第59話:祖母、幸子 <薫サイド>
見直しました。
中州に橋が架かる前、中州と外の世界とを行き来するには渡し舟を使っていたらしい。当時、その渡し舟の船着き場は二ヶ所あり、ひとつは本郷の集落、もうひとつは西端の集落にあったという。
本郷の集落にあった船着き場は、水草家の正門から出てすぐの土手を登った所にあって、東の対岸にある川田村中心部や天王市方面とを繋いでいた。
一方、西端の船着き場は、西の対岸、岐阜の養老や北の大垣方面とを繋いでいたのだが、もちろん、こっちは東側の渡し舟と比べると便数が格段に少ない。やはり、大都市名古屋を控えている東の渡し舟の方が圧倒的に重要だった。
その渡し舟には、いろいろなものが運ばれていたらしい。当然、人も物も両方である。
水草薫の母、佳代は中洲の生まれだが、薫が高校を卒業するまで同居していた父方の祖母、水草幸子は、河向こうの農家からお嫁に来た人だ。
その幸子が中洲に嫁いた日、彼女は白無垢の花嫁衣装に身を固め、小さな渡し舟に乗せられて、波に揺られながら大河を渡ったのだという。
その話を幸子から聞かされた小学生の薫は、まるで映画のワンシーンのようだと思ってロマンチックな気分に浸ったものだった。
だけど、薫が大人になってからの感想は、全く正反対だ。
当時、まだ二十歳になったばかりの祖母は、何を思って河を渡ったのか。その時の祖母の胸中を思うと、どうしても複雑な心境になってしまうのだ。
現実は、映画のように綺麗じゃない。
★★★
祖母、幸子の話だと、式は六月の終わりだったらしい。世間ではジューンブラインドと言って六月の結婚がもてはやされていたりするが、日本の六月といえば梅雨である。実際、幸子の結婚の時も空はどんよりと曇っていて、辺りは薄暗かったという。それに大河は増水して普段よりも流れが早く、しかも茶色く濁っていたそうだ。
そんな中、雨が降り出さないうちに向こう岸に着けるようにと船頭から急かされた幸子は、感慨に浸っている間も無く慌ただしく小舟に乗せられ、すぐに岸を離れたのだという。
川田村の岸辺には幸子の親戚や家族が総出で見送りに来てくれていて、特にまだ小学生だった弟の栄治が泣きじゃくっていたらしい。それなのに幸子は、そんな弟に声を掛けてやる時間すら与えられず、あれよあれよという間に舟は岸から遠ざかって行く。
その時は風が強く、舟は相当に揺れたらしい。
そんな中、花嫁を乗せた渡し舟は、激しい濁流に翻弄され続け、いつ転覆して流れに吞み込まれてもおかしくない状態だったという。それでも熟練の技を持つ戦闘は、たくみに舵を操って、何とか向こう岸に辿り着こうと必死になっていたのだろう。
川田村側の岸辺で見送った人達も、固唾を飲んで見守っていたに違いない。そして、幸子自身もまた、中州の岸に着く迄は、きっと生きた心地がしなかったと思う。
それまでに幸子が中州を訪れたのは、たったの一度っきり。両親に連れられて夕方に河を渡り、一晩を水草家で過ごした後、翌朝早くに再び河を渡って川田村に戻ったのだという。
だから、中州の様子はあまり目にしておらず、嫁いでいく所が「凄く大きくて立派なお屋敷」ということ以外、ほとんど記憶に残らなかったのだとか。
そんな中州に白無垢姿の幸子が向かって行く。
幸子は、手ぶらだった。既に花嫁の荷物は、全て水草のお屋敷へと運び込まれている。
つまりは、もう逃げられないということだ。
荒々しい波に揺られながらも、たぶん、彼女の心には様々な思いが去来したんじゃないだろうか? ひょっとすると、『いっそこのまま舟が傾いて、波に攫われてしまえばいいのに』くらいのことは思ったかもしれない。
全ては、運命のなせる業。
その時の幸子は、そんな思いで大河を小舟で渡って行った筈だ。
それでも大した時間を置かずに、その小舟は無事に対岸へ辿り着いてしまう。
