第61話:薫の肉親 <薫サイド>
見直しました。
水草薫の祖母、幸子の凄い所は、まだ幼い薫が言ったことを頭ごなしに怒ったり、ごまかしたりしようとせず、きちんと薫が納得するまで説明してくれた所だ。これは、なかなかできることではない。
それに加えて、祖母の幸子は常に公平な物の見方をする人だった。とかく他人に流されがちな母の佳代と比べ、幸子は自分自身の中に、きちんとした判断の基準を持っており、それに照らし合わせて行動する人だったのだ。
だから、幸子は必ずしも薫のことを庇ってくれる訳ではない。幸子が味方になるかどうかは、薫が正しいかどうかで決まるのだ。
幸子が駄目だと言った場合、特別な理由が無い限り薫は諦める。どうしても諦め切れない時は、その理由をきちんと幸子に説明して、もう一度判断してもらう。それでも駄目な場合、幸子は「その考えが、どうして間違っているのか」を薫が分かるまで丁寧に説明してくれるから、薫も納得して諦めることができるのだ。
薫は、そういう所で意味も無く甘えたり駄々をこねることはしなかった……というより、小さい頃から幸子によって、そのように躾けられてきたということだろう。
という訳で、薫はずーっと祖母の幸子が大好きで、大人になっても幸子の教えをしっかりと守って生きているのである。
★★★
実は、薫にはもう一人、祖母がいる。母方の祖母、川口佳子だ。母方は祖母だけでなく祖父の方も健在だ。
佳代の実家の川口家は、中州の本郷の集落にあって、水草家の屋敷とはあまり離れていなかった。と言っても、当時はまだ相当数の使用人がいる時代なので、佳代も実家に入り浸るという訳にはいかない。佳代が屋敷を出るとすれば、当然、使用人の誰かの目に留まってしまうからだ。
薫には、その母方、つまり川口家の祖父母に可愛がってもらったという記憶が無い。昔は、そのことをどうこう思わなかったのだが、今になって思うと不思議だ。母方の祖父母というものは、孫を可愛がるのが普通だからだ。ましてや、その祖父母が娘の佳代のことは人並みに可愛がっていて、しかも義理の息子の武との関係も悪くはなかったとなれば、尚更である。
薫は、自分が何故そこまで川口家の祖父母に嫌われていたのか、その理由を母の佳代に訊いたことがない。子供の頃ならともかく、この歳になってしまえば訊けなくもないのだが、それでも何となく訊きづらい感じが佳代の方にあって、今まで訊くに訊けなかったのだ。
だから、その祖父母に嫌われている理由は全て自分の推測なのだが、そこには水草家と祖母の幸子に対する恐れやコンプレックス、野崎小夜を始めとした使用人達の対応、そして幼少時の薫が「知恵遅れ」の子だと思われていたこと等が複雑に絡み合っていそうである。
川口家の祖父母にとって、祖母の幸子は娘の佳代を虐める邪悪な姑だと思われていた節がある。だから、そんな幸子にべったりと懐いている薫のことを彼らが嫌ってしまうのは、そんなに不自然ではない。だけど幸子は、明らかに自分達よりも格上の存在。彼らは直接、彼女に文句を言える立場ではない。となれば、その不満を「知恵遅れ」の薫に向けるのは、ごく自然な成り行きだろう。
それと当時は水草家の使用人の数が減り、仕事の量が増えて不満が溜まっていた時期でもあった。しかも当主が若い武に変わったばかりで躾が行き届いておらず、来訪者に対して粗雑な対応をする者も少なからずいたらしい。だから川口家の者達が、その被害に遭っていたとしても不思議ではない。その恨みが、やはり「知恵遅れ」の薫へ向いていたことも考えられるのだ。
ともあれ、中州にいた頃の祖父母は近くに住んでいたにも関わらず、ほとんど薫とは顔を合わせたことが無かったのである。まるで、薫には全く興味が無いといった感じで、法事とか祭りの時とかに会ったとしても、せいぜい普通の挨拶を交す程度のそっけない対応だった。
