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第87話:天王シネマ <翔サイド>

見直しました。

尚、今回、少し残酷な戦場のシーンがあります。苦手な方は回避して下さい。

◆8月2日(日)


藤田(かける)が桜木莉子(りこ)にプロポーズした翌日の日曜日、二人は前日と同じ名駅めいえき、つまり名古屋駅で待ち合わせて、やはり同じ駅ビルの高層階にあるレストランで昼食を取った。

ただし、この日に入ったのは、少々お高めの洒落た洋食屋。窓際の明るい席に案内された二人は、一杯だけ白のグラスワインを頼み、二種類のパスタ料理をシェアして食べた。そしてデザートには、莉子がティラミス、翔はチーズケーキを頼んで、やはり二人でシェアした。

二人が食事を終えた時、翔は自分のポケットから小箱を取り出して、莉子の前にポンと置いた。


「開けて良いの?」


翔が頷くと、莉子は少し震える手でそれを手に取った。そして、中に大粒のダイヤモンドの指輪があるのを見た瞬間、彼女の顔に満面の笑みが浮かぶ……。

その時、翔は昨夜、家に帰ってからのことを思い出していた。



★★★



翔が莉子にプロポーズした後、二人は花火が終わるまで夜空を見上げ、それから池に勢ぞろいした巻藁まきわら船の幻想的な光景を目に焼き付けてから、いったん翔の実家に戻った。

実家の玄関で翔たちを迎えてくれたのは、倉橋家三姉妹の長女、倉橋亜里沙(ありさ)だった。穏やかな彼女の表情に安堵を覚えた翔が、「ただいま。亜里沙さん、まだいたの?」と問い掛けた所で、ひょいと彼女の後ろから顔を覗かせた次女の沙也加さやかを見て、即座に身を強張らせた。翔と同じ歳の彼女は、昔から何かと絡んでくる苦手な相手なのだ。

ところが、意外にも沙也加は余所行きの笑顔で莉子に自己紹介をしただけだった。


その後、莉子は亜里沙に導かれて奥座敷に向かい、ワンピース姿に戻って翔の前に現れた。そして翔に改めて、「今日は、どうもありがとう」とお礼を言ってから、見送りに出た亜里沙と沙也加にも頭を下げて外へ出て行く。

すると、近くで待機していたと思われる桜木家の車がゆっくりとやって来て、藤田邸の門の前に停まった。

その車から優雅な仕草で降り立ったのは、年配のエプロン姿の女性だった。


こないだの火曜日の夜、翔は彼女と少しだけ顔を合わせている。莉子との初デートの後だ。その時、丁寧に挨拶してくれたのを、翔は良く覚えている。確か、彼女は桜木家の家政婦で、名前は松井智花(ともか)だった筈。

その智花と軽く挨拶を交した翔は、莉子の浴衣ゆかたと小物類が入った紙袋を彼女に手渡した。そして、莉子と智花が乗った車が路地の角を曲がって見えなくなるまで見送ったのだった。


翔が玄関に戻ると、案の定、そこには沙也加が待ち構えていて、翔は有無を言わせずリビングに連行された。そして、三人掛けのソファーの中央に座らされた翔は、当然のように両側に座った亜里沙と沙也加の二人から、厳しい尋問を受けることになったのである。


「翔さん、ちゃんと、うまく行ったと理解して良いのかしら?」


最初に言葉を発したのは、沙也加だった。


「うん、まあ」

「それは、きちんとプロポーズしたということで良いのよね?」

「そうだけど」

「何て言ったの?」

「いや、普通に『結婚しよう』って言っただけだよ」

「まあ、翔さんのことだから、そこに至るまでに紆余曲折があったんでしょうね。それで、ちっとも言い出せない翔さんに痺れを切らした彼女が、あの手この手でサポートしてやって、どうにかこうにかプロポーズの言葉を口にできたって感じなんでしょうけど」

