第78話:離婚届 <薫サイド>
見直しました。
水草薫は、守谷駐屯地での射撃訓練の後、そこの食堂で朝食を取り、北島亜紀一尉と二人で面談した。それから星野菜々曹長と合流し、トレーニングルームで一時間ほど汗をかいた。
その後、その汗をシャワールームで流し、身支度を整えて駐車場に向かい、女三人で再び赤いジープ・ラングラーに乗り込んだのだが……。
「こら、菜々。これは、私が親父を言いくるめて手に入れた車だぞ。何で、お前が運転席にいるんだ?」
そうなのだ。現在、この車を運転しているのは、星野曹長。行きとは打って変わって穏やかな運転だった。
「だって、隊長の運転、無茶苦茶じゃないですか。ボクだけならまだしも、今日は水草さんだっているんだから、隊長みたいな人に運転は任せられません」
「うっ……」
「あの、この車って軍籍じゃなかったんですか?」
「それがさ、こんでも軍籍の車なんだよねー。隊長のお父さんが守谷の偉い人でさ、娘を溺愛しちゃってるわけ。それで隊長が自分の好きな車を守谷の予算で買わせて、こうやって自分のみたいに乗り回してるんだよ」
「えっ、隊長って、お嬢様だったんですか?」
「こら、菜々。余計なこと言うな」
「本当のことじゃないですか。だいたい、真っ赤なラングラーなんて、軍籍の車には有り得ないっていうか、しかも、これってカブリオレですよ」
今、薫たちが乗っている車には、屋根が無い。
「ねえ、水草さんも思うでしょう? こんな真夏にカブリオレなんて、狂気の沙汰だよね」
「こら、菜々。中東はもっと熱いぞ」
「あっちは、湿度が無いでしょうが」
「この車、クーラーとか無いんですか?」
「一応、付いてるよ。簡易的な屋根だったら、付けられるようになっててね。ボクが付けようとすると、隊長が怒るんだ」
「確かに、帽子とか被ってないと、頭とかおかしくなりそう」
ちなみに星野曹長は、薫の妹の楓が自転車に乗る時に使っているのと同じ野球帽を被っている。薫は、その星野から借りたスカーフを頭に巻いていた。助手席の亜紀だけは、頭に何もしていない。真夏の強烈な陽射しを浴びて、いかにも暑そうというか、「熱そう」だ。そのうち、髪の毛が燃えちゃいそう。
そんなことを思っている薫に、その亜紀が唐突に話し掛けてきた。
「そう言えば水草、お前、まだバイトやってるのか?」
「はい。今日は、たまたまオフなんですけどね。あ、でも、もう、辞めますよ。できれば、来週一杯で……」
「なんなんだ、その『できれば』ってのは?」
「うーん、なかなか人がいないって言いますか……」
「今の時代、求人を出せば、いくらでも集まってくるだろうが」
「水草さんの代わりは、なかなかいないってことじゃないですか?」
そこで口を挟んできたのは、運転手の星野曹長だった。
「まあ、それは分からんでもないが……、あ、そうだ。そう言えば昨日、お前が働いてるコンビニにチンピラが押し掛けたそうだな」
あまり触れて欲しくないことに言及されて、薫は微かに身体を震わせた。
「ええ、まあ。無事に退場してもらいましたけど」
「パトカーが何台も出動したと聞いてるぞ」
「……はい」
その後、薫は仕方なく、牧野愛衣の父親のことを話すハメになってしまった。
「まあ、貧民街に住んでる連中には、いろいろあるんだろうな」
「そうなんですけど、その愛衣ちゃんは、すっごく良い子で優秀なんです。彼女、勉強もバイトも頑張ってて……」
「なるほど、大学に行きたいってことか」
「はい。軍の奨学金を借りれば、大学に行くのは可能だと思いますけど、しょっちゅう父親が来て、生活費を持ってっちゃうんです」
「そんなもん、離婚すれば済む話じゃないのか? その子の母親が、まだ父親に未練があるってことか?」
「いや、母親の由利さんは、離婚したがってます。けど、父親の方が離婚を渋ってまして」
