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第69話:借金 <薫サイド>

見直しました。


「ああ、私は子育てを失敗したよ。たけしは、甘やかし過ぎた。もっと厳しく躾けるべきだったんだ。今更、言っても仕方が無いことなんだけど、ああ、本当に失敗だったよ」


水草薫みずくさかおるの祖母、水草幸子が嘆いていたのは、薫の父、水草(たけし)のことである。

薫が河向こうの川田かわた中学校に通うようになって、まだ間もない頃のことだ。


その頃、父のたけしは、非常に怒りっぽくなっていた。夜になると家で酒を飲んで喚き出す。

そんな武のことは、祖母の幸子も相当に苦々しく思っていたようだ。

幸子が薫の前で武のことを愚痴るのは、その時が初めてのことだった。


「あの子は、考え方が甘いんだよ。もっと若いうちに世間の厳しさを、しっかりと骨の髄まで叩き込んでおくべきだったね」


前の晩、幸子とたけしが大声でやり合っていたことは、薫も気付いていた。二人が居たのは幸子の部屋で薫の部屋からは相当に離れているのだが、それでも薫がそのことを知っているのは、妹のかえでのせいだ。

まだ四歳だった楓は神経質な子で、些細な物音でも目を覚ましてしまう。その楓が泣きながら薫の部屋にやって来たのだ。楓は、「家に鬼がいるよお」と震えながら泣いている。

薫は、その鬼が祖母と父だとは言えずに、楓を自分の布団の中に入れてやり、懸命に宥めて寝かし付けたのだった。


当時、父のたけしの様子がおかしいことには、薫も薄々気付いていた。薫が小さい頃から父はしょっちゅう怒っている人だったけど、その頃の父は本当に異常だった。

父の武は割と酒が強いし好きな方なのだが、人と一緒に飲んでワイワイと騒ぐことを好む。独りで酔っ払うまで飲むようなことは、絶対にしない人だった。

それが、その頃は毎日のように独りで飲んでは、怒鳴り散らす。だから薫は、今まで以上に近付かないようにしていたし、妹の楓にも近寄らせないようにしていた。


ちょうど同じ頃、中学校で薫は岩田という暴力教師と対峙していたのだが、その大魔神だいまじんと呼ばれた大男に薫が怯まなかった理由のひとつが、たけしの存在であったことは間違いない。当時の薫は、もはや男の怒鳴り声には慣れっこだったのだ。


薫の場合、中学という新しい環境に慣れることに必死だったこともあり、父のたけしからは遠ざかるばかりだったのだが、母の佳代の方は、そうは行かなかっただろう。

それまでのたけしと佳代は、仲の良い夫婦だった。少なくとも周囲には、そのように見えていた筈だ。

それが、その頃の二人は衝突することが多々あったようなのだ。と言っても、一方的に佳代が責められるだけなのだが……。


どんなに荒れている時でも、たけしは娘の薫や楓に暴力を振るうことは無かった。しかし、佳代に対してもそうだったかどうかは分からない。その頃の佳代は、やたらと薫に当たったり、独り言を言うようになっていたからだ。

その為、薫は楓を連れて、それまで以上に頻繁に幸子の部屋を訪れるようになった。薫にとっては幸子の部屋が、まさにシェルターのような役割を果たしていたのである



★★★



当時、水草家で何が起こっていたのかを薫は正確には知らない。やっと中学に上がったばかりの娘に、家の事情を事細かに話すような親は普通いないだろう。

だけど当時の水草家には、目に見える変化があった。それは、使用人のほとんどが解雇されてしまったことだ。


この時に辞めて行った大勢の使用人について、たった一人を除けば、薫には特に思う所は無い。実際、彼らの大半は、薫に一言の挨拶も無く去って行った。一方、かえでとの別れを惜しむ使用人は多くいて、小夜に「なんだか、楓お嬢様が正妻の子で、薫お嬢様は妾の子みたいですねえ」ときつい冗談を言われてしまったくらいだ。

そもそも、去って行った使用人達のほとんどは薫のことを馬鹿にしていたし、中には未だに薫が「できそこないの姫」だと思っている者もいた。だから薫としては、幼少期の嫌な思い出との決別となる出来事だった訳だが、それが家の衰退でもあるのを思えば喜んでもいられない。