佳代には、二歳上の兄の川口孝彰がいるのだが、薫はこの伯父ともあまり面識が無い。彼は高校卒業後に九州で就職し、今も九州に住んでいるからだ。たぶん、それは彼が「自分は農家を継がない」という意思表示だったのではないかと薫は睨んでいる。
それで、祖父母は薫が大学生になった頃、家と田畑を売って九州の長男の所に行ってしまった。その祖父母も薫の父、武の葬儀の時には、伯父の孝彰と一緒に出席してくれたのだが、薫に対する対応は、相当に冷たいものだった。
さて、この祖母の川口佳子だが、小さい頃の記憶として唯一薫が覚えているのは、四歳の頃に水草家の座敷のひとつで会った時のものだ。
世話役の野崎小夜に呼ばれた薫が、その座敷に入って行くと、祖母の佳子が薫の方に「こっちへいらっしゃい」と手招きをする。そこには佳代もいて、座卓に向かって静かにお茶を飲んでいたので、薫は警戒しながらも佳代の隣にちょこんと座った。
すると佳子は座卓の向こうから身を乗り出してきて、「あらまあ。しばらく見ないうちに大きくなったわねえ」と言う。
「前に会ったのは、まだ三歳の時だったかしら?」
「お義父さんの一回忌の時だって会った筈でしょう。まだ先月のことよ」
「そう言えば、そうだったねえ。この子、あんまり印象に残らないっていうか、不思議な子なのよね」
「お嬢様は、変わってますからねえ」
そこで口を挟んできたのは、小夜だった。薫は、佳代が微かに口をゆがめたのを何となく覚えている。
「まあ、いいわ。ほら薫、お茶とリンゴがあるわよ」
「薫は、『ういろう』の方が良くない?」
珍しく佳代の方もお菓子を勧めてくれる。薫は佳代の問いに頷いてから、じっと目の前の祖母を観察した。
祖母の佳子の目は、笑ってはいない。その佳子が何かを言い掛けた所で、薫の目の前に小夜がそっと小皿と湯飲みを置いてくれた。
湯のみのお茶は子供には暑すぎたけど、いつものことだから薫は気にしない。それよりも、小皿に乗った「ういろう」の方が重要だ。すぐさま薫は小さなフォークを手に取ると、その「ういろう」を食べ出した。こういうのは早くしないと、いつ取られてしまうか分からない。
と言っても、もう一人の祖母の幸子に躾けられているせいで、いきなり口を大きく開けて齧りついたりはしない。きちんと自分が一口で食べられるサイズにフォークで切ってから、一切れずつ優雅に口元へと運んで行く。
その仕草は決して知恵遅れの子がするものではなく、名家の令嬢そのものといった感じなのだが、思い込みの激しい佳子の目には単に「食い意地の張った女児」としか見えていなかったようだ。その証拠に、佳子のコメントは辛辣だった。
「あらあら、お腹が空いていたのかしら」
「薫、もっとゆっくり食べなさい」
「こっちのリンゴも食べて良いのよ」
祖母の佳子が爪楊枝に刺さったリンゴを一切れ、「ういろう」が載っていた小皿の上に置いてくれる。あまりおいしそうではないけど、それも一口サイズにフォークで切ってから、薫は次々と自分の小さな口へと運んで行く。
最後の一欠片を飲み込んで、『もう、いいや』と思って薫が席を立とうとすると、また佳子が話し掛けてきた。
「薫ちゃんは、いつも何して遊んでいるの?」
薫は、チラっと佳代の方を見た。佳代は、のんびりとリンゴを齧っていた。実の母の前だからか、いかにも庶民といった食べ方だった。
あまり役に立ちそうにないと悟った薫は、考えた。
この頃の薫は、幸子が与えてくれた課題をこなす以外、いつも一人でいた。一人でお庭を駆け回って花や虫などを観察したり、屋敷にある様々な建物の中をうろちょろして、そこで働く使用人達の様子を眺めていたりするのが常だった。
果たして、それらをどう表現するのが適切だろうか?