「なるほどな」
亜紀は、しばらく考えて、再び口を開いた。
「まあ、あれだ。どうせまたコンビニに来るだろうから、その時、離婚届に署名させれば良い」
「えっ、どうやってですか?」
「その時、お前がいれば、お前から頼んでやりゃ良いじゃないか?」
助手席の亜紀が身体を捻ってリアシートの薫に顔を向けてくる。その顔が、悪戯っぽく笑っていた。
「要するに隊長が言ってるのは、銃でちょっとだけ脅してやれってことですよ」
今度は、星野が物騒なことを言ってきた。
昨夜もそうした訳だし、まあ、別に良いけど……。
「大丈夫なんですか?」
「こないだも言っただろう。殺さなきゃ、大丈夫だ」
どうやら、問題ないらしい・。
「じゃあ、離婚届の用紙を取りに、役所に寄ってきますか?」
「あ、はい。えーと、じゃあ、すいません。天王市役所に降ろしてもらえますか? 私、市民課に知り合いがいますので」
「了解でーす」
星野曹長は、元気に目的地変更を了承してくれたのだった。
★★★
入口の自動ドアを抜けて天王市役所に入った途端、快適な冷気に包まれて薫は顔を綻ばせた。つまりは、それだけ外が暑かったということだ。
市民課に行って、番号札を取ってしばらく待つ。すぐに番号が呼ばれて窓口に向かった。
「あの、離婚届の用紙を頂けますか?」
「離婚届ですってえ? 何で、あなたなんかが……」
薫の前に現れた中年の女性に目的を告げると、何故かじろっと睨まれてしまった。今の役所は市民をお客さんと捉えることで窓口対応が改善されたと聞くが、まだまだお役所意識が抜けきらない人もいるようだ。
薫は溜め息を吐いて、もう一度、尋ねた。
「あの、離婚届の用紙が欲しいんですけど?」
「あのね。結婚してないと、離婚はできないんじゃないの?」
「確かに私は未婚ですけど、知り合いの両親の為に必要なんです」
さすがにムッと着た薫は、ついつい言い返してしまった。
「ふーん。で、今日は学校、どうしたの?」
「えっ、学校? 大学だったら、もう三年以上前に卒業してますけど」
「えっ、大学? 何言ってんのあなた。大人をからかうと……」
」松永くん、呼んでもらえません? 松永陽輝くんですけど」
「えっ? あなた、松永さんの親戚かなんかなの?」
「いや、高校の同級生です」
「もう、そんな訳ないでしょうがっ。いいかげんにしなさーいっ!」
窓口がドンと強く叩かれた。彼女の周囲に人が集まって来る。薫は後ろにも気配を感じて振り向くと、屈強な身体の警備員二人が立っていた。
薫は、再び溜め息を吐いた。
「あの、私、最初から声を荒げたり、乱暴な行動を取ったりしてませんけど、いきなりこういう対応をするのが……うっ」
警備員が肩に手を掛けて来たので、薫は咄嗟に身体を沈めた。横の男の足を引っ掛けて、窓口から少し離れる。と、そこでようやく声が掛かった。
「おっ、薫じゃねえか。どうしたんだよ……。えーと、内藤さん。何かあったんですか?」
現れたのは松永で、すぐに警備員との間に身体を割り込んできた。
「この子、嘘つきだし、訳の分からないこと……」
「内藤さん、市民の方にそういう言い方はないでしょう。きちんと何があったかを説明してもらえませんか?」
松永が強い口調で言う。どうやら、彼の方が立場が上のようだ。
それから五分後、その内藤という女性は、薫に平謝りだった。一方の薫は、どんなに謝ってもらった所で、機嫌は直っていない。でも、最初からずっと無表情のままなので、彼女には伝わっていないだろう。
もっとも、付き合いの長い松永には分かるようで、「そろそろ機嫌、直してくれよ」と言いながら薫を応接室に誘って、さっきの内藤という女性にコーヒーを持って来させてくれた。
その時に薫は、彼女から離婚届の用紙も受け取った。松永は、こないだの大衆酒場で薫が話したことを覚えていてくれたようで、「あの子のことか」と言って、すぐに納得してくれた。
