第80話:カレーライス <薫サイド>
見直しました。
午後五時にコンビニEマートでのバイトを上がり、同僚の牧野愛衣と斉藤美月に挨拶して外に出た水草薫は、たちまち全身を包み込む熱気に襲われて閉口した。
薫が着ているのは、冬でも大丈夫なデニムのオーバーオール。それに足元は厚手の靴下にスニーカーだ。これでは熱の逃しようが無い。
それでも夕方だからか、人出は多かった。途中でチンピラが出て来たら、やっつけてやる気満々でいたのに、チャラそうな男子高校生達がじろじろと見てくる。なんか言いたげだったから、薫は早足で通り過ぎた。彼らは、いったい何の用だったんだろう。
天王通りを越えて少し行くと、街の雰囲気がガラッと変わってしまう。目付きも格好も問題ありげな連中が、街角のあちこちにたむろしている。だから薫は、それなりに気を張って足を運んで行ったというのに、意外に誰も手を出して来ない。それでも、今か今かと待ち構えているうちに、とうとうアパートに着いてしまった。
玄関のドアを開けると妹の楓が出迎えてくれたので、早速、二つのことを聞いてみた。つまり、物言いたげなチャラい男の子達のこと、ちっとも襲って来ないチンピラ風の男達のこと……。
「お姉ちゃんってさあ、普段は格好でごまかせてはいるんだけど、基本的に整った美女の顔立ちじゃん。だから、今の時間みたいに横から強い光が当たったりすると顔だけが強調されて、本来の女神みたいな美しさが顕現しちゃったりするわけ。まあ、角度によって見え方が違うとは思うけど、それをもろに見ちゃったら相当な破壊力だと思うよ。だけど、あまりの神々しさで、余程の手練れでもない限り、ナンパしようだなんて思わないんじゃないかな」
楓の説明は、ちっとも薫の頭に入って来なかった。女神だとか、破壊力だとか、神々しさだとか、いったい何のことを言ってるんだろう。
すぐに心がキャパオーバーになった薫は、スルーして次の質問の答えを促すことにした。
「それで、この辺のチンピラのお兄さん達が襲って来ないのは、何で?」
「あ、それは、ちゃんと男の子に見えてたからなんじゃないの? 小学生に毛の生えたような男の子が粋がって歩いてて、さすがのチンピラ達も微笑ましいモノを見る感じで見逃してくれてたんだよ」
「うーん、さっきは女神で今度は小学生?」
全くもって理解不能だ。そもそも、最初の質問の答えと矛盾してないか?
「それよか、お姉ちゃん。私、ひとつ聞きたいことがあるんだけど……」
さっきまで穏やかだった楓の顔が、急に厳しくなった。
「お姉ちゃん、チンピラとかがうじゃうじゃいる中で、何でそんなに平気でいられるの? その自信の源は何なの? どう見ても、変なんだけど」
楓にしては、本質を突いた質問だった。
「えーと、元々、私が結構、強いってのは知ってるよね?」
薫がそう言うと、楓は呆れた顔をする。
「あったり前じゃん。妹だもん。お姉ちゃんの見掛けによらない無駄な高スペックのことだったら、だいたい分かってるつもりだけど……」
語尾の所を濁したのは、「知らない部分もある」っていう非難を込めた意味もあるんだろう。
薫は、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「ひとつは、剣道二段でしょう。それから、こないだも言ったと思うけど、護身術と空手。それと、最近になって柔道も教えてもらったからさ」
「柔道は、軍の強い人に教えてもらったんだよね?」
「うん。私、柔道は護身術としてしか習ってなかったから、すっごく面白かった」
「けどさあ、それだけじゃないんでしょう?」
楓は、全く納得してないって顔だ。仕方がないので、もう少しだけ薫は話してやることにした。
「えーと、昨日なんだけど……」
「ああ、朝早く出てったみたいだよね」
「うん。実は、射撃訓練に行ったんだ。私って、結構、才能あるみたい」
今度は、楓の方が溜め息を吐く番だった。
「まあ、お姉ちゃんはチートだからね。でないと、うちの借金が返せちゃう程のお金なんて、軍が貸してくれる筈ないもん」
