第57話:手作り弁当 <翔サイド>
再度、見直しました。
◆7月27日(月)
「おっはようございまーす。藤田くーん」
藤田翔の新しい週の始まりは、再び鈴村千春の甲高く甘ったるいアニメ声で始まった。
しかも今日は、彼女の「くん呼び」がフロア中に響き渡ってしまったのだ。明らかに、自分と俺との関係を誤解してくれと言わんばかりじゃないか?
翔が、朝から頭を抱えたくなったのは、言うまでもない。
「金曜日は、ごめんなさーい。あたしったら、ちょっと酔っぱらっちゃったみたいでぇ……てへっ」
月曜の朝はテンションが下がるといった世間の常識は、彼女に限って全く当てはまらないらしい。
それに、最後の「てへっ」は何なんだ。舌の先をあざとく覗かせた所で、むかつきこそすれ、絶対に可愛いなんて思ってやるもんか。
そう思って千春を睨み付けようとした翔だったが、椅子に座ったままの彼に彼女は身体をぐっと寄せて来て、大きな胸の前で両手をピタッと合わせて頭を下げる。
すると次の瞬間、明るい色の髪の毛がバサッと下に落ちたかと思うと、半分が翔の肩に被さって来た。すると、フローラルなシャンプーの香りが翔の鼻腔から脳へと一気に駆け抜けて、一瞬、意識が遠のきそうになる。
たっぷり三秒間は蝋人形のように固まってから、ようやく意識を戻した翔の眼前に、下げていた頭を急に持ち上げた千春の髪が再び襲い掛かる。咄嗟に目を瞑った翔の頬を、長居髪の毛先が掠って行く。それから瞼を開くと、視界一面に広がるのは、どぎついショッキングピンク……。
ニ、三度、瞬きした後で、翔は口を開いた。
「あ、あの、千春さん。そのスーツ、ちょっと派手なんじゃ……」
「えっ、分かってくれたあ? うわあ、うっれしいっ。 さっすが、藤田くんだよねー。やっぱ、気落ちした時ほど、気合を入れた格好じゃないとねー。うん、うん。女はやっぱ、気合だーっ!」
翔の言葉を聞きもせず途中でぶった切った上に、変な自説を大声で喚いたかと思うと、いきなり右手の拳を上に突き上げて雄叫びを上げる。
このポジティブでハイテンションなエネルギーの源が、この小さい身体の何処に詰まっているのかが翔には分からない……。
いや、ひょっとして胸なのか? あの、でっかい胸なのかあ?
と、そこで、ふと冷静になった翔は、『俺って今、こいつに洗脳され掛かっていなかったか?』と思って、愕然としてしまう。気が付くと、冷や汗がポタリ……。
ところが、そんな翔の動揺を余所に、千春は両腕を腰に置いた状態で、顔を翔の方にグッと寄せて来た。
近い。二十センチと離れていない所に、千春の顔がある。パッチリした大きな二重の瞳がじっと翔を見詰めていて、鼻息まで感じられそうだ……と、そこで、赤い唇が、言葉を紡ぎ出した。
「でね、藤田くーん、仕切り直しってことで、また四人で飲みに行きませーん。ねっ、ねっ、良いでしょう? できたら今日、いや、今日はちょっと無理か。じゃあ、明日、いや、毎日だって、あたしはオッケーだよー。ぜーんぜん問題ありませーん」
そうやって話しながらも、千春は翔の右腕をガシッと掴んで、大きく左右に激しく振ってくる。そうかと思うと、「あー、もう、暑いから、脱いじゃおう」と言って、いきなりスーツの上着を抜いて、翔の机の上に放り投げる。
そして、再び腰に手を置いて、胸をぐっと突き出した状態で、にっこりと笑った。
相変わらず、白いブラウスのボタンは、二つ外れていて、胸元が顔を覗かせている。
そうかと思うと、またもや上半身を屈めて、赤いふっくらとした唇を翔の顔に近付けて来た。
「ねっ、行きましょうよお、藤田くーん」
そんな千春の囁き声に、翔は思わず顔を背けた。
すると、目の前の席の桜木莉子がスマホを耳に当てていて、真剣な表情で誰かと何やら話している様子。どうしたんだろうと首をひねった翔だったが、彼女が通話を終えて十数秒。カツカツというヒールの音が聞こえてきたかと思うと、そこに救世主のように現れたのは、支社長秘書の犬飼葉月だった。
「千春、もう止めときなさい。わたくしにもあんたにも勝ち目が無いってことは分かってるでしょう。女は引き際が大切よ」
「あれっ、莉子ちゃん、ひょっとして、この犬呼んだ? 呼んだでしょう。この優しい先輩の恩を仇で返すつもりなのね。お姉さん、悲しいわ……およよ、およよ」
「こらっ、千春。あんた、わたくしのこと、なにげに犬呼ばわりしたでしょう。それに、おかしな嘘泣き、止めなさい。ほら、朝礼遅れちゃうでしょうが。さっさと、歩きなさいってば……」
★★★
「ふぅ。やっと、千春さん、いなくなってくれましたね」
そう言って翔の前で微笑んでくれたのは、桜木莉子だった。
「あれ、それって千春先輩のですね」