薫が「えーとね」と言ってから口籠っていると、小夜が代わりに言ってくれた。
「お嬢様は、ほんやりしておられることが多いですねえ」
小夜は、祖母の幸子の離れには来ない。幸子は、自分の離れには瀬古梓紗しか入れなかった。だから小夜は、薫が四歳にしては相当に難しい課題をこなしていることは知らない。
それでも祖母の佳子は、小夜の説明に納得した様子だった。
「なるほど。子供だって色々だからねえ。佳代が小さい頃は、お人形で良く遊んでたけど、薫はお人形では遊ばないのかい?」
その時、佳代の肩が微かに動いたのだが、今度も小夜が答えた。
「こないだ、新しいお人形のオモチャを奥様に買って頂いたばかりですけど、すぐに無くしてしまわれたようです。お嬢様は何でもすぐ飽きてしまわれますので」
「そうなのかい。まあ、仕方がないね」
祖母の佳子は薫の方に目を向けて、しばらくの間、じっと見た。それから、急に失望した顔になって、溜め息を吐く。
「やっぱり、変な子だねえ」
それから佳子は佳代の方を向いて、別の話を始めてしまった。
自分が用済みだと悟った薫は、サッと立ち上がって、その場を後にしたのだった。
★★★
薫が中州分校に通う小学生の頃、学校で今日何があっただとか、友達とこんなことをして遊んだといった、子供が親に普通に話すことを薫の場合は全部、祖母の幸子に話していた。
長い間の紆余曲折の末にようやく結婚した佳代だったが、せっかく産んだ娘は自分には一向に懐かず、義母の部屋に入り浸りなのだ。母親である佳代にしてみれば、堪ったものじゃないだろう。
家に居る時は、ほとんどの時間、幸子の部屋に入り浸っていた薫は、食事の時ぐらいしか母の佳代とは顔を合わせない。そんな食事の時も親子の間には、ほとんど会話らしい会話が無かった。
元々、薫の両親は共に無口な人達で、特に佳代はほとんど喋らない人だ。家で口にするのは、事務的な事柄だけ。薫に対する会話も、全て指示でしかなかった。
そんな親子関係のままで良いとは佳代も思っていなかったようで、佳代は佳代で相当に悩んでいたのだろう。その頃の佳代は薫とのことを苦々しく思っていた筈で、それが却って薫にすれば、「お母さんは、いつも怒ってる。お母さんは、きっと私のことを好きじゃないんだ」などと思わせてしまっていた。佳代にとっては、不幸としか言いようがない状態だったのだ。
その佳代が、ようやく行動を起こしたのは、薫が中学に上がって一週間ほど経った時のことだった。
その日、薫が学校から帰って、いつものように祖母の部屋に行こうとすると、突然、佳代に呼び止められたのだ。
「薫、ちょっと来なさい」
佳代にしては珍しく強い口調だった。薫は一瞬だけ立ち止まって佳代の方に視線を向けたものの、すぐに「分かった。リュックだけ置いて来るから、ちょっと待ってて」と言った。
すると佳代は、「良いから、そのまま来なさい」と言う。薫は、いつもと違う佳代の様子にとまどいながら、「分かったよ」と言って、佳代の後を付いて行った。
そうして連れて来られたのは、食堂だった。薫は、大きなダイニングテーブルの自分がいつも座る席に腰を下ろし、リュックを隣の、いつも妹の楓が座る椅子に置いた。
「薫、今日から自分の部屋は自分で掃除しなさい」
「分かった」
そのことには、別に異存は無かった。自分の部屋を掃除するくらいは、当然のことだと思ったからだ。今までは小夜がやってくれていたけど、確かに中学生にもなって自分の部屋を自分で掃除しないのは、女の子としてちょっと情けない。あの祖母ですら、自分の部屋の掃除は自分でしているのだから……。
「それから、宿題とかは自分の部屋でしなさい。それに、リュックとか教科書とかも、ちゃんと自分の部屋に置くこと」
「えっ、何で?」
「何でって、それが普通でしょうが」
「でも、それって……」
「つべこべ言わずに、そうしなさいっ!」
珍しく、母が苛立った声を上げた。
でも、薫にだって譲れないことはある。分校ならまだしも、中学の宿題とかを勝手に持って行かれたら、非常にまずいことになる。
「お母さん、学校の宿題は大切だからね。それに教科書だって、もし無くなると大変なことになるの。中学ってのは、分校みたいに融通が利かないし……」
「もう、あんたの物は取らないから」
「えっ、でも……」