「そういうこと」
薫は、そろそろ話を打ち切ることにした。
「それよか、この匂い、カレーだね」
「うん。智也くんのリクエストなの。愛衣と颯太も食べられるように、多めに作ったよ。ご飯もいっぱい炊いてるし」
「そっか。で、その智也くんは?」
「私の部屋で宿題やってる。あの子、真面目だよね」
「愛衣ちゃんの弟だもんね」
「うーん、姉弟で真面目って、珍しくない?」
「うちだって、そうじゃない」
「違うでしょう。うちは、私が真面目で、お姉ちゃんはいいかげん」
「何それ」
「もう、私はサラダ作ってるから、早くシャワー、浴びちゃってよ」
「分かった」
楓に言われるがままに、薫は服を脱いでいく。この狭いアパートには、脱衣所なんて無いからだ。
ところが何かを察してか、ふと振り返った楓が大声を上げた。
「お姉ちゃん、何やってんのっ!」
「何って、シャワー、浴びるんだけど?」
「何で台所なんかで脱いでるの。それに、ちゃんと着替えは用意したの? いつもみたいにハダカじゃ駄目なんだからねっ!」
そこで、初めて薫は、ハッとなった。そうだ。智也がいるんだった。
「私が着るもの探しとくから、早く浴室に入ってよ。もう、こっちが恥ずかしくなっちゃうじゃん」
既にハダカだった薫は、楓に背中を押されて浴室に入って行った。
そして、シャワーが終わった時、浴室のドアが少しだけ開いて、バスタオルが渡される。薫が身体を拭き終えると、今度は下着を差し入れてくれる。だけど、シャワーの後の浴室は暑い。せっかくシャワーで汗を流したというのに、汗だらけになっちゃう。
薫は、浴室のドアを全開にして、えいっと外に出た。そして、下着姿のままで寝室へと向かおうとしたのだが……。
「あ、薫さん?」
小さな四人掛けの食卓テーブルにちょこんと座っていたのは、牧野智也だった。
「いらっしゃい、智也くん」
薫は、できるだけ平静を装って彼に声を掛けると、敢えてゆっくりと寝室の方に向かって行ったのだった。
★★★
寝室で楓が持って来てくれたTシャツとジャージに着替えた薫は、食卓の椅子に座って髪を乾かしていた。寝室の方はコンセントが全て塞がっていて、この場所でしかドライヤーが使えないのだ。
薫は妹の楓に「早く乾かしなよ」と言われて、急いでいた。それでも、適当な所で乾かすのを止めようとすると、それはそれで楓が怒るのだ。まるで小姑のような妹である。
ようやく乾かした髪の毛を後ろで束ねてから立ち上がると、楓に「お姉ちゃん、中学生みたいだね」と言われてしまった。
ちなみに、薫が今履いているジャージは、楓が中学の時の学校指定の奴で、臙脂色。楓が言う「中学生みたい」は、たぶん、そのことから来てると思うのだが、このジャージ、悔しいことに、今の薫にピッタリだ。そういう所もまた、薫が楓にイラっとしてしまう要因だったりする。
「な、何よ、お姉ちゃん」
「私が女子中学生に見えるだなんて、あんた、暑さで頭が変になっちゃったんじゃない?」
「ふふっ、私は大丈夫だから、さっさと座ってよ。智也くん、待ってるんだから」
薫は、思いっ切り楓を睨み付けてやったのに、軽くスルーされてしまった。
薫が改めて智也の方を見ると、彼はペコっと頭を下げて、「あ、あの、お邪魔してます」と、はにかみながら挨拶してくれた。さっき、下着姿の薫に遭遇したことは、どうやら無かったことにしてくれたらしい。けど、それにしては顔が真っ赤なんだけど……。
でも、そんな所も薫には、とっても可愛く感じてしまうのだ。
やっぱり、弟ってのも良いかも。
薫は、愛衣のことが少し羨ましくなってしまった。
そんなことを薫が思っている間に、楓は食卓テーブルにカレーライスが載ったお皿を並べて行く。他にもテーブルには、人数分の野菜サラダも置かれている。それから、コップが三つ……。
「もう、お姉ちゃんったら、ぼんやりしてないで、麦茶くらい出してよ」
楓に言われて立ち上がった薫は、冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注いでから、再び腰掛けた。
