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第53話:中州の子供達(2) <薫サイド>

再度、見直しました。


親方衆の会合に子供を連れてきてもらうようになって以来、水草薫みずくさかおるを取り巻く環境は一変した。それは単に彼女が遊び相手を得たということだけでなく、彼女の周囲の状況を一変させる副次効果をもたらしたのである。


そのきっかけは、子供達と一緒に屋敷へ来てくれた奥様達、川合千華かわいちか、中野美穂、八木若菜、河村千縁(ちより)の四人が薫とじかに接して、言葉を交わした結果、薫が噂されているような知恵遅れの子ではなく、それどころか非常に利発な子だと知られてしまったことだった。

実は、これら四人の女性達は、中州なかすの女性社会において強い発言力を持つオピニオンリーダーだったのだ。


薫は子供には珍しく表情が顔に出ないことで、何も考えていないように思われてきた訳だが、実際は幼少の頃から大人達の会話内容をおおよそ把握できてしまっていた。

そのことを四人の奥様達があちこちで言いふらしたことにより、それを知った水草家の使用人や出入りの業者達は、真っ青になってしまったという。


それから、薫が水瀬美緒みなせみおという同性の友達を得た後、より一層、薫の生活環境は改善した。美緒と一緒にいる時の薫は、常に彼女に守られていることになったからだ。

美緒は華麗な容姿にも関わらず気が強い子で、相手が大人であっても、薫に悪意を向けてくる者を容認することは無かった。それに彼女は、狙った相手に対し、誰を動かせば最も効果的かを本能的に察する能力に優れていた。つまり、彼女は生まれながらにして、人の機微に聡い子だったのだ。

その上、美緒は幼いながらに自分の容姿には自信を持っており、自分が大人達から可愛く見られることを知っていた。まさに薫とは正反対である。その為、美緒は多くの大人達に可愛がられており、近所に自分の味方になってくれる知り合いを多く持っていたのである。


水草家の使用人達は、最初の頃、美緒が薫と一緒にいても、どうせ薫の同類で頭の悪い子だろうと見くびっていた。ところが、彼や彼女達のそうした態度は、その者達の上役に筒抜けだったことが分かると、もはや二人を軽んじることができなくなってしまったのだった。


このことは、薫の世話役である野崎小夜(さよ)についても同様だった。


小夜が薫の悪口を言ったり、虐めようとすると、美緒はすぐにそれを周囲の大人達に言いふらしてしまう。それも、水草の使用人だけでなく、近所の奥様連中にも話が行ってしまうのだ。

それに何よりも、自分が言ったことの全てを薫が理解しているとなれば、さすがの小夜も薫に愚痴や悪口をぶつけられなくなってしまった。


また、その頃、小夜の夫の浮気相手だった業者の若い女が、水草家の屋敷に来なくなったことも大きかった。

後で薫が聞かされた情報によると、その女は結婚した上に、旦那の転勤で大阪に行ってしまったらしい。小夜の頭痛の種が取り除かれた訳だから、薫に対する対応が穏やかになって当然である。


ただ、その後も小夜は薫のことを「気味の悪い子」と思い続けていたような節がある。少なくとも薫が高校を卒業するまでの小夜は、薫が心を許せる存在ではなかった。


更に、その頃になると、薫は一人でも屋敷の外に出て、近場のあちこちを出歩くようになった訳だが、そうした薫と接したことのある近所の人達の大半は、意外にも薫に好意的だった。薫は声を掛けられると、きちんと挨拶のできる子だったからだ。もちろん、薫の方から挨拶をすることもあった。そうやって薫が振舞えるようになったのは、祖母、幸子による教育の賜物である。


薫は少し表情が乏しい点を除けば、いたって普通の子だし、むしろ目鼻立ちの整った綺麗な顔をしている。慣れてしまえば、それなりに可愛い子なのだ。

もちろん、薫のことを悪く言う人達も相変わらず一定数いたのだが、特に近所の人達の間では、もはや薫の評判は悪いものではなかった。それどころか、相当に可愛がられていた。


表情が乏しいのを不気味だと感じるのは、知らない子だからである。それが内気で人見知りだからだと思えば、別になんということはない。小さな女の子だったら、むしろ割と良くあることなんじゃないのか?