「薫の部屋に私は入らないから。それに、小夜さんにも絶対に入らないように言っておく。どうしても心配だったら、鍵の付いたロッカーでも買ってあげるから、そうして頂戴っ!」
「でも……」
「だから……あ、そうだ。小夜さんね。ちょっと待ってなさい」
それから佳代は、使用人の野崎小夜を呼びに台所を出て行った。
薫が手持ち無沙汰に待っていると、五分くらいで佳代が小夜を連れて戻って来た。
「お嬢様、奥様からお聞きしました。これから、お嬢様の学校のものに私は、決して触りませんので……」
「学校のものは、ですか? 失礼ですけど、小夜さんが考えられている学校の物の定義を教えて頂けますか?」
「……定義ですか?」
「もう、小夜さんは、薫の部屋には入らない。それで良いでしょう?」
再び佳代が苛立った声を出した。薫は、小夜の顔をじっと見詰めた。目が合った。すぐに目を逸らしたのは、小夜の方だった。
「分かりました。私は、今後一切、お嬢様の部屋には入りません。それから使ってない金庫を、お嬢様の部屋に運ばせましょう。暗証番号が自由に変えられますので、ご安心かと」
長年一緒に居るので、薫も小夜のことは良く分かっている。彼女は意外と頭が良いのだ。
この時、小夜は五十代半ば、一方の佳代は三十代半ばだ。つまり、使用人とは言っても、佳代は基本的に小夜の言いなりなのだが……。
「薫っ、それで良いでしょう」
「……分かった」
その時、母の初めて見る悲壮な顔を見て、薫は何となく母の心の内を悟ったのだ。それで薫は、折れることにした。
それから男の使用人の野崎と瀬古がやって来て、薫の部屋に金庫を設置してくれた。金庫とは言っても、ホテルにあるような簡易式の奴だ。
それでも、やった後の宿題だけは一週間、薫は祖母に預かってもらうことを止めなかった。それで部屋の中の物が何も無くならないことを確認した上で、ようやく薫は、自分の部屋を安全地帯と認定することができたのだった。
★★★
この話には後日談がある。
薫が中学に上がった時、妹の楓にも自分の部屋が与えられたのだが、楓は自分の大事なものを薫の部屋に持ち込むようになってしまったのである。
もちろん、その理由を知っている薫は、可愛い妹のお願いを断れる筈がない。それに結構、薫の部屋は広いので、楓の物くらい置いてやっても構わないのだが、薫としては少々複雑な心境だった。
ところで母の佳代にしても、「娘の物を勝手に取り上げるのは良くない」といった認識を、一応は持っていたようだ。
特に薫が小学校に上がったばかりの頃、薫がやった宿題のプリントを勝手に河村直人へ渡してしまったことについては、佳代も大いに反省していたらしい。
薫がそのことを聞いたのは、中州分校にいた飯田早苗先生からだった。その飯田先生は薫が小学一年生から三年生までの間、お世話になった担任の先生で、その後、別の小学校に転任されている。
薫が中学校に上がってしばらくした頃に分校の同窓会があって、その時に教えてくれたのである。
「……実はね、あの時、佳代さんに相当に強く怒っちゃったの。でも、例の調子で全く反応が無くてね。仕方が無いなあって思ってたんだけど、三年生の最後のPTAが終わって、お別れの挨拶をしている時、彼女の方から謝ってくれたのよ。それまで佳代さんの方から何かを言われたことは無かったから、凄く驚いたわ。でも佳代さんは、あの時のことを相当に後悔してたみたい。『どうしても謝りたかった』って言ってくれたの。まあ、私にしてみれば、『まず謝るべきなのは、自分のお子さんに対してでしょう』って思ったんだけど、彼女にとっては、そっちの方がハードルが高かったんでしょうね。だけど、私、その時に思ったのよ。『やっぱり、佳代さんも母親だったんだなあ』って。まあ、考えるまでも無いことなんだけど、水草さんは分かってないみたいだから、はっきりと言っておくわね。佳代さんだって、あなたのことは可愛いのよ。だって、自分が産んだ娘なんだから、当然よね。だから水草さんも、あの時のことは許してあげなさい」
その時、三十代も後半に差し掛かり、教師としてベテランの域に達していた飯田先生の目には、佳代のことも薫のことも全てお見通しだったという訳だ。
★★★
そういう訳で、中学生になって思春期に差し掛かった薫は、佳代のことを多少は母親として認識するようになった。
佳代は確かに優柔不断で残念な面が多い母親なわけだけど、飯田先生が言っていたとおり、決して薫のことを愛してくれていない訳じゃない。