ここからは、祖母の幸子から聞いた話に基づく薫の想像である。
小舟が中州本郷の船着き場に着いた時、幸子は溜め息を吐く間もなく船頭に急かされて立ち上がった。その瞬間、舟はぐらりと大きく揺れて、男が慌てて幸子の手を取る。ごつくて、ざらざらした分厚い手だ。その手を頼りに、幸子は何とか向こう岸に降り立った。
船着き場のコンクリートは、少し濡れている。空から雨がぽつりぽつりと落ちて来ているからだ。
「こりゃ、じきに大振りになるな。あんた、雨女じゃねえのか?」
男がニタニタと笑う。前歯が一本欠けているのが、幸子は気になってしまった。
「じゃあ、幸せにな。俺は戻るぜ」
幸子は、男に少しだけ頭を下げてお礼を言う。そして、土手の上を見上げると、新たな男の人が二人、ゆっくりと降りて来た。彼らは水草家の使用人で、「女将の朋子から、花嫁の案内役を仰せつかっている」とのことだ。
自分の姑になる予定の朋子の名前が出たことで、にわかに幸子は身体を強張らせ、改めて二人の案内人を見た。二人とも二十歳の自分よりも若い。
その二人にも幸子は、軽く頭を下げておいた。
再び大河の方に目をやると、さっきの先頭は既にいなくなっていた。
さっきまで幸子がいた対岸に向かって、舟が遠ざかって行くのが見える。
「では若奥様、参りましょう」
すぐ傍で男の声がした。幸子はビクッと身体を震わせると、その案内人の手を取った。もう一人の案内人は、幸子のすぐ後ろに立っている。
案内人の一人に手を引かれた幸子は、滑り易くなった土手の階段を注意深く上って行った。
やがて土手の上に立った時、幸子の目の前にあったもの、それは、黒い屋根が連なる集落と、その向こうに延々と広がる一面の田畑だった。
空が曇っているからか、その更に向こうはぼんやりと霞んでいる。だけど、思ったよりも広い。
ここが、中州なのね。
幸子がそう思った時だった。案内人の得意げな声が耳に届いた。
「あちらが、水草のお屋敷です」
その案内人が指で示した屋敷は、集落の中で一番大きくて立派な建物だった。少なくとも、川田村の幸子の実家よりは格段に大きくて、例えるなら有名高級旅館のような造りだった。
案内人の男は、とても誇らしげだった。
だけど、その時の幸子は、全く違った思いに囚われていた。
確かに思ったよりは広いけど、まるで四方を堤防で囲まれた箱庭みたい。
これからの私は一生、この中州という土地に囚われて生きて行くんだわ。
別に、結婚が嫌ってわけじゃない。
土地に縛られて生きるのは、農家の嫁だったら当たり前のことだ。
それなのに、一向に心が晴れないのはどうしてなんだろう?
立ち尽くす幸子の小さな肩を、いよいよ本降りとなった雨が打ち付ける。
「さあ、急ぎましょう」
激しくなった雨に慌てた案内人が突然、幸子の手を強く引いた。そして、急いで土手を降りようとしたのだが、元々ぬかるんでいた道は滑り易い。「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた幸子は、しっかりと尻もちをついてしまった。その直後に雨脚は更に強くなり、白無垢だった幸子は、もはや泥だらけの濡れネズミだ。
一人の案内人は幸子と一緒に転んでしまい、もう一人がサッと傘を差してはくれたのだが、あまり役には立たない。一緒に転んだ方の案内人がしきりに頭を下げてくれるのだが、幸子にはもうどうでも良かった。
すっかり諦めた三人は、どしゃぶりの雨の中をとぼとぼと歩いて行く。
ああ、これも運命なんだわ。
土手から水草家の正門までは、目と鼻の先だった。というか、その屋敷は土手に沿ってできていて、幸子が歩かされたのは屋敷の前面のお堀に沿った路だったのだ。
やがて正門の前に到着した幸子は、この屋敷の壮大さに驚愕した。
「こ、ここが、水草家……」
