第58話:貧民街の夕食会 <薫サイド>
見直しました。
◆7月27日(月)
その朝、水草薫が起きて台所の方に出て行くと、妹の楓が歯磨きをしていた。昨夜、にんにく増量のギョーザを食べたからだろう。
食卓テーブルの方を見ると、ちゃんと朝食の準備がしてある。とは言っても、ご飯に味噌汁、漬け物、そしてコロッケだ。もちろんコロッケは、昨夜のお惣菜の残りである。
薫は、コロッケを軽く電子レンジでチンしてから、ウスターソースを多めに掛けて、それをメインのおかずにすることにした。
うーん。やっぱりおいしい。
「お姉ちゃん、朝っぱらから、よく揚げ物なんて食べるね」
「ギョーザよりは良くない?」
「そりゃ、そうだけど。あ、お姉ちゃんも歯磨き、しっかりね」
「分かったよ。あ、もう七時半じゃない。急がなきゃ」
という訳で、歯磨きの時間を薫は楓の半分に短縮して、軽くジョギングしながらコンビニEマートに向かった。
★★★
薫がバイト先のEマートに着くと、男子大学生の原田が笑顔で出迎えてくれた。
「店長は?」と尋ねると、休憩室に行ったきりで戻って来ないという。
「店長、明け方からずっと立ったまま寝てるような感じで、ヤバいっす」
「てことは、今日は休憩室でお泊りかなあ」
「一度は、家に戻ってシャワーくらい浴びてもらわないと駄目っしょう。客商売ですからねえ」
「まあ、夕方迄には起きると思うから、様子見とくよ」
「お願いしますよ。俺、今晩も店長と一緒にシフト入れてますから」
「まあ、最悪、ワンオペだね」
「その場合は、大島先輩、呼びますよ」
そんな話をしていた所で、パぴパぴと音がして、牧野愛衣が入って来た。
「あ、愛衣ちゃん、おはよう……ヤバっ。私、着替えてくるね。じゃあ、原田くん、お疲れさまー」
牧野愛衣がセーラー服のままレジに向かったのを見て、薫は慌てて更衣室へと駆け込んだのだった。
★★★
今日の薫のシフトは、牧野愛衣と一緒で朝八時から午後五時迄。夕方四時に女子大生の斉藤美月が来るという辺りも、最近ではお決まりのパターンだ。
午前中は、お客さんが断続的にやって来て、それなりに忙しかった。
時々、休憩室で寝ている店長の様子を見に行ったが、全く起きる気配が無い。一応、薄手のブランケットを身体に掛けてあるので、風邪を引くことは無いだろう。
やっぱり、店長は相当に疲れているみたいだ。これは、夜勤可能な頼れる人材を早急に確保しないと駄目だろう。
それか、深夜営業を止めてしまうことだろうけど……。
午後になって、やっと客足が鈍り、薫は愛衣と雑談ができる状態になった。
「でも、店長って本当にヤバいですよ。このお店も、深夜はお休みにしちゃえば良いのに」
「まあ、そうかもね」
「最近、都会でも深夜営業無しのお店が増えてるみたいですよ。治安の問題みたいです」
「まあね。他のお店が全部閉まってる中で、そこだけ開いてたりすると、襲って下さいって言ってるようなもんだからね」
「薫さん、うちも他人事じゃないと思いますよ」
確かに、この辺りでも、深夜営業をやっている店は限られるのだが、コンビニの場合はフランチャイズの契約の縛りで、深夜営業廃止はハードルが高いのが実態だ。
それでも、今まで二十四時間営業を売りにしていたお店が深夜営業を止める事例が増えていることは薫も知っていた。その大半は採算が合わないというよりも、治安の問題で人が集まらないからだという。
もっとも、こんな時代だから、どうしても仕事が欲しい人は深夜勤務も厭わずに応募して来るのだが、そういう人は犯罪集団とグルになっていることがあったりして、安易に採用できないのだ。
パぴパぴ……
「いらっしゃいませー……あれ、京香さん?」
「薫ちゃん、久しぶりー。
現れたのは、高校の剣道部の同期、松永陽輝のお姉さんだった。
