第62話:初デート <翔サイド>
見直しました。
◆7月28日(火)
昨日は桜木莉子から手作り弁当を貰って有頂天だった藤田翔だったが、今朝はあまり良い目覚めではなかった。
原因は昨夜、夕食後に親友の松永陽輝と携帯端末越しに話した内容にある。それは元カノの水草薫に関することで、翔にとっては、どうにも気が滅入るものだったのだ。
その松永は、姉の京香から翔と薫とのことを色々と聞かされたようだ。
『昨日は、うちの姉貴が余計なことぺらぺら喋っちまって、ごめんな。ほんと、姉貴って人の恋バナに口出しするの、大好きだもんなあ』
「だな。ていうか、女ってのは、だいたいそうだろ?」
『いや、沙希とかは違うぞ。まあ、あいつの場合、仲間思い出はあるんだけどな』
「お、珍しく沙希の肩を持つんだな」
『まあな。昨日は、沙希とも会ったんだろ?』
「ああ、朝っぱらから叩き起こされちまったよ」
『ご愁傷様だな。で、少しは薫のこと、分かったのか? どうせ、沙希から色々と聞かされたんだろ?』
「まあな。まだ消化不良ぎみだけどな」
『薫、軍に入るんだってな』
「そうみたいだな」
『どうした。止めねえのかよ』
「お前も京香さんから聞いてんだろ? 一応、薫に会いに行ったんだが、『決めたから』の一点張りで、俺の話を聞こうともしないんだ」
『薫、頑固だもんな』
「ああ。昔からだよな。見た目と違って、自分で決めたことは、梃子でも曲げない奴だし……」
『そんでも、翔の言う事だったら、聞くんじゃねえのか?』
「駄目だな。今の俺なんか、もう薫には何の影響力もないよ」
『そんなことはねえと思うんだけどな』
「いや、俺じゃ、駄目なんだ」
『翔、お前って、あっさりし過ぎじゃねえのか? と言っても、オレが未練がましいだけかもしれねえけどな。昨日、姉貴から、散々言われちまったよ』
「そうか。京香さん、俺にもお前のこと、愚痴ってたよ」
『お前にだけじゃねえぞ。姉貴の奴、今日は薫にも会いに行ったんだってよ。こういうのは、両方から話を聞かないと駄目だとかアホなこと言いやがってよ。で、薫にもオレの悪口、散々言いやがったんだと』
「それはまあ、だいたい想像が付くな」
『だろ。ほんと、あったまくるよ。あ、それでよ。姉貴の奴、薫にも「翔のことは、きっぱり諦めなさい」みたいなこと言ったんだとよ』
「まあ、そうだろうな。俺も言われたし」
『でも、それって、良いお世話じゃねえかよ。傍から見たら、他人の恋仲を無理やり引き裂いてるみたいに思えなくもねえぞ』
「松永がいきり立つことじゃないだろ」
『まあ、そうなんだがよ。で、お前はどうすんだよ?』
「分かんないんだ。ていうか、どうしようも無いって感じかもな」
『そっか』
「ああ。正直言うと、京香さんに言われた通りのような気もするんだ。沙希にも言われたんだけど、やっぱり、俺って情けない男だと思うよ」
『まあ、あれだな。借金とか言われると、どうしようもねえわな』
「藤田家としてなら、何とかできなくもないんだけどな。でも、うちの母親を説得しなきゃなんないし、そもそも薫自身が、それを受け入れるとも思えないんだ」
『そりゃまあ、そうだわな』
「ああ。京香さんが言うにはさ、薫の場合、俺と対等の関係にならないと、俺のプロポーズだって、絶対に受けないだろうってさ」
『なるほど。没落しても、水草家の娘だもんな』
「水草家って、お前も何か知ってんのかよ」
『だって、有名だろ。昔の豪族の末裔っていうか、この辺の戦国大名の一人だぞ』
「ええーっ、この辺の大名って、織田信長じゃないのかよ?」
『天王市は信長だがな、信長と盟友関係にあったのが水草だ』
「それって、本当かよ?」
こないだの沙希の口ぶりから、翔も薫の家が相当な名家だとは思っていたが、まさか大名家の末裔だとまでは思わなかった。それが本当なら、藤田家など足元にも及ばないのではないか?