「しっかし、お前ってトラブルメーカーだなあ」
「しょうがないでしょう。こういう見た目なんだから」
「歳より若く見えるってことか……。 まあ、そうだな」
「それより、人を見た目で判断するなって教育は大事だと思うよ」
「ああ、分かった。そう言っとく」
松永の話はそこで終わるのかと思ったら、急に真顔になった。それで、薫も少し身構える。
「それでよ、翔のことなんだけど」
やっぱり来たかと思った薫は、少しだけ考えてから口を開いた。
「どうせ、京香さんにでも聞いたんでしょう?」
「まあな。お前、本当に翔のことは、もう何とも思ってないのか?」
「ううん。何ともってことは無いよ。付き合いが長かったもんね。でも、今は、軍に入ることで頭がいっぱいって感じかな」
「軍に入るの、嫌なのか?」
「ううん。それは無い。それに、どのみち私には、それしか方法が無かった訳だし」
「そっか」
松永は、もっと何か言いたかったようだったが、その話はそこで打ち切りになった。部屋に別の人物が入って来たからだ。
「松永先輩、こういう時は、私も呼んでくださいよ。あの、水草先輩、お久しぶりでーす」
入って来たのは大鹿久美で、天王高校のひとつ下の後輩。中野美香の親友で、同じバスケ部だった子だ。薫からすると、残念な妹分である美香の世話を焼いてくれている恩人だ。
「お前、何でオレがここにいるって分かったんだよ?」
「桑山主任に頼まれたんです。先輩が中学生を応接室に連れ込んだみたいだから、見て来いって」
「何なんだよ、それ。てか、さっきの騒ぎで薫が見た目とは違うって分かったんじゃねえのかよ」
「桑山さん、さっきの騒ぎの時、トイレに行ってたみたいです。たぶん、水草先輩と応接室に入るとこだけ見たんじゃないですか?」
「ふふっ、とんだ災難って奴だね。私、これからここに来る時、最初に身分証とか出すことにするよ」
「確かに、そうしてくれた方が助かるかもな」
「水草先輩も、色々と大変なんですねえ」
何だか、久美に同情されてしまった。
「あ、そうだ。今週末って、天王夏祭りじゃないですか?」
薫は、天王夏祭りと聞いて、少しだけ身体を強張らせた。それは、元々薫の好きな祭りなのだが、今年は元カレとのことを思い出してしまいそうで、正直、あまり行きたくない。
でも、久美は案の定、誘ってきた。
「あの、今年は私、松永先輩と一緒に行くんです」
「えっ、えーと、それは良かったね」
「もう、何ですか、そのぎこちない言い方……あ、誤解ですよ。松永先輩が山口先輩に振られたからじゃないんです。だって、美香も一緒ですから」
「それは美香が、おじゃま虫だよね」
「もう、そんなんじゃなくて、皆でわいわい騒いだ方が楽しいじゃないですかあ。だから、水草さんも一緒に行きましょうよ」
久美は明るい子だ。それに、彼女には全く邪心が無い。
昔から松永に片思いの彼女は、本当なら彼と二人で行きたい筈だ。だけど松永に気を使わせたくなくて、わざわざ美香を一緒にと誘ったんだろう。
「うーん、考えとく」
結局、薫は、そんなあいまいな返事を残して、市役所を後にしたのだった。
★★★
天王市役所のすぐ隣には、市立図書館がある。今日は牧野愛衣もバイトはお休みなので、妹の楓と一緒に、そこで勉強している筈だ。
薫は、せっかくなので愛衣に離婚届の用紙を渡してあげようと思い、図書館へ向かうことにした。
スマホで時刻を確認すると、そろそろお昼だ。それで薫は、市役所の売店で鮭とタラコのおにぎりを買った。ここの売店のおにぎりは、市民病院の売店にあるのと同じ所で作られた物で、コンビニのよりもおいしい。
ついでに、二リットルのペットボトルのお茶とプリン三個も買って、外に出る。やっぱり暑いなと思いながら、薫は早足で図書館に入って行った。