「今日は、お仕事、お休みなんですか?」
「そうよ。昨日が夜勤、と言っても、土曜の夕方から昨日の午後まで働いてたの。で、さっき起きたとこ」
「うわあ、大変ですね。うちの店長みたい」
「へえ、コンビニの店長さんって、大変だって言う者ね」
「はい。まだ裏の休憩室で寝てます」
その京香さんは、雑談が終わると少し厳しい表情になって、「ちょっと良いかな」と言った。
「はい。今なら、お客さんが少ないので、大丈夫ですよ」
薫がそう言うと、京香は隅の方に薫を誘う。それから、おもむろに話し出した。
「昨日ね、天王通りで藤田くんとバッタリ会ったんだよ。そしたら、何か落ち込んでるみたいだったんで、お茶に誘っちゃった」
「そうだったんですか」
「うん。昨日の夕方だけど、心当たり無い?」
薫は、無表情のまま、京香の顔を見た。
「翔くんと会ったんだったら、京香さん、ご存じなんでは?」
京香の性格上、どうせ彼から全部の情報を聞き出したに決ってる。
「うん、まあそうなんだけどね。やっぱ、薫ちゃんの口からも聞いておきたいかなって」
薫には京香の物言いが、どうにもまどろっこしかった。それで薫は、声を潜めて言った。
「あの、ここで大きな声で言うのはマズいんですけど、私、決めたんです。軍に入るって」
「それは聞いたわ。良く決断したわね」
「はい。それなりの金額を借りられることになりましたから」
「そっか。大したもんだわ」
「そうでしょうか。それについては、あんまり自信とか無くて。本当に役に立つかどうか……」
「大丈夫よ。軍だって、ちゃんと調べたんでしょうし」
その通りだ。五月の終わりに軍と接触してから、バイトがオフの時はずっと検査漬けだった。
「まあ、そうですね」
「あのね、私は薫ちゃんの味方よ。昨日だって、藤田くんに『薫ちゃんのことは、諦めた方が良い』ってはっきり言ってあげたもの」
「そうなんですか?」
それは、少し意外な気がした。
「それでね、薫ちゃんの方は、本当に未練とか無いのかなって」
「未練ですか……」
そんなの、決まってる。
「無いです。もう絶対、彼とは会わないって決めましたから……」
「そうなんだ」
「……と、カッコ良く言いたいところなんですけどね」
そこで薫は、一瞬、京香の興味津々な顔を見てから、先を続けることにした。
「未練が無い訳ないじゃないですか」
案の定、京香が顔を綻ばせる。彼女が期待したとおりの言葉を薫が口にしたからだろう。
「まあ、そうよね。あ、もちろん、私は何もしないわよ」
「そうして下さい」
「分かったわ。まあ、薫ちゃんも分かってると思うけど、藤田くんの方は心配しなくて良いからね。薫ちゃんは、自分のことだけ考えなよ。後は、薫ちゃん自身が、自分にどう踏ん切りを付けるかだけだもの。恋愛なんて、本当は単純なものなのよ」
薫は「はい」と頷いておいた。この人は、話が早くて助かる。
それから京香は、松永陽輝の話をした。
これ以上、山口沙希を追い駆けたって、無駄だってのは分かり切ってるのに、弟は一切、他の女に目を向けようとはしない。何度、現実を見ろと言っても、まるで聞きゃしない。ああして一途に女を追い掛けることが、カッコ良いとでも思っているんだろうか。私から見ると、ただの馬鹿にしか見えないんだけど……。
「久美ちゃんとか、良い子なんだけどね」
「大鹿久美ちゃんですか?」
「そうよ。あの子、昔から陽輝のこと、片思いしててね。陽輝も分かってるとは思うし、あの子だって久美ちゃんのことは嫌いじゃないっていうか、大事に思ってる筈なのよ。だから余計に久美ちゃんだって陽輝のこと、諦めが付かないのよね」
一度、誰かに固執してしまうと、長い時間を掛けてエネルギーを費やさないと、その呪縛を振り解くことはできない。そういうことなんだろうか?
