第74話:進捗報告 <翔サイド>
再度、見直しました。
◆7月29日(水)
藤田翔が桜木莉子と二人だけの食事会をした日の翌朝、翔が出社してすぐに犬飼葉月から、「支社長がお呼びです」との連絡を受けた。
初日以来、中山支社長とは度々顔を合わせて話してはいたが、始業前の呼び出しは異例である。『いったい何があったんだろう』と首を捻りながらも、翔は急いでパソコンを立ち上げ、最新の報告資料をすぐに表示できるようにしておいて、勢い込んで支社長室に駆け付けたのだが……。
「どうだ、藤田君。桜木君とはうまく行ってるか?」
中山支社長から開口一番に言われた言葉が、これである。翔は思わずその場にへたり込んでしまいそうになった。
それでも翔は何とか立ち直って、昨晩、莉子と食事に行ったことを簡潔に報告したのだが、どうやら支社長は既に知っていたようだ。
でも、考えてみれば当然かもしれない。葉月が鈴村千春と一緒にアレンジしたデートなのだから……。
「まあ、うまく行って良かったが、まだ気を抜くなよ。とにかく、早くプロポーズに持ち込むことだ。それと、君の親御さんの所にも早く連れて行った方がいいな。今週末が山場になると思うから、そのつもりで頑張れよ。犬飼君は、桜木さんの方へのアドバイスも宜しくな」
完全に支社長達の手のひらで転がされているようで、どうにも気分が悪い。そうかと言って、昨夜のかわいかった莉子のことを思うと、この流れを断ち切る気には、どうしてもなれないのだった。
翔が部屋を出ようとした時、思い出したように支社長が言った。
「そう言えば、ニューヨークの山森にも報告しておけよ……あ、いや、待てよ」
そこで中山支社長は、壁の三つのデジタル時計のひとつに目をやった。
その三つの時計には、日本時刻の他にニューヨークとロンドンの時刻を表示してあって、支社長が見たのは当然、ニューヨークの物だ。
「このぐらいの時間だったら、大丈夫だろう。犬飼さん、ニューヨークに繋いでくれるか?」」
★★★
ニューヨークの山森支社長との通話は、すぐに繋がった。通話とは言っても当然、声だけじゃない。双方の端末が3D映像に対応した物なので、壁一面のスクリーンに山森支社長の3D映像が現れることになる。つまり、こっちは実際に彼の前に立たされている気分になってしまう。それだけ壁のディスプレイに映る映像が鮮明なのだ。
『……ああ、藤田君か。どうした? 元気でやっとるか? そっちに行ってもう十日になるのに、ちっとも連絡を寄こさないから心配しとったんだぞ。報連相は社会人の基本だと言っとるだろう』
「いや、報告なら、日報の形できちんと出してますけど……」
『私が言っとるのは、例の匿名事項の方だよ。君は何の為の出張だと思っとるんだね。仕事のプライオリティ付けができ取らんのじゃないか』
やはり、中山支社長が言うとおりだったようだ。
「申し訳ありません。今まではあまり進展が無く、山森支社長に報告するようなことが……」
『うまく行ってない時こそ、報告すべきじゃないのかね。そういう時こそ、適切なアドバイスが必要だろう』
「いや、昨夜、ようやく一人の女性とデートに漕ぎ着けまして……」
翔は冷や汗をかきながら、桜木莉子とのことを山森支社長にも報告したのだった。
★★★
二人の支社長から根掘り葉掘り聞かれたことで、翔はうんざりした顔で支社長室を出た。ところが、そこには葉月に加えて鈴村千春までもが待ち構えていて、そのまま喫茶コーナーへと連行されてしまったのである。
正直、『もう勘弁してくれよ』と思った翔だったが、それで彼女達が納得してくれる筈もない。しかも、支社長達とは、追及の度合いが違う。細かいことまで徹底的に洗いざらい話すハメになった上に、これからの計画と、それに対する抱負まで訊かれてしまったのだが、昨日の今日なので、そこまで翔は考えていない。思わず口ごもってしまった翔に対し、彼女達二人の表情は思いの外に厳しいものだった。