図書館に入ると、冷房が効いていてホッとした。だけど、受験勉強で毎日のようにここに来ていた高校三年の夏休みの頃を思い出してしまい、胸がぎゅっとなった。当時は、いつも元カレの藤田翔と一緒だったからだ。
薫は、しゃがみ込んでしまいたくなる暗い感情を気力で胸の奥に押し込んで、あの頃と同じ二階への階段を上がって行く。
懐かしい学習室に入ると、すぐに楓と愛衣が見付かって、ようやく薫は安堵することができた。
「あれ、お姉ちゃん、どうしたの?」と不思議がる妹の楓に、「お昼にしよう」と言うと、楓は二つ返事で休憩室に付いて来た。もちろん、愛衣も一緒だ。
そこは、たぶん元は会議室だったであろう部屋で、広さは教室ぐらい。壁際に飲み物の自動販売機が二つ並んで置かれている。他には、折り畳みの長机とパイプ椅子が幾つも無造作にあるだけの殺風景な部屋だ。
そこに薫は一脚の長机を確保し、真ん中にお茶の大きなペットボトルをドンと置いてから、二人にプリンを配った。
最初は、「お姉ちゃん、ちょっと汗臭いよ。走って来たんじゃないの?」とか、「あ、ペットボトルのお茶じゃん。もう、贅沢しちゃってえ。うちらは水筒にお茶入れて持ってきてるから、そんなの必要ないのに」といった感じで、生意気なことを言っていた楓だが、目の前にプリンを置いてやった途端、「うわあ、プリンだあ」と可愛い歓声を上げた。
「薫さん、私にまで、良いんですか?」
「もちろんだよ。食べて、食べて。楓も、こんな安物に喜ばないでよ」
「だってえ、デザートなんて久しぶりじゃない」
「あんたには、いつもスナック菓子、あげてるでしょう。それに、こないだはチョコもあげたじゃない」
「あ、破棄品のお菓子ですね。うちの智也も大好きなんです」
この二人と話すと、どうしてもビンボートークになってしまう。
けど、そんな二人にも、薫が東京で袋詰めになった大量のパンの耳を買って、砂糖をまぶして食べてた話には、引いていた。何でなんだろう、おいしいのに。
「お姉ちゃん、このお茶、どうやって飲むの?」
「別に、口移しで良いじゃない」
「私は良いけど、愛衣が嫌がるんじゃない?」
「あ、私は水筒を持ってるから大丈夫です」
「それ、飲んじゃってから詰めるかだね」
「別に混ぜちゃっても良いんじゃない。嫌じゃなきゃだけど」
「お姉ちゃん、大雑把だなあ」
「あ、でも、そうさせてもらおっかな。私の、生温くなっちゃってるから、また冷たくなって良いかも」
「あ、そうかもだね」
薫が、「なんか、天高生の会話とは思えないね」と言うと、楓に、「二リットルのペットボトルのお茶に、口付けて飲もうとしてた人が良く言うよ」と呆れられてしまった。普通の女子は、そんなことしないらしい。
結局、女子高生二人は自分の水筒を満タンにして、残りを薫が飲むことにした。
「この二リットル、飲むのにコツがいるんだよね」
「あ、分かる。傾け過ぎると、鼻にドバっと中身が掛かるからでしょう?」
「えっ、どういうこと、楓ちゃん?」
「愛衣も一度、やってみたら良いよ」
そんな女子高生二人の会話を聞いた薫は、『愛衣ちゃんは、ペットボトルのお茶なんて買わないんだった』と遅まきながら気付いてしまった。でも、謝るレベルじゃないので、そこは放っておいて、自分のタラコのおにぎりにかぶり付く。
薫が味わって食べていると、既にプリンまで食べ終えた楓が声を掛けてきた。
「お姉ちゃんって、タラコとかのおにぎり、大好きだよね」
「うん。市役所と病院の売店のはおいしいんだ」
「破棄品ばかり食べてるから、そう思えるんじゃない?」
「違うよ。まあ、破棄品でも、楓のよりはおいしいんだけどね」
「ひっどーい。私だって、美緒さんに教えてもらって上達したんだからね」
「美緒のおにぎりかあ。あれは、美味しいもんね」
