第68話:川田中学校(3) <薫サイド>
見直しました。
水草薫のクラス、一年五組の担任教師である岩田達夫との決着が付いたのは、ゴールデンウィークが終わり、五月の中旬に差し掛かってからのことだった。
遂に、あの岩田が切れたのだ。
その日、彼は朝から機嫌が悪かった。前の方に座っていた女子が「今日の先生、お酒くさーい」と言っていた所からすると、たぶん二日酔い気味だったんだろう。
そして、二時間目の国語の時間、岩田は生徒に教科書を朗読させていた。薫の順番になって普通に読み始めたのだが、ふと気配を感じて顔を上げると、目の前に岩田が仁王立ちしている。次の瞬間、いきなり拳が飛んで来た。
一度は躱した薫だったが、直後に突き倒されて、華奢な薫は後ろに跳ね飛ばされてしまった。
薫のすぐ後ろの席の女子、松川穂香が巻き添えをくらい、更にその後ろの席の男子が「うわっ」と言いながら必死に雪崩を食い止める。
ガッシャーン、バタン、ドスン。
薫の椅子、後ろの席の穂香の机と椅子が大きな音を立てて倒れた。
気が付くと薫の身体は、横の通路に転がり落ちていた。咄嗟に受け身を取ったことで頭は庇うことができたけど、肩と腰、それに左の肘と膝を床に強く打ち付けてしまったようだ。
「キャー」
ワンテンポ遅れて、女子達の甲高い悲鳴が上がった。
「水草さん、大丈夫?」
隣の席の花田美里が駆け寄って来る。その後ろには、ケントとセイヤの心配そうな顔が見えた。
薫は、左肘や肩などがジンジンと痛んではいたものの、何とか右手だけで必死に立ち上がる。それから、その右手でスカートの裾をパタパタと払いながら、「だいたい大丈夫みたい」と呟いた。
すると、二人の舎弟から「さすが、姉御だ」と感嘆の声が返って来た。
薫が美里の方を見ると、彼女の視線は薫の後ろを向いていた。薫が咄嗟に無理向くと、そこには、まだ岩田がいた。慌てて立ち退こうとした薫だったが、彼は呆然と立ち尽くすだけで、こっちに向かって来る気配はない。そうかと思うと、震える指を薫に突き付けて、大声で喚き出した。
「お、お前、さっき俺の方を見て、わ、笑っただろう……」
この期に及んで、またその話かと思った薫は、自然に唇が歪んでしまう。
「お、俺は悪くないぞ。お前のせいだ、全部、お前が悪いんだからな……」
教師だってのに、いったい何なの?
そう思った後の薫は、もう彼の言葉など聞いちゃいなかった。
美里の表情が険しい。彼女の視線は、さっきとは別の方を向いていて、そっちに薫が目を向けた途端、思わず声が出た。
「穂香っ!」
床の上に穂香が倒れていて、意識を失っているみたいだ。その周りに、どんどんと女子達が集まって来る。
「あ、動かさないでっ!」
薫が鋭く叫んだ。その声で、穂香を揺すろうとした女子が、サッと手を引っ込める。
「美里ちゃん。隣のクラスの先生とか、誰でも良いから呼んで来てくれる?」
「分かった」
美里がすぐに教室を飛び出して行った。
「ケントくん、保健の先生、呼んで来てくれるかな?」
「了解」
「セイヤ、その辺の机と椅子、片付けて頂戴。穂香には触らないこと。それと、できるだけ静かに」
「分かったっス」
ケントは教室を出て行き、セイヤは近くの男子を集めて、机と椅子を除けて行く。
すぐに美里は、隣の教室にいた社会科の先生を連れて戻って来てくれた。学年主任のその教師は、ひとめで岩田の様子がおかしいことに気が付いて、恐る恐る近寄って行った。
「うわあ、酒臭いですよ、岩田先生」
「うるせえ、こ、これは全部、水草が悪いんだあ」
「とにかく、職員室に……うわっ」
岩田が近くの生徒数人を跳ね除けて、凄い勢いで外に飛び出して行った。その後を、主任教師が追い掛けて行く。
薫の教室の異常に気付いた教師達が次々と集まって来た。その中にはケントが呼んで来てくれた保健の先生もいて、横たわる穂香の様子を確認すると、その場で救急車を呼んでくれた。