『オレが嘘言ってもしょうがねえだろ。翔、お前も地元の歴史くらい勉強しとけよ』
「分かったよ」
日曜に沙希にも言われたことだが、翔はまだネットで水草家をググってはいなかった。翔が基本、めんどくさがりなのもあるが、水草家について調べるのが、翔には少し怖かったからでもある。知ってしまうと、何かが変わってしまう気がしたのだ。
「確かに、東京に居た時だって薫の奴、金欠でまともなもん食ってなくても、俺に奢ってもらうの嫌がってたしな」
『そうだろうな。土曜の大衆酒場の会計の時だって、自分も払うって言い張ってたもんな。あん時は、沙希が何とか説得してくれたけどよ』
となると、やはり薫を追い掛けるのは厳しいってことだろうか?
「やっぱり、京香さんが言ったとおりかもな。俺と薫は、大学を卒業した時に終わってたんだとさ」
『姉貴って、そういうとこ、あっさりしてんからな。沙希のことだって、別の女に目を向けろって、しょっちゅう言いやがるし』
「俺も同じようなこと言われたよ。まあ、当てが無いわけじゃないんだけどさ」
『会社に良い子でもいるのか?』
「まあな」
『なるほど。まあ、それも良いかもな』
「怒らないのかよ」
『別に。仕方ねえってのは、分かるしよ。お前の場合、家のことがあるから、おふくろさんだって早く身を固めて欲しいって思ってんじゃねえのか?』
「さあ、どうだろうな」
松永とは、その後、しばらく雑談を交してから通話を切った。
問題の水草薫とは、先週の月曜に再会して以来、ぎくしゃくした関係が続いている。その理由が分かかったのは、こないだの日曜に沙希が色々と話してくれたからで、その後に翔は薫と会って和解しようとしたのだが、全く取り合ってもらえなかった。
京香が言う通り、全ては手遅れカモしれない。だけど、その一方で翔は、高校と大学の七年間を一緒に過ごした薫に対して、多少なりとも自分が何かをしてやりたいという思いがあるのだ。
それは、薫に対する罪悪感なんだろうか?
翔には、それが良く分からなかった。
それなのに、新しく出会った桜木莉子との関係は思いの外に順調で、しかも自分の一部は、そのことを好ましく思っている……。
こんな感じで、翔の心は二人の女性の間を行き来して堂々巡りを延々と続けた結果、彼は良く眠れないままに今朝を迎えたという訳だった。
★★★
そして、今朝である。何となく気だるいとはいえ、会社に行かない訳にはいかない。
それでも気が進まない翔は、スマホで適当にセルフのタクシーを当たってみたら、あっさりと予約ができてしまった。実は昨日も同じことをしたのだが、その時は全く予約が取れなかったのだ。
ラッキーと思った翔は、少しだけ元気になって、シャワーを浴びに浴室へと向かって行った。
★★★
さっきまで元カノのことで憂鬱な気分だった翔だが、予約したセルフのタクシーに乗り込んだ途端、彼の意識は桜木莉子のことへと切り替わっていた。
翔としては、昨日の手作り弁当のお礼を口実に、何とか彼女を食事に出も誘いたいと思っていたのだ。
具体的に、どのように声を掛けたら良いか、何度も脳内シミュレーションを繰り返しているうちに、いつもより相当に早く翔は、七星商事名古屋支社に到着した。
莉子が出社してすぐに声を掛けようと考えていた翔だったが、残念ながらそれは叶わなかった。同じ営業四課の先輩女性社員である中馬さんが珍しく早く出社していて、いつも莉子が座る隅の席の隣に居座ってしまっていたからだ。
それでも、翔の下心の更に上を行くスピードで、物事は進んで行ってしまうのである。
翔が十二階の会議室で朝一のミーティングを終えて、廊下を歩き出した時だった。支社長秘書の犬飼葉月が翔の前にサッと現れて、小さな二つ折りのカードを手渡してきたのだ。その際に彼女が、「お席に戻ってから、中を見て下さいね」と翔の耳元で囁いたので、彼は急いで自分の席に向かって行った。
そわそわした状態の翔が、その名刺大のカードを開いて中を読もうとした所で、総務課の鈴村千春から着信があった。その千春は、『莉子ちゃんのこと宜しくね。もし泣かしたら承知しないんだから』と一方的に言って、翔が何か言おうとするとプツンと切られてしまった。
『さて、何のことだろう』と思って、さっきのカードを開いてみると、そこには手書きの短いメッセージと共に、お店の名前と場所、そして予約した時間が書かれていた。どうやら、夕食会へのお誘いのようだ。
その柔らかい丁寧な文字は、明らかに女性のものだった。そして、一番下の所にあった名前を見た翔は、この夕食会の主旨を悟った。そこにあった名前は、彼の目の前にいる女性、桜木莉子のものだったからだ。
つまり、これは夕食会という名のデートのお誘いだったわけだ。
そのことに気付いた翔は、さっきカードを開けた時の高揚感など嘘だったかのように落ち込んでしまった。
翔は、年下の莉子に先を越されてしまったのだ。本当は自分が彼女を誘おうと思っていたというのに、情けない事この上ない。これでは沙希にヘタレと言われても、言い返せないじゃないか?