この子はこういう子なんだということで、薫もそれなりに受け入れられ、愛されるようになって行ったのだった。


それでも、初対面の者については、相変わらず薫の受けは良くなかった。そして、そのことを過敏に捉えてしまうが故に、薫の人見知りは、なかなか直りそうにないのだった。



★★★



水草家の屋敷でお盆と祖父、しげるの三回忌の法要が行われた後、水草(かおる)の日常は、にわかに慌ただしくなってしまった。


ひとつは、友達が増えたことである。河村正人や川合光流(ひかる)を始めとした年上の男子と遊ぶことに加えて、同じ歳の水瀬美緒が頻繁に水草家の屋敷へやってくるようになったからだ。それに、薫が思い付きで妹分にしてしまった中野美香も母親の美穂を伴って、割とちょくちょく遊びに来るようになった。


祖母の幸子には、元々読み書きや計算に加えて、水草の娘としての立ち振る舞いや作法を教えてもらっていたが、時々そこに美緒が加わるようになった。

その美緒とは、お盆明けから天王市の水泳教室に通い出した。幸子が言うには、泳ぎだけは早めに覚えた方が良いということだった。薫は、美緒と一緒ということもあって、プールに行くのが楽しくて仕方がないのだった。


そして、秋になって涼しくなり出したある日、薫は美緒と一緒に中州なかす分校の図書室を訪れた。


きっかけは、薫がほとんど絵本を持っていないのに美緒が気付いたことだった。

薫の場合、決して絵本を買って貰わなかった訳ではないのだけど、気が付くと無くなってしまっていた。『知恵遅れの薫には必要ないだろう』ということで、小夜さよが屋敷に来た小さな子供等にあげてしまったからだ。それに、かなり幼い時から文字を覚えていた薫には、読むべき本が祖母の幸子の部屋に数多くあった為でもある。少なくとも五歳の時の薫は、もはや絵本など必要としていなかった。

それでも美緒に言わせると、「絵本には絵本の良さがあるの。薫も綺麗な絵本の良さを知るべきよ」ということだ。


「それにね、図書室には、すっごくたくさんの本があるんだよ。そういうのを見てるだけで、楽しいんだから」


その美緒の言葉には、薫も心を動かされるものがあって、「だったら、一度、行ってみたいかも」となったのである。


そうして中州分校にやって来た薫だったが、校門を通り過ぎた途端、目の前に広がる校庭で思いっ切り遊びたくなってしまった。それに隅の方には、面白そうな遊具が幾つもあるし、砂場だってある。

ところが、美緒にそれを言っても、彼女は許してはくれなかった。その美緒は薫の手をガシッと強く握ると、そのまま校舎の入口の方に薫を引き摺って行く。それから階段を三階まで上がった所に、目的の図書室はあった。


図書室に入ると、優しそうな若いお姉さんが迎えてくれた。その人は、この図書室で働いている「司書さん」なのだそうだ。名前は、岡田成美(なるみ)と言うらしい。


この分校の図書室は、川田かわた村図書館の分室を兼ねていて、誰でも入ることができるそうだ。だから、絵本から大人が読む本までいっぱいあって、本の数は普通の小学校の図書室とは比較にならない程、たくさんあるのだという。


薫の手続きをする時に、少し揉めた。二回目からは子供だけで来ても良いけど、最初は大人が一緒で無いと駄目らしい。そうしたら、たまたま治水神社の神主の妻、河村千縁(ちより)が来ていて、薫の手続きを代行してくれた。彼女は、ちょうど借りていた本を返しに来た所だったそうだ。