彼女に言われて机の上に目をやると、ショッキングピンクのジャケットが無造作に置かれている。
さっと立ち上がった莉子が、そのジャケットを手に取ってから口を開いた。
「どうしよう。朝礼、始まっちゃいますよね?」
莉子の言葉で周囲に目をやると、誰もが立ち上がって移動を始めている。
「別に、後でも良いんじゃないかな」
「そうですね。じゃあ、私、後で届けておきますね」
そう言って、莉子は翔の隣に立つと、窓の方を向いた。
週の最初の日には、こうして各部門毎に朝礼がある。先週、翔は支社長に呼び出しを受けていたので、出席できなかったのだ。
この朝礼は部課長が順番に短いスピーチを行うスタイルで、その後各課に分かれ、その週のイベントの確認や指示を課長から受ける。
その朝礼が終わった後、垣見課長がすーっと翔の所に寄って来て、翔の肩をポンと叩いた。
「朝から、お疲れ様だったな」
「あ、はい」
もちろん、さっきの千春とのいざこざのことを言っているのだろう。
その垣見課長に聞いたのだが、さっきの千春の問題発言については、別に気にしなくても良いそうだ。誰か出張者が来る度に、あんな感じで騒ぎを起こすらしく、このフロアの全員が慣れっこになっているのだという。
「しっかし、あの二人、本当に犬猿の仲だなあ」
「えーと、犬飼さんが犬だから、千春さんは猿ですかね」
「確かに、キャッキャと煩い奴だもんな」
「でも、あの二人って本当は、仲が良いんじゃないですか?」
「まあ、幼馴染だからな。それに、あれだって案外、あの二人にしたら、じゃれ合ってるだけなのかもな。こっちは、どえらい迷惑なんだが」
「ですよねー」
垣見とそんな会話をしているうちに、千春の所にジャケットを届けに行っていた莉子が戻って来た。
「ご苦労さん」と声を掛けると、「千春先輩に嫌味、言われちゃいました」と言う。
「そりゃ、災難だったね」
「でも、本気じゃないみたいなんで、大丈夫ですよ。あれでも、先輩、計算高いですから」
「えっ、どういうこと?」
「うーん、具体的には分かりませんけど、たぶん、何か考えていそうですよ」
「そうなんだ」
そこで、莉子が溜め息交じりに言った。
「はい。千春先輩、また変なことしでかさないと良いですけどね」
「うーん、そこは、犬飼さんに期待するしかないかな」
「ですよねえ」
何となく不安の残る結末だったが、これ以上は考えても無駄だと思った翔は、そこで莉子との会話を終えてノートパソコンのディスプレイの方に目を向けた。
週末に入ったニューヨーク支社からのメールに一通り目を通した上で、十時からの課内会議に備える必要があるのだ。その後、十一時からは中国サプライヤーとのウェブ会議の予定が入っているので、そっちの準備もしておかないといけない。
翔は、さっと気持ちを業務モードに切り替えると、真剣な顔で仕事に取り掛かった。
★★★
さっきのウェブ会議が少々長引いたせいで、時刻は既に正午を回ってしまっていた。
外に食べに行く先輩社員達に遅れないようにと、翔が急いでエレベータの方に向かおうとした時だった。前の席の桜木莉子が声を掛けてきたのだ。
「あの、藤田さん、すいません。もし、宜しければなんですけど……」
それから、莉子が恥ずかしそうに何やら布で包まれたものを出してきて、翔の机の上に置いた。
何だろうと思ったのは、ほんの一瞬で、すぐに翔には、それが何か察しが付いてしまった。
「えーと、これって、ひょっとして……」
「はい。お弁当なんですけど、もし良かったら、食べてもらえませんか?」
翔は、その包みと莉子の顔を交互に見た上で、まずは「ありがとう」と答えておく。
翔には、女子から手作りの弁当を貰ったことが無かった。内心は舞い上がっていた翔だったが、何とか動揺を押し隠して包みを開けてみる。
思わず「うわあ」と歓声が口から零れてしまった。中には、ひと目で分かる手の込んだ料理が色とりどりに詰められていたからだ。
「これは、凄いね」
味の方は食べてみないと分からないが、見た目からすると、藤田家に仕える倉橋彩音が作るのと、ほとんど変わらないレベルだ。
「あ、はい。ありがとうございます」
少し上ずった声で、莉子が答える。
莉子の口調が敬語になってしまっているが、ここは職場だし今は緊張しているからだろうと、翔は気にしないことにした。
「あ、そういや、桜木さんって、お料理教室に通ってるって言ってたもんね」
「はい。会社に入ってからですけど、あの、前々から、うちの家政婦にも習ってまして、多少は自信があるんです」
「へえ、そうなんだ」
「はい。今回も少しは家政婦に手伝ってもらったのもありますけど、だいたい自分で作りました」
彼女がここまで言うということは、本当に料理は得意なんだろう。