唯一、薫が悲しかったのは、祖母の幸子がいる離れを担当していた家政婦の瀬古梓紗(あずさ)が、このタイミングで辞めてしまったことだ。

だけど彼女の場合、退職理由が持病の悪化だったことから、薫が駄々をこねる訳には行かない。薫は「また会いに行くから」と言って、大きく手を振って別れたのだった。


この時、瀬古利幸(としゆき)と野崎夫妻が、使用人用の長屋から余っている二つの離れに移って来た。最初、彼らは固辞していたのだが、「わざわざ空いとるのに、使わんともったいない」という幸子の一言で、結局は押し切られてしまったそうだ。

それから、アルバイトで雇った若い男の人達が長屋に住むことになった。今までの使用人は年寄りばっかりだったこともあり、比較的年齢が近い彼らの存在は、薫にとって新鮮だった。それに、今まで薫を冷遇していた以前の使用人達と違って、いつも彼らは明るく挨拶してくれる。だから薫も割と普通に挨拶を返すことができた。

それでも、そんな彼らのことを瀬古梓紗は、密かに心配してくれていたらしい。当然、素性がはっきりしている者しか雇っていないのだが、年頃の薫に万が一のことがないとは限らない。対策は必要だ。それで梓紗は、娘の紗理奈さりなを薫の下に寄こしてはどうかと夫の利幸に提案し、それにたけしが賛同した。つまり、武が薫に、「自分の身は自分で守れ」と言ったのは、そういう意味合いもあったという訳だ。


ともあれ薫は、使用人達の悪意に幼い頃から敏感で、逃げ足だって人一倍早い。余程のことがない限り、普通の男に襲われることなんて起こりようがないのだ。

よって、薫の目下の心配事は、やはり夜になると家でお酒を飲んで暴れる父のたけしの方だったのである。



★★★



それから、しばらく経ったある日のこと、薫は父のたけしが怒っている理由について、思い切って祖母の幸子に尋ねてみた。

すると幸子は急に暗い表情になって、小さな声でそっと教えてくれたのだ。


「借金だよ」

「えっ、借金って?」

「うちはね、お金をたくさん借りてるんだよ。銀行さんとか、農協からね」

「うわあ。うちって、実はビンボーなの?」

「うーん、将来はそうなる可能性が充分あるけど、ちょっと違うかね。事業をやるには……あ、農業も事業のひとつなんだけど、とにかく事業をやるには、資金が必要なんだよ。お金を回すことで利益を得て、お金を増やしていく……」


幸子は、事業や経営のことについて、簡単に説明してくれた。


「……つまり、借金には良い借金と悪い借金があるってことだね。で、今回、武がやったのは、悪い奴だ。へたすれば、キャッシュが回らなくなって、追加で借りなきゃいけなくなっちまう。そこで、また金を借りたら、うちは借金まみれだ。金利を返すのがやっとにもなりかねん。それも返せなくなった時は、もう破産するしかないね」

「大変なのは分かったけど、何でそんなことになっちゃったの?」

「そうだねえ。まずは、お祖父じいさんの時から、うちが農業の機械化を進めてきたのは知ってるかい?」

「うん、なんとなく」

「一番分かり易いのは、使用人の数だよ。ほら、薫が小学校に上がる前は、いつも大勢の人が家に出入りしてただろう。特に田植えの時期とか秋の収穫の時は、お祭り騒ぎだったからねえ。懐かしいねえ。それが今はどうだい。いつもいるのは、瀬古さんと野崎さんだけだろ。それと家の中の手伝いに小夜さよさんがいて、後はアルバイトが数人だ。こんな風になった理由のひとつは、機械を導入したからだよ」

「そうなんだ」

「まあ、機械化以外に、農業加工品の扱いを止めちまったことも大きいんだけどね。昔は、野菜とかを漬け物とかに加工してから出荷してたんだけど、そういうのは手間がかかるから、人手が必要なんだ。それも機械化すれば良いんだけど、そこまでは金を掛けられないってことで、お祖父じいさんは止めることにしちまったんだよ。それが良かったのかどうかは、難しい所だわね」

「どうして?」

「それで、ますます人が減っちまったからだよ。うちの使用人の数は、私がこの家に嫁に来た頃から毎年、減る一方なんだよ。それに、同じようなことを他の家でもやってる訳だからね、中州なかすの人の数も同じように減る一方ってことだよ。淋しいけど、ある程度は仕方がない。それが時代の流れというもんだからねえ」

