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第8話:高校時代 <翔サイド>

再々度、見直しました。


夏休みが開けた後、藤田(かける)水草薫みずくさかおるの二人は、教室でも部活でも一緒にいることが多くなって行った。

とはいえ、元々が無口で奥手な二人のこと、いきなり会話が弾むようになったりはしない。初めのうちは、ありきたりな挨拶と部活の事務的なやりとりを交わすだけで、話のネタがすぐに尽きてしまう。普通に雑談ができるようになることすら、この二人にとっては、高いハードルだったのだ。

それでも常に同じ空間にずっといるわけなので、お互い相手の存在に慣れてくるに連れて、少しずつではあっても二人が交わす会話が長くなっていく。それに連れて、二人の間の心の距離がだんだんと短くなって行った。


そして、秋が深まり、中庭の銀杏が黄色く色付く頃、二人が呼び合う言葉が変わった。

翔が「水草さん」を「水草」に変えたのは、夏休みが開けてすぐの頃だったのだが、その後しばらくは「水草」と「藤田くん」が続いていた。それが「かおる」と「かけるくん」になったのが、その頃だったのである。


普通、男子が女子を名前呼びするのは、恥ずかしがってなかなかできないものだが、翔の場合はちょっとした事故のようなものだった。

場面は、カップル成立の定番とも言える文化祭の前日のことである。翔たち一年二組は教室で模擬店をやることになっていたのだが、前日の午後になっても教室のセッティングが一向に進んでいなかった。クラスメイト全員てんやわいやの中、翔が少し離れた所にいた薫に用事があって「水草」と呼んだのだが、薫はちっとも気付かない。何度か呼んで少しムッときた翔は、無意識のうちに大声で「薫」と呼んでいたのだ。

ところがムッときたのは、薫も同じだった。その時、薫は薫で取り込んでいて手が離せない状態だったのだ。しばらくして、ようやく翔の方にやって来た薫は、彼女にしては精一杯の声で「何なの、翔くん」と叫んだのだった。

一方の翔は、目の前の仕事に夢中で薫が怒ってることすら気付いてはいなかった。それどころか、自分が何で薫を呼んだのかさえ忘れてしまっている始末。取り敢えず、今やっている仕事に、薫も取り込んでしまうことにした。


「悪い。ちょっとそこ持っててくれる?」

「えっ、何処どこ?」

「そこの端だよ。あ、動かないで……そのまま、立ってて」


結局、その日はそのまま二人がペアで作業を続けて、それを周囲のクラスメイト達は何も言わない。気が付くと全てのセッティングが終わるまで、二人はずっと一緒にいて、お互いが下の名前呼びにすっかり慣れてしまっていたのだった。


外に出ると、既に暗くなっていた。時刻はまだ午後六時を過ぎたばかりなのに、秋は日が短いのだ。

夜空には三日月が浮かんでいた。


「薫、確か自転車だったよな。家、遠いのか?」


この時、翔は薫が三十分以上も自転車を漕いで学校に通っていることを、まだ知らなかった。


「うん、翔くんは歩きでしょう。私、自転車置き場の方に行くから、ここでお別れだね」

「ここでお別れって、こんな暗い中、大丈夫なのかよ」

「うん。まだ先輩が学校にいるもん。さっき連絡したら、三十分に校門で待ち合わせしようだって……」

「えっ、お前、彼氏いるんか?」


日頃の薫には全くそんな気配が無いので、翔はつい大声を出してしまった。


「違うよ。もう、大きな声、出さないでよ。確かに待ち合わせしてんのはラグビー部の先輩で男子だけど、全然そんなんじゃないから。それに、途中で別の学校の子も合流することになってるし、中学にも寄ってくよ。中州なかすの子はね、みんなで一緒に帰らなきゃいけないことになってるんだよ」

「えっ、何処どこの子だって?」

「中州だよ」

「中州? それ、何処どこだよ?」


この時の翔にとって、「中州なかす」というのは初めて聞く地名だった。


「えっとねえ、あっちの大きな河ん中にある島みたいな土地なの。一応、川田かわた村の一部なんだよ」


その時、薫が指さした方角は西の方で、そこには大河が流れている。その手前が川田村という南北に細長い村で、後に左隣の天王市に吸収合併されている。翔はこの時、大河の向こうは別の県だと思っていた。