書庫に入った薫は、思わず歓声を上げてしまった。美緒から前もって聞いてはいたけど、やっぱり凄い。こんなにたくさんの本を見たのは生まれて初めてだ。

美緒は絵本のある所に薫を連れて行きたいようだったけど、薫が向かったのは小説のコーナーだった。そこにも様々な物語の本が並んでいて、眺めているだけで胸がワクワクする。

そんな薫の目に留まったのは、色とりどりの背表紙の文庫本が並んでいる本棚だった。そこは、ライトノベルというカテゴリーのようだ。


薫は、適当なのを手に取ってみた。すると、綺麗な若い男女が描かれたイラストの表紙が目に飛び込んできた。まるで王子様とお姫様のようだった。

早速、ページを捲ってみる。小さな活字ばかりだけど、難しい漢字にはルビが振ってあるから、読めなくはなさそうだ。それに、あちこちに挿絵のページがあるから、読んでて楽しそう。それに何より、小さくて可愛い。小さいってことは、持ち運びがし易くて助かる。

もう一度、最初から見て行く。どうやら、ヒロインが王子様に見染められるお話のようだ。だけど、この悪役令嬢ってのは何なんだろう?

本の最初の数ページは、カラフルなイラストのページだった。そこに小さな活字であらすじみたいなことが書かれている。



薫は、王子様が出てくる本を幾つか選んで、閲覧コーナーの方へと向かった。まだ美緒は書庫にいるようで、そこにはいなかった。薫は適当な席に

実際に目を通してみると、そんなに文章は難しく無い。むしろ、祖母の幸子から与えられる本の方が難しいくらいだ。

『これだったら、だいぶ早く読めちゃうかも』と思った薫は、どんどんとページを捲って行く……。


「あ、薫ったら、こんなとこにいたんだあ。探したんだよー」

「あ、美緒。ごめん」

「あれ、薫が読んでるのって、大人の本じゃん。ふーん、こんなに小さい字の本が読めちゃうんだ。さっすが、薫だね」


美緒の言葉で何となく気分が良くなった薫は、読んでる本の表紙を見せてやった。すると……。



「うわあ、綺麗な本だね。どんなことが書いてあるの?」

「うーんとね、王子様との恋の駆け引きみたいな……」

「へえ、なんか凄いね。難しくないの?」

「うん。『れんあい』みたいのは、あんまり分かんないかも」

「あはは。そりゃ、そうだよ。うちら、まだ子供だもん」

「そだねー」


この頃の薫は、色々と祖母の幸子に叩き込まれたお陰で、漢字もだいぶ読めるようになっていた。

当然、『れんあい』とかは良く分かってないけど、「素敵な男の人と『けっこん』して、幸せになる」といった物語には、普通に憧れたりしていたのだ。


この図書室では三冊まで貸し出しができるということで、しばらく閲覧コーナーで本を読んだ後、薫は厳選した本を貸出カウンターの方に持って行った。

そこにいた女性司書の岡田は、一瞬、とまどった様子を見せた。


「あの、この本で良いの?」

「うん」

「えーと、あなた、来年入学だったわね?」

「あ、はい。今は五歳、です」

「そう。じゃあね、ちょっと、このページを読んでみてくれるかな?」


さすがに司書だけあって、頭ごなしに「こんなの読めないでしょう」とは言わなかった。

それで、薫がたどたどしい発音ながらも読んでみせると、その司書は納得したようで、貸出手続きをしてくれた。


この時、図書室の存在を知ったことで、薫の世界は更に大きく広がった。

薫は、女性司書の岡田とも仲良くなった。優しくて物知りな彼女のお陰で、薫は小説以外にもいろんな種類の本を読むようになった。


薫が図書室に通うようになって、もうひとつ良い事があった。女子の友達が増えたことだ。

ある日、薫が書棚に気になる本を見付けて手を伸ばしたら、温かい別の人の手に触れてしまった。すぐに薫は手を引っ込めると、「ごめんなさい」と謝っておく。


「あれ、あなた、水草家のお嬢様じゃない?」