「うーん、人が減るのは仕方ないことなの?」

「今は、誰もが都会に行きたがるからだよ。若い子は特にそうだろ。だから、中州にはなかなか人が来てくれない訳だよ。それに、人を雇うとお給料を払う必要があるだろ。特にお前のお祖父じいさんは、何でも効率重視でね、儲けが少ない農業加工品の商売からは、さっさと手を引いちまったって訳だよ。あの人は、二言目には機械化、機械化でね。少しでも無駄を省いて、それで浮いたお金をどんどん機械に投資してたからねえ」

「そっか。人が機械に代わって行っちゃったんだね」

「そうだよ。お祖父じいさんは、人にお給料を払うよりは、機械を買った方が安いって思ったんだね。ただ、いつでも機械の方が安いって訳じゃないんだ。機械は壊れたら修理しなきゃいけないし、動かすには燃料だって必要だ。それに、そもそも機械にだって寿命があるんだよ。ここ一年くらいの間に、大型の機械の買い替え時期が次々と来てね。たけしの奴、よせば良いのに、農協の担当者が言うがままに最新式のえらく高いのを購入することを勝手に決めちゃったんだよ」

「それって、お金がいっぱい必要ってこと?」

「そうだよ。もちろん、それに見合う収益が見込めるんなら、私だって何も言わないよ。でも、実際はそうじゃない。うちには、そんなに高価な機械は必要ないんだ。それに今の時期は、過大な設備投資はするべきじゃない。それなのに武の馬鹿は、私の話なんか聞きゃしない。最新式の機械が良いんだの一点張りだ」


幸子は顔を歪めて吐き捨てるように言ってから、深く溜め息を吐いた。


「実はね、ここ数年、うちは実質的に赤字続きなんだよ。キャッシュフローって薫は分かるかい? 要するに銀行から借りてる金が膨らむ一方なんだ。それなのに、更に借金を増やしてどうするんだい。いくら農協が特別ローンを組んでくれるからって、普通の銀行はもう貸してくれなくなっちまう。そうしたら運転資金が無くなって、うちは破産だ。そういうことが、あの子はちっとも分かっとらん。農協の言いなりなんだよ」

「……そうなんだ」

「そうだよ。佳代さんや薫の前では偉そうなこと言うくせに、何であんなに交渉下手なんだろうねえ。見積りのチェックだって甘い。値引きが駄目なら、金利を下げてもらうとか、支払いの時期を延ばしてもらうとか、やり方はいくらでもあるだろうに、基本的なことが何もできちゃいない。それに、どっかと共同購入にするとかすりゃ、うちの負担が減らせるんだよ。水草の一族だけじゃなくて、例えば西川さんとことかと共同で買う案を持ち掛けりゃ、向こうさんだって真剣に検討してくれる筈だがね。あそこも悩みはおんなじなんだで……」


幸子の話は長かったけど、それでも薫は自分の頭で理解しようと必死だった。


「……購入じゃなくて、リースにする方法だってあるんだ。それだけでも随分と助かるってゆうのに、それすら頭に無いなんて、もう信じられないよ。経営者失格だね。それに、あの契約書は何なんだい。完全に馬鹿にされてるとしか思えないよ。腹の立つ条件ばかりじゃないかい。あの子、ちゃんと読んだんかね。私だったら、絶対に突っ返してるよ……。でも、もうハンコ押しちゃったからねえ。今更、何を言っても無駄だよ。あの子も、今頃になって色々と分かってきて、あんなに荒れとるんだがね。ほんと、親として情けないよ」


薫は、うちが赤字だということを、その時初めて知った。今まで家の経営のことなんて、考えたことが無かったからだ。


「あの、お祖母ばあちゃん。もし破産したら、どうなるの?」

「当然、このお屋敷を出なきゃならないだろうねえ。ただ、それだけで済むんならおんの字なんだよ。借金取りってのは、乱暴な連中が多いからね。銀行さんは、そんなにえげつないことはしないだろうけど、農協はどうかねえ。うちの支払いが滞った時、あの契約書にある通り債権をどっかの取り立て屋とかに譲渡されたりでもしたら、それこそ身ぐるみ剝がされて……」