「薫、お前って、すっげえとこから通ってるんだな」


翔が思わずそう叫ぶと、薫は頬をぷくっと膨らませて「ひっとーい」と言った。


「なんか、そう言われるとムカつく」

「あ、ごめん。怒った?」

「少し、怒った。でもまあ、ド田舎ではあるんだけどね」


その後、翔は「本当にごめん」ともう一度謝ったのだが、薫は口を尖らせたまま自転車置き場の方に走って行ってしまった。


前日に薫を怒らせてしまい、彼女との関係がこじれることを心配した翔だったが、文化祭当日はごく普通に口をきいてもらえてホッとした。

そして、文化祭が終わった後には、すっかり下の名前で呼び合うことが定着し、それで関係値を深めた二人は、顔を合わせれば自然と冗談を言い合える仲にやっとなれたのである。


「翔くんって、たいてい朝、左側のここんとこに寝ぐせ、付いてるよね」

「薫だって、週に一度は後ろの髪、跳ねとるだろうが……。あれ?」

「……えっ、何じろじろ見てるの」

「ここんとこ、跳ねとる。ほら、自分で触ってみろよ」

「えっ? あ、ほんとだ。もう、もっと早く教えてよー。恥ずかしいなあ、もう」


そう言って薫は、微かに顔を赤らめる。たぶん翔にしか分からない違いだろう。薫も本当は恥ずかしがり屋なのだが、周りには「いつも落ち着いている」と思われているのだ。

そんな薫が自分の席へと向かう後ろ姿を、当時の翔は頬を緩めて見守っていたのだった。



★★★



ここで話は、翔と薫の高校入学当初に遡る。実は、いわゆる高校デビューにおいて、その二人は正反対のスタートを切った。

具体的には、翔がいち早く教室内ヒエラルキー上位のポジションを確保したのに対し、薫の場合、全くクラスに溶け込めずに教室で孤立した状態だったのである。


それには、薫の人見知りな性格と人並み外れた見た目とが起因していたのは間違いない。

薫は昔から大人しくて内気な性格で、感情をあまり表に出さない。それだけなら少し根暗な女子と認識されて、逆にそういった子と親しくなれたりするのだが、薫の場合、なまじ整った顔なだけに、相手に近寄り難い印象を与えてしまうようなのだ。


それだけではない。翔は、薫が教室で孤立していたのには、もうひとつの要因があったことを知っている。それは、大人しい彼女のイメージと懸け離れた悪意ある噂の存在だ。

当時の一年二組には薫と同じ川田かわた中学の出身者がもう一人いて、その男子が何故か薫のことをひどく恐れている感じだった。その杉浦天馬(てんま)という男子は、その理由をなかなか明かそうとしなかったのだが、クラスメイトの大半が噂の内容を多かれ少なかれ知っていた。そして、その噂を全く知らない生徒達ですら、彼女には何かあると思ってしまい、やがて男女ともに彼女を自然と避けるようになって行ったのだ。


当時の翔は、その噂については全くの無関心を貫いていた。噂の主は同じ剣道部の女子だったこともあり、明らかに嘘だと分かるような噂に関わること自体、腹立たしく思えたからだ。

それでも、その噂について一度だけ聞かされたことがある。相手は家が近所の幼馴染、矢野純一(じゅんいち)だった。一年の時に同じクラスだった矢野は、翔とは正反対の情報通で、たまたま退屈そうにしていた時に耳元で「水草薫の隠された秘密」とやらを囁いてきたのだ。

その内容は、もう覚えていない。たぶん、あまりに馬鹿らしくて、速攻で頭の片隅に追いやってしまったんだろうと翔は思っている。そもそも、その矢野というのは昔から、「何でも面白けりゃ、それでいい」というふざけた奴なのだ。だから翔は薫の噂についても、どうせ矢野が広めたんだろうと思っていた。


ところが、七月に入った辺りで、その矢野の薫に対する態度に目に見える変化があった。本来、お調子者である筈の矢野が、薫の悪口を一切言わなくなったのだ。いや、それどころか、薫のことを目上の存在として敬い出したのである。

そして、薫と同じ中学出身の杉浦の方との関係もまた、いつの間にか変わっていた。こっちは時々親しげに話すのを見掛けるようになった程度なのだが、薫の方はどうあれ、杉浦の方には恐らく恋愛感情がありそうだ。


更に、この頃になると、教室内での薫を取り巻く状況が変わり始めた。


その内のひとつは、薫が剣道部所属であることが広まったことだった。逆に言うと、一年二組のクラスメイト逹は、まさか薫が運動部に入っているとは夢にも思っていなかったということだ。

そして、それは同じ剣道部所属の翔との関係がクローズアップされることでもあった。当時の翔と薫は、まだ全くと言って良い程に会話を交わしていなかったにも関わらず、教室内ヒエラルキー上位の翔と繋がりがあるというだけで、彼女の教室内での地位を押し上げる要素となったのだった。