「松永くん、って、私と同じで不器用なんですよ」
「そういう言い方もあるわね。でも、私に言わせると、勇気が無いだけよ」
「勇気ですか?」
「そうよ。誰かを諦めることだって、勇気が必要だもの」
「……?」
「あのね、今までずっと追い掛けてた人を追い掛けなくなるとね、本当なら自由になれる筈だけど、実際は自分の心の中にぽっかりと穴が開いちゃった感じがして、堪え難い喪失感に苦しむものなの」
「失恋、ですね」
「そうよ。失恋ね。それが認められないっていうか、失恋の喪失感から目を逸らして逃げ回っている人は、諦める勇気が無いってことだと思うんだ」
「なるほど。諦めるにも勇気がいるんですね」
「そうね。恋愛ってのは、麻薬みたいなとこ、あるもんね。誰かを諦めようとした時の症状って、麻薬中毒者に似てると思うんだ。薫ちゃんは、藤田くんを諦めるって決めたわけでしょう。でも、人の心って、そんなに単純には行かなくてね、諦めるって決めた後も、いろんな禁断症状に堪えなきゃなんないってわけよ」
「禁断症状ですか?」
「そうよ。誰かを好きだった時間が長くて、好きだった思いが強ければ強い程、その禁断症状は強くなると思うんだ。でも、それに負けちゃ駄目。負けないで頑張って最後まで頑張り抜いた時、その時は本当の自由になれるんだと思う。薫ちゃんは、芯が強いしっかりした子だから大丈夫だと思うけど、頑張ってね」
京香は一気に長々と喋っていたけど、彼女が言いたいことは、何となく分かった。
だけど自分の場合は、それって、どうなんだろう?
翔くんへの思いから自由になって、心置きなく戦場に行ってしまえ!
そんな風に聞こえなくもない。もちろん、京香さんは優しい人で、そこに悪意なんてある筈もないのだけれど……。
自由かあ。
今までの私を縛り付けていたものは、二つ。
そのひとつは、借金だ。それは、軍に入ることで目途が付く。
もうひとつは、翔への思い。それは、京香さんに言われるまでもなく、もう手放すことに決めた。
でも、自由って何だろう。自由になって、別の男の人を探せってこと?
いや、男の人は、もういいや。
そういうのは、もう良い。もっと、別の何かを見付けよう。
パぴパぴ……。
「いらっしゃいませー」
薫が物思いに沈んでいると、主婦らしいお客さんがやって来た。最初に熨斗袋を手に取って籠の中に入れると、今度はお菓子コーナーに行って、新製品の検分を始めた。
「じゃあ、私、行くわ。薫ちゃん、さっき私が言ったことだけど、頑張ってね」
「彼を心から追い出した後の禁断症状ですね」
「そうよ。私も昔、くっだらない男と付き合ってたことがあってね。そいつと別れた時は、いなくなってせいせいしたと思ったんだけど、その後、何か心にぼっかり穴が開いたみたいで、どうしようもなくなっちゃってさ」
「なるほど」
「うん。そいつとは三年付き合ったんだけど、薫ちゃんの場合、もっと長いし、東京まで追い掛けて行っちゃった人でしょう?」
パぴパぴ……。
「いらっしゃいませー」
そこで、また二組のお客さんが同時に入って来た。
「分かりました。京香さん、ありがとうございました」
薫は京香さんにお礼を言って、レジの方に向かって行く。
京香さんは、サンドイッチと適当なスイーツを手に取って、それらを薫がいるレジに持って来てくれた。
パぴパぴ……。
「「ありがとうございましたー」」
愛衣と声がハモってしまって、薫は少しだけ顔を綻ばせたのだった。
★★★
結局、日比野店長が目を覚ましたのは、午後五時になってからだった。
その時は、お客さんが大勢詰め掛けていて、起きたばかりの店長は、うろうろするばかり……。
「店長、そこにいると邪魔なので、早く帰ってシャワーでも浴びて来て下さい」
きつい口調でこう言い放ったのは、薫ではなく斉藤美月だった。そのまま彼女は店長の背中を押して、店の外に追い出してしまう。
「水草さんも牧野さんも、シフトは五時まででしょう。二人共、もう上がりなさい。坪内さんと加賀さん。代わりにレジに入って頂戴。良いわね」