既に辺りには、カレーの食欲を誘う匂いが漂っている。
「それじゃ、いただきまーす」
薫は、ちゃんと手を合わせてからスプーンを取って、カレーがたっぷりと掛かったごはんを口に運んだ。
「おいしい」
思わず呟いたら、目の前の席の智也に笑われてしまった。薫は照れ隠しに「智也くんも、食べて食べて」と食事を促す。
「本当においしいですね」
「でしょう。野菜ばっかりで、お肉は入って無いんだけどね」
「お姉ちゃん、作ったの私なんだけど。それに、今日はちゃんと鶏肉、入れたんだよ」
「そうなの? どこかなあ……うーん、お鍋の底に溜まってるんじゃないの?」
「あのー、僕には、ちゃんと入ってますよ」
「もう、楓ったら、いじわるしたでしょう?」
「そんなの、偶然だよ、てか、お姉ちゃんって、お肉、嫌いじゃない」
「そんなことないよ。大衆酒場で鳥の唐揚げ食べたら、美味しかったんだもん」
「ええーっ、鳥から食べれるようになったの?」
「もう、そんなに驚かないでよ。これからは、何でも食べれるようになんなきゃいけないんだからさ」
「ふーん、そういうことか」
そんな姉妹のたわいもない会話を、智也はニコニコし孝雄で聞きながら、しきりにスプーンを動かしている。多めによそったカレーライスがどんどん減って行くのを見ているのは、何だか楽しい。
「智也くん、お代わりしても良いんだよ」
「えっ、本当ですか? やったー」
智也の顔が、嬉しそうに綻んだ。そして、二杯目を大盛にしてもらって、更に笑顔になる。釣られてなのか、楓も笑顔になっていた。
「ふふっ、お肉がちょっとしか入ってないカレーで、こんなに喜んでもらえるなんて思わなかったな」
「肉がないのは、うちだっておんなじですよ。ていうか、入ってるだけましじゃないですか。それより僕は、お代わりができることの方が嬉しいです」
「あ、それ、私も分かる。中学生の頃って、私もそうだったもん」
「ええーっ、女子でも、そんなに食欲あるものなんですか?」
「もちろんだよ。それなのに、うちのお母さん、それ以上は太るから駄目だとか言うんだもん」
薫は中高生の頃に、そこまで空腹感を覚えたことが無いので、そこは佳代の肩を持ちたい気分だった。
「それでも楓は、そんなに大きくなったんだから良いじゃない」
「大きくなったから、余計にお腹は減るのっ!」
「はいはい。でも、智也くんとこ、お腹いっぱい食べられないってのは、辛いよね」
「仕方ないですよ。母さんや姉さんがどんなに稼いできても、親父が持ってっちゃうから」
さっきまで笑顔だった智也の顔が、いきなり陰った。
「あ、ごめん。嫌なこと思い出させちゃったね」
「いや、良いんです。それより、楓さん達のお父さんは?」
「死んじゃったんだよ。……病気で」
「あ、僕こそ、ごめんなさい」
楓が黙り込んだままなので、代わりに薫が口を挟む。
「まあ、うちのお父さんも借金の原因になった人だから、智也くんとこと似たようなもんだったのかもね……いや、違うか。うちのお父さん、娘を殴ったことは無かったもんね」
薫が冗談めかして言うと楓が睨んできたので、途中で軌道修正した。確かに薫も楓も、父の武に愛されてはいたのだ。
薫の中途半端な物言いで、なんか気まずくなってしまった。それで、しばらく沈黙が続いて、それを終わらせたのは楓だった。
「ねえ、お姉ちゃん。明日なんだけど、天王夏祭りに行かない?」
「えっ?」
「昨日の夜、お姉ちゃんがスマホで夏祭りのこと話してるの、私、聞いちゃったんだ。相手は、山口さんだったっけ?」
薫は寝室で話していたのだけど、楓は聞いていたようだ。
今年の天王夏祭りに行くのは、薫自身、あまり乗り気ではない。でも、市役所勤務の松永陽輝や大鹿久美、そして妹分で高校教師の中野美香が行くと言うので、親友の山口沙希にも聞いてみたのだ。もし沙希が行くんだったら、薫も行っても良いと思ったのだけど、その彼女には断られてしまった。考えてみれば、松永が沙希を誘わない訳がないのだから、聞くだけ無駄だったのだ。彼は、未だに沙希に未練があるようで、何かと彼女を誘いたがっているのだから……。