それに佳代の立場を思えば、一概に彼女を責める訳にもいかないのだ。
祖母の幸子は、佳代と違って頭も良くて弁も立つ。水草の嫁としてのイロハを彼女から叩き込まれた立場の佳代には、到底、口答えなどできる筈もない。たぶん、当時の佳代は、娘を姑に取られてしまったように感じていたことだろう。
実は、薫は佳代に叱られた記憶がほとんどない。叱ってくれたのも佳代ではなくて幸子の方なのだ。どんなに叱られても幸子はちゃんと叱られた訳を説明してくれるし、後でお菓子をくれたりしてフォローもしてくれる。つまり、幸子は決して感情に任せて叱るようなことはしなかった訳だ。だから薫は幸子に懐いていたし、尊敬もしていた。
一方の佳代は、時々怒鳴ることはあっても、何で怒鳴ったかなんて説明はしてくれない。その辺りは父の武と同じである。つまり、それは怒ったであって、叱ったではない。
佳代は小さい子の叱り方すら、あまり分かっていなかったんじゃないかと薫は思う。ある意味、不器用な人だけど、子供の立場としては、どうしようもない。薫が佳代に懐かなかったのは、仕方がないことだと思う。
姑の幸子にも夫の武にも逆らえなくて、時にお手伝いの小夜にまで馬鹿にされていた佳代には、当然、相当なストレスが溜まっていたことだろう。その捌け口はというと、どうしても薫になってしまう。
だから、余計に薫は佳代には懐かないし、佳代にはできるだけ近付かないようにしようとする。そして、ますます幸子の部屋に入り浸ることになる。もしくは水瀬美緒や他の子達と一緒に外で遊ぶことを優先してしまうのだ。
「なあ、薫。たまには、お母さんの所にも行っておあげよ」
「えー、何でぇ? 私、お祖母ちゃんの所の方がいい」
「そうかもしれないけど、ほら、お母さんだって、お前がいないと淋しいだろう?」
「そっかなあ。お母さん、薫の物、何でも他の子にあげちゃうし……。ほら、こないだ天王池公園で知らない人に虐められた時だって、助けてくれなかったよ。たぶん、お母さんは私のこと、嫌いなんだと思う」
「そんなわけあるかい。佳代さんだって、薫のことが大好きなんだよ」
まだ薫が幼女の頃から、幸子は時々そんなことを言っていたのだが、当の薫には、その意味がさっぱり理解できなかった。
幸子とて、嫁姑関係ではそれなりに苦労した筈である。もちろん、幸子の姑の朋子と幸子の関係は、幸子と佳代の関係とは違うのだが、それでも嫁姑関係としては共通する部分の方が多かった筈だ。朋子は幸子以上に賢かったし、性格は割と自由奔放で、さばさばして男勝りの人だったと聞いているからだ。
幸子は自分が経験してきたことを思い出しては、彼女なりに佳代のことを考えてやっていたようだ。
だから、幸子が佳代のことを邪険にするようなことは、全く無かったと思う。むしろ、彼女なりに、佳代のことを気遣っていたんじゃないだろうか?
だけど、幸子も薫のことになると、ついつい佳代に意見を言ってしまう。そのどれもが正論で、たぶん佳代には何も言い返すことができなかったんだろう。そして、佳代の側にますますストレスが溜まって行くのだ。
薫にとっての大切な肉親、幸子と佳代の間で自分がどう振舞うべきだったかの解を、薫は大人になった今も、まだ出せていない。
★★★
結局、幸子が佳代のことをどう思っていたかは、薫にとって謎である。ただ、佳代を水草の嫁として、最後まで認めていなかったのは確かだ。
しかし、一人息子である武との結婚を認めてしまい、その武を水草家の当主にまで据えてしまった以上、幸子は佳代を何とか育てて行くしかなかった。
それで幸子は懸命に試行錯誤していた訳だが、薫が中学に上がった頃になると、もはや佳代のことどころではなくなってしまった。後に水草家の没落に繋がる失態を、薫の父、武がやらかしてしまい、幸子は四六時中、その対応に追われるようになったのだ。
薫が思うに、幸子は決して完璧な人間ではなかった。
彼女が犯した最大の失策、それは、やっぱり薫の父の武を水草家の当主に据えてしまったことだったのである。
★★★
水草武もまた寡黙な人である。ただ父の武は頑固者でもあった。自分が決めたことは梃子でも曲げない。そういう所は、幸子から聞かされた祖父の滋と同じなんだろう。
ただ、武には人の好い所もあって、意外と情には脆い。祖母の幸子に言わせると、それが武の弱さということになる。
