第7話:二人の出会い <翔サイド>
再度、見直しました。
「せんぱーい、お待ちどうさまー。お肉とイカ、サービスでマシマシにしちゃいましたー」
「うわあ、おいしそう。ありがとうございまーす」
さっきのバイトの子、新井さんの明るい声に被せるようにして、水草薫がお礼を言った。彼女に負けないくらいの大きな声だ。今の彼女のはしゃぎっぷりは、藤田翔が知る限り、ほぼマックスのレベルかもしれない。
薫と違って軽く「サンキュー」と返しただけの翔の方も、テーブルの上にドンと置かれた二つの皿に目が釘付けになった。
二人がオーダーしたのは、ミックスのお好み焼とモダン焼。どちらも二人でシェアして食べるのに都合が良いように、八等分に切れ込みが入れてある。上に載った鰹節が、まるで生きているかのようにくねくねと踊っていた。
そこから漂う香ばしい匂いには抗いがたく、気が付くと翔はプラスチックの箸と小皿を手に取っていた。
翔は、その両方をひとつずつ小皿に載せると、まずはそれを薫に渡す。そしてもうひとつの方に自分の分を素早く取って、「頂きます」を小声で言ってから、まずはモダン焼きにかぶり付く。熱さに思わずむせそうになったが、少しだけ水を口に含んだ後で、思わず「うまい」と呟いてしまった。
きちんと手を合わせて「頂きます」を言った薫の方も、その味に満足だったようだ。めったに見られない自然な笑みが彼女の顔に浮かんでいるからだ。
「おいしいね」
「うん、うまいな」
二人は、そんな簡単な単語を交しただけで、しばらくは食べるのに夢中になっていた。
薫の小さな口に、お好み焼きの欠片が次々と消えていく。こんな時に見せる彼女の澄ました顔は、高校の頃とちっとも変っていない。
この香ばしいソースの味は、翔に自然と当時のことを思い起こさせてくれる。あの頃は部活の後、週に何度もここに来ていたからだ。
「なんか、懐かしい味だね」
「そうだな」
どうやら薫も同じことを考えていたようだ。
その薫が笑っている。こうやって何度も笑顔が見られるなんて、本当に珍しいことだ。薫は、ほとんど笑わないからだ。
正確に言えば、薫は笑うことが得意ではない。彼女が意識して造った笑顔は、何故か不気味で気持ち悪いものになってしまう。
もちろん、そのことには本人も気付いていて、何とか直そうと努力はしたらしい。だけど、どうしてもうまく行かなくて、最後に出した結論は「できるだけ笑わない」なのだそうだ。
翔は薫と長い付き合いだから何ともないのだが、慣れてない人が暗い所で見たりすると、思わず震え上がるくらいには怖いらしい。誰が言い出したか知らないけど、高校時代、「悪魔の笑み」という言葉が囁かれていた程なのだ。
それは、整い過ぎた美しい顔と日本人離れした白すぎる肌のせいなのだが、そんな分析など本人には何の意味も無いに違いない。
だから、薫が笑わないのは一種の自己防衛なのだが、かつての翔の立場としては微妙だった。
そんな薫も、ごく稀に怖くない笑い方をすることがある。それは彼女が本当に心地よい時、自然に現れるレアな表情なのだが、残念ながら、ごく親しい人しか見たことが無い。
だけど、それは悪魔とは正反対の、いわば「天使の笑み」と呼びたくなる程の可憐な笑顔だ。つまり、見た人の全てを魅了して止まない破壊力があると翔は思っている。
そんな笑みを、さっきの薫は浮かべていた。
薫というのは、いつも地味な服装ばかりしているし、化粧だってしてるかどうか分からないような女だ。
そのくせ、すぐにいじけるし、一度いじけてしまうと元に戻すのが大変だという、何とも面倒くさい女でもある。
だけど思い起こせば、翔が薫と七年も一緒にいたのは、その笑顔見たさだったような気がする。
今も薫は、お好み焼きとモダン焼きを淡々と交互に口へと運んでいる。
一見すると無表情だが、それでも明らかに頬が緩んでいるのは間違いない。
そんな薫と目を合わせたり、簡単な会話を交わしたりしながら、翔もまた目の前の懐かしい味を楽しんでいた。
そうしているうちに、翔の脳裏にありありと蘇る記憶がある。
高校に入って最初の夏休み。それは、今からちょうど十年前の出来事だった。
★★★
藤田翔にとって、水草薫との出会いは県立天王高等学校一年の時にまで遡る。二人は同じ一年二組で、そのクラスでは二人だけの剣道部員という関係だった。