「もう。私のおにぎりの話をしてるってのにぃ」
妹の楓が口を尖らせて抗議しているのを横目で見ながら、薫はニ個のおにぎりを食べ終える。
今日は運動したから、お腹が空いたのだ。やっぱり、運動後のエネルギー補充には、おにぎりが一番だと思う。だけど、それだけじゃ物足りないんだよね。
そう思いながら、薫は自分の分のプリンを口に運んで行く。
「何かを食べてる時の薫さんって、なんか幸せそうですね?」
そう言って笑う愛衣を見て、ようやく薫は、自分がここに来た目的を思い出した。
それでも、プリンの最後のひと口を充分に味わって喉に流し込んでから、薫は愛衣の前に市役所の茶封筒をそっと置く。そして、怪訝そうな表情の愛衣に向かって声を掛けた。
「今日はね、これを市役所に取りに行ったの。由利さんに渡して、署名してもらってくれるかな? あ、もちろん、本気で離婚するつもりだったらってことだけど」
愛衣は、渡された離婚届の用紙をじっと見た上で言った。
「あの、お母さんは離婚したがってるから書名すると思うけど、お父さん、絶対にしないと思いますよ」
「大丈夫。たぶん、またお店の方に来るから、そん時に私が署名してもらうよ。愛衣ちゃんは、お母さんの署名をもらったら、私に戻して頂戴」
「あの、証人の所はどうします?」
「一人は私でしょう。もう一人は、日比野店長かな。もし駄目だったら、美香にでも頼むから」
「えっ、どなたです?」
「中野先生のことでしょう?」
「うん。あの子、私には逆らえないから」
薫が胸を張って答えると、愛衣が不思議そうな顔をする。それを無視して、薫は離婚届の用紙を彼女に押し付けた。
すると愛衣は、それをちらっと見てから、急に薫に向かって頭を下げた。昨夜のコンビニでの騒動の謝罪だった。
それに反応したのは、楓だった。
「お姉ちゃん、また何かやらかしたの?」
「ひっどい。不可抗力だったんだからね」
「ますます怪しいんだけど」
「あの、楓ちゃん。悪いのは、私の父なの。お父さんが仲間を連れて薫さんがいるコンビニEマートに押し掛けちゃって……」
それから愛衣は昨夜、彼女の父親の牧野秀樹が仲間を連れてEマートにやって来た時の顛末を、薫に代わって楓に説明してくれた。だけど、その場にいたのは薫の方なので、所々で修正を加える。当然、薫は妹に心配を掛けないような配慮をしたのだが、それが却って何かを隠していると受け取られ、楓の厳しい追及の呼び水となってしまった。
「……だけど、パトカーが何台も来ちゃったってのは、どう見たって大事なんじゃないの?」
「いや、たまたまバイトの同僚に天王署のお偉いさんがいてさ、その人が息子を心配して寄こしただけだから」
「そうなの?」
「そだよ」
薫は、平成を装って大きなペットボトルのお茶をラッパ飲みしてみた。ボトルを口から離した時、中のお茶が一気に下に落ちた反動で飛沫が口の周りを濡らしたけど、薫は男子みたいにTシャツの裾で拭う。そして顔を上げたら、楓と目が合った。
「だけどさあ、パトカーが来る迄の間、お姉ちゃん一人でオジサン達と戦ってたってことでしょう? それって、大丈夫だったの?」
「平気だよ」
「そうは思えないんだけど」
「こないだだって、見てたでしょう? 私、強いから」
「あのね、そういう中途半端に強いってのが一番、危ないって聞くよ」
「もう、それなりに経験もあるから大丈夫だよ」
「経験あるって何よ。私の知らない所で、もっとやらかしてるってこと?」
「もう、うるっさいなあ」
「姉ちゃん、こんなとこにいたんかよ。探したよ」
「あれ、智也くん?」
薫と楓が口喧嘩になり掛けた時、タイミング良くやって来たのは、牧野智也だった。
彼は中学一年で、身長は姉の愛衣と同じくらい。楓はもちろん、薫と比べてもだいぶ低い。それに痩せ型て、いつも少し不安げな表情をしている所は、薫から見ても守ってあげたくなってしまう可愛い系の男の子だ。