「ねえ、お姉ちゃん。山口さんは駄目だったんでしょう? だったら、うちらと行こうよ」
「うちらって?」
「智也くんも行くって言うから、うちらなの。ねえ、良いでしょう?」
「でも、愛衣ちゃんは行かないよ」
「知ってる。姉ちゃんは仕事だから」
「だから、うちらが智也くんを連れて行ってあげるの。久しぶりだからさ、金魚すくい、やろうよ」
「あれは、ちょっとマズいんじゃない?」
「大丈夫。お姉ちゃんのことを憶えてる人なんて、もういないよ。だから、ねっ?」
こんな風に妹の楓からせがまれてしまえば、姉の薫としては『行くしかない』と思ってしまう。
そこで、智也が尋ねてきた。
「あの、金魚すくいって?」
「明日、行けば分かるよ。あ、お金とかは心配しなくて良いからね。お姉ちゃんが奢ってくれると思うから」
「僕、金魚すくいより、タコ焼きの方が良いな」
「タコ焼きかあ。金魚は食べられないもんね」
「もう、お姉ちゃんったら、変なこと言わないでよ。てか、顔が怖いよ。そんな顔、智也くんに見せないでくれる?」
「な、何よ、生意気な」
いつの間にか自分の顔がニヤけていたことに、薫は内心で冷や汗をかいた。そして、その動揺を悟られまいとして、サッと立ち上がった薫は楓の頭を軽くコツンと叩く。
すると楓は大げさに「痛ーい。お姉ちゃんがぶったあ」と喚き出す。そんな楓は無視して、薫はさっさと洗い物を始めたのだが、やがて薫の背中で楓と智也が語り合う声が聞こえてきた。
「なんか、薫さんと楓さんって、不思議な姉妹ですね。普段は楓さんの方が年上かなって思うことがあるくらいなのに、時々、楓さん、小さい子みたいになっちゃうっていうか……」
「あのね、智也くん。私とお姉ちゃんって、八つも歳が離れてるんだけど」
「ええーっ、そんな風には見えないんですけど」
「だろうね。うちのお姉ちゃんって、めっちゃ若く見られる人なんだ。智也くんは私の方が妹だって知ってるから間違えないと思うけど、初対面の人の場合、お姉ちゃんの方が妹だと思っちゃう人だって珍しくないんだよ。てか、私が兄貴って思われたこともあったなあ。まあ、こんな格好してるからなんだけど」
「い、いや、楓さんだって充分に女らしいっていうか……」
「ふふっ、別に無理しなくて良いよ。それより、想像してみて。八歳違いってことは、お姉ちゃんが今の智也くんと同じ中学一年の時、私は四歳だったんだからね」
「えっ、たったの……」
「そう。たったの四歳。四歳の女の子が中学生の姉に甘えるのって、自然なことなんじゃない? あ、そうだ。智也くんだって愛衣と二人の時は、結構、甘えん坊だって聞いてるよ」
「うっ、姉貴の奴……」
「別に、良いんじゃないかな。甘えられるのは、弟や妹の特権だと思うよ」
「確かに、そうですね」
「そうそう。じゃあ、智也くん、プリン食べよっか」
「えっ、プリンですか? やったあ」
やっぱり、楓は甘えん坊だし、まだまだ智也は子供だな。
二人に背中を向けながら、ふと、そんなことを思ってしまった薫だった。
★★★
夜の九時を十二分ほど過ぎた頃、薫は一人で外に出た。もちろん、Tシャツとジャージ姿のままだ。
夜のこんな時間になっても、外の空気は生暖かい。夜空には意外と雲が多くて、その隙間に、半分より少し足りない月が浮かんでいた。
アパートの前の道には、誰もいなかった。静かだ。
そんな中、遠くの方から小さな灯りが二つ、近付いて来るのが見えた。その光はどんどんと確かなものに変わって行って、やがて薄っすらと自転車に乗った人の姿を取り始める。
薫は、ゆっくりと手を振った。二人の方も手を振ってくれる。
「もう、こんなとこに突っ立ってたら、危ないじゃないですか?」
牧野愛衣の声だった。
「そうですよ、薫さん。遠くから見たシルエット、どう見たって女の子でしたよ」
もう一人は、もちろん、八木颯太だ。
でも、女の子って、どういう意味だろう?
