第75話:週末の計画 <翔サイド>
見直しました。
◆7月30日(木)
その日、いつもより少し早い時間に藤田翔は目を覚ました。
ふと窓の方に目をやると、学生時代に翔が使っていた学習机の上に何か光るものが置かれている。何だろうと思った翔が目を細めてよく見ると、それは小さなガラスの小瓶だった。朝陽の中に輝く優雅なフォルムの紺色の小瓶……。
ああ、そうだった。昨日、香水を貰ったんだ。
翔は、昨日、桜木莉子からもらった香水のことを思い出した。それと同時に、彼女の可愛らしい笑顔を思い浮かべた翔は、一気に目が覚めて、ベッドから飛び起きることができた。そして、明るい気分で浴室へと向かって行った。
鼻歌を歌いながらシャワーを浴びて部屋に戻った翔は、おもむろに机の上に置かれた濃紺の小瓶を手に取った。そして、しばらくの間、それをじっと眺めた。そうしていると小瓶の中の液体が、まるで魔法の水のように思えてくる。
それから、ほんの一滴を首元に付けてみた。昨日は何とも思わなかったのに、今朝はとても良い香りに感じられるのが不思議だった。
それら一連の動作の間、翔の顔はずっと緩みっぱなしで、少々気持ち悪い状態だったのだが、幸いなことに誰にも見られてはいない。
翔は急いで身支度を整えると、相変わらず顔を綻ばせながら、少し浮かれた気分でリビングへと向かって行ったのだった。
★★★
「あ、おはよう、母さん」
「あら、おはよう、翔。今朝は機嫌が良いのね」
リビングでは、母の恵美が出迎えてくれた。「祖母さんは?」と訊くと、既に朝食を食べ終えて、離れの自室に戻って行ったらしい。
『相変わらず、朝が早い人だ』と思いながらダイニングテーブルに着くと、茶碗とお椀を運んで来た恵美が口を開いた。
「昨夜も言ったけど、今日はちゃんと早く帰って来るのよ」
どうやら、昨夜遅くに交わした言葉を、恵美はしっかり覚えているらしい。
翔は溜め息を吐きながら、「分かってるよ」と答えたのだった。
★★★
翔が食事を終える前に恵美は家を出て行った。
『重役なんだから、そんなに早く行かなくてもいいのに』と思いながら、翔は食べ終えた食器を食洗器に放り込む。こうしておけば、勝手に機械が洗ってくれるのだ。
恵美は昨日、あんなに遅く帰って来たというのに、朝になるとしっかりしていた。どうやら恵美は、まだまだ元気なようだ。恵美に万が一のことがあると大変だと昨夜は一瞬、怯えた翔だったが、やはり藤田の女は丈夫なんだろう。
祖母の初枝は軽い認知症な訳だけど、恵美とは血が繋がっていないので、心配する必要は無い。当分の間、藤田の跡継ぎのことなど考えなくても良いんじゃないか?