翔は中学でも建造部に所属していたのだが、中学の時の剣道部と天王高校剣道部とで、大きく違った点が二つあった。
一つ目は、中学では毎回、指導教師が参加してあれこれ口を出していたのが、高校では活動の全てが生徒の自主性に委ねられていたことだ。つまり、たまにOBやOGが顔を出しに来るくらいで、あとは完全に自由ということだ。
もっとも本当の理由は、単に指導できる教師がいなくて、たまたま顧問を押し付けられた教師が放任主義だったということなのだが、当時の翔には知る由もない。
二つ目は、中学の時は男子と女子が別々の部活として活動していたのに、天王高校剣道部では男女が一緒に練習するスタイルだったことだ。
これは昔、女子の部員が少なかった頃の名残りなのだが、男子の体力に合わせて女子が練習しているからか、毎年男子よりも女子の方が良い成績を残す結果に繋がっている。
一つ目の違いは、先生の指示で動いていたのが先輩の指示になるだけだから、一年のうちはそんなに大きな違いではない。問題は二つ目の方である。こっちは最初の頃、まさにとまどいの連続だった。
まずは練習の時、一年の指導役が最初のうちは女子の先輩だったこと。女子相手の打ち込み稽古など、それまでやったことがない。もちろん、手加減する余裕など無いのだが、つばぜり合いの度に、どうしても相手が女子だと意識してしまう。ほのかに香る甘酸っつぱい匂い、身体が触れ合った時の柔らかい感触、そして、練習が終わって面を外した時の汗にまみれた先輩の顔が、妙に色っぽく見えたりして、常にドキドキの連続だったのだ。
水草薫は、初心者だった。それに、五人いた一年女子の中では地味で目立たない存在に思われた。身長こそ少し高めだったが、細身で大人しい性格の為か、実際よりも小柄に見えていた。
翔にとっては同じクラスの同期だというのに、夏休みに入る迄の間、その無口な彼女とは話す機会がほとんど無かった。クラスにいても存在感が希薄で、いるかどうか分からないような女子だったのだ。
そんな薫と初めて言葉を交わしたのは、夏休みの強化練習の時だ。
八月頭のその一週間は、朝から夕方までみっちり練習がある。季節は夏の盛りだ。冷房の無い古い木造の剣道場は、サウナのような状態になる。
打ち込み稽古などは朝方と夕方に集中して行い、昼休みを長めに取るなどの工夫はしてあったが、三日目の午後ともなると、一年生を中心に暑さと疲労で気分が悪くなる部員が続出した。薫もそうした部員の中の一人だったのだ。
その時は休憩時間で、翔が水飲み場から戻って来た時のことだった。『涼しい日陰に行って休もう』と思っていた所で、突然、女子の池田綾香先輩に呼び止められた。仕方がないので立ち止まって話を聞くと、「一年女子の一人が、急に気分が悪くなったようなの。だから藤田くん、保健室に連れてってあげてくれるかな」と言う。
それを聞いた時に翔が思ったのは、『面倒だなあ』の一言だった。暑さの中の稽古は、男子の翔でも決して楽ではない。正直、一分でも長く休んでいたい。
だけど当然、そんな翔の心の内は、池田先輩には見え見えだったようだ。
「もう、せっかく女の子と仲良くなれるチャンスなんだから、もっとシャキッとしなよ」
「だって……」
「あのね、藤田くん。相手は、薫ちゃんだよ」
「薫って?」
「えっ、分かんないの? 同じクラスの水草さんのことでしょうがっ!」
「あ、そういや、そういう名前だったかも」
「もう、あんたら同じクラスでも、全然そう見えないよね」
「だって、水草さん、無口だし……」
「藤田くんってさあ、女子のことちゃんと見てんの? 薫ちゃんって、今年の女子の中でダントツで綺麗じゃん。沙希ちゃんも美人だと思うけど、藤田くんには、薫ちゃんが似合うと思うんだよね」
「そうですかあ?」
「何、その気の抜けた返事。そういうの、先輩の前っていう以前に、女子の前でしちゃダメだよ」
「すいません」
「もう、気を付けなよ……。でも、何かさあ、すっごい不思議なんだよねえ。他の男子の反応も皆そう。あんなに綺麗な子なのに……」
「えっ? だって彼女、なんか暗い感じっていうか……」
「あのさ、藤田くん。君って、ちゃんと薫ちゃんと話したこと無いんじゃないの? 彼女、声もチョー綺麗だし、ぜーったいにお勧めだよ。 他の男子が気付かないうちに、先にツバ付けときなよ。ほら、行った行った」