坪内さんと加賀さんというのは、共に天王北高の二年生で、友達同士らしい。この店でバイトを始めたのは薫より前なのだが、あまりシフトを入れておらず要領は悪い。予備のメンバーといった感じだ。
それでも、美月が睨み付けてきたので、取り敢えず薫は上がらせてもらうことにした。
急いで着替えて店内に戻ると、案の定、二人の前にはお客さんがずらっと列を作っている。坪内さんには美月が、そして加賀さんには愛衣がサポートに張り付いている状況。
この時間帯は混雑するので、いつも上がるのが心苦しい。
とはいえ……。
「牧野さん、いつまでそこにいるの。早く上がりなさい。水草さんが待ってるわよ」
美月が愛衣の隣に行って耳元で囁いたのだが、薫にまで聞こえてしまった。案の定、並んでいるお客さん達が美月の方に厳しい視線を向けている。
「まずいな」と思った薫だったが、美月は加賀さんのレジを替わると、愛衣の背中を押して、その場から追い出して「しまった。
坪内さんと加賀さんだって、こうした修羅場を経験しないと、いつまでたっても成長しないということだろう。
薫は、愛衣を促して外に出ることにした。
「「お疲れ様でしたー」」
パぴパぴ……。
★★★
店を出た後は、早足で神社の方に向かう。
油蝉の鳴き声がやたらと煩いのは、天王池公園と神社とが近いのだから当然だろう。けど、その音がやたらと暑さを強調するのだ。
牧野愛衣は今、セーラー服姿で、自転車を押して歩いていた。
「愛衣ちゃん、その格好は、さすがにヤバくない?」
「だって、パーカーとか暑いじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
「今日は、薫さんがいるから大丈夫ですよ」
「それって、兄妹に見えるってこと?」
「うーん、ちょっと無理があるかも」
今日の薫は、白のTシャツにだぼっとしたデニムのパンツだ。
「私、この格好で、いつも男の子だと思われて、助かってるんだけど」
「それは、夜だからじゃないですか?」
「あ、そっか」
そうこうするうちに、神社の前まで来てしまった。
「じゃあ、ここからは、お兄さんになるからね」
薫は愛衣の自転車を奪うと、彼女を後ろに乗せてペダルを漕ぐ。神社の前までは交通法規を守っていたけど、この先は無法地帯だから平気だ。
「おっ、姉ちゃん達、待ちな」
「あ、おい、逃げるな」
早速、厳つい男達が声を掛けて来るが、当然、無視。全力で自転車を漕いで、通り過ぎる。
今は、夕涼みの男達が多くいる時間帯だ。愛衣のセーラー服は、彼らの目を惹き付けてしまう。
やがて、天王シネマが見えてきた。この映画館の前は、いつも若い連中がたむろしている。
薫は、その前で自転車を停めた。そして、愛衣に一度アパートに戻って着替えるように促す。
薫がしばらく外で待っていると、愛衣が薫と似た恰好になって戻って来た。
「さてと、走るよ」
「了解です」
二人して、天王シネマの前を駆け抜けようとすると、案の定、男達がぱらぱらと外に出て来た。薫は愛衣の前に立ちはだかった男のすねを軽く蹴ってから、彼女に行くように促した。
愛衣はガリ勉の運動音痴に見られがちだが、走るのは早い。そうじゃないと、この街では生きて行けない。
薫の意図を汲み取ってくれた愛衣が視界から消えたのを確認した薫は、改めて男達に向き直った。
目の前にいるのは三人。他に、カップ酒片手に観戦を決め込んでいる男が四人、いや五人だ。
これは、逃げた方が良いかも。
そう思った所で、薫は自分の後ろにも二人いることに気付いた。
「ああ、もう最悪」
そんな言葉とは裏腹に、勝手に身体が動いていた。
薫の方に伸ばしてきた男の腕を、すんでの所で払い除け、男がバランスを崩した所で足を引っ掛ける。隣の男の脇腹にスニーカーの踵をめり込ませた後、素早く三人目の男の股間にもキックをおみまいした。
直後、後ろから覆い被さってきた男を背負い投げした所で、少し離れた所の男に見覚えがあるのに気付いた。
愛衣のお父さん?