「な、なんだよ、その言い方……」

「ふーん、やっぱり図星なんだ」

「……っ」


どうやら翔は、今夜も沙也加の巧みな言葉の誘導にハマってしまったようだ。


「でも、沙也加。それだと、せっかくのプロポーズの言葉を、翔さんが彼女に言わされたってことになんない?」

「そうよ。そんなの当然じゃない。今までだって、いつも私達の言いなりだった訳だし、翔さんが自分の意志だけで何かができるだなんて百年早いわよ」

「そうかもしれないけど、そんな風にストレートに言っちゃったら、翔さんが可哀そうでしょう。結果としては、ちゃんとプロポーズしてきたんだから、一応、そこは褒めてあげるべきなんじゃないの?」

「まあ、そうね。『箱庭のお坊ちゃん』としては、良くやったと思うわ」

「沙也加、それは言い過ぎよ」

「あら、そう? 『井の中のかわず』って言わなかっただけでも、ましなんじゃないの?」


今夜の沙也加は、いつも以上に荒れている感じだった。

そう思って翔が膝元のローテーブルに目をやると、赤ワインの入ったグラスが二つ置かれている。更にテーブルの中央には丸い皿があって、チーズの載ったカナッペが二つだけ残っていた。

どうやら今の沙也加は、相当に酔っているみたいだ。


「な、何よ、その目は?

「お前、酒臭くないか?」

「ひっどーい。相変わらず翔さんって、デリカシーが無いわね」

「別に良いだろ。おれらは幼馴染なんだしさ」

「あら、いくら幼馴染だって、『親しい中にも礼儀あり』だと思うわよ」


亜里沙の言葉で、沙也加の目付きが更に刺々しくなった。


「沙也加ちゃんはね、妬いてるんですよ」


そこで、翔の前に現れたのは倉橋家の三女、倉橋花音(かのん)だった。


「あれ、花音もいたんだ」

「こんばんは、翔さん」


花音の右手には、透明の液体が入ったグラスが握られている。漂ってきた匂いからすると、白ワインじゃなくて日本酒のようだ。


「傷心の沙也加ちゃんは、やけ酒を煽ってたんですよ」

「こら、花音。あんた、何言ってくれてんの?」


沙也加に睨み付けられた花音は、「ううっ、怖い怖い」と言いながら台所に引っ込んで行った。

翔は二人の会話をいぶかしく思いながらも隣の沙也加に、「やけ酒って、どういうことだよ?」と訊いてしまい、彼女にじろっと睨まれてから、その言葉が禁句だったことにようやく気が付いた。

代わりに答えてくれたのは、亜里沙だった。


「うふふ。翔さんは、相変わらず鈍感ね。沙也加が傷心なのは、密かに思ってた誰かさんが、他の女にプロポーズしちゃったからよ」

「えっ?」


翔が驚いて沙也加の方を見ると、彼女は即座に「そんなの、冗談に決まってるじゃない」と言ってから、いつの間にか手に持っていたワイングラスを一気に空けてしまう。


「おいおい、お前、大丈夫かよ」

「うん、大丈夫。あ、でも、そろそろ帰ろっかな」


そう言って立ち上がった沙也加は、明らかに千鳥足だった。

そこに花音がやって来て沙也加に肩を貸しながら、翔に向かって軽く頭を下げる。そして、そのまま二人は玄関の方に向かって行った。

翔が二人を追い掛けるべきかどうかで悩んでいると、隣の亜里沙が口を開いた。


「あれは、沙也加自身の問題だから、翔さんは気にしなくて良いわよ」

「そうなのか?」


翔は混乱して、何が何だか分からなくなってしまっていた。

沙也加は翔にとって苦手な存在だが、幼馴染として最も近しい女子であるのは確かだ。そんな沙也加のことを何も知らなかったことに、翔は愕然とした。

沙也加のことですら知らないのだから、翔が元カノの薫について何も分かっていなかったとしても、それは当然のことなのだ。


俺って、本当に他人には無関心だったんだな。


翔は、さっき沙也加が言った「箱庭のお坊ちゃん」という言葉を思い出していた。『今までの俺は、自分の見たい物だけを見て、知りたいことだけを知ってきたんじゃないのか?』と、ふと思ってしまったのだ。