最後の方は聞き取れなかったけど、大変なことが起こるってことだけは、薫にも分かった。


「でも、何で儲からなくなっちゃったの?」

「ほう。さすが、薫だね。大事なのは、そこなんだよ。洪水や台風とかの被害が無いのに、それでも赤字だ。農業自体が、もう儲からなくなってきとるんだよ。薫は、TPPのことは知っとるかい?」

「うーん、詳しくは分かんないかも」

「そうかい。私も難しいことは分からんのだけど、数年前に話題になっただろう。あれから、農業の自由化ってのが進んじゃってねえ」

「自由化?」

「そうだよ。今までは外国の安い作物を輸入する時には、日本の政府が高い関税を掛けて、値段が安くなり過ぎないようにしとったし、物によっては輸入する量を制限したりもしてたんだよ」

「ふーん」

「で、今はそういうのが外国との取り決めで禁止されるようになったから、米や野菜の値段がどんどん下がっとるんだ」

「でも、日本の米や野菜の方がおいしいし、安全なんでしょう?」

「そうだよ。でも、値段が二倍とかだったら、どうだい?」

「あ、そっか。いくら良い物だって、安い外国の野菜よりもずっと高かったら、安い方でいいやってなっちゃうもんね」

「そういうことだよ。それに、最近は日本でもビンボーな人が増えただろう。そういう人ってのは、元々安い物しか買えない。つまり、外国の野菜しか買わないんだ」

「そうすると、お金持ちの人しか、うちの野菜を買ってくれなくなっちゃうってこと?」

「そうだよ。でも、お金を持ってる人はそんなに大勢いないから、作った野菜が全部売れなくて、捨てなきゃいけなくなっちまう。捨てるくらいなら、安い値段でもいいやってブローカーって人に売っちゃったりすると、高い値段で買ってくれてた人が、うちにも安く売ってくれってなるだろ?」

「うーん、大変だ」

「そうやって結局、物の値段は下がって行くんだ。それにだよ、日本は人口が減ってるのは知ってるかい?」

「うん」

「人の数が減ってるってことは、一人が食べる量はそんなに変わんないんだから、物が前みたいに売れなくなるってことだよ。売れる量が減って、しかも値段が下がる。つまり、日本の市場が小さくなるってことだね」

「そっかあ」

「それにね。実は、もっと大きな問題があるんだ」

「えっ?」

「最近、外国の企業が日本で自由に活動できるようにしようって動きがあるんだよ。ほら、日本の会社は外国に工場を作って、そこで出来たものを自由にいろんな国に売れるだろ。それと同じで、外国の会社が日本で農地を買って、米や野菜を作って自由に売りたいってことだね」

「えっ、外国の会社が?」

「そうだよ。今までは、外国の会社が農地を買い取ったりして、自由に作物を作るなんてことは禁止されとったんだ。もし、そういうことが自由にできたりしたら、例えば中州の田んぼを全部買い取って、大きな機械で効率良く米や野菜を作るなんてこともできてしまう。そうなったら、個人経営の農家はお終いだよ」

「お仕事、できなくなっちゃうの?」

「そうだよ。でも、そうなっちゃったら、日本人の食料は、そういう外国の会社の思うままになっちゃうからねえ。例えば、日本で作った米は日本人には売らずに、全部外国に輸出するとかされたら、日本人はどうなると思うかい?」

「お米が食べられなくなっちゃう」

「そうだよ。だから、そういう外国の企業に勝手なことをされないようにって、うちら個人経営の農家は、国からずっと保護されてきたんだ。それなのに……」


幸子の話は、それからも長々と続いたのだが、だんだんと難しくなって行って、薫には半分も分からなかった。

でも、その後で幸子がこんなことを言ったのだけは、良く覚えている。


「うちらが中州にいられるのも、たけしの代で終わりになっちまうかもしれんねえ。今の問題は、もう個人でどうこうできるレベルではないのかもしれん。後は、いつ手を引くかだけど、はたして武にその決断ができるのかねえ。私は、それが一番心配なんだよ」


幸子は、もう何度目かの溜め息を吐いてから、薫の顔をじっと見詰めて言った。


「だから、薫は中洲には拘らんと、外に出て行くことを考えた方がええ。もっと広い世界で好きなことをやりゃーええだでね。それにはまず勉強を頑張らんといかんねえ。何をするにも、まずは勉強だでね。分かったかい?」