その男は、薫の方にニヤけた顔を向けてくる。そして、薫が身構えた所で、急に興味を失くしてしまったかのように、天王シネマの日陰の方に入って行った。
そこで、復活した男二人に再度の蹴りを見舞わせてから、薫は素早く走ってその場を後にしたのだった。
★★★
「薫さん、お疲れ様でーす」
薫が自分のアパートのドアを開けると、いきなり愛衣が声を掛けてきた。愛衣には「逃げ足には自信がある」と言ってあるのだが、さすがに心配したんだろう。
きしめんを茹でている最中の楓も、顔だけ向けて「お姉ちゃん、お帰りー」と言う。
すると、愛衣の弟らしき男の子が少し興奮気味に、「柔道、すっげー強いんですね」と言って来る。薫は、『あれって柔道なの?』と思ったけど、黙っておいた。
「こら、智也。まずは挨拶からでしょう」
愛衣が、弟の智也を叱責した。そこで、愛衣の母親の牧野由利が立ち上がって、智也と一緒に頭を下げて来る。
「娘がいつもお世話になってます。牧野由利と申します」
「牧野智也です」
「水草薫と申します。愛衣ちゃんにお世話になっているのは、私の方ですよ。それに、妹の楓もお世話になっていますし」
「いやいや、愛衣からはいろいろと聞いております。今回の智也のこともそうですが、先程のことだって……」
挨拶と言いながらも、なかなか終わらなかった。
薫は、由利が意外と若く見えることに驚いたのだが、少しかんがえてみれば当然だ。彼女は愛衣を十代で産んでいるわけで、まだ三十代半ばの筈。
他の佳代と楓は、既に挨拶を済ませていたようだった。智也を愛衣が帰って来るまで引き取るという話も、既に済ませてあるという。
二人との挨拶を終えてから、薫は智也に何で柔道とか言い出したのかを尋ねた。すると、どうやら彼はベランダから薫と男達との立ち廻りの一部始終を見ていたらしい。
「でも、お姉ちゃん、いつ柔道なんて習ったの?」
「うん、先月、ちょっと知り合いから教えてもらったんだよ」
「あ、そういうことか」
楓は、それで納得した様子だったが、智也の方はきょとんとしている。
「先月にちょっと習ったって、どういうことですか?」
「うん。三回くらいかな。ちょっと、強い人に教えてもらったの」
「ええーっ、そんなんで、あそこまで強くなれるもんなんですかあ?」
智也の驚いた声に、ようやく薫は、自分がまたもやらかしてしまったことを悟った。
「あ、いや、その……」
「別に言い訳とかしなくて良いと思うよ。お姉ちゃんのチート伝説は、有名だし……」
「えっ、何それ、楓、ひょっとして……」
「中学の時の話でしょう? 愛衣だって知ってるよ」
「ええ―っ、誰に聞いたの?」
「もう、いきなり怒んないでよ。中野先生だよ」
「中野先生って……あ、美香かよ。あいつ……」
「でもさあ、さっきの男の人達って、お姉ちゃんと同世代だよね。だったら、お姉ちゃんのこと知ってると思うんだけど……」
「いやいや、私の場合、同じ川田中学の子以外には、あんまり顔は知られて無いからさ」
「ふーん、そうなんだ……。お母さん、このくらいでいいかな?」
「大丈夫なんじゃないかい」
「じゃあ、降ろすよ」
楓がきしめんを茹でていた大鍋の中身をざるにぶちまけて、水道の水を掛けて冷やしてから、それぞれのどんぶりに移して行く。薫は、そこに予め用意されていた麺つゆを掛け、大根おろしとネギを振り掛ける。すりおろした生姜は、既に食卓テーブルに置いてあるから、お好みでたしてもらおう。
それらのどんぶりをテーブルに運んでいる楓に愛衣が話し掛けた。
「楓ちゃん、さっきの話、それだけじゃないと思うよ。薫さんを襲った連中に川田中学の卒業生がいたって、薫さんが本物だとは思わないんじゃない?」
薫には何のことか全く分からなかったけど、楓は配膳を終えて席に着いてから、「あ、そっか」と呟くように言った。
「お姉ちゃん、若く見えるもんね」
「そういうこと」
「まさか、中学の時とおんなじ姿だとは思わないもんね」
何やら笑い合っている二人に、薫が「ひっどーい」と言って、口を尖らせる。すると、楓が突っ掛かってきた。
「別に良いじゃん。若いって思われるんだから」