それは、たぶん沙也加が言った「箱庭のお坊ちゃん」とは少し違う意味なのかもしれない。だけど、それもまた真実であるように思ったのだった。


「翔さん、どうしました?」


気が付くと、亜里沙が呼んでいた。


「あ、ごめんなさい。ちょっと、考え事しちゃってたんで」

「まあ、そうでしょうね。プロポーズした方もされた方も、それなりに人生の一大事でしょうからね」

「……はあ」

「もう、溜め息なんて吐いてる時間はありませんよ。これから翔さんは、忙しくなるんですから……あ、奥様」


そこで、リビングに入って来たのは、翔の母の恵美だった。さっきまでは自室にいて、会社の執務室で処理しきれなかった報告書のたぐいに目を通していたらしい。

その恵美は小さめの紙袋を持っていて、それをローテーブルの上に置いてから、翔の正面のソファーに腰を下ろした。そして、莉子とのことを単刀直入に訊いてきた。


「もちろん、ちゃんとプロポーズしたよ」

「あら、そう」

「俺だって、やる時はやるさ」

「はいはい。一応、そういうことにしておきましょうか」

「ちぇっ、信じてないのかよ」

「莉子ちゃんのことだったら、信じてるわよ……。それで、あの子は何て?」

「普通に、『はい』って返事してくれたんだけど」

「あとは?」

「『ありがとう』って言われた」

「あらあら」


恵美の顔に、一瞬だけ笑顔が浮かんだ。それから彼女は周囲を見回して、「あれ、沙也加ちゃんは?」と尋ねた。


「沙也加だったら、疲れてるみたいだったから、花音と先に帰らせたけど」

「まあ、そうなの? 大丈夫かしら」

「一晩寝れば、大丈夫じゃないかな。あいつ、ああ見えて身体からだは丈夫な方だから」


翔がそう言った所で、いつの間にか席を立っていた亜里沙が、紅茶の入ったカップを持って戻って来た。

恵美は亜里沙を自分の横に座らせると、まずは紅茶のカップに口を付けた。そして、ひとまずカップをソーサーに戻してから、おもむろに脇に置いてあった小さめの紙袋から小箱を取り出し、それを翔の前にポンと置いた。


「翔、明日も莉子ちゃんに会うんでしょう?」

「うん、そのつもりだけど」

「じゃあ、それを渡してあげなさい」

「えっ?」


改めて、恵美に渡された小箱を眺めてみる。何の変哲もない白い箱だ。

翔は、こないだ莉子から香水を渡された時のことを思い出した。もっとも、あの時は細長い箱だったけど、目の前のは立方体に近い形状だ。


「渡すのは中身だけで良いから、ここで開けてみなさい」


恵美に言われて箱を開けてみる。中にあったのは、指輪の入ったケースだった。当然、その指輪の宝石は、ダイヤモンド。パッと見、かなり大きめだ。

つまり、これは婚約指輪ということなんだろう。


「それは、うちで扱ってるダイヤモンドよ。沙也加ちゃんに頼んで、会社から適当なのを持って来てもらったの。指輪のサイズは亜里沙ちゃんの見立てだから大丈夫だと思うけど、ネームとかは間に合わなかったから、明日、莉子ちゃんと一緒に名駅めいえきの直営店に寄ってみて頂戴」



★★★



ということで、その指輪は現在、莉子の左手の薬指に嵌っている。その彼女は涙声で何度も何度も「ありがとう」を繰り返していて、翔としては少々気まずかったりする。何故なら、その指輪を用意したのは母の恵美と幼馴染の沙也加だからだ。

そんな気持ちを紛らわせる為、翔はわざとそっけなく言った。


「ごめん、まだイニシャルとか入れてなくてさ。これから一緒に店に行きたいんだけど、良いかな?」


そして翔は、莉子を伴って同じビル内にある藤田コーポレーション直営の宝飾店に赴いた訳だが、あらかじめ沙也加から連絡が行っていたようで、すぐに店長が現れて店の奥の小部屋に案内してくれた。

その中年男性の少し神経質そうな店長は最初に、「この度は、ご婚約どうもおめでとうございます」と言ってくれる。翔が「ありがとうございます」と返した後で、ふと隣を見ると、莉子が恥ずかしそうに顔を赤らめていた。