「計画が無いって、いったいどういうことですかっ! 行き当たりばったりで、うまく行くなんて思ったら、大間違いです。ただでさえ、藤田さんの場合は時間が限られているわけですから、きちんと計画を立てて行動しないと駄目に決まってるじゃないですかっ!」
「いや、だって、これは恋愛であって仕事じゃないし……」
「もう、何を言ってんですか。あのね、藤田さん。恋愛も仕事も同じなんです。まず計画を立てて、それをきちんと実行する。その結果を振り返り、反省すべき所は反省して改善策を考える。今度はそれをやってみて、それでも駄目だったら更に反省して再トライ。そうやってPDCAを回して日々改善を行うことで、着実に目標に近付いて行くわけです」
葉月の説明は理路整然としていて、反論の余地がないものだった。でも、翔としては、どうしても『恋愛ごときで、そこまでやるか』と思ってしまう。
翔のそんな思いは、表情と態度にしっかり現れていたようだ。
「藤田さん。もっと真剣になって下さい。恋愛を舐めちゃ駄目です。一緒になる女性で、藤田さんの将来が左右されることだってあるんですよ。女性は特にその傾向が強いですけど、男性だって同じだと、わたくしは思っています。少なくとも、女性の存在で仕事のモチベーションが大きく左右されて、それが将来の出世にも繋がるわけです」
葉月の口調は力強く、いつもの優しげな表情は何処にも無い。むしろ怖いくらいだった。
「やっぱり藤田くんは、詰めが甘いんだよねえ。何で莉子ちゃんを家まで送って行きながら、『さよなら』だけ言って帰って来ちゃうかなあ。有り得ないでしょう。ああ、もう信じらんないっ!」
もう一方の千春も、全く同様である。口調は普段のままだが、女性特有の不機嫌なオーラを纏っている。母の恵美や、倉橋の三姉妹が良く見せるものと同じなので、翔にはすぐに分かるのだ。
「率直に言いますと、藤田さんの恋愛偏差値は最低ランクですね。勉強や仕事の偏差値は高いのかもしれませんが、今回のようなことを続けられますと落第留年もあり得ますよ」
「そうだよー。恋愛の世界は、厳しいんだから。もっともっと頑張ってくれなきゃ、あたしが涙を飲んで身を引いた意味が無くなっちゃうじゃないの」
「それは言えますね。藤田さんには、わたくしと千春という美女二人を振ってしまったんですから、その分の責任があるわけです」
「そうだ、そうだあ。ちゃんと、責任取ってよねっ!」
「千春。それはちょっと違うような気がするんだけど……」
「そうかなあ。まあ、良いや。あたしも協力してあげるから、ねっ、頑張ろ……ということでぇ、まずは今夜、居酒屋にて千春お姉ちゃんによる恋愛講座の補修授業を行いま-す。藤田くん、時間に遅れないように……痛っ!」
「こらっ、千春。あんたが藤田さん誘って、どうすんのよ」
「だからあ、まずはお酒を飲んで、気持ち良くなってぇ、その後、あたしが藤田くんに、手取り足取り愛のレッスンを……痛っ、痛いよ、犬。もう。そんなに頭叩かれると、ますますバカになっちゃうじゃないのっ!」
「うるっさーい! あんた、元からバカなんだから、関係ないじゃないの」
「ひっどいなあ。バカバカゆう方がバカなんだからねっ。まあ、女の子はある程度おバカな子の方が男にモテるんだけどねえ」
結局、最後は普段どおりの痴話喧嘩を始めてしまった二人である。
いつものキンキン声でまくし立てては、「てへへっ」と笑う千春を見ていると、翔だって、ついイラッとしてしまう。だから、その後に多少つっけんどんな口調になってしまったとしても、それは仕方がないことだろう。
翔は、胸の前で腕を組みながら言った。
「で、いったい俺の何処が悪かったんですか、千春先生?」
ところが、翔のその言葉に対して、千春はすっかり呆れた表情を向けてくる。
「ええーっ、藤田くん、まだ分かんないのぉ? もう、信じらんなーい。藤田くんって鈍感だよね。どうせ前にも女の子から鈍感って言われたことあるんじゃないの。ほら、先生に白状しなさい、ほらほら……」