「楓さん。こんにちは。あ、薫さんも、どうしたんです?」
「えーと、ちょっと市役所に来たから、寄ったんだよ。智也くんは、宿題?」
「うん。なんか中学のは、凄い量が多くて」
「ねえ、隣の部屋に行かない?」
智也が宿題をカバンから出そうとした所で、楓が隣の学習室への移動を申し出た。近くに陣取った女子高生三人組が、大声で雑談を始めたからだ。
学習室も基本は私語禁止だけど、書架の隣の閲覧コーナー程は厳密じゃない。勉強を教え合ったりする程度のことは誰だってやっているし、学校みたいに見張りがいる訳でもないので、余程でない限りは咎められない。
だけど、あんまり酷いのは天高生としての品格を損なうことになる訳だから、図書館に来て迄勉強する生徒は基本的にルールを守ろうとする訳だ。
「あ、姉ちゃん、移動する前に何か飲ませてよ。外、滅茶苦茶暑くてさ」
「あ、智也くん、これ飲む? 私、口付けちゃったけど」
さっきの二リットルのお茶は、まだ三分の一くらい残っていた。
「うわあ、でっけえ」
「あ、薫さん、私ので良いですよ」
「良いよ、余ってるんだし。智也くん、全部、飲んじゃって良いから」
「えっ、本当ですか? じゃあ、頂きまーす」
智也は、よっぽど喉が渇いていたのか、ペットボトルの中身がどんどんと減って行く。それに、飲み方も上手だ。中学で友達に貰ったりして、こうやって飲んだことがあるのかもしれない。
「そういや智也くん、午前中はどうしてたの?」
「部活です」
「あ、柔道部なんだよね。楽しい?」
「うーん、まだ良く分からないっていうか、投げられてばっかりだし、結構、あちこち痛くて……」
「ふふっ、そんなもんだよ」
「あれ、お姉ちゃん、経験あるみたいじゃん」
「うん。こないだ軍の方で、ちょっとだけ教えてもらったんだ。それに私、中学の頃に空手なら習ってたし」
「えっ、初耳なんだけど」
「楓が分校に行く前のことだもんね。ほら、瀬古さんの娘さんんで、紗理奈さんっているじゃない。その人、ここの近くで旦那さんと一緒に道場やっててさ。私、その人に中州に来てもらって、マンツーマンの指導を受けてたんだ」
「ふーん。全然、知らなかった」
薫は、あの時に教えてもらって本当に良かったと思っている。楓にも習って欲しいけど、たぶん大学に受かってからだろう。
それから四人で学習室に移動して、薫は智也の夏休みの宿題と、楓と愛衣の英語を見てやった。
★★★
夕方になって、薫たち四人は市立図書館から自転車で自分達のアパートへ帰った。薫だけは自転車を持っていないので、牧野愛衣を後ろに乗せて、自分が漕ぐことにした。
この組み合わせは、四人の中で愛衣が一番軽そうだったからだ。
ちなみに楓と愛衣は、薄手で大きめのグレーのパーカーをTシャツの上に羽織っている。下は体育の時のハーフパンツだけど、それでも見るからに暑そうだ。
二人がこんな格好をしてるのは、暴漢対策だ。治安の悪い地区に住む若い女には、当然の対策である。一番良いのは男装だけど、それが難しければ、肌の露出をできるだけ控えることになる。そして、長い髪の毛も本当は駄目。だから、楓と愛衣の髪の毛は短い。
最近、楓は髪の毛を伸ばしているようだけど、それでも首筋までのショートボブだ。それを彼女は、地元チームの野球帽を被って隠している。この帽子は、元使用人の野崎にもらった物らしい。
一方、愛衣の髪は、もっと短いベリーショート。女子としては高身長の楓が女を隠し易いのと違い、小柄な愛衣が男っぽく見せるのはハードルが高い。その点、彼女が髪をベリーショートにしたのは、案外、正解だったかもしれない。
そんな愛衣に薫は、ふと思い付いたことを尋ねてみた。
「ねえ、愛衣ちゃん。夏祭り、どうするの?」