「いやあ、誠に初々しいですな。私も自分が婚約した時のことを思い出します」

「はあ」

「まあ、ありふれた社内結婚だったんですけどね。それに、こんな立派な婚約指輪じゃなくて安物だったんですけど、それでも妻は喜んでくれましてね……」


そんな話をしながら、店長は莉子の指に嵌った指輪の状態を慎重に確認してくれていて、やがて、「サイズとかは問題なさそうですね」と言った。それから、指輪に刻印するネームについての簡単な打ち合わせをして、コーヒーを持って来てくれた女性店員に指輪を預けて再び雑談をしていると、十五分程で刻印を終えた指輪が戻ってきた。


宝飾店を出て、「さて、次どうしようか」と翔が問い掛けた時、莉子の口から出てきた言葉は、「映画館」だった。


「できれば、また天王市に行きたいの。あの街の映画館、どんな所か見てみたいんだ」

「郊外には、確かシネマコンプレックスがあったと思うんだけど……」

「ううん、そういうのじゃなくって、私が言ってるのは街中まちなかの映画館」

街中まちなかの?」

「そう。昨日、話してくれたじゃない」

「えっ、そんなこと言ったかなあ。いつのこと?」

「駅前の通りを、神社に向かって歩いている時よ。ほら、天王市に何があって何がないかって話になって……」

「そう言えば、そんな話をしたね」

「そう、それよ。街中に古い映画館があるって教えてくれたじゃない」


どうやら、莉子は単に映画が観たいわけではないらしい。彼女が行きたいのは「街中まちなかの映画館」なのだ。


「確かに、天王駅から少し離れたとこに映画館があったと思うけど、ぼろいよ」

「それが良いの。私が行きたいのは、古臭くて時代遅れの映画館。そういうのに私、憧れてるんだ。ほら、古い映画の『シネマパラダイス』みたいな」


莉子の言いたいことは、翔にも何となく分かってきた。

今どき、映画くらい家でも見られる。それに桜木家の屋敷だったら、きっとそれなりのホームシアターくらいある筈だ。ちゃんと3D映像対応で、臨場感だって普通の映画館と比べても遜色ない奴が……。

そうなると、街中まちなかの映画館に求めるのは、自宅では味わえない何かなんだろう。たぶん、莉子がイメージしたのは、レトロでノスタルジックな空間なんじゃないか?


ただ、あそこの映画館があった辺りって、今は治安が悪い地区になってたんじゃなかったっけ?


昭和の時代、天王市の中心部は今よりもずっと栄えていて、繁華街も大きかった。ところが、地盤沈下等で天王市から工場とかが北の方に移って行く過程で天王市の繁華街は縮小し、天王通りを中心とした一画だけになってしまった。更に最近では、その天王通りですら寂れたシャッター街になり果てている。

今でも映画館だけは残っているのだが、その周囲にあったビルや店舗等が昭和の終わり事から次々と安い賃貸アパートに姿を変えて行って、そこに貧しい人達が流れ込んだ結果、犯罪者がはびこる典型的な貧民街へと変わってしまった……。

確か、そんな話を市役所勤務の松永陽輝(はるき)から聞いたことがある。それに、元カノの水草薫みずくさかおるが現在、住んでいるのも、その辺りだった筈だ。


「あの、どうしたの、翔さん?」


いつの間にか物思いに耽っていた翔に、莉子が不安げな声を掛けてきた。


「あ、いや、その映画館がある所なんだけど、周囲の治安が少し心配っていうか……」


翔は莉子に治安のことについて説明しながら、自分のウェアラブル端末でその映画館のサイトに入って、色々と調べてみた。


「うん、上映時間は昼間だけみたいだけど、普通に営業はしてるみたいだね。場所も昨日、二人で歩いた天王通りから、そんなに離れてないみたいだし、治安が悪いと言っても昼間だったら大丈夫かもな。だけど……」


どうやら、治安の方は大丈夫そうだと思った翔は、それよりも心配な点について予め念押ししておくことにした。


「もう一度、言っとくけど、この映画館、本当にぼろいからね」

「大丈夫よ。たとえ期待外れだったとしても、それはそれで良いの。私、翔さんが生まれた街を、もっと色々と見てみたいんだ」



★★★



結局、二日続けて翔は莉子を、天王市に連れて来ることになってしまった。

もっとも、今日は電車ではなくてセルフのタクシーを使った。莉子は電車に乗りたがったけど、それだと次の映画の時間に間に合わない。それに、治安の悪い地区ということで、できるだけ周囲を歩き回らないようにと考えたからだ。