「違うでしょう。楓が言ってるのって、私がガキに見えるってことでしょうが」
「そんなこと言ってないじゃん」
「言ってるでしょう。いつだって楓は、自分の方が年上に見えるって思ってるんだもん」
「こらこら、薫。お客様の前で何だい、みっともない」
「そうやって言い合いをしてるとこ見ると、八つも歳が離れてるようには見えないですね」
「もう、愛衣ちゃんまで、酷い」
「じゃあ、食べよっか。智也くんなんか待ちきれないって顔してるし」
「では由利さん、愛衣ちゃん、智也くん、どうそ」
佳代が促すと、それぞれに頂きますを言って、食べ始める。
きしめんの他にも、ポテトサラダにトマト二切れが各自の前に置かれていた。
「おいしい。やっぱり、暑い時は冷たい麺類ですねえ」
「お母さん、これって生麺なんだよ。凄いよねえ」
「ふふっ、愛衣ちゃん、いつもはうちも、乾麺だよ。それも売れ残った奴」
「分かる、分かる。それだって、充分、おいしいけどね」
「だよねえ」
仲良しの愛衣と楓がそんな会話をしている所に、智也が不満そうに口を挟んできた。
「あの、さっきの話、僕、全然わかんなかったんだけど」
「もう、智也は知らなくても良いの」
「ええーっ、だって、柔道、強くなりたいじゃん」
「強くなりたいんだったら、真面目に練習するしかないでしょう」
「だって、さっき……」
「だから、薫さんは特別なの。チートなんだから」
「えっ、そうなの?」
そんな姉弟の会話を余所に牧野由利と佳代の母親二人は、物価の話を始めてしまった。
コロナ禍の後は、だいたい全ての物が値上がりして、その後、物価は再び落ち着いたのだが、食料品の価格だけが高止まりしている。それが、所得の低い者達を直撃しているのだ。
「でも、スーパーで働けて、本当に良かったですよ。見切り品を手に入れ易いですからねえ」
「なるほど、それって隠れた給料になりますよね。うちも食材の余りがちょくちょく手に入るんですよ。今日お持ちした葡萄とイチジクなんて、まさにそれでして、恥ずかしい話なんですけど」
「良いんじゃないですか。果物は、少し置いた方がおいしいって言いますからね」
佳代がそう言った所で、薫は牧野家からもらった果物を器に盛って食卓テーブルに置く。そして、席に着くと、洗ったイチジクに、いきなりかぶり付いた。
「おいしい。ちょうど食べごろじゃないですか」
「でしょう。なんか、たくさん仕入れ過ぎたからってことで、持ってけって料理長に言われたんですよ」
「その料理長、良い人ですね」
「そうなんですよ」
薫が口を挟むと、由利が相槌を打ってくれた。
ふと、智也の方を見ると、ちょうどイチジクを食べ終わった所で、なんだか手持無沙汰に見える。
「智也くん、一人だけ男の子で、今日は退屈かな?」
「あ、いや」
「そうだ。今度は、颯太も呼ぼうか。ねっ、楓」
「もう、何で私?」
「だって、楓が誘えば、颯太は必ず来るでしょう?」
「薫さん、それじゃあ、八木さんが……」
「そっかなあ。颯太だって、愛衣ちゃんと一緒にご飯が食べれてラッキーって思うかもしれないでしょう。まあ、大したもんは出ないんだけどね」
「ふふっ、お姉ちゃんって、身内の扱いが雑だもんね。うちの担任の中野先生のことだってそうだし」
「中野先生って、担任の先生のことですか?」
「そうなんです、由利さん。私もこないだ楓から聞いて驚いたんですけど、中野先生、ていうか、美香は幼馴染でして、私の妹分なんです」
「えっ、妹、ですか?」
「ううん、愛衣ちゃん、『妹分』だよ。あんなのが本当の妹だったら、困っちゃう」
「ええーっ、中野先生、そこまで酷くはないと思いますけど……」
困惑顔の愛衣に向かって、楓が「だよねー」と相槌を打ってから、「でも、お姉ちゃんの中野先生に対する評価って、すっごく厳しいの」と言う。
「だってえ、私が今まで、美香のことでどんだけ苦労してきたことか……まあ、今回は楓のことでだいぶ返してもらったみたいだけどね」
それから、愛衣からも薫の美香に対する扱いが酷すぎるとクレームされたので、薫は昔の美香の悪行を並べ立ててやった。
