屋を兼ねていて、ケーキの豊富なバラエティとリーズナブルな価格設定が売りである。そして、翔の高校時代、剣道部の仲間達と良く訪れた店だ。

特に女子の人気が高くて、お好み焼き屋に行きたがる男子との間で、いつも言い争いになっていた。それでいて、不思議と誰も別々の行動を取りたがらないので、その口論はなかなか収まらない。最後は、部長の松永陽輝(はるき)と副部長の山口沙希のじゃんけんで決まるのが常だった。


係の人に案内されたのは、大きな熱帯魚の水槽が隣にある席だった。ここは、剣道部の女子達が競って座りたがった所だ。小さな熱帯魚を眺めながら大好きなケーキを頬張るのが、彼女達のお気に入りだったのだ。


翔は、各テーブルに設置されている注文用のタブレット端末を手に取ると、それを莉子の前に差し出して、ざっとメニューを見せながら説明して行く。オーダーは、お決まりのケーキセット一択で、二人とも飲み物はアイスコーヒーにした。だけど、案の定、どのケーキにするかが決められない。つまり、それだけ選択肢が多いということだ。

あらかじめケーキをシェアすることは決めていて、翔はケーキの選択権を二つとも莉子に委ねたのだが、ケーキのバラエティがあり過ぎて絞り込めないようだった。

翔は莉子に「ゆっくり決めれば良いからね」と言った後、あれこれ悩む莉子を見守りながら、高校時代のことを思い出していた。


翔の周りには、いつも女子が群がっていた。と言っても、隣の席は水草薫みずくさかおると決まっているので、四人テーブルの前の席二つを巡っての争奪戦となる。

別に翔が女子にモテたという訳ではない。彼女達は皆、翔の家が裕福なのを知っていて、彼にケーキをたかる為なのだ。つまり彼女達は、通常のケーキセットでは飽き足らず、追加のケーキを翔におねだりするのである。


同期だと小島紀香(のりか)と橋本美侑(みゆ)。ひとつ下の後輩だと小山瑠々(りり)高瀬眞帆たかせまほがお決まりのメンバーで、そこに同期の松尾希美(のぞみ)、ひとつ下の真野桃香が時々絡んでくる。だけど、松尾希美は体力が無くて部活を休みがちだったのと、桃香は生徒会役員でもあったから、いないことの方が多かった。

あ、そう言えば、桃香は桜木物産に就職したんじゃなかったか? と言っても、莉子は知らないだろうけど……。


散々悩んだ莉子が選んだのは、モンブランとザッハートルテ。どちらも、昔の剣道部女子達が大好きだったメニューだ。莉子はイチゴのショートケーキとで悩んでいて、翔は三つでも良いと言ったのだが、莉子の方が拒んだのだ。


「駄目よ。ケーキ二個も食べたら、太っちゃうじゃない」

「大丈夫だよ。莉子は痩せてる方なんだから」

「もう、そんな風に甘やかさないで頂戴。せめて、ウエディングドレスを着る時までは、今より太りたくないの」


そんなやりとりの間、翔の頭に浮かんだのは、当時の剣道部女子達が、いつもケーキ二つを当たり前のように腹に納めていたことだった。

もっとも、水草薫だけは、ケーキは一個と決めていたようで、翔が勧めても毎回断ってきた。ある意味、とても頑固な女だったのである。


「もう、またぼんやりしてる」

「あ、ごめん」

「どうせ、また元カノさんのこと、思い出してたんでしょう?」

「いやいや、同じ部活の女の子達とは、良く来てたけど……」

「うわあ、やっぱりモテモテだったんじゃない」

「違うよ。あいつら、俺からケーキをたかろうとしてただけだから」

「それ、絶対に違うから。いくら奢られたって、嫌いな男子と一緒のテーブルでケーキなんか食べないものよ」

「そうかなあ?」

「もう、翔さんって、鈍すぎ」


呆れ顔でいる莉子を見た翔は、何げなく「莉子だって、高校時代はモテたんじゃないのか」と口にしてしまう。でも、それは彼女にとって禁句だったようで、彼女は悲しげに顔を伏せてしまった。