薫は、保健室に連れて行かれた。左の腕がだらんと下に垂れていて、擦りむいた左膝からも少し血が出ていたからだ。
保健室で薫は他も診てもらった所、膝以外は打ち身だけと診断された。あちこちに青あざができてしまったものの、大したことは無さそうだ。ただ、左の肘は強く打ったせいで、一週間くらいは痛むらしい。
「もう一人の子みたいに、頭を打たなくて良かったわ。あなた、見掛けに寄らず運動神経が良いみたいね」
それより、自分が何故あの担任教師を怒らせてしまったかが気になっていた薫は、それを一緒に付いて来てくれていた英語の女性教師に訊いてみた。
「大丈夫よ。水草さんは、全然悪くないから。さっきのことは忘れちゃいなさい」
その後、薫は二度と岩田に会うことは無かった。
岩田は学校に来なくなり、代わりに若い女の先生が担任になった。その加藤律花という先生は、若くて少し頼りない感じだったけど、薫のことは可愛がってくれた。
薫は、成績優秀て生徒会所属。そういう子は、いくら笑わなくたって教師の受けが良いのだ。やはり、岩田が異常だったのだろう。
噂によると、岩田は教師を辞めたらしい。本来なら暴力事件として警察が介入すべき所なのだが、学校と教育委員会が揉み消してしまったようだ。
松川穂香は、幸いなことに後遺症も無く、骨折などの大きなケガも無かった。心配なのは心理的な障害だが、元々のんきな性格なので大丈夫そうだ。
それでも親は相当な額の慰謝料を貰い、その一部が穂香にも還元されたみたいで、一週間後に登校した彼女はほくほく顔だった。貰ったお金で、好きなラノベの本とか漫画をネットで大量に購入できたらしい。そのうち薫にも貸してくれるとのことで、薫も嬉しかった。
ちなみに慰謝料は薫の両親も貰った筈だが、薫には何も下りて来なかった。
とはいえ、明らかに薫には非が無かったにも関わらず、この事件は薫の自己評価を更に下げる結果となった。
――自分は、存在するだけで相手を怒らせてしまう。
――自分は、嫌われて当然の存在なんだ。
ちょうど思春期に差し掛かったばかりの少女にとって、この事件は心に大きな傷跡を残してしまったのだった。
★★★
さて、水草薫が担任教師だった岩田達夫に暴行を受けた件については、さすがに薫の家族も黙ってはいなかった。
特に、当時、家で酒浸りになっていた父の武の怒りは凄まじく、教育委員会に殴り込みを掛けたりしたことによって慰謝料の学が跳ね上がったことは間違いない。
それなのに薫自身に還元されなかったのは納得できない所なのだが、実は全くという訳ではなかったのである。
とある土曜日の朝、薫は目が覚めるといきなり父の武に呼び出しを受けた。最近は、食事の時も武と一緒でないことの方が多い薫には意外だった。
場所は家族用のリビングで、武の他に使用人の瀬古利幸が一緒だった。
「薫か。こないだ、中学の教師に暴行を受けた件なんだが……」
父の武は薫の顔を見ると、彼女がソファーに座るのを待たずに話し始めた。
「今回のような事件でケガをしたりするのは、水草家の娘としてどうかと思うんだ」
薫は自分が呼び出された理由を、お説教だと思っていた。だから、この後で父に叱責されるのを覚悟した。
ところが……。
「とはいえ、学校内のセキュリティは、学校側にお願いするしかない。うちでどうこうする訳にはいかん。それでだ……」
何やら、父は薫のことを心配しているようだ。薫には、そのことが少し不思議だった。
「俺も色々と考えてみたんだが、一番大事なのは、やはり『自分の身は自分で守れ』ってことだと思うんだ」
「えーと、 それって私に強くなれってこと?」
「ああ、そうだ。お前も少しは強くなるべきだ」
何だか思いもよらない方向に、話しが飛んだ気がした。