それと、ここからは翔が後で知ったことなのだが、七月に行われた球技大会で薫はバスケに出場して活躍したことも、クラスメイト達には衝撃的なことだったらしい。というのは、薫は見た目華奢な女子なので、あまり運動ができるようには見えないからだ。

それと、薫が中間テストで翔に次ぐクラス二位の成績だったこともまた、彼女の存在が見直される一因になったようだ。

もっとも薫の成績に関しては、この時点では一部の生徒しか知っておらず、翔も彼女の優秀さには気付いていなかった。翔が薫の成績について知るのは夏休み明けの実力テストの時で、彼女がクラス二位だと知って驚いた翔は、思わず大声を上げて彼女の顰蹙を買ってしまうのだが、それはまた別の話である。



そうして、夏休みが終わった後の九月になると矢野と杉浦以外にも薫に注目する男子は増えて行き、翔もまた徐々にではあるが、薫と話すようになって行った。

それでも、二組で薫と積極的に親しくなろうという女子はいなかったのだが、文化祭が終わると全ての状況が一変していた。つまり薫は、自然にクラスの中に溶け込むことができていたのだった。


本来、薫は真面目な性格なので、文化祭の準備の際、一部の連中がサボっている中でコツコツと作業をやっていたことが評価されたんだろう。それと彼女が噂のような怖い存在で無いことが分かったのも大きかったかもしれない。

薫の成績は、翔には少し劣るものの常に学年上位。分からないことがあって訊くとすぐ丁寧に教えてくれる。そうした所からも、薫はみんなの信望を集めていったのである。


ちなみに翔は、基本的に要領が良い方で、普通なら文化祭などはサボるタイプなのだが、今回は薫に引きずられる形で真面目に働く方にグループ分けされてしまった。おかげで翔は、一生懸命に働いてる姿が素敵だったと女子達の熱い視線を浴びる結果となったのだが、それは彼にとってはどうでも良いことだった。既に翔は薫に強く惹かれていたからだ。

ただし、そのことをプライドの高い翔自身が認めるかどうかは別の問題である。つまり、翔が薫を彼女として扱うことは無かったのだが、それでも周囲の生徒達は、次第に二人を微笑ましいカップルとして認識するようになって行く。そうして年末が近付く頃には、剣道部内だけじゃなくて、クラスメイト達にも二人の関係は、すっかり公認のものとなり、誰もそれに異を唱える者などいなくなっていたのだった。


本人がどう思っているかはともかく、翔も一応はイケメンの部類に入る。部活は剣道部で成績は学年で常に一桁以内。一般的には、そんな高スペックの男子と一緒にいる女子は、妬みの対象になって嫌われる。

だから薫も、そういう目に遭い掛けたことがない訳ではなかったのだが、彼女の真面目で控えめな性格に加えて、剣道部の先輩や山口沙希(さき)を筆頭とした仲間達が、それを許さなかった。それだけ剣道部は部員の結束が固く、天王高校内で周囲から一目置かれる集団だったのである。



★★★



天王高校剣道部には、長きにわたる伝統がある。旧制中学の時代から脈々と続く歴史の中には、全国大会出場の常連だった頃もあったそうだ。でも、翔や薫が在籍していた時は、男子が地区大会の二回戦か三回戦、女子がやっと県大会に行けるかどうかといった、ごくありふれた成績でしかなかった。

「強くなりたい」とか「大会で勝ちたい」というのは一部の限られた部員だけで、大半はサボる口実を見付けることの方に関心があった。みんなで楽しく部活ができれば、それでいい。そう思っている部員の方が主流派だったのである。

そういった部員達は顧問の先生がめったに顔を出さないのを良いことに、部室でのおしゃべりに夢中で、いつになっても着替えようとしない。しびれを切らした少数派の練習したいメンバーに部室から引きずり出されて、ようやく練習を始めるといったことが常態化していた。


雨の日は、女子の部室に全員が集まってトランプ大会になる。人数が多いから、大貧民が盛り上がった。伝統校だけあって、古い部室の中は畳が敷いてあるのだが、特に女子の部室は掃除が行き届いていて、綺麗だしくつろげる空間なのだ。

屋内で練習する剣道部には天候なんて関係ないのだが、「サッカー部やラグビー部が休みなのに、おれらだけ練習するなんて不公平じゃねえか」なんてことを臆面もなく主張した偉大な先輩が、何年か前にいたらしい。それで雨の日は練習をサボるという悪しき伝統ができたのだという。