「はい。さようでございます」
案内人の簡単な説明によれば、屋敷の形は土手に沿った長方形。その四面が大きなお堀と高い石垣、そして、その石垣の上に造られた白い塀で囲まれているらしい。その長方形の短い方の辺にあたる前面ですら、ずっと先までお堀と塀が続いていて、この激しい雨では端を見極めることすらできない状態だ。
ようやく正門に辿り着いた幸子は、その立派な佇まいに再び驚きで固まってしまった。
正門の隣には三層の瓦屋根を持つ物見櫓があって、門の前にはトラックでも通れる上り勾配の木の橋が、お堀の上に架かっている。
天守閣こそ無いにせよ、これはもう完全にお城だわ。
ここに来るのは二度目の筈なのだが、前に来た時は薄暗かったのと、緊張していて景色だとか建物なんて見ていられなかった。だから、幸子が改めて驚いたのは、仕方のないことだった。
最初は閉まっていた正門が、ゆっくりと開いて行く。
その向こうに見えた光景に、幸子はまたもや息を呑んだ。
門の先には広い空間があって、両側に、いくつもの建物が並んでいる。母屋と思われる建物は、正面のずっと奥だ。
幸子は、土手から見た時の認識が全く間違っていたことを即座に悟った。
さっき、幸子が高級旅館のようだと思った建物は、水草家の屋敷の一部であって、全体ではない。全体は様々な建物で構成されていて、それ自体がひとつの集落と言える程の規模なのだ。
だが、この時の幸子が一番に驚いたのは、屋敷とかの建造物ではない。自分の前で首を垂れる無数の使用人達だった。
どう見ても百人以上はいるだろう。彼ら、彼女らは、こんな激しい雨の中だというのに、きちんと幸子を出迎えてくれていたのだ。
この時、初めて幸子は、自分の置かれた立場を認識して愕然とした。使用人がいると聞いてはいたが、こんなに大勢いるだなんて……。
「あまり長くここにいると、風邪を引いてしまいますよ。さあ、早く母屋の方に参りましょう」
しばらく立ち止まってしまっていた幸子の肩を、案内人の一人がそっと押す。それで、ハッと我に返った幸子は、それでも軽く彼らに頭を下げてから、颯爽と前に足を踏み出した。
★★★
「まあまあ、こんなに濡れてしまって、早くこちらへいらっしゃいな。……もう、直樹も浩平もいったい何やってたの。ほら、小百合、乾いたバスタオルをありったけ持って来て頂戴。裕ちゃん、お風呂の用意はできてるかしら? まずは身体を温めてもらって、それから、新しい着物が必要ね。こういうこともあるかと思って、うちでも白無垢を用意しておいて本当に良かったわ……」
微かに見覚えのある妙齢の女性が玄関の手前で幸子の肩を抱いて中に入れてくれた。もの凄く綺麗な人だ。それに、若く見える。
それで、幸子は思い出した。彼女こそが自分の姑となる水草朋子だ。
すぐに大勢の女中達がバスタオルで幸子の身体を拭いてくれる。
すると、いきなり野太い男性の大声がして、幸子は思わず身を強張らせてしまった。
「こりゃ、水も滴る良い女ってことだわな。おい、滋、お前は幸せもんだなあ」
幸子がタオルの隙間からそっちに目をやると、男は二人いて、どちらも見覚えがある。声を上げた方が幸子の舅となる水草隆で、その後ろに隠れている男が夫となる滋だった。
「こらこら、あんたらはさっさとあっちにお行き。若い女のこんなあられもない姿、見るもんじゃありませんよ。幸子さんが可哀そうでしょうが」
朋子が大声で男達を追い払ってくれる。
それから幸子は浴室に連れ込まれて白無垢を脱がされると、風呂場に放り込まれた。
熱めの湯船に漬かりながら、ぼんやりと幸子は思った。
幸子の実家の松浦家も川田村では豪農と言われる規模の専業農家なのだが、この水草家とは比べようもない。中州の水草家の評判は聞いてはいたけど、これほどとは思わなかった。果たして自分は、ここで嫁としてやって行けるんだろうか?