「えっ、夏祭りですか? もちろん、バイトですけど。かき入れ時なんで」
「あ、そだね」
愛衣に対しては愚問だったと、薫は聞いたことを少し後悔した。
夏祭りの夜はシフトに入りたがる人が誰もおらず、店長が特別手当を出すそうなのだ。例年、そうやって人を集めているらしい。
「そうだ。楓ちゃんが夏祭り、薫さんと一緒に行きたがってましたよ」
「ああ、あの子、お祭り好きだからね」
もっとも、本当に好きなのは薫自身なのだが、そこは愛衣には伏せておく。どうせ愛衣のは、楓に誘われて断ったことを気遣っての発言だろう。
でも、やっぱり今回の夏祭りは、気が進まなかった。だから、薫は愛衣の言葉を聞き流して、彼女のアパートへと急ぐ。
空は、ちょうど赤くなっていた。また一日が終わってしまう。そう思った薫は、ほんの少し淋しいものを感じていた。
★★★
その夜、親友の山口沙希から、スマホに通話の着信があった。まだ妹の楓が自室で勉強中なので、薫は寝室に入ってから受信ボタンに触れた。
沙希の通話の目的は、日曜に集まろうということだった。集まると言っても、二人以外のメンバーは水瀬美だけ。その三人で、お昼を一緒に食べたいらしい。
その三人だったら、先週も会っている。なのに薫が二つ返事でオッケーしたのは、自分がもうすぐ軍に入ること、そして沙希の声が何処か沈んでいたからだ。
彼女は前々から教頭との折り合いが悪くて、その彼のパワハラに悩んでいる。だから、『少しでも気晴らしになってくれたら』と薫は思った。
「場所はファミレスの『大衆食堂』で良いんだけど、薫はバイト?」
「うん。そうだけど、何とかする。明日、店長と話してみるよ」
「ちょっと遅めでも良いよ」
「うん、分かった」
日比野店長には、先週の土曜にも同じようにシフト変更をお願いしたばかりだ。薫としては少し気が咎めたが、まずは話してみるしかない。薫は、バイトのシフト表をスマホに表示しながら、その胸を沙希に話した。
ちなみに、さっき北島亜紀からメールがあって、名古屋で例のテロがあるかもしれないというのは来週の月曜ということだった。「月曜の午前中は空けておくように」と言われたので、薫は安全を見て、シフト開始を午後三時からに変更しておいた。だから、そっちも店長に何か言われるかもしれない。
「あんまり無理しなくても良いよ」
「ううん。私、もうすぐ軍に入っちゃうから、できるだけ沙希には会っておきたいんだ。とにかく明日、返事するから」
そう言ってから薫は、ふと思い付いて、土曜の夏祭りのことを尋ねてみることにした。
「ねえ、沙希。明後日の夏祭りなんだけど……」
「あ、ごめん。その日は久しぶりに母親の所に行こうと思ってさ。陽輝からも誘われたんだけど、断っちゃった」
「な-んだ、そういうことなんだね。実は今日、市役所に用事があって行ったら、松永くんに会って、夏祭りの話、聞いたんだ」
「薫は、夏祭り、好きだったもんね」
「まあね。でも、今年は、あまり行きたく無いかも」
「どうして? ひょっとして、翔のこと?」
「……うん。なんか、思い出しちゃいそうで」
「薫、翔のことは……」
「忘れるつもり。だって、今更でしょう。私、軍に入るんだもん」
「そっか。そうだよね」
沙希とは、それから、しばらくして通話を終えた。なんか、沙希の声が沈んでいるような気がしたけど、薫は追及しなかった。思わず翔の話をしてしまい、薫自身も沈んでしまっていたからだ。
この日の薫は、いつもよりもだいぶ早く布団に身を横たえて、そのまま眠りに落ちて行ったのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、翌日、7月31日の金曜日になります。薫視点の話からです。
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