トランプの大貧民やポーカーで圧倒的に強いのが、実は薫である。何があっても表情を変えない薫は、常に無敵の女王だった。


「仕方がないなあ。翔くんに私の大事なカード、めぐんであげよう」

「ありがとうごぜえますだ、女王様……って、3と4ばっかじゃねえかよ」

「だったら、革命起こせばいいんだよ、大貧民の翔くん」

「ちぇっ、そんなにうまく行くかよ」


トランプに飽きた時は、木刀をバット代わりにして野球の真似事に興じたりもする。剣道着でやるから動きに制約があって意外と楽しいのだが……、たまに警察署勤務とかの怖~いOBが突然、道場の引き戸をガラガラっと開けて入って来たりすることがある。そういう時には、素知らぬ顔で練習をやってたふりをするわけだ。だから、いつだって剣道着の状態で遊ぶのだ。

一見、おかしく思える伝統にも、ちゃんとした意味があるのである。


天気が良い土曜の午後には、近くを流れる大河のたもとまで約三キロのランニングである。もちろん剣道着で脇には竹刀を抱え、足は裸足はだしだ。知らない人が聞けば大変な苦行のように聞こえるかもしれないが、実は誰もがこれを楽しみにしていた。

天王高校からの道筋には田んぼやレンコン畑が広がっていて、真夏や真冬以外はそよ風が心地良い。途中で休憩を挟むから、慣れれば距離的にも大したことは無い。最初は一年女子の何人かが遅れることがあったりしたが、ちゃんと数人の先輩が残ってくれて、「歩いても良いから一緒に行こう」と最後まで付き添ってくれていたらしい。


そして、大河のたもとに到着したら、一気に土手の上に駆け上がる。初めて来た新入部員は、普通そこで歓声を上げるのだ。

そこから眺める景色は、本当に最高だった。

足元に広がるあしの繁みと広大な河原。その向こうには、午後の陽射しを浴びてキラキラ輝く大河の川面かわもがあって、遥か向こう岸の土手の上には、霞んで見える千本松原。更にその背後に連なるのは、養老ようろうの山々だ。


そして、本当のお目当ては、河原のあちこちに広がる細かい砂の川辺だった。海の砂浜と全く同様に踏み心地良い感触は、いつも部員達を無邪気にさせた。まるで小学生に戻ったかのようにはしゃぎながら男女でふざけ合い、夢中になって遊んだ。

何で遊ぶかは、その時々で違う。それこそ、ただの鬼ごっこや缶蹴りでも盛り上がるのだが、ビーチボールやフリスビーといった遊具を隠し持って行ったりしたこともあった。


遊び疲れて喉が渇けば、近くの売店の自販機まで誰かがジュースを買いに走る。それを土手の斜面に並んで腰掛けて飲みながら、たわいのないおしゃべりに耽るのだ。

川の水は澄んでいて、ひんやりとした風が通り抜けて行く。

目の前の広大な空間と青く澄んだ空。それらは翔たちを穏やかで、開放的な気分にさせてくれる。そして、これからの進学のこととか将来の不安、実力テストの点数が悪かったことだとか、志望大学の模試がD判定だったなんてことは、もうどうだって良いって思えてくる。嫌なことがぜーんぶ頭の中から消えていって、いつだってすがすがしい気分になれるのだ。