薫が振り返ると、そこには薫より少し背の高い女の子がいた。その子も薫と同じように痩せていて、顔には眼鏡めがねを掛けている。

彼女は、薫のことを知っているらしかった。


「はい、水草薫ですけど」

「やっぱり」


その時、薫が取ろうとした本は、小学校上級生向けのファンタジーっぽい本だった。


「ふーん。あなた、こういう本、もう読めるんだ。さすがに変な子ね」

「変な子?」


薫は「変な子」という表現には慣れていて、腹は立たない。けど、その言葉を使った意図が、少しだけ気になった。


「あたし、変なの?」

「さあ、どうかな。ふふっ、華月かげつさんのお母さんがね、あなたのこと変な子だって言ってたの。もちろん、良い意味だよ」

「良い意味?」

「そう。すっごく頭が良いってこと」


要は、良くても悪くても普通じゃない子は、「変な子」になるらしい。

どうやら、薫が知らないうちに、また何かやらかしてしまっていたようだ。

でも、それより……。


「えーと……」

「あ、私は、吉田舞香(まいか)って言うの。吉田商店の娘だから吉田で、『まいか』っていう名前。今は一年生で、来年はきっとあなたと同じ教室になると思うわ」


そう言うと舞香は、美緒の時と同じように手を差し出してきた。その手をぎゅっと握ったことで、薫は二人目の女子の友達を得ることができたのだった。



★★★



翌年の四月、六歳になった水草薫は、川田かわた村立北小学校中州(なかす)分校に入学した。

その年の新入生は、薫自身を含めて三人だった。それに二年生も三人しかおらず、一、ニ年生は同じ教室で勉強するということだった。

以前、図書室で会った吉田舞香(まいか)が教えてくれたとおりだ。

その舞香を含めて、二年生は全員が女子だった。新入生の三人は、薫と美緒の他に男子が一人いた。彼は、薫が良く一緒に遊ぶ神主の息子、河村正人(まさと)の弟で、河村直人(なおと)。いつもゲームばっかりやっている子で、当然、薫とは顔見知りだ。


担任の先生は飯田早苗いいださなえという名前で、次の誕生日で三十歳になるらしい。少し小柄でふくよかな体格の女性だった。

薫は、女の先生で、少しほっとした。

それでも、当初の飯田先生に対する薫の印象は、「うっとおしい」だった。理由は薫に対して、何かと構ってくるからだ。彼女は薫の周りにはいなかったタイプであり、今まで放置されることの多かった薫としては、とにかくうっとおしかったのだ。


教室で薫は基本的に美緒と一緒にいるのだが、たまたま美緒が隣にいなかったりすると、飯田先生はすぐに「大丈夫?」と声を掛けて来る。授業で何か作業をする時は、いつも薫に付きっ切りだ。

「頑張って」と「怖くないからね」も飯田の口癖のひとつだった。体育でマット運動をする時とかに、必ず言うのだ。


薫は、身体からだが一番小さくて痩せっぽっちだ。それに無口だし、ほとんど笑わない子なので、飯田は薫のことを引っ込み思案で臆病な子だと誤解していたんだろう。それに、馴染の無い大人のことを怖がっていると思ったのかもしれない。

ところが、薫は人見知りではあっても、引っ込み思案ではない。いつも多くの使用人達と一緒に生活しているので、大人には慣れていた。

それだけではない。薫は人の悪意を察知することに長けていたし、逃げ足は誰よりも早いのだ。


だから、先生方や上級生達に囲まれたって、薫は大して怖気付いたりはしないのだが、飯田先生は、そうは思っていないようだった。

きっと飯田には、薫のことが怯えた子猫にでも見えていたんだろう。しかも痩せ細った、みすぼらしい子猫……。


もし薫が、ありのままの姿で振舞っていたら、そんな誤解はすぐに霧散してしまうことだろう。だけど、この頃の薫は、ごく自然に相手が要求することに合わせてしまうすべを身に付けてもいた。当然、それも心無い周囲の大人達から身を守る為につちかった能力だ。