今朝の恵美の様子を見ていると、そんな風に思えてしまう。
翔は、相変わらず明るい気分のまま、身だしなみを整えると、玄関へと向かう。
家の前には、昨日、莉子が予約してくれた運転手のいない無人送迎ハイヤーが既に停まっていた。そこに翔が乗り込んでシートベルトを締めると、すぐに車は動き出したのだった。
★★★
翔がハイヤーで向かったのは、得意先のオフィースだった。今日は朝一で、そこと打ち合わせなのだ。
その得意先のレセプションホールで翔を出迎えてくれたのは、村井という女性担当者だった。その彼女に翔は、またもや香水のことを聞かれてしまった。この香水が今、日本で大人気なのは、どうやら本当のことのようだ。
「でも、ちょっと匂いが違いますね。藤田さんが付けてる物の方が爽やかな匂いのように思うのですが……」
「ああ、これ、今度発売する予定の新製品だからですよ」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ、桜木物産の人からサンプル品を貰ったんです。それより村井さん、少し匂いを嗅いだだけで、よくお分かりですね?」
「実は、その香水、主人が使ってまして……」
どうやら、この少し年上の女性担当者は、結婚しているようだ。同席してくれた係長によると、社内結婚だという。
「しかし、桜木物産さんと藤田さんのご実家の会社とは、競合関係にあるんじゃないですか?」
彼女は、翔が藤田コーポレーションのオーナーの一族であることを知っていた。
「一部の分野では競合ですけど、完全に競合という訳ではないですよ」
「そうなんですか?」
「はい。うちの母も、桜木物産の社長とは懇意にしてるみたいですし」
「なるほど」
彼女は、そこで何やら、思わせぶりな表情を見せたのだが、翔はそれに気付かないふりをして本題に入ることにした。
「ところで、昨日、頂いたメールの件ですが……」
★★★
朝一で向かった得意先との商談は途中までスムーズに進んだのだが、納期の点で折り合いが付かず、その調整で思ったよりも長引いてしまった。その為、翔が支社に着くと時刻は正午を過ぎており、十一階の営業フロアにも社員は数える程しか残っていない。
翔が自席に向かうと、その数少ない社員の一人が声を掛けてくれた。もpちろん、沙希らぎ莉子である。
「翔さん、お疲れ様です」
そして彼女は、翔にサッと冷たい麦茶を渡してくれる。
当然、移動にはセルフのタクシーを使ったのだが、それでも翔の額には薄っすらと汗が浮かんでいたので、冷たい飲み物は本当に有難い。そして、それ以上に翔の心を癒してくれたのは、婚約者である彼女の可愛い笑顔だった。
麦茶を一気に飲み干した翔を見て、莉子は翔の分のお弁当を差し出した後、再びお茶のお代わりを取りに、給湯室の方へと向かって行った。
その後、莉子が造ってくれた弁当を頂きながら、翔は香水の話を口にした。
「いやあ、本当にありがとう。昨日も今日も、莉子に貰った香水のことを必ず口にされるんだ。あの香水、随分と人気があるみたいだね」
「ふふっ、喜んでもらえて嬉しいわ」
「今朝も村井さんに聞かれちゃってね。もうすぐ発売される新製品だって教えてあげたよ。あの人の旦那さんが、このシリーズの香水を使ってるんだってさ」
「ええ、そうよ。私、先日のパーティーで村井さんにお会いしたことがあって、香水のお話しをさせて頂いたの。その時に村井さんは、私のことを既にご存じで……、どうやら私のことは、中馬さんがお話しされていたみたいね」
「ということは、ひょっとして俺と莉子の関係を……」
「村井さん、勘の良い方だから、あり得るかも。と言っても、今の私達の段階はまだ……」
莉子は、少しだけ不安げな表情になって、下を向いてしまった。
そこで、ハッとなった翔は、改めて口を開いた。
「あの、今週末なんだけどさ、何か予定とか入ってる?」
翔の声に、莉子の表情が急に明るくなった。今週末は、土日の両方共に大丈夫だと言う。
やっぱり、彼女の方も今週末のことを気にしていたみたいだ。
「それで、ひとまず土曜なんだけどさ、天王夏祭りって知ってる?」
そこで改めて翔は、莉子に土曜のお祭りの話をした。