祖母の幸子の問い掛けに、もちろん薫は、「うん、頑張る」と素直に頷いたのだった。



★★★



瀬古利幸せことしゆきは最後まで水草家に残ってくれた使用人の一人で、とても温厚な人だ。歳は祖母の幸子と同じ。幸子が二十歳でお嫁入りする前から、使用人として働いていたらしい。

彼は薫が幼少の頃、使用人達に疎んじられていた時にも普通に温かく接してくれていた。つまり彼は、彼の妻の梓紗あずさと共に、使用人達の中で最も信頼できる存在だったのだ。

そんな彼も水草の使用人が三人にまで減ってしまい、妻とも離れて暮らすことになったのには淋しさを覚えたようで、薫の姿を見付ける度に話し掛けてくるようになった。


「薫ちゃん、中学校は、やっぱり大変かい?」

「うん。割と大変だけど、新しい友達もできたし、楽しいよ」

「そうかい。薫ちゃんのことだから勉強の方は大丈夫なんだろうけど、なにせ学校が遠いからねえ」

「瀬古さんの時は、渡し舟だったんだよね?」

「そうだよ。だから、薫ちゃん達とは違って、楽ちんだったよ。歩いて船着き場まで行って、舟に乗るんだ。向こう岸から中学まではちょっと歩くけど、自転車で橋を通って行くよりは、ずっとましだよ。それに、大雨が降ったりして舟が出ないと、学校に行かなくて良いんだ」

「へえ、そんなんで学校が休みになっちゃうんだ」

「いや、自宅学習って言ってね、先生から電話で『これとこれをやっとけ』って指示があるんだ。けどまあ、学校に行くよりは楽だったなあ」

「ふーん」


薫は、その頃のことを少し考えてみた。確かに、天候が悪い時、学校に行かなくて良いのは凄く助かる。でも、中州なかす以外の友達に会えないのは、ちょっと嫌だ。


「それより、薫ちゃん。最近はおれらの仕事も楽になって助かるよ。たけしさんのお陰だなあ」

「そうなの?」

「まあ、機械の操作を覚えるまでは大変だったけどな、元々俺は、そういうのが好きだったから、今は楽しくて仕方ないのさ」

「そうなんだ。良かったね」

「ああ、ありがとよ。一緒に働く仲間が減っちまって淋しいのはあるんだがな、この歳で農作業ができとるのも、機械化のお陰だで、やっぱり感謝せんとな」


瀬古さんが言う通り、農業のやり方は最近になって大きく変わったようだ。元々、中州の農家の田畑は河の向こうと比べると格段に広く、どこも四角く区切られている。大型の機械を導入するには、まさにうってつけなのだ。

とはいえ、この時、瀬古さんは既に六十を過ぎており、肉体労働が辛い年齢になっていた。もう一人の使用人として残っている野崎清隆は、体格が良くて肉体労働向きではあるけど、やはり年齢は五十代後半。この二人の他にも住み込みのアルバイトがいるし、繁忙期にはアルバイトの数を増やすことで今は対応できているものの、このままの体制でいつまで持つかは疑問だ。


その疑問を薫は、屋敷の方で働く野崎小夜(さよ)にぶつけてみたことがある。


「うちの旦那は、脳筋のうきんですからねえ。どうせ、なーんにも考えてやしませんよ。それに身体からだだって丈夫ですから、大きなケガでもしない限り、たぶん七十までは充分働けると思いますよ」


その後、奇しくも小夜が言ったとおりになってしまうのだが、それはもっと先の話である。


「小夜さんは、どうなの?」

「私ですか。私は、そんなに大した仕事はしてませんからねえ。歳を取って身体が若い頃みたいに動かなくなったら、適当に手抜きさせてもらいますから、大丈夫ですよ。まだまだ、お嬢様達のお世話をさせて頂きます」


そう言って小夜は、いつも通りのすました笑いを薫に向けてきたのだった。



★★★



この時、父のたけしがこしらえた借金は、水草家全員の、ひいては中州なかす全住民の人生を狂わす結果になってしまった。

というのは、水草家が借金をしてまで大型機械を購入した後、中州のほとんどの家が右へ倣えで、やはり農協の言うがままに大型機械を購入したからだ。そして、そうした家の全てが揃って借金を抱え、水草家と同様に家と田畑を失ってしまったのである。