普段は楽天家である翔がこんな風に落ち込んでしまったのは、昨日のことがあるからだった。
過去の元カノとの付き合いについて、女友達の沙希から延々とダメ出汁された挙句、その後で会いに行った元カノ本人からは、全く相手にされずに追い払われてしまった。それだけのことがあれば、どんなに自信のある男でも落ち込んでしまって当然だろう。
それでも翔の特技は、切り替えの早さだったりする。
翔は、チラっと前の席の莉子へと目をやった。もちろん彼女は、翔が今何を見ているかを知っている。そして不安げな顔を翔の方に向けていた。
やっぱり、ここで彼女を不安にさせる訳にはいかない。
昨日あったことは、ひとまず忘れてしまおう。
そう思った翔は、取り敢えず莉子に向かってニッコリと笑い掛ける。そして、再び手元のカードへと目を落とした。
この店の名前からすると、イタリアンレストランだろうか。とすれば、初デートの場所としては手頃なチョイスかもしれない。きっと、葉月と千春が選んでくれた店なんだろう。
それから莉子の署名の下に、簡単なネコのイラストと彼女のプライベートのメアドが書かれているのを見付けた。その下にすっごく小さい字で、「気軽にメールしてにゃ」とある。
翔は、思わず顔を綻ばせてしまった。
早速、莉子のメアドに「誘ってくれてありがとう」のメールを送ってみる。彼女はすぐに気付いてくれたようで、翔に向かって口パクで「どういたしまして」を伝えてきた。
その可愛らしい仕草に思わず微笑みながらも、翔はふと思ってしまったのだ。
ひょっとして、これまでの千春や葉月の行動は、翔に桜木莉子を選ばせる為の演出だったんじゃないか?
そして、そこには中山支社長も一枚噛んでいるに違いない。
だったら、最初から翔に選択の余地など無かったことになる。
何ともふざけた話なのだが、それでも莉子の嬉しそうな笑顔を見てしまうと、どうしても翔は、あまり怒る気にはなれないのだった。
★★★
そして、お昼は今日もまた莉子の手作り弁当をご馳走になり、その後は外出して顧客との打ち合わせをこなした。
夕方の定時ぎりぎりになって支社に戻って来た翔は、大急ぎで結果報告のメールをニューヨーク支社に投げておく。それから、各方面に依頼メールを出して、それが終わるとすぐに席を立って、そそくさと支社を後にした。
既に莉子は退社して目的のレストランに向かっているので、翔も急いで後を追い掛けたのだ。
既に周囲は薄暗くなり掛けており、翔の目的地であるレストランの建物を最後の夕陽が鮮やかな橙色に照らし出していた。イタリアの古民家を模した洒落た建物の正面にセルフのタクシーを停めた翔は、急いで飛び降りると、木造りのドアを押し開ける。
冷房の効いた店内は、少し薄暗い印象を受けた。すぐに若い女性店員が声を掛けてくれて、翔は予約席へと案内される。その頃には柔らかい間接照明に目が慣れており、容易に莉子の姿を見付けることができた。
「ごめん。だいぶ待たせちゃったね」
「ううん、大丈夫。そんなに待ってませんから。それより、ここのハウスワイン、結構おいしいですよ」
「へえ、そうなんだ」
そう答える莉子の前には、グラスの赤ワインとチーズの盛り合わせが置かれている。翔が「少し遅れるかもしれないから、先に何か飲んでて」と伝えておいたのだ。
「お洒落なお店ですね。ここって、犬飼さんのチョイスなんですけど、さすがですよね」
やはり、この店を選んだのは犬飼葉月だったようだ。ただし、メニューの方は鈴村千春が選んでくれたらしい。なので、今夜はオーダー不要で、出された料理を頂くことになっているとのことだ。
莉子が言うように、店内は洋風の洒落た作りになっている。隠れ家的な雰囲気とでもいった感じだろうか。
各テーブルの間が観葉植物や上品な衝立で仕切られていて、プライベートな空間が保たれるように考慮されていた。
テーブルと椅子はシンプルだけどセンスの良い物が使われている。目の前に並べられた食器やカトラリーも洒落ていて、見ているだけで楽しくなるものばかりだった。
「あ、藤田さん、このフォーク、ちょっと変わってません?」
「確かに、洒落てるよな。どこのメーカーだろう?」