「そこでだ。瀬古さんに相談して、薫には空手というか護身術を習わせることにした」
「えっ? 瀬古さんが、ですか?」
父の予想外の提案に困惑した薫は、思わず聞き返してしまった。
瀬古さんは、長年農業をやってきただけあって身体は丈夫だ。でも、歳は既に六十だ。それに、空手をやっていたという話は聞いたことが無い。
「あ、いや、ここにいる瀬古さんじゃない。教えてくれるのは、娘さんだ。安倍紗理奈さんだが、お前も知っとるだろう?」
「あ、はい」
安倍紗理奈は、瀬古さんの娘さんで、既に結婚されている。そう言えば高校の頃、空手の道場に通い出して、そのまま、そこの先生と結婚したんだった。紗理奈自身も空手は十年以上のキャリアであり、旦那さんの道場を手伝っているのだとか。
今でこそ、女性の習い事として護身術はありふれたものになりつつあるが、当時はまだ、そんなにメジャーではなかった。それで最初は薫も乗り気ではなかったけど、わざわざ中州にまで来てくれるというのを断るのも忍びない。
という訳で、屋敷内の使っていない作業場を使用人の三人と一緒に掃除して、にわか道場にしたてたのだが……。
「薫ちゃんって、筋が良いわね」
翌日、日曜の早朝に早速やって来た紗理奈に、薫は最初から褒められていた。
「昔からすばしっこい子だとは思ってたけど、あれって運動神経が良かったからなのね」
薫が五歳の頃、紗理奈は二十歳。彼女は高校を卒業した時から中州を離れており、天王市の兄の所から高校に通っていた。それに中州にはあまり帰って来なかったので、たまにしか薫は合っていない。
それでも一人で屋敷の中をうろちょろしていた頃の薫を、紗理奈は見ていたということだろうか?
「あの頃の薫ちゃん、不思議な子だったよね。まあ、今も変わってると言えば変わってると言えなくもないんだけど……。うーん、鍛えると面白いかもね。今回、親父に頼まれたのは、二、三回で良いって話だったけど、もっとちゃんと習ってみない? 薫ちゃんが嫌じゃなければ、付き合ってあげるわよ」
それから紗理奈は週末を中心に、毎週のように来てくれるようになった。時間は、いつも早朝の一時間から長くても一時間半。「こういうのは長くやっても仕方がないから」ということだった。
場所は基本、作業場に急ごしらえした道場だけど、天気が良い日は大河の河原でやることもあった。服装は最初の一ヶ月くらいは学校の体操着で、その後は紗理奈が持って来てくれた白い道着を着用した。きちんとした日程は決まってなくて、「来週は土曜日」だとか、前日に連絡が来て、「明日、どうかしら」と言われる感じだった。
教えてもらう内容は徐々に高度になって行って、「ちゃんと道場に来てやらないか?」と誘われたこともあったけど、「学校が忙しいから」と断わっているうちに、中学三年の秋、紗理奈が妊娠したことが判って止めになった。
この特訓は、いつも早朝だったせいか、ほとんど同世代の子にも知られていなかった。最初の一年くらいは親友の水瀬美緒ですら知らなくて、どんどんと薫が強くなって行くのが不思議だったようだ。そして、何かの折に訊かれたから答えた訳だが、その頃には他の様々なことで忙しく、美緒も一緒にやりたいとは言って来なかった。
薫としては別に隠すつもりは無かったのだけど、敢えて言うことでもないと思って黙っていた……というのは建前で、本当は、それだけ紗理奈のマンツーマン指導を気に入っていたのだ。
そんな風に独り占めしたくなる程に、紗理奈との特訓は楽しかった。指導自体は決して楽なものではなく、むしろ女子中学生には厳しい類のものだったのだが、薫は嬉々としてこなしてしまう。今までできなかったことができるようになるのは、とても楽しい。それに、少しずつ強くなって行く自分を実感できるのが、薫には何よりも嬉しかった。
本当は、紗理奈が夫婦でやっている道場にも薫は行ってみたかったのだが、今まで何となく行きそびれてしまったままになってしまっている。