翔は、山口沙希に同じようなことを言われたのを思い出したが、ここでは伏せておくことにした。年下の女子にここまで言われると、さすがに不愉快だったからである。
「千春さん、何が言いたいんですか? ちゃんと教えて下さいよ」
幾分キレ気味の翔だったが、千春は大きく溜め息を吐いた上で、こう言い放った。
「じゃあ、教えてあげる。それはね、チューで-す!」
唇を尖らせた千春の間抜けな顔を見た翔は、思わず本気でぶん殴ってやろうと手を振り上げてしまい、そこで初めて葉月の方を見た。翔の前に千春をしばいてくれると期待してのことである。
ところが、不思議なことに彼女もまた、首を横に振っているだけだ。
翔は、その葉月に向かって、おずおずと「マジですか?」と尋ねてみた。
「もちろん、マジです。桜木さんだって期待していた筈ですよ」
★★★
二人の女性から徹底的なダメ出しを食らってしまった翔は、打ちひしがれて自分の席に戻った。そして、そっと前に視線を向けると、そこにはちゃんと長い黒髪の彼女がいて、いつもと同じ笑みを返してくれる。
心がほんわかと暖かくなる優しい笑顔だった。
それで一気に元気を取り戻した翔は、落ち着いて仕事に集中することができたのである。
やがて昼休みになると、今日も莉子の手作りのお弁当が待っている。こうして自分の席で二人向き合って食べる昼食も今日で三日目、昨日までなら照れや恥ずかしさで、二人の間に少しぎこちない感じがあったのだが、今日はお互い落ち着いた穏やかな感じで向かい合うことができた。
そして昨夜と変わらない、たわいない言葉のやり取りが続いて行く。時折り小さく笑う彼女の笑顔が、翔の胸を暖かくさせてくれる。
料理は美味しいし、笑顔の莉子は相変わらず可愛い。翔にとって、とても社内とは思えない最高のひと時だった。
時間は、瞬く間に過ぎて行った。
翔が食べ終わった弁当箱を莉子に返した時だった。
「ありがとう。今日も凄く美味しかったよ」
「どういたしまして」
莉子は立ち上がって空の弁当箱を受け取った後、急に身体をグッと前に乗り出して来て、細い腕を目一杯に伸ばし、翔の前に白い小箱をポンと置いた。
翔が首を捻っていると、莉子は少しはにかんだ笑顔で、「開けてみて下さい」と言う。
何も印刷されていない無地の箱だけど、ガッシリとしている。形状は縦長で、高さは十二、三センチ程度だろうか。
蓋を開けてみると、中には小さなガラスの小瓶が入っていた。意匠を凝らした美しい形状で、色は濃紺……。
「香水だね」
「はい。男性用です。あの、宜しかったら、どうぞ」
「えっ、貰えるの?」
「はい。父の会社で扱っているブランドの商品サンプルなんだけど、結構、人気のある商品みたいなの」
「へえ、そうなんだ」
改めて小瓶をしげしげと見てみると、イタリアの有名なブランドのロゴマークが付いている。
最近、男性用の香水が流行っているのは、翔も知っていた。ニューヨーク支社でも米人の同僚はたいてい付けているし、翔も勧められて付けてみたことがある。でも、元来ものぐさな性格の翔には合わなかったようで、せっかく買った香水もタンスの肥やしになってしまっていた。
それでも翔は、「ありがとう」とお礼を言って受け取っておくことにした。買えば結構高いものだとは思うのだが、父親の会社で扱っている商品のサンプル品ということなら、そんなに遠慮することもないだろう。それに莉子がわざわざ渡してくれたということは、付けてあげるのが礼儀だという気がしたのだ。
それに、そろそろ昼休みも終わりらしく、周りの社員が戻って来ていたこともある。
翔は、その小瓶を急いで箱の中に戻すと、莉子に「ありがとう。使わせてもらうよ」と言って、軽く頭を下げたのだった。
★★★
今日は、夕方に顧客とのアポがあって、その後、会食に誘われていた。その為、支社を午後三時前に出た後は、直帰になる。
顧客に渡す資料を作成する為、パソコンのキーボードに指を走らせながら、翔は時々チラチラと、先ほど莉子から貰った香水の小箱へと目を向けていた。