その天王市の映画館までは、セルフのタクシーで二十分ちょっとしか掛からなかった。つまり、名駅めいえきからだと、天王市は意外と近いのである。


タクシーから降りた時の印象は、翔が思った通りの「殺風景な街」というものだった。古びた住宅とアパート。あちこちに朽ちかけた空き家が混じっている。今どき珍しい電柱に、所々垂れ下がった電線の数々。そして道端には、腐敗臭を伴うゴミが散乱していた。

そのせいもあってか、この街には独特な臭いがある。当然、それは不快な饐えた臭いとでも呼ぶべきものだ。そして、何よりも埃っぽい。翔は、『ここには、長居したくないな』と心の中で思った。


日中の一番暑い時間だからか、辺りは閑散としていた。無意識のうちに、『こんな所に、まともな奴がいる筈が無い』と思い込んでいた翔は、人気ひとけが無かったことに却って安堵した。

目の前の通りには、車もほとんど通らない。それでも、そうやって翔が立ち止まっている間に二度ほど車が来たけど、どちらも、この映画館の客だった。


さて、そんな風に翔は神経を張り詰めて警戒していた訳だが、そんな彼の耳に飛び込んできたのは、莉子の場違いな歓声だった。


「うわあ、素敵。思ったとおりだわ」


翔には、この映画館の何処どこに素敵な要素があるのかが、全く分からなかった。だけど、せっかく莉子が喜んでいるのに水を差す気にはなれなくて、取り敢えずは黙っておくことにした。そして、この「天王シネマ」という映画館を、改めてじっくり見てみることにしたのである。

そうすると、さっきまでは古くて汚いだけの建物だと思っていたのが、それなりに洒落た羊羹に見えてくるから不思議だ。

もちろん、それは莉子の激しい思い込みを受け、重度の脳内補正が掛かった上でのことだ。ペンキが剥げて錆び付いた手摺てすりだとか、天井の隅に張られた蜘蛛の巣だとかを、全て見なかったことにした場合の評価に過ぎない。

この映画館が建てられた七十年以上前は、恐らくそれなりにモダンな建物だったんだろう。レンガ造りの壁とか、アーチ状に丸みを帯びた天井だとかに、古い西洋の建築様式を模した造りが随所に見られる。


そう言えば昔、祖母の初枝はつえから聞いたことがある。彼女が高校生だった頃、この映画館は人気のデートスポットだったらしい。

確かに、最大限(MAX)の脳内補正を掛けた状態で見れば、今日のお嬢様風衣装の莉子だったら、そうしたノスタルジックな情景にフィットしてると言えなくもない。


今日の莉子は、前に空港で見た水色のワンピを着ていた。それは翔が莉子に初めて会った時の物なので、それから二週間も経っていないとはいえ、それなりに懐かしい。

その時と違うのは、身に着けたアクセサリーの数々だ。それらは、両耳を飾る銀のピアスと胸元の十字架、そして左手のダイヤの指輪である。

もはや、だいぶ見慣れた物となった十字架のネックレスだが、シンプルだけど上品なデザインの逸品でで、今日の服装にも良く似合っていた。だけど、それを見ると翔は、どうしても昨夜の浴衣姿の莉子を思い出してしまうのだ。

あの胸の奥の谷間で光る十字架は、本当に色っぽかった……。


「あ、あの、翔さん」

「あ、ごめん。なんか、その格好の莉子だったら、この映画館ができたばかりの頃の風景にだって、すんなりと溶け込めるかもって思ってね」

「それって、私の格好が古臭いってこと?」

「あ、いや、そういう意味じゃ……」


彼女のことを貶すつもりは全く無かった翔なのだが、莉子の思わぬ反応に焦ってしまっていた。

ところが……。


「冗談よ、翔さん。むしろ、そう言う風に思ってもらって光栄かも」

「でも……」


そんな莉子の服装を見ながら、普段着と同じ格好の翔は、もう少しきちんとした服装をしてくるべきだったと後悔していた。

もっとも、今日は昨日と違ってちゃんとジャケットを羽織っているし、それに彼の場合、いくら普段着といえども、どれも一流ブランド品ばかりで固めている。そういう点では、やはり翔も正真正銘の上級国民なのである。