「……それでさあ、もし良ければ明日も夕食、一緒にどうかな? 週末の予定について話したいしさ」
「大丈夫よ。とっても嬉しい。ふふっ、実は、明日の夕食の場所、千春先輩が考えてくれてるみたいなの」
「えっ、千春さんが? なんか、心配だなあ」
「こないだの焼き肉屋というか、韓国料理店のことがあるものね。たぶん、おいしいお店だとは思うんだけど」
「だよね」
そんな話をした所で、昼飯に出ていた人達がぱらぱらと戻って来た。今日は営業四課の中馬さんと杉本さんも社内にいたようで、翔や莉子の方に生暖かい視線を向けてくる。
ヤバいと思った翔は、慌てて空になった弁当箱を莉子に返すと、ノートパソコンを開き、二人の先輩に対して素知らぬ顔を決め込んだのだった。
★★★
午後は外出しない予定だったのだが、急遽、得意先のひとつから打ち合わせの申し出があって行かなければならなくなってしまった。昨日、翔が送った見積書について、直接に会って話が聞きたいと言われたからだ。
それから、非常に残念なことに、明日の昼に会食の予定も入れられてしまった。もちろん、残念なのは莉子の手作り弁当が食べられないことだ。
それでも莉子は、「お仕事が優先だから、仕方がないわね」と言ってくれた上で、「でも、明日は一緒に夕食を食べれるから、大丈夫でしょう?」と励ましてくれた。
そして夕方の得意先との打ち合わせだが、案の定、長引きそうだったので、途中で翔は、「この後、別の客との会食が入ってますので」と言って、少々強引に切り上げた。
今日は早く帰るようにと、恵美から何度も念押しされているのだ。いくら仕事だと言っても、後でしつこく嫌味を言われるに決っている。
帰りは、名鉄を使った。その顧客のオフィースが名鉄の金山という駅の真ん前にあったので、名鉄を使って帰るのが一番早いと思ったのだ。
時刻は既に五時半になっており、車内はかなり混雑していた。とはいえ、朝の地下鉄ほどは混んでいない。相変わらず女性が多いのだが、名鉄には女性専用の時間帯とか車両とかは無いことを確認済みなので、翔は気ままに吊り革に掴まっていることができた。しかも、名古屋駅からは座れたので快適だった。
そうこうするうちに、翔は天王駅に着いてしまっていたのだった。
この時間の天王駅は、久しぶりだった。翔が帰国して最初の日以来だ。
あの時と同じように、駅前は人が多い。その人混みの中には、青緑色のチェックのスカートやズボンの制服を着た高校生もちらほら見える。天王北高の生徒達だ。
あの日、翔はコンビニの爆破事件に遭遇し、その直後に元カノの水草薫とバッタリ会った。それは翔にとって三年ぶりの思い掛けない再会だったのだが、その時のことが、もう随分と昔のことに感じられてしまう。
翔は、ふと思い出してハンバーガー屋の方に目をやった。すると、その手前の木の下には、やはり汚い身なりの年配の男がいて、道行く人に手を差し伸べている。更に、交番の前には中年の警官が立っており、人混みに目を光らせているのも、あの日と全く同じだった。
翔は、天王通りの方に足を踏み入れて、神社に向かって歩いて行く。
そう言えば月曜日、ここでスリに遇っっけ。あの日は、高校の同級生、堀田詩織が助けてくれたんだった。
そのことを思い出した翔は、サッと周囲に目を走らせた。この時間、天王通りを行き交う人は割と多い。ほとんどは翔と同様に神社の方へ歩いているのだが、逆行する人もたまにいる。それから……、あれ?
その時、翔の目に飛び込んで来たのは、小学校低学年くらいの女の子だった。彼女は、道を行く人達に何かをねだっているようだ。
その子をじっと見ているうちに、目が合ってしまった。身なりは見すぼらしいけど、割と可愛い子だ。
翔は、反射的にポケットの中を探って、そこにあった小銭から百円玉を三枚、彼女に渡してあげた。小銭は、支社の自動販売機で缶コーヒーとかを買う為のものだった。
翔から三百円を受け取った女の子は、にっこちと笑って、「ありがとう、オジサン」と言ってくれた。
『オジサンじゃないぞ』と思ったけど、言わなかった。
「あら、藤田くんじゃないの」
翔が声のした方に目をやると、こないだの日曜日、ここで同じように会った松永京香の姿があった。