だから、どの部員もみんな、ここに来るのが大好きなのだった。



★★★



「あの大河の土手から見た景色、本当に良かったな。俺、ニューヨークに来てからも、あの景色だけは忘れられんわ」

「ふーん、そうなんだ」

「そういや、河原で遊ぶのに夢中で、気が付いたら夕陽が沈みそうになってたことがあっただろ?」

「そだね。そんなこともあったね」

「あん時、一番に慌ててたのって、薫だったよな?」

「そうだっけ?」

「そうだろ。お前、帰れなくなっちゃうって、泣きそうな顔、してたぞ」

「うーん」

「まだ、夏休みの前だったよな。俺、薫が焦ってるの見たのって、あん時だけだから、鮮明に覚えてるんだ」

「翔くんって、私が覚えてて欲しくないことは、ちゃんと覚えてるんだよね。やっぱり、意地悪だ」


昔の薫なら自嘲気味の変な笑みを浮かべる所だけど、薫は笑ってはいなかった。かといって怒ってもいない。どことなく淋し気な表情だった。


「確か、ラグビー部の河村先輩が待っててくれたんだよな?」

「うん。正人まさとくんには、迷惑かけちゃったよ」


ラグビー部の河村正人先輩というのは、薫と同じ中州なかすから通っている幼馴染らしく、彼女が一年の時には良く一緒に帰っていた。

翔にとっては懐かしいその話に、薫は今ひとつ喰い付きが悪かった。剣道部の他のエピソードには割とはしゃいだ素振そぶりを見せていたのに、ちょっと不思議だ。


「翔くん、あのね、あの時に私達が見たあの景色だけど、向こう岸にあったのが、私の故郷ふるさとだったんだよ」

「えっ、そうなのか?」


薫の故郷ふるさと中州なかすことは昔も時々聞かされていた。いつも「なーんにも無いとこだよ」と言いながらも、何だか楽しそうだったのを覚えている。

高校の頃は、いつか行ってみようと思ったこともあったけど、結局は一度も行かずじまいだった。薫の「なーんにもないとこ」を真に受けてしまっていたこともあるが、何となく薫の家族に会ってしまうことが億劫だったのが理由としては一番だったように思う。

翔は、いつだって面倒毎を先延ばししてしまう性格なのだ。


だけど、翔は今、少し後悔していた。


「そっか。あんな綺麗な景色があるんだったら、一度くらい行ってみたかったな」


気が付くと、そんな言葉が翔の口からボソッと零れ出てしまっていた。すると、何故か薫は悲し気な表情で俯いてしまう。それを翔は彼女が自分と別れたことを後悔してるんだと勝手に解釈してしまった。

しばらくして、薫もまたボソッと言葉を返してきた。


「本当に何もない所だったよ」


薫の言葉は、何故か過去形だった。でも、この時の翔は、その意味を深く考えることもなかったのだ。

そして、すぐに次の話題へと移ってしまったのだった。



★★★



「でも、あの頃は、ほんと良くここに来てたよな。たぶん、週に二回は来てたんじゃないかな」

「そだね。あ、でも、天王通りの喫茶店も良く行ったよ。ほら、安いケーキがいっぱいあるとこ」

「確か、ビクトリアだっけ?」

「そうそう。あそこって、ケーキのバラエティが豊富だったよね。それに安くて、意外と美味しいんだもん。病みつきになって当然だよ」


部活が終わった後、たぶん、一番良く行ったのは、お好み焼き屋の方だったと思う。

だけど、女子の強い要求に折れざるを得なくなって、ケーキが安い喫茶店にもちょくちょく通ってたのも事実だ。翔自身は、本音を言うと、腹が減ってる時にケーキなんて食べたくは無かった。たぶん、男子は全員、同じ意見だったと思う。それでも、男子と女子で別の店に行こうと言い出す奴は不思議といなくて、良く言い争いをしていたのを覚えている。


「私としては、お好み焼き屋も気に入ってたんだけどね」

「でも、女子は、だいたいケーキ屋に行きたがるんだよな。不思議だよな」

「女子は甘いものが好きだからね」

「でも、甘い物はデザートだろ? 飯を食ってから食べるものじゃないのか?」

「ご飯とケーキの両方を食べるんだったら、先にご飯を食べるけど、ケーキだけなら、別に良いんじゃない?」

「だって、家に帰ったら、すぐに飯を食うんだろう?」

「確かに翔くんは、すぐにおうちに着いちゃうもんね。だけど、私の場合は、そんなに早く帰れないんだよ」


そう言えば、薫以外にも遠くから通ってる奴は大勢いた。中には自転車の奴もいたけど、その大半は名鉄めいてつを使っていたように思う。


「でもさあ、さっきの翔くんの発想って、お好み焼きが前菜ってこと?」

「そうなるな。高校生の時って、とにかく腹が減ったもんな」

「あ、それは女子もおんなじだよ。でも、食欲に任せて食べてたら、すぐに太っちゃう。女子は、男子と違ってみんな、苦労してるんだからね」

「薫の場合は太るの、気にし過ぎなんだよ」


翔がそう言うと、薫は微妙な顔をした。


「まあ、でも今の薫は、前よりはまともになって良かったよ。前は本当に痩せ過ぎだったもんな」

「そだね」


そう言うと薫は、しばらく口を噤んでしまう。


高校の頃の薫も、やはり痩せていた。女子にしては割と背が高い方なのに、たぶん体重は四十キロ台だったんじゃないかと思う。


当時、部活が終わった後、いつも店に寄って行く時は自転車の二人乗りが常だった。本当はいけないことだけど、そろそろ時効だろう。

二人乗りは、男子が女子を後ろに乗っけて行くのが暗黙のルールで、翔は徒歩通学だったから、薫の自転車を翔が代わって漕いだ。もちろん後ろには薫を乗せていたけど、その時のペダルは驚くほど軽かったのを、翔は今でも良く覚えている。






たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。

この続きも宜しくお願いします。

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