それだから、薫の特殊性は、なかなか露見しなかった。



★★★



大人しくて小柄な薫は、入学していきなリ全員の教師から「運動ができない子」に認定されてしまったのだが、そんなことは全くなかった。それどころか実際は逆で、薫はずば抜けて運動神経の良い子だったのだ。


担任の飯田早苗は最初、薫の周囲で起こる現象が不思議でならなかった。

例えば、ドッチボールの場合、薫がいる方のチームは、何故か負けない。それに、最後まで残っている子の中に必ず薫がいる。

最初は偶然だと思った飯田だったが、五月の連休明けに行われた運動会の徒競走で薫がぶっちぎりの一番を取ってから、飯田の薫に対する認識は一変してしまった。


この子は絶対に要注意だ。


そう思った飯田は、改めて薫のことをもっと丁寧に見ることにした。


すると、様々なことが違って見えてきた。


ドッジボールの時、薫は、ただボーっとして突っ立ってるだけに見えるのだが、自分の近くに来たボールは周囲に気付かれないようにぎりぎりの所でかわしてしまう。しかも、自分のチームが負けそうになると、サッとボールを取って素早く近くの子にぶつけ、あたかも偶然を装ってパッと身を隠す。どうやら彼女は、目立つのが嫌なようだ。

鬼ごっこの場合も同じだった。みんなで逃げているようで、彼女だけは決して捕まらない。鬼の子が追い掛けようとしても、そもそも彼の目の前に彼女はいない。いつの間にか、後ろに回って居たりする。


更に不思議なのは、五月の終わりに実施した体力測定の時だった。

薫の学年には水瀬美緒という活発な子がいて、体格も良いし運動もできる。ところが、薫だって彼女に負けないくらい運動神経が良いと飯田は踏んでいた。

実際、運動会の時は美緒を押し退けて、ぶっちぎりで彼女が一番だったのだから。


ところが、そんな飯田の期待を余所に、薫の成績は美緒と同レベルに留まっていた。

彼女の様子や振舞からすると、表面的には手抜きなどしていないように見えるのだが、教師の飯田の目にはバレバレだった。


さあ、どうしたものか?


飯田は悩んでみたものの、結局、薫には強く言わないことにしておいた。


いくら手抜きをしているとはいっても、彼女の成績は川田かわた北小全体でもトップレベル。それは、ベンチマークとなった美緒が、やはりトップレベルの運動能力を持っていたからだ。


これなら、別に放って置いても大丈夫そうね。


それに、その頃には薫の学力の方も、非常に優秀であることが分かってきていたこともあり、飯田は特別に大目に見ることにしたのだった。



★★★



小学校にあがってから最初に受けた小テストで、薫は八十点だった。十問ある設問のうち、最後の二問が空白のままだったのだ。

その次のテストも全く同じだった。

そして、三回目のテストで薫が同じことをやった時、担任教師の飯田早苗は、それがわざとだと気が付いた。


「あのね、水草さん。あなた、本当は全部、答が分かってるんでしょう?」


薫は少し考えてから、「うん」と頷いた。飯田がそう答えるように望んでいると思ったからだ。


「分かってるのに、どうして書かなかったの?」


薫は答えなかった。

最初、飯田は薫が誰かに「百点を取らないように」と言われているのかと思った。それで、水瀬美緒を呼んで尋ねてみたのだが、さも当たり前のように美緒は言うのだ。


「薫はね、ほんとはすっごい子なんだけど、いつも本気にはならないんだ」


それを聞いた飯田は、悟ったのだ。やっぱりわざとだ。どうせ運動と同じで、薫は目立ちたくないのだろう。

体力テストだったら黙認できる。それは、彼女が手加減したレベルだって、充分に優秀な成績だったからだ。

だけど、勉強の方は違う。小学校低学年の段階は、少しできる子だと百点を取るのが当たり前だ。

今度は飯田も容認できなかった。


「水草さん。中州なかす分校は一年生が三人しかいないんだけど、本校の方には九十人の児童がいてね、百点を取る子がいっぱいいるんだよ。今の時期だったら、むしろ満点を取るのが当たり前くらい。二年の吉田さんだって、満点続きだったわよ」