「さっきの、見てたわよ。藤田くんって、優しいのね」
「あ、いや、たまたま……」
「たまたまっていうと、ひょっとして、薫ちゃんのことでも思い出してたの?」
結構、図星だった。
「確かに、あの子達、薫ちゃんの近所の子達かもしれないものね」
翔が無言でいると、京香は「少し歩きましょう」と言って、翔の背を軽く押してくる。翔は京香に促されて、神社の方に歩いて行った。
「あれ、京香さん、駅の方に向かってたんじゃ?」
「そうだけど、あの子の近くに長く居ない方が良いと思って。すぐに他の子がいっぱい寄って来ちゃうわよ。それに、スリとかにも狙われちゃうだろうし」
「あ、そうですね」
そんな会話をしながら、翔たちは大衆酒場まで来ると、入口の辺りで立ち止まる。
「ここだったら、店員の目だってあるから大丈夫よ……あら、藤田くん、香水?」
「ええ、まあ」
翔は、『またか』と思いながらも、頷いておく。
「この匂い、最近、人気の奴よね」
「よくご存じですね」
「分かった。貰ったんでしょう?」
「えっ?」
何故そういう結論になるのか、翔には不思議だった。
「へえ、図星だったみたいね。会社の子?」
どうやら、当てずっぽうだったようだ。
「ふーん。やっぱり、会社に良い子がいるんだ。まあ、藤田くんだったら、モテるもんね」
「……っ」
翔は、冷や汗をかきながら、突っ立っていることしかできない。
「でも、良かったじゃない。その子のこと、大切にしなよ」
京香は、そう言い残して駅の方に行ってしまう。
翔は、溜め息を吐いた後、再び神社の方に歩き出したのだった。
★★★
翔が実家に着くと、既に倉橋家の三姉妹は揃っていた。しかも、恵美までもがダイニングのテーブルに座っていて、枝豆をおつまみにしてビールの入ったグラスを傾けている。
そんな恵美の前に、三姉妹の末っ子の倉橋花音がやって来て、次々と料理を並べて行く。冷奴に揚げ出し豆腐、唐揚げに刺身やホウレンソウのお浸し、イカ大根など、どれも基本的には酒のおつまみだ。
「さてと、翔も来たことだし、まずは乾杯でもしましょうか?」
「ちょっと待ってよ、母さん。先に着替えて来るからさ。それと、祖母さん、どうしたの?」
「さっき、そうめん食べて、離れの方に戻って行ったわよ」
なるほど、年寄りは食事の時間が早いらしい。
翔は、急いで自室に行って、部屋ぎに着替えてからダイニングに戻った。
すると、三姉妹の長女、倉橋亜里沙が声を掛けてきた。
「翔さん、また京香に会ったんだってね?」
「ええ、まあ」
「その京香にまで、『付き合ってる子がいる』って言っちゃったんだって?」
「言ってませんよ」
「翔さんの顔が、そう言ってたってことでしょう?」
「どういう意味ですか、それ?」
「もう、怒んないでよ」
最後にそう言ったのは、三姉妹の真ん中、倉橋沙也加だ。
現在、翔の前に三人の女性が並んでいる。右から亜里沙、沙也加、そして母の恵美だ。
「じゃあ、そろそろ本題に入りましょうかね」
再びグラスの中のビールを空けた恵美が、おもむろに口を開いた。
翔も半ばやけっぱちになって、さっき花音が注いでくれたビールを一気に飲み干す。やはり喉が渇いていたのか、随分と美味しく感じられた。
「で、桜木さんのお嬢さん、週末の予定はどうだったの?」
「空いてるそうだよ。あと、明日の夕食も一緒に食べることになった」
翔がそう言った途端、亜里沙と沙也加が冷やかしの歓声を上げる。
「花音ちゃんも、こっちに来て、一緒に飲みましょう」
「えっ、でも」
「大丈夫よ。お代わりとか欲しければ、それぞれが取りに行けば良いんだから」
「じゃあ、ビール、持って来ておきますね」
花音は、ビールの大びんを持てるだけ抱えてテーブルに運ぶと、翔の横にちょこんと座った。すかさず前の席の亜里沙がグラスにビールを注いだ。
「えーと、その子の名前って……」
「桜木莉子だけど」
「意外と積極的なのね」
「あれですよ、奥様。時間が限られてるからじゃないですかね」
「まあ、そうでしょうね」
「でも、性格は控えめで大人しい子みたいですよ。たぶん、芯が強い子なんだと思いますけど、写真の方も、割と小柄で可愛い子ですよね」