確かに武は人付き合いが良くて、それなりに人望はあるのだが、果たして一族の頭領としての素養があるかと問われると、薫も首を傾げてしまうような人だった。
ある意味、教養が足りていないといった面もあるのだろうが、それ以上に人としての甘さがあったのだと思う。
後になって考えると、そうした面を薫が傍にいることで補うことができたのかもしれない。
でも、あの頑固な父が娘の言うことを聞いたかどうかは、微妙な所だ。なぜなら、祖母の幸子でさえ、武に忠告したことが全て裏目になっていたからだ。
幸子に言わせれば、「武は、考え無しだよ」となる。つまり、詰めが弱いということなのだが、そうした武の欠点が、水草家を結果的に没落へと導いた要因のひとつであることは間違いない。
武のそういう点を幸子は常に苦々しく思っていて、「小さい頃、甘やかし過ぎたせいだ」と自分を責めることが良くあった。
武は、幸子の一人息子だ。しかも、幸子がまだ二十代の初めの方で産んだ子である。その時には幸子の姑の朋子も健在で、たぶん、佳代に対する幸子以上に武の子育てについて口を出してきたに違いない。
ただ、それは薫の場合とは違って、中途半端なものだった。もし幸子が薫に対してしたように、朋子も武に対して我が子のように徹底した教育を施したとしたら、事情は違っていたのかもしれない。だけど、実際に朋子がしたのは、時々、武を甘やかすだけだったのだ。
学業の面にしたってそうだ。
幸子は薫と同じ天王高校出身だが、武は天王北高校の出身だ。武とて幸子の血を引いている訳だから、元々頭が悪かった筈はない。
良い成績を取る為に一番大切なのは、「努力する習慣」だと薫は思っている。たぶん、そうしたコツコツと勉強する習慣を武は身に付けてこなかったんだろう。
その点、幸子は薫に対して、そうした習慣を自然な形で身に付けられるよう躾けてくれた。薫にできて武にできなかったのは、男女の違いだとか、性格の違いといった側面もあるだろうが、武の時は幸子もそこまで徹底した躾をしなかったんじゃないかと薫は睨んでいる。
たぶん、武は学力の点でコンプレックスを持っていたんだろう。そのコンプレックスが最終的には彼の身を亡ぼした要因のひとつになるのだが、もはや、それを言っても仕方が無いことだ。
★★★
幼い頃の薫には、父の武が二人いると思っていた。
一人は、薫のことを溺愛している優しい父である。武は、母の佳代よりもストレートな形で薫を愛してくれていた。いつも頭を撫でて抱っこしてくれて、薫の気が済むまで肩車もしてくれた。
もう一人は、怒っている時の武だ。もちろん、薫には暴力を振るうようなことはしなかったのだが、怒鳴ったり物に当たったりするだけで、幼い薫には鬼のように思えた。
その頃の薫は、優しい父と怒っている父とを別の人だと本気で思っていた訳だ。幼い薫は、そう思うことで心のバランスを保っていたのかもしれない。
ただ、問題は目の前の父がどっちなのかの判断が難しいことだった。優しい方の父だと思って甘えてみたら、急に怖い方の父に変わってしまうことがある。
その逆はまず無いので、何かの見分け方があれば良いのだが、どうしてもそれが分からない。本人に訊くわけにもいかないし、母や世話役の小夜に訊いても教えてくれそうにない。祖母の幸子なら教えてくれるだろうけど、そういう時に限って、その場にいないことの方が多かったのだ。
なので薫は、父の武を慎重に観察することにした。もう一人の父とすり替わる兆候があれば、絶対に見逃さない為だ。
だから、薫が父の武と一緒にいる時は、どんな些細な変化も見逃すまいと、いつも真剣な目でじっと父を見詰めているようになった。
そんな娘の変化には武も気が付いていて、随分と気味悪がっていたようだ。
「薫といると、どうも緊張するんだよなあ」
ある時、そんな風に武がぼやいたことがある。
それに相槌を打ったのは、小夜だった。
「お嬢様は、時々奇妙な表情をされることがありますからねえ」
「そうかい。まあ、小さい女の子の考えることなんて、男の俺にはさっぱり分からんよ」
「あら、旦那様が奥様にプロポーズされたのは、奥様が今のお嬢様くらいの頃だったとお聞きしておりますが?」
「さあ、そうだったかなあ。随分と昔のことだから、忘れてしまったよ」
「あら、それは奥様に失礼だと思いますよ。奥様は絶対に覚えていらっしゃいますから」
「えっ、そうなのか?」