カバンを持ってきていない翔には、それを仕舞っておく所が無い。個人に割り当てられたロッカーはあるのだが、そこまで行くのは面倒だった。
たまたま莉子が席を外した時だった。同じように、たまたま翔がいる十一階のフロアに来ていた鈴村千春が近くを通り掛かり、目ざとく机の上の小箱を見付けて声を掛けてきた。
「あ、藤田くん、それって莉子ちゃんからでしょう? ふーん、早速、贈り物作戦、決行したんだね」
「贈り物作戦?」
「昨日ね、相談されたんだよ。『男の人にお食事を奢ってもらっちゃった場合って、お返しとかした方が良いんでしょうか?』ってね。そんでもって、『最初のデートで男性の方がお食事代とか払うのは当然のことだから普通は必要ないんだけど、好感度アップの為だったら、何か、ちょっとした物を渡してあげるのもアリだと思うよ』って答えてあげたんだよねー」
「なるほど、そういうことか……。でも、俺の方は弁当を作ってもらってるからさ……」
「それは、莉子ちゃんが好きでやってることでしょう。まあ、気になるんだったら、また誘ってあげればいいんだよ」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなのっ。そうやって、お付き合いが続いていくんじゃない。あ、それよか、何を貰ったの?」
「あ……」
ひょいと千春の手が伸びてきて、白い小箱が取り上げられる。その千春は、すぐに蓋を開けて中身を取り出し、裏側のラベルを確認した途端、歓声を上げた。
「凄いじゃん。この香水、来月発売されるやつでしょう? 何であんの……あ、そっか。莉子ちゃんとこの会社で扱ってんだね」
「そんなに有名な奴なの?」
「知らないの? ふーん、藤田くんって、こういうの疎いんだ」
馬鹿にされた感じがしてムッとした翔だったが、その後で「せっかく貰ったんだから、ちゃんと付けてあげてね」と言われたことに対しては、素直に頷いておいた。
「でも、莉子ちゃん、考えたよね。商品サンプルだったら、受け取り易いもん。それに、彼氏に香水を送るって、ちょっと意味深じゃない?」
そう言われてみると、そんな気がしないでもないが、翔は『たまたまだろ』と思ってしまう。翔が「家にあった手頃な商品サンプルが、この香水だったんじゃないかな」と呟くように言うと、速攻で否定されてしまった。
「違うでしょう。だいたいさー、発売前の商品サンプルだよ。それって、超貴重品じゃん」
「えっ、そうなの?」
「そりゃ、そうでしょう。きっと、莉子ちゃんなりに考え抜いてのことだと思うよ。でも、商品サンプルとなると、数に限りだってあるでしょうし、案外、お母さん辺りに相談してるかもね」
「そうかなあ。これ、弁当のついでみたいにポンと渡された奴だし……」
「ぜーったい、違う。莉子ちゃん、真剣だよ」
千春がじーっと翔を睨み付けてくる。そして、おもむろに香水の小瓶を翔の前に差し出して言った。
「もう、藤田くん、鈍すぎ。そういうとこが、皆に鈍感って言われるんだと思うよ。さあ、莉子ちゃんが戻って来る前に、さっさと付けなさい」
翔は『また、鈍感かよ』と思いながら、その小瓶を千春から受け取った。そして、ほんの一滴だけを手のひらに乗せて、その場で首元に付けてみた。
「うーん、良い匂いじゃん。やっぱ、人気のシリーズだね」
千春はクンクンと子犬のように翔の匂いを嗅いでから、席を離れて行った。
しばらくして席に戻って来た莉子は、翔が付けた香水の匂いに気付いてか、にっこりと笑い掛けてきた。
翔は彼女にあいまいな笑みを返してから、何となく腑に落ちない気分になって俯いてしまった。
★★★
「あの、翔さん、そろそろお時間ですよ」
しばらく仕事に集中していた翔は、莉子のやや鼻に掛かった声でハッとなって顔を上げた。PC画面の端に表示された時刻を見ると、あと少しで午後三時になろうとしている。
『いけない、遅れる所だった』と焦った翔は、慌ててパソコンをシャットダウンすると、椅子の背もたれに掛けられた上着を急いで着込む。そして、パソコンを小脇に抱えてから、忘れずに莉子に貰った香水の小箱を手に取って、改めて莉子に香水のお礼を言った上で、「今日は直帰になるから」と言い残してロッカールームの方へと急いだ。