幸子の心は、まずます不安でいっぱいになってしまい、そこに湯あたりも重なって、ふらふらの状態で湯船から上がった。
すると、またも女中達が幸子を取り囲んで身体を拭いてから、今度は新しい白無垢を着せてくれる。その後、化粧までしてくれて、ちょうどそれが終わった所で姑となる水草朋子が現れ、歯切れの良い声を上げた。
「良し、これで何とか見られる状態に仕上がったわね。さあ、祝言を上げるから、座敷の方に行くわよ。今日は、ただ頭を下げてるだけで良いから、黙って素直に花嫁の役を演じなさい。さあ、行きましょう」
朋子は気風が良い女だった。幸子は、この朋子から時に厳しく時に優しく水草の女将として相応しくなる為の作法や教養、そして心構えを叩き込まれることになるのだった。
★★★
「親が決めた結婚だったんだよ。でも別に強制された訳じゃなし、ちゃんとお見合いだってしたんだ。断る勇気が無かった私の責任だわね……」
とはいえ、その当時の中州の水草家と言えば、恐らく近隣の市町村で知らない人はいない程の豪農である。そこに嫁ぐとなれば、「玉の輿」に違いないのだ。
相手が多少年上だったとしても、そんなことは関係ない。その時の幸子にしてみれば、相当に断りにくい縁談だったに違いない。
「お祖父ちゃんのこと、好きじゃなかったの?」
「さあねえ、それまでに会ったのは、たった二回だけだったからねえ。優しそうな人だったし、年上で落ち着いていたし、まあ、それなりにカッコ良くは見えたもんだから、あんときは断る理由が見付からなくってねえ。かと言って、あんまり相手の顔ばかりじろじろ見るわけにもいかんし……、しょうがなかったんだよ。あの時代の結婚なんて、まあ、そんなもんだわさ」
「ふーん、そうなんだ」
ゆっくりと噛み締めるように話す祖母の顔をじっと見ていた薫には、あいまいに頷くことしかできない。まだ小娘にすらなっていなかった薫には、あまりに遠い世界のことだったからだ。
「お祖母ちゃん、結婚して中洲に来たこと後悔してるの?」
「さあ、どうだかねえ。若い頃は後悔したこともあったけど、こんな可愛い孫たちがおりゃー、やっぱりありがたいと思うに決まっとるわさ。毎日平穏無事に暮らして来れたわけだし……」
この時、幸子の膝の上には、まだ幼い妹の楓がいた。幸子は眠っている楓の頭を撫でながら、薫の興味本位の質問にも丁寧に答えてくれていた。
「ねえ、お祖母ちゃん。お祖父ちゃんって、どういう人だったの?」
「おや、薫は覚えてないのかい?」
「うーん。あんまり」
薫の祖父の滋は、幸子がまだ五十代に差し掛かったばかりの頃にガンで亡くなっている。薫が幸子の膝の上で眠っている妹の楓くらいの頃のことだ。
その頃、祖父に遊んでもらった記憶が微かにあるのだが、はっきりとは覚えていなかった。
「お祖父ちゃん、優しい人だった?」
「さあ、どうだったかねえ。私とは歳が離れていたし、普段は無口な人だったからねえ。優しいと言えば優しかったんだろうけど、怒ると怖い人だったよ。薫のお父さんの武と同じで、頑固な人でね。自分の考えは絶対に曲げようとしない。私の言うことなんて、これっぽっちも聞きゃしないんだ。煙草ばっか吸って、そのせいで早く死んじゃったんだよ。本当にバカな人だよねえ」
「たばこ?」
「そうだよ。昔は、煙草を吸う人が多くてね。中州の男の人は、ほとんど全員、吸ってたんだよ。今よりも、ずっと安かったしね。でもねえ、身体に悪いって分かってんのに、なんで吸うのかねえ」
「ふーん」
「あの人に『煙草は止めて下さい』って言うと、『俺は長生きしなくてもいいんだ』って怒鳴るんだ。それでも私が『死ぬのが怖くないんですか』って言ってやると、『死んだら、生まれ変われるから、別に良いんだ』って言うんだよ」
「へえ、死んだら、生まれ変わるの?」
「そうだよ。知らなかったんかい?」
「知らなかった」