父のたけしによると、農協の担当者は若手だったと言うが、絶対にその男が単独でやったことではない。恐らく川田かわた村の農協全体がグルになっていて、更に、その農協に指示を出していた者がいた筈だ。

全ては、用意周到に準備されたことだったのだ。それなのに武は誰にも相談することなく、自分だけで勝手に判断して契約に捺印してしまった。だが、たぶんたけしがそうするだろうことまで相手側は読んでいたんだろう。武の性格や過去の行動履歴等が細かく分析された上で、彼を丸め込む詳細なシナリオが作られたのだ。そして、何度もリハーサルを重ねた上で、満を持して当日の対応がされたんじゃないだろうか?

この件に関する今の薫の推測は、だいたいこんな感じだ。


つまり、幸子があれこれ言っていたような小手先の対策でどうこうなるようなことでは無かった。たとえ最初、たけしがあの過大な設備投資を断ったとしても、その場合は第二、第三のシナリオが用意されていて、最終的には同じ結果になっていた筈だ。

要するに、相手側は水草家を本気で叩いて、破滅へと追いやるつもりだった。それに対抗する為には、こっちも最初から総力を上げて対抗すべきだったのだ。

少なくとも、顧問弁護士くらいは付けておくべきだった。ただ、あの頃はちょうど長年懇意にしていた弁護士が突然の事故で他界し、代わりの人を探していた最中だったという。穿ったことを言えば、その自己すら、相手企業側の策略という可能性もあるが、そこまで考えたらキリが無い。


それでも、たけしがこしらえた借金で、すぐに水草家が傾くようなことは無かった。というのは、中世から続く中州の水草家は、それだけの富を蓄えていたということだ。

ただし、その過大な設備投資はボディーブローのように水草家の財政を圧迫し続け、その後、幸子が懸命に立て直しを図ったものの、その幸子が倒れた時には、もはや小手先の対応だけでは、どうしようもない所まで追い込まれてしまっていたのだった。


そこに至るまでが約十年。そしてたけしが実際に屋敷と田畑を明け渡すまでには、更に二年と少しの年月を要した。

薫が思うに、かなり持ち堪えた方だろう。それは即ち、それだけ幸子が優秀だったということだ。


さて、父のたけしが最新式の農業機械を購入する契約書にサインをしてから三ヶ月後、武は自ら酒をった。それと同時に、家の中で怒鳴ったりすることは、ほとんど無くなり、それまで以上に無口になった。

更に不思議なことに、たけしと幸子が言い争うことが、一切無くなった。それは二人が仲違いして言葉すら交わさなくなったとかではなく、逆に二人が顔を突き合わせて、何やら真剣に話し合っている姿を度々見掛けるようになったのである。


どうやらたけしは、水草家の財政立て直しの為に幸子の言うことを受け入れて、幸子の指示には全て従うことにしたらしい。つまり、三ヶ月の酒浸りの日々を送った後で反省し、武は武なりに頑張ってみることにしたようなのだ。

薫の父、たけしは頑固なだけでなく、人並み以上に責任感も強い男なのである。


そうした家の財政事情は当然、家計にも影響する。

食卓に上がるおかずが一品減るみたいなことは起きなかったが、それまではネットで見つけた高い服を割と簡単に買っていたのが、普段着は量販店で買うようになった。本当は、それくらいのことで家の借金が減る筈もないのだが、「まずは意識を変えろ」ということなのだ。


生まれた時の薫は、紛れもなく「お金持ちの家のお嬢様」だったのだが、中学を卒業する頃になると、当時の社会階層で言えば、「上の下から中の上」くらいになってしまっていた。それでも「中の中以下」ではなかったわけだが、それが高校三年になって「東京の大学に行きたい」と両親に訴えた際、「中の中から中の下」への修正を余儀なくされてしまう。

そして、大学生活とその後の困窮生活を得て、天王市の古アパートに来た時には、名実共に最下層の「貧民街の住民」にまで落ちぶれてしまったのだった。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

少し固い話になってしまってすいません。多少思い付きの部分もありますので、適当にスルーして下さい。

次は、妹とおさげの話になります。


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