「だって、ちゃんと二人が来るか心配になって……」
「私は、薫さんの方が心配ですっ!」
しっかり者の愛衣に言われてしまった。『私なら大丈夫だ』と言いたい所だったが、薫は黙っておくことにした。
「さあ、自転車に鍵を掛けたら、早く入って」
「あ、僕は……」
「颯太も少しくらい寄って行きなよ。楓も待ってるよ」
「うーん……じゃあ、少しだけ」
三人で外階段を上って、部屋に入る。ここに五人も人が入るのは、めったに無いことだ。
いや、今週の月曜も、そうだったっけ。
「今日はカレーだけど、颯太も食べるよね」
「えっ、僕、賄い食ってきたんだけど……」
「楓が作ったカレーだけど」
「あ、食べます」
颯太は、相変わらず分かり易い。
「愛衣ちゃんも普通によそうね?」
「はい。ありがとうございます」
薫は、楓を食卓テーブルに座らせて、全員分の麦茶を出す。そして、鏡台の椅子を持って来ると、テーブルの近くに置いて腰掛けた。
「楓さん、このカレー、おいしいです」
「うん、おいしい。ちゃんとチキン、入ってるし」
「だよね。姉ちゃんのカレー、野菜だけだもんな」
「こら、智也」
「ふふっ。うちも最近なんだよ。カレーにお肉が入るようになったの」
「そうなんだ。てことは、何かあった?」
愛衣の言葉で、楓が薫の方に視線を送ってくる。
薫は、そろそろ頃合いだと思って、例のことを話すことにした。
「あのね、愛衣ちゃん」
薫が口を開くと、愛衣が訝しげな視線を薫に向けてくる。薫は一瞬だけ躊躇った後で、先を続けた。
「店長には言ってあるんだけど、私、もう少ししたらバイト辞めるの」
愛衣がきょとんとした顔で薫を見詰めてくる。
「あの、どっかに就職、決まったんですか?」
「あ、それって、私がバイト辞めること言うと、必ず言われる奴だね。まあ、就職ではあるんだけど……、実は、軍に入ることになったんだ」
「えっ?」
愛衣が、小さな叫び声を上げた。すぐ隣で、颯太の目が大きく見開かれる。
「それって、やっぱり……」
「うん。借金の取り立てが厳しくてさ。結局、軍のリクルートセンターに飛び込んじゃった。貸金業者の人に、『風俗のお店を紹介してやるから、自分の身体で稼いでこい』みたいなことを言われちゃってね。それよりは、軍に入る方がマシでしょう?」
薫の告白に、しばらく沈黙が続いた。
誰も喋らないので、仕方なく薫が口を開く。
「あ、あのね。私は、良かったと思ってるの。確かに、まだ何とも言えない部分はあるんだけど、まあ何とかなると思う。借金の方も、何とか片が付きそうだし……」
「えっ、どういうことですか?」
薫の言葉に強く反応したのは、颯太だった。彼も借金のことは、両親から聞かされているんだろう。
「えーとね、軍の特別貸付金制度ってのがあるの。私は大学に行くのに軍の奨学金を借りたから、家の借金の他に奨学金の返済もあってさ。軍に入ることで、奨学金は返さなくても良くなるし、家の借金のお金も追加で借りられたってわけ」
颯太が何やら考え込む表情をしている。それを見て薫は、念の為に釘を刺しておくことにした。
「あのね、颯太。私は、瑛太や颯太に私と同じことは勧めないよ。だいたい、あんたの家は、うちより状況が良い筈でしょう。颯太は変なことは考えずに、まずは大学に入ることを考えなさい。あ、それから今ね、楓と愛衣ちゃん、それに智也くんも空いてる時間は市立図書館で勉強してるの。颯太も一緒に勉強しなよ。実は私もね、高校三年の夏休みだけど、市立図書館に籠って勉強したんだよ。あそこは冷房が効いてて、本当に天国だよ」