ロッカールームに着くと、自分のロッカーにパソコンと香水の小箱を放り込んでドアを閉めてから、少し考えて、再びドアを開けて小箱を取り出した。そして中の香水の小瓶だけを手に取り、それをズボンのポケットに入れる。
再び急いでエレベータの方に向かい、一階の玄関ホールに下りて、予め呼んであったセルフのタクシーに飛び乗ったのだった。
★★★
アポを取っていた顧客の所には、ぎりぎり間に合った。
打ち合わせの為に応接室へ入ってしばらくした時だった。コーヒーを持って来てくれた若い女性が、目敏く翔の香水の匂いに気付き、声を掛けてきたのだ。
彼女が何の香水か聞いてきたので、翔が「これだよ」と言ってポケットから小瓶を取り出すと、突然、彼女が歓声を上げた。さっきの鈴村千春よりも喰い付きが良い。
「あら、大変失礼しました。でも、この香水、日本で発売前の物ですよね?」
「そうみたいだね。実はサンプル品なんだ」
「えっ、これって、七星商事で扱ってるとか?」
「違う違う。桜木物産の子から、個人的に貰ったんだよ」
「へえー、そうなんですかあ。良いなあ。あ、私も彼氏の誕生日プレゼント、これにしようかと思ってまして」
「えっ、千里ちゃん、彼氏いたの?」
「私だって、彼氏くらいいますよー、あれ? ひょっとして安井さん、私のこと、狙ってました?」
「そんな訳ないじゃん」
この安井という担当者は翔と同じ歳で、こっちに来てから最初に仲良くなった男である。
この後の会食には彼の上司の課長と一緒だったのだが、その後で二次会に誘われてしまい、「さっきの千里というアシスタントの子のことが、実は好きだった」という話を延々と聞かされた。そのせいで、翔が天王市の実家に戻った時、時刻は午後十一時を過ぎてしまっていたのだった。
★★★
かなり酔っ払った状態で翔がリビングに入って行くと、ちょうど母の恵美も帰宅したばかりのようで、スーツ姿のままソファーの背もたれに身体を預けていた。
「翔、水を一杯、頂戴」
翔は、「俺だって、今、帰ったとこなんだよ」と悪態を吐きながらも、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、コップに注いで持って行ってやる。疲れ切った表情の恵美にそれを差し出すと、彼女は「ありがとう」と言って一気に飲み干してしまった。
恵美は、珍しく酔っているようだった。こうして改めて見ると彼女もだいぶ歳なんだと思う。高校の時に父親を亡くし、祖母が認知症を患っている翔にとって、母親の老けた姿は、正直な所、恐怖でしかない。思わず目を背けたくなってしまう。
そんな翔の仕草に気付いたのだろう。恵美は、空になったコップを翔に着き返して言った。
「翔、あんた私のこと、老けたとか思ってるんじゃないでしょうね」
「そ、そんなことないよ」
「嘘、おっしゃい。言っとくけど、私が年取ったのは、あんたのせいだからね」
「なんで俺なんだよ」
「あんたが、私に心配ばっか掛けるからじゃないの」
恵美は、得意先との会食だったらしい。その相手のことが相当に気に食わなかったようで、しばらく愚痴った後、ふと気付いたように翔の顔へ目を向けた。
「あら、翔。それって香水?」
苦笑いした翔が「臭う?」と訊くと、「別に良いけど」と呟くように言った後で、「でも、どうしたの、急に?」と問い掛けてくる。
「貰ったんだよ」
「貰ったって、誰から?」
「サンプル品だよ」
「お客さんから貰ったってこと?」
「いや、会社の子だけど」
「ふーん、彼女ってことね」
酔った時の恵美は、非常にしつこい。それに相手は翔の母親でもある。隠し事などできる筈もなく、それから十五分もしないうちに、翔は桜木莉子とのことを洗いざらい打ち明けてしまっていた。
さすがに中山支社長の企みまでは伏せておいたが、それすらも恵美は何となく察してしまったようだ。