出会った頃の話から始めたから、少々時間は掛かった。中学の頃の話は一部かっ飛ばしてしまったけど、天王高校の時の話については、詳細に語ってやった。入試で本来なら不合格だった所を、たまたま数学の点数が良くて補欠合格になったことに始まり、バスケの部活に熱中するあまり、赤点だらけで二年への進級が危ぶまれたことや、生徒会長のなり手が誰もいない中、当時の生徒会担当の先生が焼きそばパンで釣って美香を生徒会長にしたら、まともな仕事をしなくて「史上最悪の生徒会長」と揶揄された話とかを、薫は滔々と語った。
「でもさ、お姉ちゃん。焼きそばパン一個でに釣られて生徒会長になったってのは、いくら中野先生でも眉唾な気がするんだけど」
「一個じゃないよ。一週間分だもん」
「あはは。てことは中野先生、一週間ずーっと焼きそばパンばっか食べて立ってこと?」
「うーん、どうだろう。コロッケパンの日もあったかも」
「もう、楓ちゃんったら、ポイントはそこじゃないと思うよ。いくら一週間分だからって、普通そんなことで生徒会長とか受けないんじゃないの?」
「いやいや、美香だからねえ」
「もう、お姉ちゃん、また中野先生のことバカにして」
「別に良いじゃない、美香なんだから。あ、だけどね、そん時の生徒会担当の先生、入試の時に数学の点数が良いってことで、美香を補欠合格にした先生なんだよ。だから、その先生に美香は頭が上がらなかったってのが真相」
「なーんだ、そういうことか」
薫と愛衣と楓でそんな話をしている横で、由利と佳代の話は家族のことに移っていた。メインは由利の夫、愛衣達の父親の話である。
そこで薫が、さっき愛衣達の父親に会った話をすると、由利に改めて謝られてしまった。
「なんとか離婚したいんですけどねえ」
由利の言葉に薫が少し考えて、「やっぱり、強引にハンコを押させるしかないかもしれませんね」と言うと、佳代に「お前、いいかげんなこと言うんじゃないよ」と窘められてしまった。
「実は、来月の六日が命日なんですよ。母は、今の夫との結婚には反対だったんです。それをあたしが無視して、強引に同棲みたいなことを始めちゃったばかりに……」
由利の場合、もはや夫の家族とは全く交流が無いらしい。つまり、親戚と呼べる存在がいないわけだ。
薫の場合も親戚の数は相当に少ないのだが、分家として過去からの繋がりがある人達だとか、昔の使用人等、知り合いは大勢いる。
「お祖母ちゃん、優しい人だったんですよ。長生きしてて欲しかったな」
愛衣がそう言った所で、部屋の中が急に静かになってしまった。
そこで薫は自分の祖母、幸子の話をすることにした。
薫はお祖母ちゃん子だったこともあり、幸子は両親以上に近しい存在だったのだ。
すると、その話を佳代が引き取ってくれた。
「昔は、お義母さんのことが苦手でねえ。とにかく、厳しい人で、大変だったんだよ。でも、今思うと、私のことをいろいろと考えていてくれてたし、助けてもくれた。いろんな意味で、あの人は偉大だったよ」
確かに、幸子は偉大だった。
だけど、薫も今の歳になって幸子のことを考えてみると、決して良い点だけじゃなかったと思えてしまう。特に薫の父、武に対することだとか、母の佳代に対することだとか、今思い返すと、決して正しい対応ではなかったと思えることも散見で来てしまうのだ。
つまり、幸子に欠けていた所、幸子が至らなかった所とかは、間違いなくあった。
もちろん、だからといって、薫の中での幸子の偉大さは一ミリたりとも変わらないし、薫は決して幸子を嫌いになったりはしない。
そして、薫の幸子に対する感謝の念は、決して揺るぎのないものなのだ。
薫は、牧野家の三人をアパートまで送って行ってからも、ずっと幸子のことを考えていた。
そして、寝室で布団の上に身体を横たえてからも、頭の中に浮かんでくるのは、やっぱり祖母、幸子の思い出なのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、薫の祖母、幸子のお話になります。
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