実は、池田先輩が言ったことは全部その通りで、あとで翔はすっごく感謝することになる。だけど、この時の翔は、同期の女子にほとんど興味が無かった。それに、同期の女子五人の中には山口沙希という同じ天王南中学出身のおっかない女がいて、あまり近付きたく無かったからだ。
とはいえ、先輩に逆らうわけにもいかず、翔は胸の中で悪態を吐きながらも、重い脚を引き摺って薫の方に向かった。
薫は、同期の男子達がいる場所とは別の日陰で気持ち悪そうにしていた。隣には他に同期の女子が二人いたのだが、どちらも同じように苦しげだ。こういう時に山口沙希がいれば、薫のことを押し付けてそれで終わりにできたのに、あいにく彼女は近くにはいない。
翔が近付くと、同期の女子の一人、小島紀香が気付いてくれた。彼女は割と明るい子で、翔にも良く話し掛けてくる。顔は、まあ普通って感じだ。
「あ、藤田くんだあ」
「池田先輩に言われて来たんだけど、水草さんを保健室に連れてけってさ」
「そうなんだ。良かったあ。ねっ、美侑……もう、美侑ったら、大丈夫?」
「う、うん。何とか、生きてるよ。ふーっ」
「うちらも、こんな感じだからさあ。水草さんのこと、どうしようかって相談してたとこだったんだ……ふぅ」
美侑というのは、橋本美侑。いつも小島紀香と一緒にいる子だ。この子も相当にへばってるみたいだけど、まだ何とか喋れるみたいだし、薫ほどではなさそうだ。
「分かった。俺だけで連れてくから、小島さんは橋本さんの面倒を見ててあげてよ」
「うん。分かったあ」
翔は小島さんが頷いてくれたので、薫の方に顔を向けた。
あのー、水草さん、大丈夫? 立てる?」
返事は無かった。顔色が青く、かなりヤバそうだ。
翔は、そっと彼女の手を取った。冷たい手だった。彼女は一瞬ビクッと身体を震わせたが、素直に立とうとしてくれた。
ところが、途中で大きくふらついた彼女が、思いっ切り翔の方に倒れ込んで来た。その身体を慌てて受け止めた翔は、激しく動揺した。
分厚い剣道着越しでも分かる女子の身体の柔らかい感触と確かな温もり。そして、鼻腔を刺激する汗交じりの甘酸っぱい匂い。
急に、翔の胸がドキドキと高鳴り出した。
それでも翔は勇気を振り絞って彼女の肩に手を回すと、その華奢な身体を恐る恐る抱えて歩き出す。そして、二人三脚のように足並みを合わせて、少しずつ前に進んで行く。
翔は彼女の身体に密着し、肩を抱く腕に力を込めた。彼女は目の焦点が定まらないみたいで、翔がしっかり支えていないとすぐにふらついてしまうのだ。
目の前の障害物に注意を払いながら、翔はゆっくりと渡り廊下を進んで、保健室のある校舎へと近付いて行った。
翔の剣道着は上下共に紺、彼女は白。二人とも足は裸足だった。
彼女の足がふらついて、何度も翔の足と触れ合った。時々、翔の足の上に彼女の足が乗ってくる。冷たく柔らかい感触。それと砂でざらついていて、ちょっとこそばゆい。
何度も「大丈夫? 水草さん」と声を掛けるのだが、彼女からは一向に返事が無かった。
あと少しで保健室のある校舎に到着するという時だった。突然、彼女は翔の手を振り払うと、脇の繁みの方に駆けこんでしゃがみ込んだ。そして、お昼に食べた物を戻し始めた。
翔は一瞬、迷ったけど、彼女の背中に手を置いてさすってあげた。
しばらくすると落ち着いたのか、彼女が立ち上がろうとしたので、翔は再度彼女の手を取って立たせてあげた。そのまま水道のある所まで連れて行き、そこで顔を洗わせる。
彼女は自分のタオルを持っていないようだったので、翔は迷った末に、自分の首に掛けていたタオルをおずおずと差し出した。すると彼女は躊躇なく受け取って丁寧に顔を拭いてから、かすれた小さな声で「ありがとう」と言ってくれた。
戻されたタオルを再び首に掛けた時、彼女の甘い匂いがして、翔は少しだけ嬉しかった。
吐いてすっきりしたのか、そのあと彼女は意外としっかりとした足取りで歩き出した。
翔は、慌てて後を追う。追い付いて横に並ぶと、もう一度「大丈夫?」と訊いてみる。
「うん、もう大丈夫みたい。ありがとう」
確かに、鈴の音のような綺麗な声だった。だけど、その答えを聞いた翔は、何故だか、とても残念な気がしたのだった。
★★★
「翔くん、あんまり変わってなくてほっとしたよ」