「じゃあ、頂くね」
翔は、ちゃんと手を合わせて「頂きます」と言ってから、まずは定番の卵焼きから口に放り込む。
あ、うまい。
ちゃんと出汁が利いていて、ほんのりと甘い。塩加減も絶妙だ。
それからも次々と、ご飯とおかずを交互に口の中に入れて行く。そして、ふと前を見ると、莉子が可愛らしい自分の分のお弁当を前に置いて、優しく微笑んでくれていた。
翔の顔にも、自然な笑顔が浮かんでいたと思う。
それから、彼女も箸を動かし始めたので、翔も遠慮せずに残りの食事を続けた。
確かに料理には自信があると言うだけあって、彼女が作った弁当は美味しかった。特に名古屋味と言うか、翔の地元の味付けが凄くありがたい。
食べ終わった後、翔は「どうもご馳走様」と言って軽く頭を下げた後、本気の口調で「いやあ、おいしかったよ。本当にありがとう」とお礼の言葉を続ける。
「じゃあ、明日も作ってきますね」
「えっ? でも、毎日だと負担にならない?」
「大丈夫よ。自分の分も作るし、本当に大変だったら、智花さんに手伝ってもらうから」
智花さんというのは、家政婦の人の名前らしい。
莉子は緊張が解けたのか、やっと金曜に一緒に飲んだ時みたいなくだけた口調になってくれた。
その後、少し話し合ってから、結局、翔は彼女の好意に甘えることにした。翔が名古屋支社にいるのは今週と来週だけだし、その間、顧客との会食がある日が半分くらいあって、毎日と言っても残りの日は四、五日しか無いからだ。
それに、このことを口実にして、彼女を食事に誘おうといった下心があった。
ともあれ、翔にとって、これで会社での楽しみがひとつ増えた。それは、昨日の水草薫とのことで落ち込んだ翔の心を癒して余りあるものだったのである。
★★★
この日の午後は、顧客への訪問が二件、入っていた。
急いで準備をしてから、午後二時前には支社を出る。既に、こっちに来てから二週目なので、外出する際は一人だけだ。
莉子には、直帰するかもしれない旨を伝えておいた。彼女は笑顔で、「分かりました。行ってらっしゃい」と言って見送ってくれた。
と、そこまでは幸せな気分でいられたのだが、ビルを出て、待たせておいたセルフのタクシーに乗った途端、昨日の出来事が思い浮かんできてしまった。
昨日、元カノの水草薫とまたしても気まずい別れ方をしてしまった。彼女の方がどう思ったかは分からないが、少なくとも翔としては、押し掛けて行って、ただ会っただけの結果となってしまい、やはり何とも気まずいのだ。
女友達の山口沙希から聞かされたこともショックだった。過去の自分がいかに酷い男だったかを思い知らされたからだ。
その後、親友の松永陽輝の姉、松永京香と会って、『彼女のことは、もう諦めなさい』といった趣旨のことを言われた訳だけど、『彼女に一言も謝りもせず全てを忘れてしまうってのは、どうなんだろう?』とも思ってしまう。
そうかと言って、前回同様に作戦も対策も無しに、ただ会いに行ったって同じ結果になるに決っている。それどころか、もう会ってくれない可能性だってある。
だったら放っておけば良いのかというと、やっぱり、それも嫌なのだ。
そんな風に考えがまとまらず、堂々巡りを繰り返すばかりの状態でいた翔は、いつの間にかタクシーが停まっていることに気が付いて苦笑してしまった。
慌てて車を降りた彼は、念の為に自分の身だしなみを確認してから、目の前のオフィースビルへと足を進めて行ったのだった。
★★★
一時間程で商談を切り上げた翔は、次の訪問先へと向かっていた。
先程の客は名古屋港に近い所にオフィースがあったが、今度の客は街の中心にあった。つまり翔の会社、七星商事名古屋支社から比較的近い場所である。
名古屋市内の主要道路は片道五車線のことが多いのだが、それでも昔は所々で渋滞していた。それが最近は自動運転車が増えたことで、ほとんど渋滞はしなくなったようだ。信号が変わる間隔も交通状況によって最適に調整されている為、信号待ちの時間も減っている。
やがて、テレビ塔が見えて来た。名古屋の象徴と言えば名古屋城だが、街の中心を示すシンボルとなると、やはりこのテレビ塔だろう。
そこで翔は、こっちに来る飛行機の中で会ったエリカという女性のことを、ふと思い出した。元は有名なアイドルだった彼女の正体は、ニューヨークに本社を置く世界的な大企業のエグゼクティブということだった。
その彼女が言ったのだ。
『テレビ塔の地下で爆破テロを起こしたら面白いんじゃないかしら?』
あの時は半分寝ていたような状態だったから、ちゃんとは覚えていないけど、確か、こんな感じの発言だったんじゃないかと思う。
いや、彼女自身が、そのテロをやると言っていなかっただろうか?