「えっ、舞香まいかちゃんが?」

「そうよ。だから、わざと分からないフリをするのは、もう絶対にしちゃ駄目。勉強ができない子だと思われちゃうわよ」


つまり、百点を取ったって割と当たり前で、別に目立ったりはしないということだ。

薫は、祖母の幸子に「ほどほどに」と言われているのだが、「勉強ができない子」と思われるのは困る。祖母を悲しませるのは嫌なのだ。


なーんだ。そうなんだ。


それで薫は安心して、それからはずっと百点を取り続けることにした。


この時の飯田は薫に対して少し強く、そして多少大げさに言ってしまったのだが、薫のような児童に対しては、それで良いと思っていた。

もっとも、この時に飯田が注意したことがきっかけとなって、彼女が薫の担任だった三年生の終わりまでずっと薫がテストで満点を取り続けるとまでは、さすがに飯田も思ってはいないのだった。



★★★



雨が多い六月は読書月間ということで、少しだけ朝早く分校に来て、ニ十分間だけ教室で本を読む「読書タイム」というのがある。

この読書月間が始まる少し前、全員で図書室を訪れて、女性司書である岡田成美に図書室の利用方法を説明してもらっている。その時に各自好きな本を借りており、読書タイムでは、それを教室の机の上で読むのである。


この読書タイムが始まった最初の日、担任教師の飯田は薫に関して、またもおかしなことに気が付いた。

他の子が挿絵がいっぱい入った本を持ち込んでいるのに、薫は小さな活字ばかりの本を机の上に置いていたのだ。

二年の吉田舞香(まいか)も四年生向けの本を読んでいるけど、彼女は成績優秀な子なので問題ないだろう。


この時点の飯田には、薫が一学年上の舞香よりも優秀な子だといった認識までは、まだ無かった。それで飯田は、誰かの悪戯を疑っていた。つまりは、「誰かが薫に『読めないような難しい本』を押し付けたんじゃないか?」といった類の悪戯だ。

目の前の薫は、その年齢不相応な本のページを次々と捲って行く。そのスピードはかなり速い物で、とても読んでいるとは思えない。

意を決した飯田は、さっと彼女の本を取り上げた。


「水草さん、読んでるフリとかしなくて良いんだよ。水草さんは、こんな難しい本じゃなくて、他の子みたいな絵本を持って来なさい」


それを聞いた薫は、珍しく怒っていた。いきなり読んでいた本を取り上げられたのだから、それは当然だ。しかも、ちょうどおもしろい所に差し掛かったばかりだったのだ。

薫にしては、刺々しい声で言った。


「先生、その本、返して」


飯田の方は、薫の態度が良くないものだと思ってしまった。

 

「水草さん。本をオモチャにしないの」

「えっ?」


薫は、飯田の行ったことが分からなかった。

薫は、自分のオモチャをあまり持っていなかったこともあって、何がオモチャで何が違うのかを把握していなかった。そんな薫のイメージだと、オモチャというのは、「楽しむ為の物」。薫は本を読むのが楽しいし、読んで楽しい本は「オモチャ」ということになる。