「輸入品みたいですね。母にでも訊いてみます」
莉子は早速、写メを母親に送っていた。莉子は料理が趣味だというだけあって、食器やカトラリーにも興味があるようだった。
料理の方は、千春の方から手頃なコース料理が予約されている。
ちょうどオードブルが並べられた頃、柔らかいピアノの音色が店内に鳴り響いた。落ち着いた感じのムード音楽で、もちろん生演奏だった。
スパゲッティは二種類をシェアできるようになっていて、メインディッシュも牛肉のフィレステーキと白身魚のソテーを少しずつ味わうことができた。たぶん、この辺りは千春が前もって交渉して、特別なアレンジがされていたのかもしれない。
ただ、そうした部分を除いても、割とリーズナブルな価格なのに出された料理は、どれも絶品だった。見た目も当然、豪華で、味は一流のお店と比べても引けを取らないものだったからだ。
そうした全ての組み合わせが、若い男女の親密さを増すのに一役買ってくれていたのだろう。この夜は翔も口数が多かったのだが、莉子は普段の大人しい姿からは想像できないくらいに饒舌だった。
メインディッシュを二人があらかた食べ終えた時、翔は莉子のお皿を何気なく見て、ふと思った。
「あれ、ピーマン嫌い?」
「うん。私、苦手な野菜、結構あって……」
「分かった。苦いのが駄目なタイプなんだろ?」
「実は、そうなの」
「ふーん。意外とお子様なんだ」
「言わないで下さいよ。恥ずかしい」
翔は、莉子の意外な一面を知ることができて嬉しかった。たぶん、お嬢様育ちで甘やかされたんだろうけど、そんな所も翔には可愛らしいと思えてしまう。
それと、もうひとつ意外だったことがあった。
彼女は相当なワイン通で、その上かなり飲める口だったのだ。最初にグラスワインを飲み干した後、莉子はワインリストを丁寧に見ながらボトルで赤ワインを注文した。
それは、値段の割にまろやかで深みのある味わいの赤ワインで、今夜の料理にも合う、充分に頷ける選択だった。
莉子がワイン通なのは、母親の影響らしい。父親の方は日本酒党で、母親の方が相当なワイン好きのようだ。
莉子の父親の会社は、その母親の希望でワインの輸入を始め、今では主力商品のひとつなのだという。
莉子の父親が会社を経営していて、それが桜木物産だということは、名古屋支社に初めて出社した日の昼食会で聞かされていた。桜木物産は中堅の輸入商社で、衣料や雑貨の卸でもある。多少は翔たちが務めている七星商事と競合する面もあるのだが、むしろ主要な取引先のひとつとしての位置付けだ。
この地方の卸としては、翔の実家の藤田コーポレーションに次ぐ規模だが、上場はしていない。つまり、手持ち資金だけで回せているということだ。
莉子は、その桜木物産の社長令嬢で、しかも翔と同じ一人っ子。父親の会社は継がないのかを尋ねると、彼女自身が継ぐ気はないらしい。
「……私には、経営の才能は無いと思ってるから。それに父は身内だけで会社をどうこうする時代じゃないって考えてるみたい。たぶんだけど、社内の優秀な人に継がせることになるんじゃないかな」
「そっか。でも、上場してないってことは、オーナーとしての責任があるわけだから……」
「うん。その辺りは父も思ってるみたいだし、私もちゃんと考えなきゃとは思ってる」
こういうことを話す時の莉子は、さすが社長令嬢といった感じで、毅然としたオーラを感じてしまう。さっきの嫌いな食べ物のことを語った時の子供っぽい印象とは一変して、知的で優秀な上流階級の女性のものだ。
もちろん、莉子が社長令嬢というのであれば、翔もまた社長令息である。翔の実家もまた、藤田コーポレーションという会社を経営しているからだ。
もっとも、正確に言うと今の社長は母方の叔父の畠山竜馬なのだが、実権は専務である翔の母、藤田恵美が握ったままなのだ。
その藤田コーポレーションは衣料を中心にした卸で、この地方では最大手である。中世の室町時代から延々と続く繊維問屋が母体となり、明治に入ってからは毛織物の工場も保有して、莫大な富を築いたらしい。戦後、その時の資産を元手に衣料以外の商品にも手を広げ、今日の姿になったようだ。