それでも紗理奈に教えてもらったことは、その後の薫の人生において、かけがえのない宝になって行ったのだった。
★★★
薫が元担任の岩田達夫との決着が付いて、ようやく平穏な学校生活が送れるようになった頃、親友の水瀬美緒の方は、かなり慌ただしい毎日を過ごしていた。
その頃になると、演劇部の活動も多忙になり、部活の無い日は生徒会の方に顔を出すことになっていたからってのもあるけど、本当の理由はそこじゃない。
朝、薫と一緒に登校すると、美緒が「うわあ、まただあ」と小さく叫ぶ。下駄箱にあったのは、三通の封書。当然、ラブレターだ。
「こういうベタなことするのって、何なんだろうね」
「だって、うちの中学は基本的にスマホ禁止だし、いきなり声を掛けるのはハードル高いから、消去法で行くと妥当な手段なんじゃないの?」
基本スマホ禁止とはいえ中州の子は家が遠いから、道中で何かあった時の為に許可されていた。中州以外でも申請すれば持てるみたいだけど、実際に持ってるのは一割に満たなかった。
ちなみに薫の場合、小夜が手配してくれたのはガラケーで、美緒のスマホが羨ましかったりする。
さて、ラブレターの次に多いのは、友達経由での呼び出しだ。この場合、呼び出す相手が上級生とかだと、美緒でも断り切れない。
そして、呼び出されるのは普通、校舎の裏とかで一人だと危険だから、古川麻友と薫が付いて行くのが常だった。
「あたし、ここに来るの嫌いなんだよなあ」
「パンツ丸出しでコケてたもんね」
「もう、美緒さんったら、ひっどーい。あ、でも、姉御に髪の毛なでなでされたのは、嬉しかったです」
そう言いながら、麻友は薫の方に茶髪の頭を差し出してくる。面倒だから、薫はおざなりに撫でてやる。まるっきり猫そのものだ。
指定された場所に到着すると、二年の男子が三人で来ていた。
美緒は躊躇うことなく薫たちから離れ、一人で前に出て行く。
『さて、今日、美緒に降られるのはどいつだろう』と思って見ていると、三人が同時に前に出て来たのには驚いた。
えっ、まさかのトリプル告白?
そう思って眺めていると、いきなりぺこりと頭を下げたのは、真ん中の男子だけだった。
「あの三人、サッカー部の仲良し組ですよ。特に真ん中の植田彰人って人、人気者みたいです。二年の一部の女子からは、『王子様』って言われてまして、うちのクラスにもファンが大勢います」
隣で麻友が解説してくれる。これも毎回のことで、彼女は男子のこうした情報に関し、相当に精通しているようだった。麻友は、その為に彼女の舎弟を校内に巡回させて、情報をかき集めているらしい。
薫には、あまり興味が無いことなのだが、「次に誰が美緒に告白しそうだ」といった情報も取ってきてくれるので、美緒共々それなりに重宝していた。
「あれ、王子様、なかなかお言葉がありませんねえ」
確かに、彰人という男子は、頭を下げているだけで何も喋らない。こっちからは背中しか見えない美緒だけど、彼女の性格上、相当にイラついている筈だ。
ようやく彰人王子が前に差し出した手は、明らかに震えていた。
両側の男子が励ますように、彼の肩をポンと叩く。
「あ、あの、ぼ、ぼきゅ……」
あ、噛んだ。
薫の隣で、クスっと麻友が笑う。
「あ、あの……」
彰人王子は、どもりまくっているだけで、肝心のセリフはちっとも言わない。
「あのー……」
「ごめんなさい」
痺れを切らした美緒が、パッと頭を下げた。彼女は、すぐに振り返って、すたすたと薫の方に歩いて来る。
すると、両側の二人が追い掛けて来た。
「おい、待てよ」
「まだ、終わってねーんだよ」
美緒は、小走りになって薫の所にやって来る。薫は、サッと美緒を背中に隠した。
薫の前に、二人の男子が仁王立ちになる。この頃の薫は背が低くて、それなりの威圧感があった。