「もう、翔さんの意地悪。私、中学から大学までずーっと女子校で、全然モテたりしなかったんだから」


それでも、まだ自分が触れてはいけない領域に踏み込んだことに気付いていない翔は、思ったままを口にした。


「いやあ、莉子がモテないわけないと思うんだけどなあ。普通に街を歩いてたって、男が放っておかないだろう」


すると莉子は、まるで虐められた子猫のように反論してきた。


「私、見た目が地味だから、本当にモテたことなんて無いよ。友達と一緒の時は、友達の方に男子の目が行っちゃうんだもの。それに、一人の時に街で声とか掛けられたら、普通は逃げるでしょう? 翔さんは、私がどういう女だと思ってるの?」


最後にキッと睨まれて、やっと翔は自分の失言に気が付いた。


「ご、ごめん」


翔が謝っても、莉子はまだ膨れたままだ。『さて、どうやって取り繕うか?』と翔が頭を悩ませていると、タイミング良くウェイトレスが、注文したケーキとアイスコーヒーをトレイに乗せて持って来てくれた。翔は思わずそのウェイトレスに、『グッジョブ』と胸の中で叫んでしまった。


約束どおり、ケーキは莉子と半分ずつ分ける。少々莉子に多めにしたけど、そこまで莉子は指摘してこようとはしなかった。

そして、幸せそうにケーキを口に頬張る莉子を見た翔は、ひとまずホッと胸を撫で下ろしたのだった。



★★★



ケーキを食べ終えた後の二人の話題は、ごく自然にさっきの映画のことになった。

莉子は、映画が終わった時の興奮をまた思い出したようで、その思いの丈をストレートにぶつけてくる。


「翔さん、私、今日の映画を観て思ったの。愛する人の為に戦うってストーリー、やっぱり良いなあって。主人公の親友のジムって、自分の恋が報われないって分かってても、命を賭けて敵に立ち向かって行く訳じゃない。私、ジーンと身体からだが痺れちゃった」


ジムというのは、莉子がお気に入りの黒人俳優の役である。翔の感想としても、あの映画の主人公は、むしろ彼なんじゃないかと思っていた。


「確かに、あの辺りの演出は素晴らしかったとは思うんだけど……」

「でしょう。やっぱり、良いよねえ。愛する人の為に戦うって話……」


莉子の興奮は別に分からなくもないけど、翔としては「『愛する人の為に戦う』って、いったい何なんだ」と思ってしまう。それって、軍のCMのキャッチコピーそのままじゃないか?

高校時代の友人である服部圭介はっとりけいすけのあんな姿を見た後だけに、どうしても翔は、「戦う」という行為を美徳として捉えられない。戦争に行って戦うという行為自体に、何か胡散臭いものを感じてしまうのだ。

だけど、さっき莉子を怒らせてしまったばっかりだし……。


翔は迷っていた。それで彼があいまいに頷くと、それを同意と取った莉子は、更に話を続けようとする。


「女の子だって、おんなじだよ。好きな人の為だったら、私だって必死に戦うと思うもの……」


はにかんで笑う莉子には悪気が無いだけに、翔は余計に憤りを感じてしまう。

翔は、目の前のアイスコーヒーを一気に半分くらい飲むと、思い切って口を挟んだ。


「莉子が言ってるのって、戦場でってこと?」


一応、念の為に確認しておく。話の流れからすればそうなんだろうけど、戦いの場は戦場だけとは限らない。

翔の質問に、莉子は一瞬きょとんとした後で、「そうだけど」と返してきた。


「あのさあ、本当の戦場って、そんな綺麗事が通用するような所じゃないと思うんだ。ほら、さっきの映画の冒頭にあった残酷なシーン。あれが現実の戦場なんじゃないかなあ……」


翔は、そう言った後で焦っていた。思いがけず棘のある言葉が口から出てしまったからだ。

そして案の定、莉子は固まっていた。ついさっき、気まずくなったばかりなのに……。


「ごめん。ちょっと言い過ぎた」


咄嗟に頭を下げた翔だったが、その後で莉子から返って来たのは、彼にとって全く予想外な言葉だった。


「あの、冒頭に戦場のシーンなんか無かったと思うんだけど……。入隊して戦場に着く迄のコミカルなエピソードだけだったよ」


今度は、翔の方が固まる番だった。

「だって……」と言い掛けた翔を遮って、莉子が言った。


「分かったわ。翔さん、最初の所で気分悪そうだったもの。3D映画って疲れてたりすると、まれに幻覚とか見ることがあるっていうから、きっとそれだと思う」


それにしては、リアル過ぎる体験だった。そんな幻覚を見るほどに、俺は疲れていたんだろうか?