「当然でしょう。旦那様のプロポーズの言葉を忘れる女なんて、普通いませんよ」
「えっ、だけど、それって確か、佳代が五歳の時のことだろ」
「ふふっ、歳なんて関係ありませんょ。五歳でも女は女ですとも」
「なるほど、そういうことか」
「ただ、お嬢様の場合は、全く別だと思いますよ。なにせ、お嬢様は変わっておりますからねえ……」
これは、薫がまだ知恵遅れの子だと疑われていた頃のことだ。実際は、小夜が言ったことを薫はちゃんと理解していたのだが、そんなことは露知らず、小夜は薫の面前で彼女を馬鹿にする言葉を並べ立てていたのである。
それで尚更、武は薫に不信感を持った訳だが、薫の方は、まだそれ程、武のことを嫌ってはいなかった。むしろ、武の様子を慎重に観察した上で、今日は大丈夫そうだと思った時は積極的に甘えていたくらいだ。
ところが、薫が中学に上がる頃になって、薫も武のことを避けるようになった。
もちろん、主な理由は思春期に差し掛かった女子が一様に男親を嫌うようになることなのだが、薫の場合は、それだけではない。
その頃、武が家でも酒を飲み、散々怒鳴り散らすようになってしまったからだ。
父の武がそうなった頃、水草家には目に見える変化があった。家に出入りする使用人が、更に大きく減ったのだ。というか、野崎清隆と小夜の夫婦に瀬古利幸という、たった三人だけになってしまい、それ以外は近隣農家からのアルバイトで補う形になってしまった。
しかも瀬古は六十を過ぎていて、野崎夫妻も五十代半ばから後半。誰もが力仕事はきつくなる年齢だ。
ちなみに祖母、幸子の身の回りの世話を中心に働いてもらっていた瀬古梓紗だが、持病が悪化したことで、大勢の使用人が辞めたのと同じタイミングで退職、天王市にいる長男と同居することになった。その方が通院が楽だからである。
薫が幼少の頃、百人近くいた使用人の数は、小学校に上がる頃には五十人を切っており、高学年になると三十人以下にまで減っていた。それが、アルバイトを含めても常時いるのは十人以下になったのである。
広大な屋敷の中は、まるで廃墟のような状態になってしまったのだ。
戦前、五百人以上いた使用人だが、戦後の機械化だけでなく、祖父の滋の代に農業加工品の仕事を順次縮小し、最後は止めてしまったことで使用人の数は大きく減った。
そして、この時、武は手間の掛かる野菜の生産を大幅に縮小し、米作に集中することを決めてしまったのだ。
彼は、その為に農協から最新鋭の機械を数多く購入した。これは、明らかに過剰な投資であり、水草家のキャッシュフローを大幅に悪化させてしまう。そして、その借金が引き金となって、水草家は没落して行くのである。
この時の契約は、農協の言いなりになった武が単独で行ったもので、祖母の幸子には一切の相談が無かった。また、使用人を三人にしてしまうことも、武が単独で決めたことだ。しかも、この時の武は、辞めることになる使用人に対し、破格とも言える退職金等の条件を提示したのだった。
全ては、農協の担当者が示したシミュレーションを武が鵜呑みにした結果なのだが、もちろん、現実はそれほど甘くはない。米作に特化したことで、その後の米価の下落に対策を打つことができず、更には借入金の増加に対して金利の上昇がダメージを加えた結果、水草家の経営は経ち行かなくなってしまう。
これは、後になって判明することだが、この時の農協は水草家の屋敷と田畑を奪った外資系企業の手先となっていた。
彼らの目的は、高額機械の購入で多額の借金をさせることだった訳だが、使用人の数を減らすことも目的のひとつだったと薫は睨んでいる。そこで働いている人の数を減らせば、それだけ買収がし易くなるからだ。
当然、これを知った幸子は激怒した。そして、何とかリカバリーしようとしたのだが、時すでに遅し。その後、幸子は死ぬ直前まで立て直しに奔走し、それを引き継いだ武もまた、最後には力尽きて命を落とすことになる。
薫が中学に上がったのは、武が問題の農業機械購入の契約書に捺印してしまい、それを幸子に激しくなじられたことで、彼が荒れに荒れていた時期だったのである。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、翔視点になります。
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