★★★



この天王シネマの入り口は二つに分かれており、二種類の映画を選べるようになっている。今のシネマコンプレックスなら、もっとたくさんの映画が同時上映されているわけだが、この映画館ができた当時は画期的だったに違いない。

どちらの入り口にもポスターがペタペタと貼られていて、更に両側の向かい合った壁一面には、それぞれの映画のプロモーションビデオが流れている。もちろん3D映像で、こういった所は昭和じゃなくて、やっぱり令和なのだった。


「えーと、恋愛映画と、もうひとつは戦争物か。どっちにしよっか?」

「私は別にどちらでも良いよ」

「いや、俺は莉子の好きな方で良いけど」

「私は翔さんが好きな方が……」


実は、昼食の時もそうだったのだが、今日の翔と莉子の会話は、どちらも今ひとつぎこちない。お互い相手の顔色を伺ったり、相手に過剰に譲ろうとしたりしてばかりいる。昨日のプロポーズの後遺症として、お互いの新しい距離感が、未だに掴みきれていない感じなのだ。


「じゃあ、恋愛映画の方にする? 話題になってるみたいだし」

「うーん。翔さんはそっちが良いんだったら、私もそっちでも良いよ」

「えっ、そっちでもってことは……」


翔の方は、たぶん莉子がそっちを選ぶだろうと思い込んでいた。邦画としては久々のヒット作らしいし、主役は若い女性に人気のイケメン俳優なのだから……。

だが、意外なことに莉子の反応は、翔が思ってたのと違っていた。莉子は、戦争映画のプロモーション映像に真剣な表情で見入っていたのだ。

そうかと思うと、こんなことを言い出した。


「やっぱり、この人、カッコ良いなあ。うん、何となく、翔さんに似てるかも」


「えっ、どの俳優?」と翔が慌てて尋ねると、莉子が指差したのはマッチョの黒人だった。

翔は、『こいつの何処どこが俺に似てるんだよ』と首を捻るのだが、莉子はしきりに頷いている。そして翔を見て、にっこりと笑うのだ。

だけど、その笑顔が眩しくて、翔は他のことなど、もうどうでも良くなってしまったのだった。



★★★



さて、莉子のお気に入りの黒人俳優が出演している戦争映画だが、ポスターのキャッチコピーを見てみると、「砂漠の戦場に送り込まれた新兵が、日常的に起こるトラブルの数々を乗り越えて、次第に成長していく姿をコメディ-タッチで描く」作品らしい。

そこにヒロインとして登場するのは、最近、人気の白人女優。彼女の役柄は、従軍看護師ミリタリーナースのようだ。一方の主人公は白人のイケメン俳優で、莉子のお気に入りの黒人俳優は、主人公の親友という役回りらしい。

今の軍隊には女性の兵士が一定数いるし、同行する医師ドクター看護師ナース、カウンセラーといった医療スタッフにも女性は多い。戦場という特殊な環境での「吊り橋効果」も加わって、若い男女は、通常よりも親密になり易い。そんな若者達の出会いと恋の駆け引き、そして突然の悲しい別れなど、戦場であれば、ドラマチックなストーリーに事欠かない筈だ。


翔は、戦場から負傷兵として戻った服部圭介はっとりけいすけのこと、これからそこに赴く水草薫のことが頭に浮かんではいたのだが、それでも莉子の意向を酌んで、こっちの映画の方を観ることにした。


外観はボロい天王シネマだが、内部は改装してまだ間もないようで、それなりに綺麗だった。音響も映像設備もちゃんと最新の機能に対応しているようで、3Dのリアルな映像が迫力あるサウンドと共に体験できる。

更に場面によっては、座席が振動したり、若干傾いたり、前席の背もたれから急に突風が吹き付けたり、ミスとが噴き出てきたり、刺激臭がしたり、反対に爽やかな香りが漂ってきたり……、要するに人の五感を刺激する様々な仕掛けが施されているのだった。