翔が困惑して視線を彷徨さまよわせると、隣の熱帯魚の水槽が目に入った。カラフルなグッピーやネオンテールが群れをなして泳いでいる。

そんな魚達に癒されて少し冷静になった翔は、もう少しちゃんと話すことにした。


「実は、高校の部活の仲間で軍に入った奴がいてさ、そいつがこないだ両足を無くして戻って来たんだ。そいつ、地雷を踏んじゃったらしくて……、まあ、生きてたってだけでもおんの字なんだろうけどな」


莉子の息を飲む音がした。再び固まってしまった莉子を見て、やっぱり言わなきゃ良かったと後悔した翔だったが、気が付くと更に言葉を重ねていた。


「それにさ、同じ部活の仲間で一緒に見舞いに行ったうちの一人が、もうすぐ軍に入隊するんだ」


莉子は、何かを考え込んでいるようだった。

翔は、話を続けた。


「だけど、別に『愛する人の為に戦う』とかじゃないよ。そいつ、大学に行く為に借りてた奨学金が返せなくなっちゃった上に、家にも借金があるみたいでさ。歳が離れた妹もいて、どうしても金が必要なんだってさ」


莉子の視線が、さっき翔が見ていた熱帯魚の水槽に向いていた。

しばらく黙り込んでいた莉子は、翔から目を逸したまま、ゆっくりと話し出した。


「そうだったんだ。あの、さっきは興奮して、はしゃいだりしてごめんなさい。私、翔さんが何で戦場の幻覚を見たのか、分かった気がする。友達とかにそういう人がいたら、誰だって色々と考えちゃうよね」


途中から莉子の視線は、翔の方に戻ってきた。


「……それにね、友達のそんな姿を見ていながら、今度は自分が戦場に行かなきゃいけない人の気持ちも、きっと複雑なんだろうと思う」


莉子の真摯な言葉に、翔は苦笑いしてしまった。

翔にとって、圭介と薫のことがショックだったのは確かだ。でも、莉子が言った程、自分は二人のことを真剣に考えていただろうか?

だけど、気が付くと口が動いていた。


「そうだよな。俺もそいつらに何て言っていいか、実は良く分かんなくてさ」

「私も分からない。そういうのって、難しいよね。でも、男の人どうしなら、何か分かり合える方法がある気がする……あ、女の私が分かる訳ないのに、勝手な想像でいい加減なこと言っちゃって、ごめんなさい」


軍に入るのが男だと、莉子は思ったようだった。

まあ、話の流れからして、そう誤解されてもしょうがないだろう。

だけど当然、翔には、それが男じゃないと訂正するつもりはない。莉子に変な誤解をされたくないからだ。


しかし、翔がそう思った矢先、すぐ後ろから聞き慣れた声がした。

その声を聞いた途端、翔は身体からスーッと血の気が引いていく気がしたのだった。



★★★



翔は、即座に『しまった』と思い、自分の浅はかな判断を後悔したのだが、全ては後の祭りだった。

少し考えれば、こうなってもおかしくないと容易に判る筈だったのだ。翔が良く知っている店ということは、彼女達もまた良く使う店なのだから……。


「見ーちゃった。この子、藤田くんの新しい彼女かい?」


最初に声を掛けてきたのは、水瀬美緒みなせみおだった。その隣には、山口沙希(さき)が怖い顔で翔を睨み付けている。

ところが、更に翔がギョッとする相手が、彼女達のすぐ後ろに立っていたのだ。


「ふーん、翔くん。可愛い彼女さんじゃない」


鈴ののように澄んだ綺麗な声。だけど、普段より半音低い声だった。その彼女の声を聞いた瞬間、翔はサーっと青ざめた。

その彼女は、人並み外れて整った無表情な顔で、じーっと翔の顔を見詰めてくる。今の彼女の表情からは、翔ですら何も読み取ることができない。

長い黒髪に、日本人離れした白い肌。一重ひとえだけど大きくて綺麗な目。偶然、薄暗い蔵の奥で見付けてしまった日本人形のように不気味な彼女こそ、翔の元カノ、水草薫みずくさかおるだった。