いや、無い無い。
あの時の彼女は酔っぱらっていたし、彼女のような立場の人が、本気でそんなことをやる訳が無いじゃないか。どうせ俺のことをからかったんだろう。そうに決まってる。
だいたい、あれからもう一週間になる。その間、そんな事件など起きてないじゃないか!
翔がエリカという女性の戯言を頭の中で強く否定した所で、次に訪問する客のオフィースがあるビルの前に、ちょうどタクシーが到着したのだった。
★★★
今度の客との商談は、なかなか終わらなかった。ようやくビルを出た時には、既に午後六時を過ぎてしまっていた。
ちょうど目の前に地下鉄錦駅に続く階段があった為、翔は地下鉄で帰ることにした。今なら、女性専用の時間帯は既に終わっている。
何事もなく名古屋駅に着いて名鉄に乗り換える。運よく座れたし、天王駅には完全に暗くなる前に着くことができた。
駅ビルから外に出ると、この時間はまだ人が多かった。それでも、最近は駅の反対側にマンションが林立し、そっちの方が人口が増えているせいか、天王通りの方に行く人の数はそれほど多くはない。
連れ立って歩くサラリーマンの集団は、大衆酒場の方に向かっているようだ。それ以外の人達、特に若い女性とかは、早足で住宅街の方に歩いて行く。近頃は、この天王通りも治安が悪くなっているからだろう。
それは、昨日の夕食会でも叔母の畠山麗華や年上の女性の倉橋亜里沙から、翔は散々聞かされた話だった。
最近、貧民街のチンピラ達が集団で悪事を働くようになった。奴らは通行人から金を巻き上げたり、女性や老人のバックを奪ったり、時にはレイプまがいの事件すら起こすこともあるらしい。
「暗くなってからは、余程のことが無い限り、一人じゃ歩かないようにしてるの。女性の一人歩きなんて、襲ってくれと言ってるようなものだもの」
「そうそう。男性だって、気を付けた方が良いわよ。翔さんなんて、見るからに弱そうっていうか……」
「あのね、亜里沙さん。俺だって高校時代は剣道部だったんですからね」
「高校の時なんて、何年前の話よ。それに、剣道じゃ、素手だと戦えないじゃない。やっぱり、柔道とか空手とか合気道とかじゃないとね」
「そういう亜里沙さんは、どうなんですか?」
「私? 護身術だったら、習ったことあるわよ」
「えっ、そうなんですか?」
「そんなの、当然でしょうが。私は沙也加と一緒だったけど、花音は紫帆ちゃんと一緒に高校の時に習ってたわよ」
そこで翔は、犬飼葉月から「女子は護身術を習得しておくのが当たり前」という話を聞いたことを思い出したのだった。
そんな昨夜の会話を頭の中で反芻しながら、まだまだ暑さの残る天王通りを神社の方角に向かっている時だった。左手の建物から、若い女性が出て来るのが見えた。
翔は、彼女の手前で足を止めた。というのは、その彼女に見覚えがあったからだ。
「あの、堀田さん?」
「あれ、藤田くんじゃない」
既に、だいぶ薄暗くなっているのだが、間違いなく彼女は翔の知り合いだった。しかも、一昨日の土曜に会ったばかりだ。
「堀田さん、えーと、不動産屋に用があったの?」
彼女が出て来た建物の看板を見ると、不動産屋だったのだ。
「うん。ちょっとね」
「えっ、新しく住むとことか、探してるの?」
「まあ、そんなとこかな。それより、藤田くんは今、帰りなの?」
彼女は、翔がスーツ姿なのを見て、彼が会社から帰宅する所だと思ったようだ。
翔は「まあね」と言って、頷いておく。
「それじゃ、私、こっちだから」
「えっ、これから仕事だとか?」
「ううん、違うわ。私、市民病院の近くのマンションに住んでるの」
「そっか。じゃ……うわっ」
翔が「じゃあ、また」と言い掛けた所で、いきなり誰かがぶつかって来たかと思うと、胸ポケットに手が差し入れられた感触があった。咄嗟にポケットへ手をやると、そこに入れていた筈の社用のスマホが無い。
翔が「しまった」と思った時、近くで呻き声が聞こえてきた。声がする方に目を向けると、すぐ前の歩道に若い男が横たわっている。