「人は死んだら、別の人に生まれ変わるんだよ。そうやって、いつまでも、いつまでも、人はこの世界で生き続けるんだ。良い事をすると、次はお金持ちの子供だとか、幸せな家庭の子供に生まれて来ることができる。反対に悪いことをすると、ビンボーな家の子だったり、みなし子だったり、小さい時から病気に罹ったりして、苦労しなきゃなんないんだよ。だから、悪い事をしちゃいけないんだ。全部、自分に跳ね返って来るんだからね」
これは、たぶん薫が小学校の高学年ぐらいの頃の記憶である。
それ以来、「人は死んだら生まれ変わる」は、薫にとって当たり前のことになった。だって、一番尊敬する祖母の言葉なんだから、絶対、真実に決まってる。
薫にとって、大好きだった祖母が教えてくれたことは、何だって無条件に正しいことなのである。
★★★
祖母の幸子との思い出は、本当にたくさんある。それらのどれもが、薫にとっては宝物だ。
薫は、幸子から本当に多くのことを学んだ。幸子がいなかったら、今の薫は無いと言っても過言ではない程なのだ。
幸子は高卒である。ただし、その高校とは薫と同じ天王高校だ。つまり、幸子も薫と同様に学校の成績は良かったのだが、「農家の娘が大学なんか行かんでもええ」という父親には逆らえなかった。
女子が大学を出ても、教師くらいしか仕事が無い。大学に行けば婚期が遅れてしまうし、頭でっかちの女は却って嫌われるといった時代である。
あながち幸子の父親が男尊女卑の悪習に染まっていた訳ではないし、幸子の方とて、どうしても大学に行きたい訳ではなかった。それで高校を卒業した後は家事見習いをして、二十歳になったばかりで中州に嫁ぐことになったのだ。
実は、幸子は姑の朋子に見い出され、彼女に乞われて中州にやって来た嫁である。朋子は時間を掛けて、周辺の町や村の農家から優秀で健康な娘を探した。そして、ようやく見付け出したのが、松浦幸子だったのだ。
この嫁の探し方は、水草家の伝統である。「嫁には妥協するな」が水草家に代々伝わる家訓のひとつなのだ。
嫁が優秀であれば、優秀な子が生まれる。それに嫁が優秀であれば、家の中がうまく治められる。
これは、水草の家が長年続いてきた秘訣でもあるのだ。
ちなみに幸子の姑の朋子は、天王高等女学校の出身である。当時の天王高女は、今の天王高校より格段に書くが上であり、女子としてはエリート中のエリートだったのだ。
そして、嫁には姑が徹底的に教育を施すのが常だった。それは家事や躾、作法だけでなく、算術や習字、学問等も含まれていた。
当主も直系の男子がいなかった時は、よく婿養子が迎えられたようだ。もちろん、その場合は婿を迎える娘が優秀でなければならない。
揉め事を避ける上でも当主は血を重視するが、その妻は優秀でなければならないというのが、水草の流儀だったのだ。
「武のことで私は失敗した。決して佳代さんを貶すわけではないんだが、所詮、人には器というものがあるんだよ。残念ながら、佳代さんは水草の嫁の器じゃ無かった。武が佳代さんと結婚したいと言った時点で、滋さんと私は武に、水草の当主の座と佳代さんのどちらかを選ばせようとしたんだけど、結局は両方を与えちまった。滋さんも私も、甘かったんだよねえ」
幸子は、決して悪い姑じゃなかったと思う。それどころか、相当に佳代のことを気遣っていた節がある。
しかし、幸子が自分の姑の朋子に教えられたことの全てを、佳代に教えられなかったことに関しては、忸怩たる思いがあったのは間違いない。要は、幸子がどうやって教えても、幸子の納得できるレベルに佳代が到達することは無かったのだ。
「私はねえ、結局、お義母様の恩を返せなかったよ。お義母様には、あんなに良くしてもらったのに、本当に申し訳が無い。だからね、薫、私は佳代さんにできなかった教育を、お前に託したいんだ。もちろん、どうしても薫に水草の家を継いでくれというわけじゃない。薫と楓が水草の家を継がないということだったら、八木さんや川合さんの所に水草の当主の座を委ねたって良いと思っている。もっとも、その場合、今は相続の問題があるから、一工夫しなきゃいけないんだろうけどね」
薫は両親から婿を取れと言われたことは無いのだが、水草の家をどうするかは、ずっと頭にあった。もっとも、薫が継がなくても楓が継ぐだろうといった思いはあったのだが、自分は水草の娘であり、水草直系の長女であるとの意識は絶えず持ち続けていたのだ。