しばらく過去の世界に浸っていた翔は、薫のその透き通った声で一瞬のうちに今に引き戻された。
目の前にいる彼女は、昔と同じで長い黒髪を後ろでひとつに束ねている。一重の大きく綺麗な瞳が、じっと翔を見詰めていた。
「どうしたの。私の顔になんか付いてる?」
「いや、薫も昔とおんなじだなって思ってさ。ほら、目が綺麗なとことか……」
「またまたあ、お世辞言ったって、何も出てこないよ。だいたい、翔くんの目の方が二重でおっきくて、ずっと見栄えがするじゃない」
「そっかなあ」
「そうだよ。……だけど、昔と変わったとこなんて、私にもいっぱいあるんじゃない? あれから三年も経ってるんだもん、おんなじだなんて有り得ないと思うんだけど」
そう言われた翔は、少し考え込んでしまった。
薫は本当に翔の記憶の中にある姿と、ちっとも変っていないのだ。何だか自分だけ歳を取ってしまったみたいで、不思議な気分になってしまう。
たぶん、このまま制服を着たら、本当に現役女子高生で通ってしまいそうだ。
でも、変わった点となると、思い付くのはひとつしかない。
翔は何の気もなしに、思い付いたそのことを口にした。
「……ちょっと太ったな」
昔の薫と比べると、二の腕の辺りに少しだけ肉が付いて、全体的に丸っこくなった気がする。
とは言っても、全然悪い意味なんかじゃない。そもそも前が痩せ過ぎだったからだ。
それなのに……。
「嫌だなあ、もう。ふつう女の子に『太った』なんて言うかなあ」
薫は、口を尖らせて怒ったふりをしているけど、全く怒ってるって感じじゃない。
「……でも、そういうこと平気で言っちゃうのが、翔くんなんだよねえ」
「そうかなあ」
「そうだよ。デリカシーの欠片も無いんだから」
「そっか」
「褒めて無いからね。怒ってるからね。ぷんぷんなんだからね」
そう言って今度は頬を膨らませる薫は、リスみたいで本当に可愛い。だいたい、この歳で「ぷんぷん」とか言わねえだろ。だから実際の歳よりも若く見られるんだ。
そんな風に思いつつも、そこの所は口にしない。口にすると拗ねるし、そうなると元に戻すのが大変なのを翔は身に染みて知っているからだ。
「お前は、昔が痩せ過ぎだったんだよ。だいぶ女っぽくなって、良かったじゃないか」
「あのね、それって、昔の私が女じゃなかったみたいじゃないの」
「だってお前、いつもガリガリに痩せてただろう」
薫は高校の頃から手足が長いスレンダーな体形だったが、東京の大学に通うようになって異様な程に痩せてしまった。いつもアルバイトをしていた割には生活費に困っている感じだったので、あまりきちんと食べてなかったのかもしれない。
そんな薫を気遣った翔は、いつもカロリーの高そうな食事を勧めたのだが、元々薫は肉類が好きでなくて、うまくいったためしがない。気が付くと今だって、お好み焼きの中にあった豚肉を、さも当たり前のように翔の皿に移してしまう。
「薫が痩せ過ぎじゃなくなったのってさ、親元に戻って、まともな食生活になったからじゃないのか?」
「もう。それじゃ、今でも私が、お母さんにごはん作ってもらってるみたいじゃない」
「違うのか?」
「違うよ。全然違うもん。お母さんは忙しいし、妹は受験生なんだよ。私だって、お料理くらいは作んなきゃしょうがないじゃない」
翔は、少し意外な気がした。
「ふーん、そうなんだ。お前、料理とか作れるようになったんだな」
「……ひ、ひっどーい」
高校と大学の七年間を通して、翔は一度も薫の料理を食べたことが無かった。
強いて言えば、高校二年の夏休み、部活の仲間でキャンプに行った時、皆で一緒にカレーを作ったことがあったけど、あれはノーカウントでいいだろう。
あの時の薫は独りで黙々とジャガイモの皮をむいていたけど、決して慣れた手つきではなかったと思う。それに、後で指にバンドエイドを貼っていたことだって、翔はちゃんと気付いていたのだ。
「まあね。私、東京で一人暮らししてた時は、ほとんど料理、作ってなかったし……ていうか、あの頃の私、ほんとに悲惨な食生活だったなあ。毎食、ごはんと漬物だけとか、ごはんとおかかだけとか、あ、ごはんにお醤油かけただけってのもあったっけ」
「確か、食パンの耳ばっか、大量に買い込んでただろ」
「そうそう。あれ、おやつ代わりに齧ってたの。ちょっと、お砂糖まぶしたりしただけで。割と、おいしいんだよ」