映画が始まる前にそれらの仕掛けについての説明と、「途中で気分が悪くなった場合は、早めに外に出るように」といった注意があった。

莉子に聞くと、ここまでの凝った設備は始めてということだ。なので、「すっごく楽しみ」といった反応が返ってきた。

一方の翔は、この手の映画を何度かニューヨークで体験したことがある。もっとも、その時の映画は空想ファンタジーで、これから観るのとは違うジャンルではあるのだが、それでも、『たぶん大丈夫だろう。どうせ子供だましみたいなもんだろうし……』と、まあ、そんな感じで油断していた翔だったのだが、実はこの映画、とんでもない代物だったのだ。


冒頭から、いきなり戦場に放り込まれた。そこは灼熱の太陽で、とにかく暑い。劇場の中も同じように暑く感じられるのは、強い光と音に加えて、前席の背もたれから熱風が吹き付けてくるせいだろう。

やがて、すぐ近くで突然、いくつもの銃声が鳴り響いた。そして、一緒に新兵として送り込まれた仲間達が、次々と目の前で撃ち倒されて行く。どうやら、敵の急襲に遭ったようなのだ。

すぐ隣にいた筈の同僚が、もはや息をしていない。白い砂が真っ赤に染まっていた。反対側には、若い女の死体。金髪の綺麗な顔の右側がごっそり持って行かれてしまい、そこだけ頭蓋骨が覗いている……。


まずい、吐きそうだ。


回りを見回してみると、他にも死体がごろごろと転がっている。その半分くらいが若い女達で、身体からだの一部が欠損していたり、バラバラになっている死体も数多くある。


そして、今も敵の激しい銃撃は続いていた。


気が付くと翔は、その場から逃げ出していた。

懸命に走りながら左右に目を向けると、翔と共に逃げる兵士達がいる。そんな兵士達も、一人、また一人と敵の銃弾に倒れ、次々と数が減って行く。


翔は必死だった。重い装備を抱え、何度もつまずきそうになりながら、ただひたすら走り難い砂の上を駆けた。

目の前に長い黒髪の女性兵士がいて、「がんばれ」と手を振ってくれる。その女性に追い付こうと必死に足を動かすのだが、足はなかなか前に進まない。


そうこうするうちに、足がもつれて転びそうになる。

足音がする。敵がすぐ近くまで迫っているのだろう。


ふいに、「こっちにもいるぞ」という声がした。


「おーい、こっちだ」

「殺せ」

「殺しちまえ」


『まずい。逃げなきゃ』と思うのだが、焦れば焦るほど、足が前に進まない。


『ああ、もう駄目かもしれない』と思い掛けた時、いきなり手を掴まれた。

冷たい手だった。


「翔さん、大丈夫?」


すぐ耳元で声がした。

ハッとして周囲を見回してみると、映画館の中だった。


「うわ、汗びっしょり。ちょっと、待ってて……。これ、使って頂戴」


莉子が差し出してきたのは、花柄のハンカチだった。香水でも振り掛けてあるのか、とても良い匂いがする。

そのハンカチで額や首回りの汗を拭っているうちに、ようやく少し落ち着いてきた。


どうやらリアル過ぎる映像にショックを受けて、軽い錯乱状態に陥っていたようだ。少し疲れていたのかもしれない。

翔は心配顔の莉子に、「もう大丈夫だから」と囁き返すと、再び画面の方に目をやった。



★★★



不思議なことに、それから先は翔もごく普通に映画を楽しむことができた。戦場の残酷なシーンは最初の所だけだったようで、それ以降は、それほど刺激的な映像は無かった。

それなりに戦闘シーンはあったのだが、自分自身がそこにいるような臨場感溢れる映像ではなくて、普通のアクション映画と大きく変わらないものだった。そして、落ち着いてからの翔は、次第にその映画に引き込まれて行ったのだ。


冒頭のシーンの後は、傷付いた兵士達をヒロインの看護師ナースが必死に手当している場面だった。その中に主人公のイケメン俳優がいて、次第に彼は、その優しいヒロインに惹かれて行く。

そして、親友の黒人俳優の方は、最初、主人公とヒロインの橋渡し役を買って出るのだが、彼自身もまた、そのヒロインに惹かれてしまう。しかし、黒人俳優の方は自分の恋心をひた隠し、親友とヒロインが結ばれるようにと、懸命に力を尽くすのである。