「良かったね。安心したよ」


全く抑揚のない声で言われても、恐怖しか感じられない。

それでも翔は、薫を含めた三人に桜木莉子を紹介した。もちろん、同じ七星ななぼし商事の同僚としてだが、かなりぎこちない口調になってしまったのは否めない。


「名古屋支社の子ってことは、知り合ってたった二週間でこういう関係になっちゃうんだ。へえ、藤田もニューヨークに行って、随分と変わったもんだねえ」


水瀬美緒は、皮肉っぽい口調だった。翔と莉子が特別な関係であることは、既に決定事項のようだ。

翔が言ったことは、全く通じていない。何故だろうと思って、ふと莉子の方を見た時、彼女の薬指にあるダイヤの婚約指輪が目に留まった。

翔は、その場で頭を抱えたくなった。


すると、その美緒と沙希が二人で、何やら目配せをしている。そうかと思うと、美緒がさっと莉子の前に立って自己紹介を始めた。


「初めまして、水瀬美緒と申します。今はスナックで働いていて、藤田くんとは高校の時からの知り合いです。と言っても、あたしは別の高校なんだけどね。あ、この二人は藤田と同じ高校だよ。沙希、自分で言いな」


沙希がやっと翔から目を逸らして、ぶっきらぼうに口を開いた。


「私は山口沙希。こいつとは中学から一緒だけど、親しくなったのは高校時代の剣道部の時からだね。仕事は、えーと、一応まだ小学校の英語教師かな」


翔は『一応って何だよ』とツッコミたい所だったが、我慢することにした。


最後は薫の番だったが、その前に莉子が「ちょっと、ごめんなさい」と翔に断って、化粧室の方に行ってしまった。

困惑している翔に、美緒が冷たく言い放った。


「それじゃあ、話してもらいましょうかね」


翔たちが座っていたテーブルが四人掛けだったこともあり、三人は躊躇ためらいなく席に着く。正面が水瀬美緒で、その隣が沙希、翔の隣に薫が座った。

まるで、警察の尋問のようだった。

沙希が、斜め前から鋭い眼光で睨み付けている。唯一助けてくれそうな薫は、完全な無表情。そうこうするうちに、正面の美緒がニヤニヤと笑いながら、最初の質問を口にした。


「じゃあ聞くけど、さっきの子と出会ったのは、藤田がこっちに来てからで間違いないね……」


もはや、翔に選択肢は無かった。

気が付くと翔は、こっちに来てからの二週間の間に、桜木莉子との間にあったことを、あらかた喋ってしまっていた。

結婚することまでは言わなかったが、莉子の薬指に嵌った婚約指輪を見られている以上、もはや隠しようがない。次はその話題になりそうだと身構えた所で、沙希がポツンと言った。


「ねえ、彼女、ちょっと遅くない?」

「そうだね。あたしが見てくるよ」

「じゃあ、私も行く」


水瀬美緒と沙希の二人が席を外してしまった。

翔も一緒に行きたい所だったが、女子トイレに付いて行く訳にも行かない。翔は思わず席を立って、その場に茫然と立ち尽くした。


そんな翔に、薫が声を掛けてきた。


「翔くん、座れば」


翔が振り向くと、薫はテーブルに座ったまま、翔の顔を無表情に見詰めていた。

翔は、おずおずと彼女の前の席に座る。

その直後、翔と薫の双方が同時にメールを受け取った。


翔のメールは、莉子からだった。


『ごめんなさい。急用ができたので、先に帰ります。今日は、どうもありがとう。明日、会社で会いましょう』


それを見た翔は、一瞬、目の前が真っ暗になった。これは、怒って帰ってしまったと取るのが普通だろう。

そう思って前を見ると、そこには相変わらず無表情の薫がいる。


「なんか、美緒も沙希も急用なんだって。どうしちゃったんだろう、あの二人」


ほとんど棒読みのような口調で、薫が言った。


それから、ウェイトレスがやって来て、薫の前におひやを置いた。注文を尋ねられた薫は、小声で「アイスミルクティー」と返す。

そのウェイトレスがテーブルから離れると、薫はおひやの中の氷をガリガリと噛み始めた。気が立っている時の薫の癖だ。

しばらくの間、その音が続く。


噛み砕いだ氷を飲み込んだ薫が、ボソッと言った。


「翔くん、また会えたね」


薫が笑った。とても不気味な作り笑いだった。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

修羅場になりました。次話は、薫視点になります。


もし宜しければ、感想、ブックマーク、いいね、評価をして頂けましたら大変嬉しいです。宜しくお願いします。

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