いろいろ薫が捲し立てても、颯太は渋い顔のままだった。それで薫は、奥の手を使うことにした。
「そうだ。颯太、分からないとこがあったら、楓に教えてもらいなよ」
颯太がぱっと顔を上げて楓の方を見た。
「あの、でも楓さん、受験生じゃないですか。僕なんかが話し掛けたりしたら迷惑なんじゃ……」
「別に、話し掛けられるくらいは何でもないよ。幼馴染なんだし」
少しめんどくさそうな口調で、楓が言った。
「それよりも愛衣。お姉ちゃんに、何か言いたいこと無いの?」
「あ、あの、薫さん。軍に入るの、いつなんです?」
「えーとね、まだ正式には決まってないの。でも、そんなに先じゃないよ。たぶん、あと二週間くらいだと思う」
「結構、すぐじゃないですか」
「うん」
「じゃあ、バイトの方は?」
「取り敢えず、来週は続けるよ。でも、その次は様子見かな」
「そうですか。薫さんが最近、昔みたいにぎっしりシフト入れなくなったのは、そういう理由だったんですね」
「うん。今まで黙ってて、ごめんね」
「あの、愛衣。私は、十日くらい前に聞いたんだけど、最初はショックだったんだ。でも、仕方ないんだよね……あれ、どうしたの、智也くん?」
さっきから黙り込んでいる智也のことが気になったのか、急に楓が彼に尋ねた。
「あの、僕、ふと思ったんです。姉ちゃんが軍に入ることになったら、嫌だなって……。あの、姉ちゃん。そん時は、僕に任せてっていうか……」
「な、何、偉そうなこと言ってんの、智也」
「智也くん、軍は、十七歳にならないと入れないんだよ……あ」
薫は、姉弟喧嘩に発展しそうな雲行きを察して口を挟んだのだが、思わず失言してしまった。颯太は、もうすぐ十七歳になるのだ。
何か言いたげな颯太の先を制して、楓が言った。
「こら、颯太。あんた、高校をやめてとか、高校を出たらとか考えてないでしょうね」
「えっ、でも……」
「颯太は絶対、大学に行きなよ」
今度は薫が、少し強く言った。
「そうだよ。最悪、軍の奨学金を借りてでも、大学には行った方が良いよ。それと、軍に入るのは最終手段にしなさい」
「な、何で……」
「そんなの、決まってるでしょうがっ!」
「あ、楓、私から言うわ。あのね、颯太。民間で働くにしたって軍に入るにしたって、大学を出てた方が、ずーっと出世とか早くなるし、お金だって多く貰えるの。もちろん、中には高卒だって、出世する人はいるけど、そういうのはごく一部だから。それにね、私みたいに軍から借りられる金額だって、大学を出た方が大きい筈なの。とにかく、軍に入るのは先延ばしにしなよ」
「そうそう。あんたが先走って、若菜さんが悲しむようなことはしないでね」
薫と楓から集中砲火を浴びた颯太は、それきり黙り込んでしまった。
★★★
「それよりさあ、颯太。あんた、明日の天王夏祭りはどうすんの? 友達と行く予定とかある?」
黙ったままの颯太を気遣ってか、楓が尋ねた。
「えーと……」
「あ、バイトだった?」
「いや、バイトは入れてないんだけど……、まだ悩んでるっていうか……」
「だったら、一緒に来る?」
「えっ?」
「あ、あの、お姉ちゃんと智也くんと私なんだけど……」
「行きます」
強い口調で颯太が言った。彼の目は、しっかりと楓の方に向いていて、楓はというと、微かに苦笑を浮かべている。
そこで、薫が口を挟んだ。
「えーと、愛衣ちゃんって、明日も夜九時までバイトだよね?」
「あ、そうだ」
バイトが終わった後の愛衣は、いつも颯太に送ってもらっているのだが……。