ちなみに、一緒にいる麻友も背はあまり高くないのだが、薫よりは高かった。その麻友は、薫の隣でへらへらと笑っている。つまり、彼女の平常運転だ。そし薫もまた、いつもの無表情だった。
「なんだよ、お前ら」「お前らに用はねーんだよ」
「美緒の友人ですけど」「姉御の舎弟三号でーす」
「お前ら、俺らのこと馬鹿にしとるだろう?」「先輩をコケにすると、痛い目に遭うぞ」
「姉御、どうします? 一号と二号も呼んじゃいますかー?」
「別に呼ばなくて良いよ」
答えたのは、美緒だった。
「だって、全然、強そうじゃないじゃん」
「そだね」
薫も即答する。隣では、やっぱり麻友がへらへらと笑っていた。
「てめーら、なめとんのかー」
「あ、王子様が来ましたよー」
右側の男が腕を振り上げた時、麻友が歌うように言った。
そいつは、腕を振り上げたままで後ろを振り向く。
「おっ、彰人、大丈夫か?」
「僕は平気だよ」
「もう、帰っても良いんじゃないですかー?」
「そだね、帰ろう」
三人は、追って来ない。
薫は、溜め息を吐いた。
この頃になると薫たちは、校内の腕っぷしの良い男子は全て把握していた。週に何回もパトロールしているのだから、当然だ。そんな薫が知らない男子だという時点で、たいしたことが無いのは明らかだったのだ。
この三人は麻友の評価によると、「ボールを蹴るのはそこそこできるけど、ボール以外は蹴ったこと無さそう」だった。
「しっかし、彰人王子が、あんなヘタレだったとはねえ」
「それは違うんじゃない? 王子ってのは、だいたいヘタレなんだと思うよ。ねっ、薫?」
「私、本物の王子って見たこと無いから知らない」
「そっか。そうだね。あたし、お姫様だったら見た事あるけどね」
「えっ、美緒さん、それって誰ですかあ」
「えっ、そこにいるじゃん」
「ええーっ、姉御?」
「ふふっ」
「もう、美緒ったら、余計なことは言わないのっ!」
そうなのだ。王子様はヘタレでも良いけど、姫は強くなきゃ駄目なのである。
★★★
彰人王子を振ったことで、一部の女子達の間での水瀬美緒の評判は地に落ちた。薫のクラスの女子でさえ、美緒の悪口を言う者が出る始末で、セイヤが時々そうした悪口を言っていた女子の名前を教えてくれるのだ。その都度、薫は「放っておいたら」と言うのだが、セイヤの方は不満が尾だった。
一方で男子はというと、相変わらず美緒の人気は凄まじかった。薫のクラスでも、美緒のファンクラブの「マドンナ愛好会」に入会している男子が、二桁近くいたのだ。
このファンクラブは事務局が新聞部で、きちんと写真付きの会報が発行されていた。
薫は、このファンクラブにセイヤを入会させ、会報を美緒と一緒に見るようにしていたのだが、美緒の反応は、だいたい好意的だった。もともと目立ちたがり屋の美緒は、アイドルにでもなった気分だったのかもしれない。
とは言っても、それは最初の頃だけで、そのうち美緒もファンの男子達の熱狂にも飽きてしまい、次第に彼らがウザく感じるようになって行ったのである。
ところで、このマドンナという呼び名を誰が始めたのかは分からないのだが、川田中学校では昔から、校内一可愛い女子を「マドンナ」の呼称で呼ぶのが慣例化していたらしい。もっとも毎年いる訳じゃなくて、数年に一回しか出ないのだとか。
ちなみに、先代マドンナもまた中州分校出身で、川合光流の姉、川合華月だったという。ただし華月の場合、美緒みたいに万人受けする美人ではなく、一部の男子には近寄り難い存在として敬遠されていたらしい。それは彼女の性格が陰キャというか、どこか影のある雰囲気を醸し出していたこと、それに彼女の成績が学年でトップレベルだったことに起因していたようだ。
実は、その華月も文芸部だったそうで、分校の時と同様に中学でも本ばかり読んでいたという。その為、「深窓の令嬢」だとか、「図書館の妖精」だとか言われていたらしい。