翔も莉子と同じ一人っ子なのだが、叔父の後を継ぐかどうかは未だに決めかねている。母の恵美は継いで欲しいと思っているようなのだが、社長というのはそれなりに責任が重く、多忙だ。かといって、他にやりたいことがある訳ではないのだが、会社を継ぐとなると、それなりの覚悟が必要なのだ。
つまり、藤田コーポレーションの場合も桜木物産と同様に非上場のオーナー会社なので、莉子の所と同じ悩みを抱えているのである。
★★★
莉子が選んだボトルがすっかり空いてしまった頃、二人はお互いをファーストネームで呼び合う程に、すっかり打ち解けていた。
「あのね、翔さん。恥ずかしい話なんだけど、私、今まで男の人とお付き合いしたことが無いの。中学からずっと女子校で、大学も女子大だったし、サークルも女子だけで……まあ、千春先輩が合コンとかに連れてってくれたことはあったんだけど、なかなか付き合う所まで行かなくて……」
「そうなんだ」
「だからね、翔さん。私みたいな女の子と一緒にいて、退屈じゃないかなって、少し不安なの」
「あ、それは絶対に無いから、保証するよ。莉子は話題も豊富だし、話してて本当に楽しいよ」
「そう? 良かったあ。それって、千春先輩のお陰でもあるんだよね。あの人、ああ見えて結構、博識なんだ。すっごく色々なこと知ってるの。ふふっ。千春先輩、会社に来るのに地下鉄使ってるんだよ。その理由が、出会いを求めてのことなんだって。でも、犬飼さんは、地下鉄なんかに、そんな良い男が乗ってる訳ないって言うの」
「あ、あの。実は俺も朝だけ名鉄と地下鉄なんだけど……」
「えっ、そうなの? あ、ごめんなさい……。てことは、千春先輩が言ってたことって、正しかったのかも」
「いやいや、俺は単に趣味だから。小さい時から電車に乗るのって大好きでさ。何か乗ってるだけでワクワクするんだ。と言っても、別に鉄オタってわけじゃないよ。ただ乗るのが、好きなだけ」
「ふーん、何となく分かる気がする。あ、でも、満員電車ってのは嫌だなあ」
「俺の場合、比較的早く来てるから、名鉄の方はそれほど混んでなくて、しかも確実に座れるんだけど、地下鉄がさ、ちょっと混むかな。でも、たった二駅だから、そこだけセルフのタクシーってのも却って大変だし」
「朝は予約してないと、なかなか捕まらないのよね」
「莉子は、車だろ?」
「うん、うちの車。でもね、本当は電車とか乗ってみたいの。できたら、地下鉄より名鉄の方が良いな。外が見えるし」
「へえ、どっちも、乗ったこと無いんだ」
「先月、リニア新幹線なら乗ったよ」
「えっ、リニアって開通したばっかだろ。なかなか切符が取れないって聞いたけど」
「うん。千春先輩が何とかしたみたい。先輩がどうしても乗りたいって言うんだもの。付き合わされちゃった。日帰りで東京の銀座でお買い物しただけなんだけどね。だけど、ほとんどトンネルばっかだし、すぐに着いちゃって、いまいち」
「ふーん、そうなんだ」
二人のたわいもない会話は、途切れることなく続いて行く。
「あの、ひとつ聞いていいかな?」
「えっ、なーに?」
「最初に会った時から少しだけ気になってたんだけどさ、莉子ってクリスチャンなの?」
実は、時々彼女が付けている銀色の十字架が、翔は気になっていたのだ。
「あ、この十字架のペンダントね。うん、一応そうなんだけど、形だけだよ。クリスマスの時しか教会には行かないから」
「そうなんだ」
「うん。だから、自分がクリスチャンって実感、ほとんど無いかも。まあ、普通の無宗教な日本人と同じだと思う。翔さんのとこは?」
「うちは、東本願寺だよ。と言っても、うちの母親はドライな性格でさ、ほとんど宗教とか意識したこと無いかな。一応、仏壇の前で手を合わせたりはするんだけど」
「ふふっ、うちのお父さんと似てるかも」
ここだけでは話し足りない二人は、それから近くのバーへと場所を移し、更に小一時間ほど語り合った。
そして、今夜は翔も頃合いを見て、午後十時過ぎにはセルフのタクシーで莉子の家まで彼女を送り届けた。
こうやって彼女を送って行くのも二回目のことなので、彼も前回よりも多少は余裕があった。それで彼は、自分達を乗せたタクシーが名古屋で有名なお屋敷街に入って行った所を、しっかりと確認することができたのだった。