そんな中、味方の基地が敵襲を受け、ヒロインを含む大勢の若い女性看護師(ナース)達が、非道な敵国の軍隊に捕らえられてしまう。その敵国は独裁国家で、捕虜の人権への配慮など期待できない。若い女性だけを連れ去った所からして、彼らの目的は容易に想像できる。

思い悩んだ主人公と彼の親友は、彼女達の救出に向けて立ち上がる。彼らは上官と直談判し、他の仲間達の参加も募って、少人数での救出部隊を編成して敵地に赴く。


何の事前情報もなく選んだ映画だったが、思いの外ストーリー展開が巧妙で、翔も充分に楽しむことができた。特に終盤に差し掛かってからのアクションシーンは、実に良く考えられた凝った作りになっており、まさにエキサイティングなエンターテイメントに仕上がっていた。

仲間達とヒロイン逹の救出に向かった主人公は、親友の活躍もあって、一度は救出に成功する。ところが、敵の追跡はしつこく、最後尾にいた主人公と親友、そしてヒロインは、ピンチに次ぐピンチの連続で、状況が二転三転してしまう。先の展開が全く読めず、まさに手に汗握る場面シーンの連続で、息つく暇も無い……。


主要メンバー達の属性もまた、ストーリーの程良いスパイスになっていた。


主人公は白人で、しかも裕福な家庭の出身。親友の黒人俳優は、もちろん、貧困家庭の出身である。

注目すべきは、ヒロインの白人女性の設定だ。彼女の家は貧しい母子家庭で、必死に勉強し、奨学金で大学に進んで看護師ナースになったという背景を持つ。

その彼女が最終的には、裕福な家庭に育った主人公と結ばれる訳で、いわば一種のシンデレラストーリーでもある訳だ。


その一方で翔には、この映画がアメリカの根強い人種問題の存在を、暗に仄めかしているように思えてならなかった。


莉子の好きな黒人俳優が演じる主人公の親友は、最後まで決して報われることはない。彼は、どんなにヒロインのことが好きでも、告白はしない。主人公とヒロインが結ばれるように、最善を尽くすのみだ。

そのヒロインが敵に捕らえられると、主人公を励まし、必死に周りを説得して救出に向かう。そして、ヒロインを助け出して脱出する途中、敵に囲まれてピンチになると、自分がおとりになって二人を逃がす。

単独で敵に立ち向かって行った彼が、敵の一斉射撃を浴びて死んだと思ったら、偶然あった落とし穴に落ちて生きている。それから再度、敵が主人公とヒロインを追い詰めた所で、ひょっこりと現れた彼は、二人を守ろうと敵の前に立ち塞がる。


途中でヒロインは、黒人俳優の自分に対する好意に気付くのだが、ヒロインが彼を選ぶことはない。それでも、再三に渡って主人公とヒロインを庇い続けた彼は、最後に重傷を負って死にかけるのだが、奇跡的に上官に助けられて基地への帰還を果たす。

エンディングでは、主人公とヒロインが除隊。彼は、どうしても金が必要な為、戦場に残る。そして、隊を離れる二人に対し、彼は笑顔で「幸せになれよ」と言って見送るのだった……。



★★★



後半、黒人俳優が死にそうになった場面シーンで、翔の手に莉子の細い指が触れたかと思うと、手のひらが押し当てられ、ぎゅっと強く握ってきた。さっきのヒンヤリした感触とは違い、じっとりと汗ばんで少し熱を帯びている。

その次の危ない場面シーンでは、莉子の身体が寄り掛かって来て、彼女の鼓動と息遣いがストレートに伝わってきた。


そして、エンディング。莉子の頭は、翔の肩の上に置かれていた。

莉子と繋いだ手の甲に、彼女の涙がぽたぽたと落ちてくる。しばらくの間、莉子は静かに泣いていたのだった。


ああ、同じ映画を一緒に見るってのは、こういうことなんだ。


翔は、初めてそれが分かった気がした。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

次話は、翔視点の今回の続きです。映画館を出てから、喫茶店に辿り着き、見て来た映画などのお話をします。


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