閑話休題。
以下は薫の記憶にある「ある日の文芸部先輩達との会話」である。
当然、場所は文芸部の部室。この部室は図書室から近い所にあって、しかも部室の壁三面に本棚があって本が溢れていることから、「第二の図書室」と呼ばれていたりする。しかも本の種類がラノベ等の神機ジャンルに偏っており、更にマンガ等もあるので図書室よりも人気があるのだが、如何せん、ひと目でオタクと判る人種の巣窟でもある為、一般人は近付かない。オタク菌に冒されたくないからだ。
「なんか、マドンナを演劇部に持って行かれたのが、オレにはどうも納得が行かねえんだよな」
「稲垣先輩。それって、先代のマドンナが文芸部だからってことですか?」
「まあ、そうだな」
「華月先輩でしたっけ? とても素敵な方だったって言いますもんね」
「何たって、図書館の妖精だかんな。時々、この部室にも顔を出してくれてたんだぜ」
「良いなあ。稲垣先輩って、その美少女を生で見れたんだから」
「まあな。オレが一年坊主の時だけどよ……。そういや、水草も中州だったよな?」
「あ、はい。えーと……」
この時の薫は部室の隅で穂香に借りたラノベを読みながら、先輩達の話を適当に聞き流していた。だから名前を呼ばれて、すぐには状況が掴めなかったのだ。
「ははは。水草は、中州の川合華月さんって知ってるかい?」
「華月さんですか? うちの分家のお姉さんですけど」
「えっ、分家? てことは、血の繋がりがあるってこと?」
「分家と言っても、だいぶ遠い親戚なんで……」
「ふーん。あ、でも、中州の女子って、綺麗な子ばっかだよね。今のマドンナも中州の子なんでしょう?」
「はい。私の幼馴染で親友なんです」
「へえ、そうなんだあ」
「マジかよ」
「全然、知らんかったわ」
「えっ?」
その場の男子全員の目が、一斉に薫に向いた。
すると、困った様子の薫を見て、三年女子の安福先輩が話を元に戻してくれた。
「まあ、今のマドンナも中州の子だったら、綺麗なのは当然なんじゃない? それにさ、初代のマドンナも演劇部だったらしいよ」
「あ、それ、聞いたことあります」
「てことは、大政奉還されたってことかよ」
「だな」
そこでマドンナの話題は終わったかに思えたのだけど……。
「オレ、思うんだけどよー。マドンナって、別に一人じゃなくても良くねー。うちでも誰かをマドンナに担ぎ上げようぜ」
そんな不穏なことを言い出したのは三年の稲垣先輩だったのだが、薫のメンタルにダメージを与えたのは、その次の安福先輩の発言だった。
「じゃあさあ、うちのマドンナは薫ちゃんで行く?」
「そうだな。水草だったら同じ中州だし、妥当だろうな」
「すっごく良いと思う。水草さんって綺麗だもの」
「まあ、派手さはないけどな。顔の造りで言えば、今のマドンナよりも美人じゃねえの」
「俺もそう思うわ」
「私も賛成」
「私も応援するわ」
安福先輩への賛同の言葉が次々に発せられるのを薫は、ただ呆然と聞いているしかなかった。
「じゃあ、早速、写真を撮ろうぜ。思い立ったら吉日で、すぐにオレが新聞部に持ち込んでやるからよ」
そう言って稲垣先輩は、スマホ所持の許可を得ている先輩からスマホを借りて、それを薫の方に向けてきたのだが……。
「あ、水草、お前、絶対に笑うなよ。お前が笑うと、悪役令嬢にしかなんないんだからな」
薫が文芸部に入ってからまだ二ヶ月も経ってないのに、既に薫が笑うとどうなるかは、幽霊部員以外の全員が知っていた。
だけど……。
「先輩方、笑わないマドンナって、マドンナじゃないと思いますけど」
「げっ、水草が怒った」
「わ、分かったよ。水草には別のを考えよう」
「うーん、悪魔の令嬢とか……うわっ」
いきなり立ち上がった薫が、椅子を勢いよく後ろに倒してしまい、ドンと大きな音が部室に鳴り響いた。