「……んなわけ、ねえだろ」
「ふん。翔くんは、ぜいたくだもんね。翔くんこそ、そのうち中年太りになっちゃうよ。お腹がぽっこり出てきても、知らないんだからね」
「別に良いよ。俺は、デブったって」
「ひょっとして、太った方が貫録があって良いとか思ってるんじゃない? 違うからね。デブった男は、女子に嫌われるんだからね」
薫は、さっきの翔が「太った」と言ったことをかなり根に持っているようだった。そこは、昔と同じだから何となく分かる。
でも、昔の薫と違うのは、妙に口数が多いところだ。それに、なんかテンション高めな気もする。
「今は私も、ちゃんとお料理作れるようになったんだよ。うちの母親、夜中になんないと帰って来ないんだもん。仕方なく、ネットでレシピ見ながら、作ってるんだよ」
翔の記憶にある薫は、いつも小声でぼそぼそとゆっくり話す印象だった。なのに今日の薫は、話すテンポが速い気がする。ただ、声の調子は昔と同じだ。大きくはないけど、よく響く澄んだ声……。
「お母さんにね、『料理のひとつもできないようじゃ、嫁には行けんぞ』って言われちゃって、カチンときてケンカになっちゃったの。それで、最初のうちは妹と一緒にやってたけど、今ではちゃんと一人だって作れるよ」
どうやら、妹に料理を教えて貰ったと言いたいようだ。そんなことを平気で言ってしまう所が、薫らしいと翔は思う。
彼女の妹と言えば、だいぶ歳が離れてた筈だけど……。
それにしても、やっぱり今日の薫は、どこか楽しげだな。
一人でぺらぺら喋る薫は、翔にとって新鮮な驚きだった。
けど、こんな薫も悪くない。
そう思って嬉しくなった翔は、つい油断してしまったんだろう。良く考えてみれば分かる筈なのに、翔は全く気付かない。
一流の大手商社に入った翔とは違い、薫は就職活動に失敗している。そんな薫にとって、その言葉は「太った」なんかよりもずっと危険な地雷なのに、元々そういうことに鈍感な翔は、さらりとそれを口にしてしまったのだ。
「仕事って、お前、今は何処で働いてんの?」
翔の問いかけに、薫は一瞬、きょとんとした様子で翔を見た。だけど、今度は何気ない風を装って、ボソッと答えた。
「何処って……バイトだよ。コンビニのバイト」
それを耳にするや否や、翔の脳裏にパッと先程の爆発のシーンが蘇った。
「コンビニって……お、お前、大丈夫なのかよ」
翔のやや強い口調の問い掛けに、薫としては早口で返してくる。
「大丈夫だよ。コンビニって言っても駅前のじゃなくて、別のお店だから。ほら、天王池公園の入口にあるEマート知ってるでしょう。翔くんの家からも近いよね」
別のコンビニとはいえ、危険なことに変わりはないだろう。
だが薫の方は、そんな翔の心配を全く取り合おうとはせずに、「もう、翔くん、心配性だなあ」と一笑に付してしまった。
「そんなこと考えたら、何処のお店だって働けないよ」
薫の口調には、何となく棘があるように感じられた。
それで少し勢いを削がれた翔は、「まあ、そうかもしれないけど……」と、あいまいな言葉でお茶を濁してしまう。
それでも、何となく腑に落ちない思いを胸に、お好み焼きの最後の一切れをじっと見詰めているのだった。
お互い、しばらく沈黙が続いた後で翔が『やっぱり訊かなきゃ良かった」と思い始めた時、薫がポツンと呟いた。
「あの頃は、楽しかったな」
さっきとは打って変わって、とても静かな口調だった。
ハッとした翔が薫を見ると、彼女の視線はカウンターの方に向かっている。そこには、かつて翔たちが通った高校の制服を着たカップルが座っていて、さっきの後輩が水を運んで行く所だった。
男子は学ラン。女子はセーラー服。伝統校ということもあって、今では珍しくなりつつあるクラシックな制服だ。だけど、それがこの古い街には、妙に良くなじんでいる。
薫が言ったあの頃というのは、きっと翔たち自身の高校時代のことだろう。
彼女の少し寂しげな横顔をほんやりと眺めながら、翔の意識もまた、二人が高校生だったあの頃へと舞い戻って行くのだった。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
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