そして、薫にそういう意識を植え付けたのは幸子であり、幸子に課せられた躾や教えの数々だったのである。
★★★
お祖母ちゃん子だった薫は、小学校を卒業する迄の間、母の佳代と一緒にいる時間よりも遥かに長い時間を幸子と過ごした。
特に夜の時間は幸子と一緒に過ごすことがほとんどであり、そこで、薫は祖母に水草の女としての教育を徹底的に施されたのである。
幸子が薫にいつからそのような教育を始めたかについては、薫も記憶が定かではない。
いつも幸子は薫に優しく接してくれていたのだが、いうべきことはきちんと言う人だった。特に姿勢だとか立ち振る舞い、食事の時のマナーには非常に煩かったのを覚えている。
それらは、たぶん薫が物心付く前後には既に行われていて、ある程度の言葉が話せるようになった頃には、言葉遣いに煩くなった。
幸子の凄い所は、薫の素朴な質問に、いつも根気よく薫が納得するまで答えてくれたことだ。
そして、薫がちゃんとできた時にはきちんと褒めてくれる。だから幼い薫としては、やらないことの理由が見付けられなくなって、遣らざるを得なくなってしまう。そして、祖母に言われるとおりのことがうまくできたら、笑顔で褒めてくれるので、薫はその笑顔見たさに一生懸命、それをやろうと思ってしまうのだ。
もう少し大きくなると、幸子は薫に読み書きと算術を教えてくれた。それらについては、恐らく昔からの水草のやり方というものがあって、子供が楽しく覚えられるようになっていた。
更に、読み書きができるようになると、幸子は薫に本を読むことを習慣付けた。それも、割と早い時期に活字ばかりの本を与えられたのだ。
最初、薫は嫌がったが、知らない字があると幸子が根気よく教えてくれたので、そのうちに慣れてしまった。
子供は本来、好奇心が強い。本を読む楽しさを教えさえすれば、あとは自分でいくらでも知識の幅を広げることができる。
恐らく幸子は、そうした子供の好奇心を引き出すことが上手だったんだと思われる。薫は、小学校に上がる前には、文字ばかりの本を普通にすらすらと読むようになっていたのだから……。
もちろん、「彼女には予め、そうした能力や才能が備わっていた」といった要素は否めない。躾や作法にしたって、普通の子なら、そうしないといけない理由をどんなに丁寧に説明した所で、途中で嫌になって癇癪を起してしまうことだろう。だけど薫に関しては、そういったことがなかった。とすれば、それもまた生まれつき授けられていた類の何かが、彼女にあったからなのかもしれない。
とはいえ、薫が幸子から受けた教育の中で一番の核となる部分は、しつけや作法、知識ではない。
それは、伝統ある水草直系の長女としての矜持である。
幸子は常々薫に言ったものだ。
「水草の女はね、何があってもそうそう狼狽えるようなことがあっちゃいかん。もし薫が水草のトップに立つようなことがあれば、薫が動揺すれば、皆が動揺するだろ。それに水草の者が動揺すれば、中州の者全員が動揺することになってしまう。動揺した状態では、いくさは戦えん。そうしたら、うちらの負けだよ」
「でも、お祖母ちゃん、いくさって戦いのことでしょう? 今は戦国時代じゃないんだし、戦いなんて無いと思うんだけど」
「そんなことあるかい。大人の世界ってのは、戦いの連続なんだよ。薫はまだ小さいから、そういう戦いが見えてないだけなんだよ。もう少し大きくなったら分かるさ」
「そうなの? あ、お父さんがいつも怒ってるのは、何かと戦ってるからなのかも」
「ははは。確かに武は水草の当主だから、戦わなきゃならんことは、いっぱいあるわなあ」
かくして、薫の動じない女の部分は、このようにして作られて行ったのである。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
この後、二話、薫の家族の話が続きます。
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