「あら、失礼しました。別に、わたくしに悪魔が降臨した訳では、ございませんので……」
薫は平坦な口調でそう言うと、祖母の幸子から習った、ゆっくりと優雅な仕草で部室を見回す。人に似過ぎた人形のように色白く整った表情の無い顔からの視線が、部員一人一人の顔の上を通り過ぎて行った。
「もう、薫ちゃんったらあ、そんなの、自分で言っちゃったら駄目じゃないのー」
他の部員達が震え上がっている中、場違いに呑気な声を上げたのは、松川穂香だった。彼女は、薫とは正反対のふにゃっとした笑顔を薫に向ける。
それに釣られて薫もぎこちない笑みを向けたのだが、それでますます部員達が恐怖におののいたのは言うまでもない。
全ては、事故のようなものだった。だけど薫には、間違いなく悪夢だった。
その場の散々たる様子に気付いた薫は、居たたまれなくなって部室を飛び出して言った。その後を、穂香が追い掛けて行く。
バタンと音を立てて閉まったドアを見て、三年男子の稲垣が呟いた。
「やっぱ、水草って悪魔の生まれ変わりじゃねえのか?」
三年女子の安福が、呆れた声を出した。
「稲垣、あんたねえ」
稲垣が、弁解じみた口調で言った。
「しょうがねえだろ。ありや、誰が見たってビビるわ。まさに、『悪魔の笑み』って感じだったもんな」
実は、これが薫の不気味な笑顔を表現する言葉、「悪魔の笑み」が生まれた瞬間なのだった。
★★★
マドンナファンクラブができて、お互いに水瀬美緒への過剰なアプローチを権勢し合う雰囲気が出来上がった後も、美緒に対する男子達の告白は続いていた。その理由は、それら男子達の間で美緒に告白して振られることが、一種のイニシエーションとして捉えられるようになったからのようだ。
つまり、告白を済ませた男子は、ファンクラブの中で「上級会員」の地位が得られることになった為らしい。美緒にとっては、実に良い迷惑である。
「しかし、この状況は、ちょっとマズいな」
「でしょう? 正人兄ちゃんと光流兄ちゃん、何とかしてよー。お願いっ!」
美緒が両手を合わせて二人の前で頭を下げるのだが、その様子を見ている女子達、特に吉田舞香の表情は冷ややかだ。
「そんなのさあ、美緒が八方美人を止めれば済む話でしょうが。あんた、誰にでも愛想を振り撒いてばっかいるから、こういうことになるの。薫を見てみな」
「いや、薫ちゃんは、ちょっと違うと思うよ。むしろ、一部の男子達から悪意を向けられるタイプだもん」
薫に失礼な発言をしたのは水野碧衣なのだが、間違ってはいないので反論できない。
「だからこそ、俺らが守ってるわけっス」
「セイヤってさあ、最近、マドンナファンクラブの名誉会員になったんじゃなかった?」
「美緒さんに告白した訳でもないのに、上級会員どころか、名誉会員って何故なんでしょうねー?」
「あ、あれは、情報を取る為に止むに止まれずしたことでして……」
水野碧衣と古川麻友が指摘したのは、セイヤが先日、美緒のパンチラ写真をファンクラブに持ち込んだことだった。それで彼は晴れて名誉会員となって、それ以来、ファンクラブの情報がいろいろ入手し易くなったのは事実ではあるのだが……。
「まあ、今回は見逃してあげるけど、次はないからね」
「隠し撮りなんて、男としてサイテーだもんね」
「セイヤったら、怒られちゃいましたねー。やっぱ、セイヤは詰めが甘いんだよねー。そこは、この……」
「こら、麻友。あんたがセイヤに隠し撮りの技術を教えたんじゃないでしょうね?」
「そうだけど、そんなに怒んなくても良いじゃないですかあ、吉田先輩。隠し撮りは有効な手段ですよー。別に、相手に気付かれなきゃ、良いんですぅ」
「それはそうかもしれないけど、その技を何で美緒に向けちゃうわけ?」
「だってえ、敵を欺くには味方からって言うじゃないですかあ。ねっ、姉御?」