「沙也加が言う程、小柄じゃないじゃない。平均より少し低いって所でしょう?」
「えーと、身長は、百五十八か……」
「ちょうど良いんじゃないかな。少し瘦せ型ではあるけどね」
「好き嫌いは、野菜かあ。特にピーマンが駄目ってことは、やっぱ、甘やかされて育ったんじゃないの?」
「ずっと女子校で、男の人と付き合ったことが無いみたいね」
「そこは、桜木さんが子煩悩だからよ。あの人だったら、娘に悪い虫が付かないようにって、必死になりそうだもの」
「奥様がおっしゃるのも本当なんでしょうけど、本人の性格にもよるんじゃないかしら」
「あのー……」
「どうかしましたか、翔さん?」
翔が口を挟むと、沙也加が不躾な声を上げた。
「あ、いや……。てか、さっきから、何を見てんだよ」
「何をって、スマホの画面だけど」
確かに、亜里沙、沙也加、そして恵美がじっと見ているのは、スマホの画面だ。
「だから、そこに何があるんだよ?」
「そんなの決ってるじゃない。桜木莉子のプロフィールよ」
「なんで、その食べ物の好き嫌いまであるんだよ?」
「そこは、調べたからに決ってるじゃない」
「だって、昨日の今日だろ」
「そんなもん、一日あれば充分じゃないの。翔さん、この沙也加を舐めてもらっちゃ、困りますよ」
「お前なあ」
ちなみに、この沙也加は同じ歳の幼馴染というだけでなく、幼稚園から高校まで一緒の学校でもあった。彼女は天王高校で生徒会長を務めており、その後、この地方で一番の難関とされている国立大学を……。待てよ。ひょっとすると……。
その時、翔は、こないだの日曜の夕食会で沙也加が口にした言葉をおもい出した。
こいつ、確か、うちの会社の名古屋支社に知り合いがいるようなことを言ってなかったか?
となると、大学繋がりである可能性が……。
「ふふっ、翔さん、ようやく気付いたって顔ね」
幼馴染だけあって、沙也加は翔の表情を読むのがうまい。
とはいえ、翔が言うことは決まっていた。
「ひょっとして、お前って犬飼葉月のこと、知ってたのか?」
「ふふっ、やっと分かったんだ」
「お前なあ……」
「まあ、良いわ。教えたげる。葉月は、私のゼミの可愛い後輩よ」
「やっぱり」
「彼女は、優秀よ。私はね、葉月でも藤田の嫁は充分に務まると思うわ。あの子の場合、お兄さんがいるから、家を継ぐうんぬんは関係無い訳だし……。でも、桜木莉子って子が候補に挙がった時点で、彼女の線は消えたわね」
「どういうことだよ?」
「あら、分からないの?」
「分かんねえよ」
「まあ、そのことは、ゆっくり考えれば良いわ」
「何だよ、それ」
「それとね、優秀さだけで言うなら、水草さんよ。血筋から言っても、素晴らしい訳だし」
「大名の末裔ってことか?」
「そうよ。それと、彼女の曾祖母に当たる人が凄い人でね……。どうせ今となっては、もう関係無い話ね。本題の方に戻りましょうか」
そこで再び、恵美が口を開いた。
「さっき、ここで話し合って決めた事なんだけど、土曜日、その子には洋服で来てもらいなさい」
「えっ、洋服?」
「そうよ。それで、うちに連れて来て、浴衣を選んでもらうの。それと、帯や草履、小物とかも全部うちで揃えるって言っておいて頂戴」
「浴衣の着付けと髪の毛は、私がやるわ」
「浴衣の方は、藤田の新作を二十着くらい選んで、並べるつもりよ。翔さんが今、付けてる香水、彼女からプレゼントされた奴でしょう。それのお返しに『浴衣をプレゼントしたい』って言えば、ここに連れて来る口実になるじゃない」
恵美の後は、亜里沙、沙也加と順に説明してくれる。確かに良い案ではあると思うけど……。
「いやあ、浴衣くらい自分のを持ってるんじゃないのか?」
「そりゃ、持ってるでしょうけど、彼女だって社長令嬢なんだし、毎年、買い替えたって不思議じゃないと思うわよ。女の子ってのはね、着物や洋服だったら、どれだけたくさんあっても、新しいのが欲しくなるもんなの」
「奥様の言う通りよ、翔さん」
「あ、翔さんにも、新しいの用意してあげるから。彼女が何を選ぶか分からないから、五つくらい準備しといて、似合うのを着てくれれば良いわよ」
何だか、大げさな気がするけど、大丈夫なんだろうか?