「じゃあさ、夏祭りの帰りはEマートに寄って、全員で一緒に帰るってのは、どうかな?」
「うん、それで良いと思うよ。颯太も愛衣も、それで良いでしょう?」
「はい」
「ありがとうございます」
という訳で、明日の夏祭りには颯太、智也、薫、楓の四人で行って、帰りに愛衣を拾って行くことで纏まったのだった。
★★★
天王夏祭りの話が決まった時点で、既に時刻は夜の十時。そろそろ皆を帰さないといけない時間だ。
「愛衣ちゃんと智也くんは私が送って行くから、颯太は先に自転車で帰りなよ」
「えっ、何を言ってんですか、薫さん」
「そうですよ。それに、私も智也も自転車ですよ」
「大丈夫。私、走るの得意だから」
「そういう問題じゃないです。だいたい、その格好、どう見たって中学生ですよ」
「ええーっ、愛衣ちゃんまで、それ言うの?」
「てことは、楓ちゃんに言われたんですね?」
「ていうか、このジャージ、私の中学の時の奴なんだけど……」
「ぷっ」
「な、なんで笑うのよ、颯太」
「だって、それ、似合い過ぎじゃないですか」
「ひ、酷い」
ああ、もう、何てことだろう。愛衣ちゃんや颯太の目から見ても、今の私は女子中学生に見えてしまっているということなのだ。
それで薫がショックを受けていると、愛衣が追い打ちを掛けてきた。
「ふふっ、その格好って、たぶん日比野店長が見たら、涎垂らして喜びそうですよね」
「むぅ」
カシャ。
「あれ、今の音って何?」
「私じゃないですよ……えっ、ひょっとして楓ちゃん?」
「ちょ、ちょっと楓、何やってんの?」
「良いじゃん。私のお姉ちゃんライブラリーに追加するんだから」
「へっ?」
「ふーん、楓ちゃん、薫さんラブだねえ」
「愛衣だって、充分ブラコンじゃん」
盛んに言い合ってる女三人の横で、颯太と智也が目を白黒させている。
「もう、私のジャージ姿、見せもんじゃないんだからね」
そう言って口を尖らせた薫が外に出て行くと、慌てて他の四人が負って行こうとする。
「楓は、中にいなさい」
「でも……」
「お姉ちゃん命令!」
「あの、薫さん、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫。颯太もさっさと自転車に乗りな。だいたい、あんたが一番危険なんだからね。何かあったら、私に連絡するんだよ。できるだけ早く飛んでくから」
「何なんですか、その自信?」
「あのね、私は軍人なの。そこら辺のチンピラなんて……」
「か、薫さん、声がでかいですって。もう、お酒とか飲んでないってのに、酔っ払い以上に質が悪いんだから」
「う、うるっさーい。さっさと行くよ」
薫が先頭を全力疾走。その後を颯太、愛衣、智也の三人が自転車で追い掛ける。照明の消えた天王シネマの前を通って五十メートルも行くと、もう愛衣と智也の住むアパートに着いてしまった。
颯太も一度、自転車から下りて、二人の姉弟がアパートに入るのを見届ける。それから、薫は颯太に行くように促した。
「本当に大丈夫なんですか?」
「くどい。大丈夫って言ってるでしょう。これ以上、言わせないの」
「はいはい。じゃあ、行きますね」
颯太が乗った自転車が小さくなっていくのを見送った後、薫は再び自分のアパートに向かって、軽いジョギングを始めたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話からは、また翔視点になります。少しの間、翔視点が続く予定です。
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