いきなり話を振られた薫は、ポツンと言った。
「あの、この写真の美緒、可愛いと思うよ」
「何処がー?」「何でよっ!」「あ、姉御?」
あちこちで否定的な声が上がったけど、薫は無視して先を続けた。
「だいたいさあ、その写真を一番真剣な目で食い入るように見てたのって、光流くんだよ」
「お、お嬢、それは……」「ふーん、見てたんだあ」
薫の言葉に最も反応したのは、光流と美緒だった。
それで薫は、「もう、美緒も、怒んないの」と言って美緒をたしなめてから、以前から考えていたことを言ってみることにした。
「あのね。私、考えたんだけど、男子から美緒への告白を減らすのって、割と簡単だと思う」
その発言で、全員の目が薫の方に向いた。
「えっとね、光流くんが美緒にきちんと告白して、ちゃんと付き合っちゃえば良いんだよ」
しばらく続いた沈黙を破ったのは、河村正人だった。
「確かに、薫が言うことには一理あるな。どうだ、光流?」
「そだよ。昔から美緒は光流くんのことが好きなんだから、全然、難しいことじゃないでしょう?」
「ひぃ……」「……っ」
微かに本人達の息を飲む音が聞こえた後に、麻友が呆れた声で言った。
「もう、姉御。それって、分かってても言っちゃ駄目な奴ですよー」
「あれ、そうなの?」
薫は慌てて美緒を見たのだが、俯いていて表情が分からない。
だけど薫は、ためらわずに続けた。
「でもさあ、美緒って五歳の頃から、ずーっと光流くんのことが好きなんだよ。そんなの、皆が知ってることでしょう? ねっ、正人くん?」
薫に視線を向けられた正人は、「そうだな」と相槌を打つと、光流の方を向いた。
「光流、薫の言う通りだ。お前が美緒のことを放っておくから、こんなことになるんだ。お前だって、分かってんだろ? ここらで、ちゃんと決着を付けたらどうだ?」
美緒と光流が両想いなのは中州の同世代の子なら、だいたい誰もが知っていることだ。そもそもバレンタインの時に美緒は毎年、光流だけに特別なチョコを渡していたし、光流だってホワイトデーには特別なお返しをしていたのだから、お互いが両想いだと気付いていない筈がない。
今までは美緒が小学生だったってのがあったけど、二人共中学生になった今、ちゃんと付き合うのが自然だろう。
それまで座って頭を抱えていた光流は、正人に促されて立ち上がる。そして、無理やり美緒の前に押し出された。
「まあ、これだけ立会人がいりゃ、充分だろう」
「あの、正人くん。告白って、立会人が入るの?」
「さあ、どうだろう。舞香、知ってるか?」
「な、何で私に聞くの? そこは碧衣に聞く所でしょう」
「わ、私だって知らないよ、そんなの」
「そんなの、別にどうだっていいじゃない。ほら、光流くん、早くしなよ」
最後は薫に促された光流は、ようやく覚悟を決めたのか、おずおずと話し出した。
「あ、あのな、美緒。俺、美緒のこと、ずっと好きだったんだ。えーと、最初に会った時……俺が八歳の時だっけ?」
「七歳の時でしょう?」
美緒は、涙声だった。
「えーと、あー、もう、めんどくさいや。美緒、俺と付き合ってくれっ!」
「分かった」
薫は、『光流のこんな表情は久しぶりに見た』と思った。それで何となく思い出したのは、まだ薫が分校に上がる前、初めて木登りをして下りれなくなった時のことだ。その時の光流は、必死な表情で薫を見てくれていた。
その彼の目が、さっきは親友の美緒に向けられていたのだ。
最初に薫が拍手をして、それから皆も拍手をしてくれた。
こうして川田中学校生徒会カップルが、晴れて誕生したのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話も薫の回想シーンで、借金のお話しになります。
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