「ふーん」と思わせぶりな表情を浮かべた恵美が、今度は莉子のプロフィールを細部に至るまで訊いてくる。そして、翔の説明が莉子の父親の会社、桜木物産に触れた時だった。
「まあ、桜木さんとこのお嬢さんなのね。でも確か、あそこは一人娘だったわね。ということは……」
恵美が言いたいことを薄々察した翔は、「分かってるってば」と先手を打って答えておく。
恵美が言いたいのは、うちも一人息子なのだから、養子にはやれないということだ。昨夜、莉子が話してくれたことからすると、向こうの父親は莉子や彼女の結婚相手に自分の会社を継がせるつもりは無いらしい。
翔がそのことを恵美に伝えると、彼女は少し考えてから「そう」と小声で呟いた。
「あの桜木という男は、娘を溺愛してはいるんだけど……確かに、あんまり古臭い考え方はしないタイプかもね、ふーん……」
更に恵美は何やら考え込んでいる様子だったが、やがて変な笑みを顔に浮かべて「案外、何とかなるかもしれないわね」と呟いた。
「その子、うちに連れてらっしゃい。明日でも良いわよ」
「そんな急に、無理だよ」
「何を言ってんの。あんた、すぐアメリカに帰っちゃうんでしょうが。時間がないんじゃないの?」
「それは、まあ、そうなんだけど……」
「だったら、明日……そうだ。土曜の天王夏祭りでも良いわね。それだったら、あんたも誘い易いでしょう」
そう言えば、そうだっ。
翔は恵美に言われるまで、夏祭りのことをすっかり忘れていた。
天王夏祭りは、この地方に伝わる古くからの伝統的な川祭りだ。コロナ禍の前は他の派手な花火大会に押されていたのが、コロナ禍で二年間休んで再会した後に一度、地上波のテレビで取り上げられ、最近は見物客が増えていると聞いたことがある。
夜空に花火が打ち上る中、無数の提灯を掲げた巻藁船がゆっくりと水路を進む姿は、非常に幻想的で美しい。その様子が去年もネットとかで盛んに紹介されていて、地元の人達にも再評価されているようだ。
つまり、恵美が言うのは、「天王夏祭りを餌に莉子を誘い出し、自分に引き合わせろ」ということらしい。
「うちに何て言って連れて来るかは、あんたに任せるわ……いや、沙也加ちゃんにでも相談した方が良いかもね」
沙也加というのは倉橋家三姉妹の次女で、翔と同じ歳の幼馴染。現在は藤田コーポレーションに務めており、実質的にオーナーの恵美の秘書でもある。翔にとっては正直、少々苦手な相手だ。
「あの、沙也加はちょっと……」
「そうだ。明日の夕食に沙也加ちゃんを呼びましょう。翔、明日は定時で帰って来れる?」
「たぶん。明日の午後は、客とのアポが無いから」
「だったら、作戦会議をやるわよ。どうせだから、三姉妹を読んじゃいましょう。花音ちゃんだって最近はお料理の腕を上げたから、彩音さんがいなくても大丈夫かもね」
どうやら、明日は沙也加だけじゃなく、亜里沙も来るらしい。末っ子の花音は料理担当だからどうでも良いが、長女で翔にとっては姉のような存在の亜里沙は、沙也加以上に手ごわい相手だ。
翔が内心うんざりしていると、恵美から念押しの指示が飛んできた。
「作戦会議は明日だとしても、その子の週末のスケジュールは、早めに確保して貰うこと。まあ、その子もそのつもりでいるでしょうけど、必ず明日、声を掛けるのよ」
「分かったよ」
この時、ふと翔は、中山支社長も『今週末が山場になるから』と言っていたことを思い出した。
どうやら、今朝、支社長が言ったことは正しかったようだ。
この週末に翔は桜木莉子を、何としてでも家に連れて来なければいけなくなってしまった。そそのことで疲れに追い打ちを掛けられた翔は、重い身体を引き摺るようにしてベッドのある自室に向かったのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、翌日の翔視点のお話しです。実家にての週末の作戦会議になります。
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