翔がそう思った後だった。
「それでね、翔」
恵美が、おもむろに口を開いた。
「何だよ?」
「その桜木さんのお嬢さんにね、もし私から見ても良い子だった場合だけど……、あんたは土曜日、天王夏まつりの時にプロポーズしちゃいなさい」
「えっ?」
それは、いくら何でも急すぎるんじゃないだろうか?
そう思った翔が驚いた顔をすると、正面の沙也加がニヤッと不敵な笑みを浮かべて口を挟んで来た。
「さあて、できるかなあ、翔さんに?」
「な、何だよ」
「何だったら、ここで練習とかしてみる? 仕方が無いから、付き合ってあげても良いわよ」
「何なんだよ、練習って」
「ふふっ、冗談に決まってるでしょう」
「はあ?」
「あ、プロポーズの話は、本当よ。この週末にしなきゃ、間に合わないんだからね……てか、週末にプロポーズしたって、ギリでも間に合わせるのは至難の業なんだけど」
「な、何がだよ?」
「そんなの、決まってるじゃない。結婚式よ」
「……っ」
翔は、頭を抱えたくなった。いくらなんでも、早すぎだろう。
そこで再び口を開いたのは、恵美だった。
「じゃあ、翔に聞くけど、あんた、その子と本気で結婚する気はあるの?」
「そ、そんなの……」
翔は、一瞬だけ考えてから、先を続けた。
「当然だろ。そんなの、結婚したいに決ってるだろうがっ!」
思わず怒鳴ってしまった。ほとんど勢いだったのだが、この時の翔には、三人の女性に乗せられたという認識は無い。
翔の隣では、花音が黙々とビールを飲んでいた。それでも目の前で交わされている話はしっかりと訊いているようで、時折り頷いたり、首を横に振ったりしている。
「まあ、それなら良いわ。婚約指輪は土曜日一杯で用意させるから、あんたは日曜にそれを持ってって、その子に渡しちゃいなさい。それで、来週の早い時期に向こう側の家へ挨拶に行くこと……」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
翔は、慌てて母の話を遮った。
「そんなにとんとん拍子に、行くわけ無いだろうが」
「ふふっ、あははは……」
笑ったのは、亜里沙だった。
「やっぱり、翔さんのへたりっぷりは健在ね。ていうか、それって藤田の伝統なのかしら。『石橋を何度叩いても渡らない』って奴」
亜里沙の言葉に困惑した翔が母の恵美を見ると、すっかり呆れた表情だ。『これはまずい』と思った翔が言い訳を考えだした所で、沙也加から叱責の声が飛んだ。
「翔さん、分かってる? たぶん、あなたが短期決戦に持ち込めないようだと、今回の話は確実に流れるわよ。だから奥様は、翔さんに『本気で結婚する気はあるの?』ってお聞きになったんじゃない。その『本気』ってのが嘘じゃないなら、もっと真剣になりなよ」
そこで、「まあまあ」と言って沙也加を宥めてくれたのは、亜里沙だった。その時の恵美はというと、おつまみの枝豆を手で弄んでいて表情が読み取れない。
すると、翔の隣の席に座っていた花音が、さっと立ち上がってキッチンの方に向かって行く。
その花音は、十分もしないうちに茹で上がったそうめんを持って戻って来た。それから再びキッチンに戻って行って、今度は麺つゆと薬味を乗せたお盆を運んで来てくれる。
そして母の恵美が、「さあ、頂きましょう」と言って食べ始めた後は、もはや莉子のことは誰も口にしなかった。
ところが、翔が食事を終えて席を立った時だった。食器を片付けに来た花音が、そっと耳打ちしてくれたのだ。
「さっきの話、大丈夫だと思いますよ」
「えっ?」
「だって、その相手の子だって、翔さんと結婚したい訳でしょう?」
「そうかな?」
「ふふっ、女子って、翔さんが思ってる以上にしたたかなんですよ……あ、その香水、本当に良い匂い」
それだけ言うと花音は、キッチンの奥に消えて行ってしまった。
★★★
寝る前に翔は、莉子からもらった香水の小瓶を何気なく手に取って眺めていた。そうしていると、さっきの夕食会での会話のやりとりが次々と頭の中に蘇ってくる。
その中で一番に衝撃的だったのは、母の恵美の言葉だ。