その男の脇に女性のパンプスがあって、男の脇腹を軽く蹴った。
そして彼女、堀田詩織はサッとしゃがみ込むと、男から翔の社用スマホを取り上げ、その彼に向かって「失せろ」と小さく叫んだ。
ぞっとする程、冷たい、ドスの効いた声だった。
男は弾けたようにサッと立ち上がると、即座にダッシュして立ち去って行ってしまった。
全てが一瞬の出来事だった。
翔には何が起きたのか分からずに、ぼーっと突っ立っていることしかできなかった。けど、さっきの男を倒したのは、間違いなく詩織だろう。
それに気が付いた時、遅ればせながら翔の全身に震えがきた。
「藤田くん、大丈夫?」
詩織が声を掛けてきた。翔が知っている柔らかい声音だった。
彼女の手には、翔のスマホだけじゃなくて、いつの間にか翔が下に落としたであろうスーツのジャケットも握られている。
彼女は、それらを翔に渡してくれながら言った。
「気を付けなよ。最近は何処も治安が悪いんだから、昔の感覚でいると、すぐに身ぐるみ剥がされちゃうよ」
詩織は、優しく笑っていた。さっき、男に向けて放った一言が嘘だったみたいに穏やかな口調だった。
「あ、ありがとう。あ、あの、今のって、警察とかに言わなくていいのか?」
未だに震えながら翔が訊くと、詩織は「ふふっ」っと小さく笑い声を上げてから答えてくれた。
「あのね、藤田くん。警察なんかに言ったって、何もしてくれないよ。いろいろと面倒になるだけ」
「そ、そうなのか?」
「うん。だから、自分のことは自分でちゃんとしないとね。私、母子家庭だったから、舐められないようにって、小さい頃から空手とか習わされたんだ。それに病院に入ってからは、ちょっとしたごたごたがあったもんで、護身術の教室にも通ってたの。お陰で最近は、いろいろと役立ってる。母親に感謝だね」
「……そっか」
そこまで訊いて、翔は山口沙希が、「今の警察は暇じゃない」と言っていたのを思い出した。
「そうだよ。まあ、死んだ母親とは、いろいろとあったけど……。あ、ごめん。なんか引き止めちゃったみたいで悪かったね」
「あ、いや、こちらこそ、さっきはどうもありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
そこで別れようと思った翔だったが、ふと気になったことがあった。
「あの、スリに遭い掛けた俺が言うのも変だけど、こんな時間に女の子一人で外出って、危なくないか?」
「私なら平気だけど……、でも、一人じゃないよ」
「えっ?」
彼女がそう言った時、近くに髪を淡い茶色に染めた細身の男が現れて、「やあ」と声を掛けてきた。翔や詩織よりも、だいぶ若い男だった。まだ十代といった感じだ。彼女の弟だろうか?
「こら、ユウヤったら、いったい何処まで行ってたの?」
「何処って、Eマートだけど。あそこのマルエム、やってねえからさ」
「もう、そんなのスーパーで買った方が安いって、いつも言ってるでしょうが」
「だって、僕、コンビニの方が好きなんだよね。慣れてるって感じ?」
「もう。あ、藤田くん、じゃあ、私、行くから。さっきみたいなことが無いように、気を付けてね」
そこで詩織は、翔の方に顔を向けてニコッと笑った。
「ああ、俺ん家すぐそこだから、大丈夫だよ。君の方も気を付けて」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。ふふっ、女っていうのはね、案外、強い生き物なの。藤田くんも覚えとくと良いよ」
そこで彼女達とは別れたのだが、翔にとっては、まるで狐につままれたような出来事だった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は、薫視点です。「貧民街の夕食会」になります。
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