「あの、先生。本をオモチャにするって、どうゆうこと?」


飯田は、無表情のままの薫を見た。そして、困惑し始めた。


「本は、読むものよ。オモチャにするもんじゃないの」

「だって、本はオモチャでしょう?」

「本はオモチャじゃないわよ」

「えっ、本は、『読むオモチャ』じゃないの?」

「だから、本は、オモチャじゃないの。本は、お勉強する為のものよ?」

「お勉強? 読むこととは違うの?」

「読むことと、あなたみたいにページをめくるだけとは違うわね」

「ええ-っ? ページをめくらないと、本は読めないよ。先生は、ページをめくらなくても本が読めるの?」


薫は、怒っているうちに早口になっていた。

飯田は、口答えをする薫のことを意外に感じていた。これがもっと上の学年の子だったら、馬鹿にされてると思っただろう。でも、相手は小学校に上がったばかりの児童なのだ。

そこで初めて飯田は、ひとつの可能性に気付いた。


「水草さん、あなた、ひょっとして読んでたの?」


薫は、首を傾げるだけだった。


「そんなことある筈ないわね。そろそろ時間だから……」

「飯田先生、薫に言いがかりを付けないで下さい」

「えっ、吉田さん、どういうこと?」


いきなり声を掛けてきたのは、吉田舞香だった。そのすぐ後ろには水瀬美緒もいて、キッと飯田を睨み付けている。

吉田舞香は、頭の良い子だ。彼女は二年生なのに四年生向けの本を読んでいたことからも、そのことが伺える。

だが、薫が持ち込んだ本は、高学年か中学生くらいの子が読む本なのだ。


「先生、薫は、変な子なんです。だから誤解しても仕方ないけど、薫は……」

「この本を読めるっていうの? しかも、あんなに早く?」

「はい」


舞香が真剣な表情のまま、頷く。そこで、美緒が前に出て来て、大声で言った。


「薫は、凄いんです。大人の本だって、普通に読んじゃうんだから」

「美緒ったら、それは……」


そこで薫が何か言い掛けて、止めてしまった。代わりに舞香が口を開いた。


「それ、大人の本科どうか知らないけど、図書室のライトノベルっていうコーナーにある本のことです。あの、薫のことだったら、図書室にいる先生が良く知ってます」

「ああ、司書の岡田さんね」


そこでチャイムが鳴って、飯田は「分かったわ」と言った。こないだみんなで図書室を訪れた時、薫が岡田と何やら親し気に話していたのを思い出したからだ。

岡田先生は薫が何を借りたかを知っていた筈。ということは、この子には本当に、この本が読めるということなのね。


「水草さん。ごめんなさい。先生の早とちりだったわね。吉田さんも水瀬さんも、友達思いの良い子ね。ありがとう。さあ、みんなも読書はおしまい。本を片付けて頂戴」


飯田は、さっき取り上げた本を薫に返し、手を叩いて読書タイムの終了を児童達全員に告げたのだった。



★★★



運動会でやらかしたりとか、担任の先生と小さな行き違いがあったりとかはあったものの、水草薫の小学校生活は極めて順調だった。薫は恵まれない幼少時代を取り戻すかのように、楽しく毎日を過ごしていた。

薫は先生方に学習と運動の両面で優秀な児童として認識されており、また友人関係においても、彼女は周囲の児童の多くと親密で良好な関係を築き上げていたのだ。


本来、薫は人見知りで愛想がない子ではあったが、小さな分校の中では関係無かった。中州なかす分校は児童の数が三十人にも満たない規模なので、教職員を含めて全員が顔見知り。どんな人見知りも発動しようが無い場所なのだ。

それに愛想がない所だって周囲は次第に慣れて、薫はそういう子として認知されてしまった。


別に笑っていなくても怒ってるわけじゃないのだから、一緒に遊ぶには問題なんかない。それに、話せばちゃんと返事がある。

薫は人見知りではあっても、引っ込み思案ではないのだ。それどころか、普通の子だったら泣き出してしまうような突発的な何かが起こったとしても、薫は意外と冷静だったりする。

そして、時に子供離れした判断力や行動力を見せて、大人達を驚かせる存在、それが水草薫という子だったのである。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

次話も今日と同じ中州の子供たちの話です。もう少し大きくなります。


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