『あんた、その子と本気で結婚する気はあるの?』
今も翔の頭の中では、その言葉が何度もリフレインされている。
もちろん、翔の答えは決まっている。そして、その通り恵美に答えたのだが、特に倉橋沙也加に翔の「本気」具合を疑われた挙句、「もっと真剣になりなよ」と叱咤されてしまった。
とはいえ、翔は翔なりに本気だった。元カノの水草薫との復縁が困難になった以上、莉子との関係は大切にしたい。だけど、大切だと思うからこそ、プロポーズとか結婚とかを早急に進めることをためらってしまうのだ。
時間的な制約については、翔も考えてはいる。沙也加が言うように、この恋愛は短期決戦であって、一か八かの思い切ったアクションが必要なことも理解できるのだが……。
ここまで考えた翔は、ふと別のことが気になり出した。
それは母の恵美が莉子との結婚に、『何でこんなにも、前のめりになっているんだろう?』という疑問だ。
思い起こせば昨夜、恵美に莉子のことを打ち明けた時、莉子が桜木物産の社長の娘だと知った途端、恵美の態度が急変した。となれば恵美は藤田コーポレーションのオーナーの立場で、翔と莉子との縁談に価値を見い出したのだろう。とすれば、翔と莉子が一緒になることで、彼女の父親の会社、桜木物産を通して、藤田コーポレーションへの利益に繋がる何らかの効果があると判断したに違いない。一般的なこととして思い付くのは、事業提携とかだろうか?
藤田コーポレーションと桜木物産は、多くの分野で競合関係にある一方で、お互い補完関係にある分野も同様に多い。莉子との縁談に恵美が積極的になった理由は、たぶんその辺りにある気がする。
そう考えると、まるで政略結婚みたいで気分の良いものではない。ただ、それを言ったら今回の縁談自体、たぶん仕組まれたものなわけで、今更と言えなくもないのだ。つまり、山森支社長と中山支社長が何らかの思惑を持って翔と莉子に働き掛け、そこに後から恵美が加わったということだ。
いや、それだけではない気がする。
今まで翔は母の恵美から、結婚について言われたことがない。翔は恵美がそういうことには無関心だと、これまでずっと思っていた。だけど、それは翔の勝手な思い込みに過ぎなくて、本当は恵美とて息子の結婚は気になっていたのかもしれない。だけど翔がニューヨークにいたせいで、今までは口の出しようがなかったんじゃないか?
そこに湧いてきたのが今回の縁談で、しかも、それが藤田家にとって都合の良いものとなれば、恵美とて飛び付かない筈がない。
それにしても急すぎると思わなくもないのだが、恵美とて大企業の経営者である。
確かに藤田コーポレーションは「石橋を何度叩いても渡らない」と揶揄われる程に堅実な会社だが、それは社風のことだ。経営者の判断がそんな風では、今のように動きの速い世の中には、付いて行けなくなってしまう……。
と、そこで翔は再び、さっき沙也加に言われたことを思い出した。
その沙也加が「石橋うんぬん」の話をした時もムカついたのだが、その前に恵美が、「土曜日、天王夏まつりの時にプロポーズしちゃいなさい」と言った後で、あいつは俺を馬鹿にして言い放ったのだ。
『さあて、できるかなあ、翔さんに?』
馬鹿野郎!
沙也加は昔から、ずーっとそうだ。小さい頃から何かと翔を見下して、馬鹿にしてばかりだ。
良いだろう。プロポーズしてやろうじゃないか!
この時の翔は、彼の本来の性格とは違って、ある意味、ムキになってしまっていた。
そして、莉子へのプロポーズの言葉について、あれこれと考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちてしまっていたのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、薫視点です。射撃訓練の話になります。
もし宜しければ、感想、ブックマーク、いいね、評価をして頂けましたら大変嬉しいです。宜しくお願いします。
ツイッター:https://mobile.twitter.com/taramiro0