莉子の家は高い塀に囲まれていた。その塀の長さから判断して、彼女の家は、このお屋敷街の中でも立派な部類だと思えた。
そこの正門の前にタクシーが停まると、スチール製のスライド式ゲートが、ゆっくりと静かに開いた。
翔が車から降りようとすると、先に降りた莉子が、「翔さんは、そのままで良いですよ」と言ってくれる。それで車内に留まった翔に向かって莉子は、「今日はどうもありがとうございました。楽しかったです」と言って、頭を下げてくれた。
その時、正門の中から中年の女性が出て来て、こっちにやって来た。それに慌てた翔は、今度こそ降りようとドアを開けたのだが、莉子が「あ、こちら、智花さんです」と言ったので、座ったまま会釈するだけにしておいた。
「藤田翔様でございますね。お嬢様が大変お世話になっております。わたくし、桜木家で家政婦をさせて頂いております、松井智花と申します。以後お見知りおきを」
彼女は、丁寧にお辞儀をしてくれた。翔の名前を知っているのが不思議だったけど、たぶん莉子が言ったんだろう。
それから莉子と「おやすみなさい」を言い合ってから、翔はタクシーを発進させた。
その時、門の向こうにちらっと見えた桜木邸は、二階建ての洒落た羊羹だった。
★★★
翔の実家の前の路地は狭く、付近は静かな住宅街ということもあって、翔は天王通りを神社の手前まで来た所でセルフのタクシーから降りた。
明るいアーモンド形の月が出ている夜だった。さすがにこの時間になると気温も少しは下がっていて、だいぶ涼しく感じられる。
翔の気分は上々だった。桜木莉子との初デートは一応、期待通りの結果だったと彼には思えたからだ。
だから夜中とはいえ、彼の足取りは軽かった。昨日あった嫌なことなど、莉子とのデートで完全に上書きされていて、彼は少々浮かれていたのだった。
神社のすぐ前で左側の路地に入り、次の角を右に曲がった突き当たりを左に行こうとした時だった。路地の先にある翔の家の辺りに人が立っているのが見えた。
目を凝らしてみると、藤田家の門柱にもたれて、翔の方に顔を向けている。気にはなったが、ここで逃げる訳にもいかないだろう。
翔は、その人影に向かって慎重に足を進めて行く。それがスーツ姿の背が高い女だと気付いた時、その彼女から言葉を投げ付けられていた。
「なあ、あんた。私の大事な獲物にちょっかい出すのは、止めてくれないか?」
随分と横柄な物言いだった。女にしては低い声で、言い知れぬ不気味さがある。
だけど、翔には、その彼女が何を言っているのかが分からなかった。
街灯に照らし出された女は、夜なのにサングラスを掛け、両腕を胸の前で組んでいた。
背がすらっと高いモデルのような体形。髪が短いことを除けば、全体の雰囲気は山口沙希に似てなくもない。ただし、まとった空気が全く違う。威圧感というか、逆らえない雰囲気が漂っていて、絶対にただのOLなんかじゃない。
「私が誰だか分かるか?」
「……軍人?」
「正解だ。あはは、良く分かったな」
翔は、無言のままだった。
「私は、北島だ。と言っても、お前には私の名前なんてどうでも良いかもしれんな。今、私が今やっているのは、世間で『リクルーター』と呼ばれてる仕事だ。つまり、あんたの知り合いの女の子を、軍に引きずり込んだ張本人という訳だ」
そこで、いったん話を止めた女は、翔の顔を伺う素振りを見せた後で、再び話を続けた。
「ふーん、別にどうでも良いって顔だな。まあ、それだったら、それで良い。私も、その方が楽だ」
女は、翔をじっと見詰めた。翔の全てを値踏みするような鋭い眼差しだった。
「じゃあ、私は行くが、さっき私が言ったことは宜しく頼むぞ、坊や」
女は、そう言い残してゆっくりと去って行く。
翔は、ただ呆然として、その場に立ち竦んでいるだけだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
最後に出て来た軍人は、わりと重要なキャラになります。
次話は薫視点で、「リクルーターの女」です。
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