第52話:中州の子供達(1) <薫サイド>
再度、見直しました。
水草薫が生まれ育った故郷、中州は、四方を大河に囲まれた閉鎖的な土地である。その箱庭のような世界には、中世から続く明確なヒエラルキーを伴う独自の社会があった。
もちろん、そのヒエラルキーのトップにいる人物は、水草武、薫の父である。しかし、武には政治的な力が無い。
水草家の当主が政治的な力を手放したのは、薫の祖父、つまり武の父で幸子の夫、水草滋が最初である。彼は内向的な性格で、人前に出ることを嫌ったのだ。
武から二代前の水草家当主、水草隆は、県会議員であり、それ以前の当主も政治家を兼ねていた。江戸時代は幕府の代官であり、戦国時代の後半には大名、それ以前でも有力な豪族のひとつに数えられていた。
後になって思えば、「滋が政治の力を甘く見たことが、水草家の凋落を導くことになってしまった「と言えなくもない。
だが、それも今更である。
それでも、中州の支配者は、やはり武であり、彼は中州の頭領と呼ばれていた。この頭領を含めて、中州には親方衆と呼ばれる人物が五人いる。
一人目は、中州で水草家に次ぐ家柄であり、西端の集落の主である西川家当主、西川康之。
二人目は、水草家最大の分家である八木家当主、八木一樹。
三人目は、中郷の集落の主である中野家当主、中野敦史。
四人目は、水草家の分家で八木家に次ぐ規模を誇る川合家当主、川合光廣。
この四人に水草家当主、水草武を加えた五人が、武が頭領だった時代の親方衆である。
ただし、親方衆の会合には、もう一人、治水神社の神主、河村和人が加わることが慣例化していた。
親方衆の会議は、基本的に毎月一回、水草家の屋敷にて開催されていて、中州に関する様々な問題が話し合われていた。そして、ここで決まった内容を川田村や天王市に伝える役割は、自治会長である西川康之が担っていたのだった。
これら親方衆以外に、中州出身の川田村の村会議員として、水野誠一という男がいた。元々彼は八木家の使用人であり、頭が良くて弁が立つことから親方衆で話し合った結果、村会議員に推すことになった経緯がある。
彼は川田村が天王市に吸収された際も、引き続き天王市議会議員となった。
更に、もう一人、中州の重要人物として挙げるとすれば、吉田商店の店主、吉田貴之である。
吉田商店は中州に最後まで残った小型のスーパーであり、中州住民にとっては生命線とも言える存在である。その為に彼は中州において、それなりの発言力を持っていたのだった。
まとめると、水草家を除く中州の有力者は、親方衆四名、神主、村会議員(後に市会議員)、吉田商店店主の七名だ。
このうち西川康之だけは年齢が少し上で、それに合わせて子供達も大きくて薫との接点がほとんど無かったのだが、それ以外の六つの家の子弟とは、薫の子供時代に顔を合わせることになった。そして、彼や彼女等との交流もまた、小さい頃の薫に少なからぬ影響を与えることになるのである。
そんな彼や彼女達は、薫にとって大切な仲間達であり、その後も薫の親しい友人としての関係を続けて行くことになって行くのだった。
★★★
五歳になるまでの水草薫は、ほとんど屋敷から外に出してもらえず、屋敷の中だけが彼女の世界だった。
そこには数多くの人が出入りしており、それらの中には薫と年齢の近い子供を伴っている者もいたのだけど、そうした子供に薫が引き合わされることは稀だった。理由は、薫が知恵遅れの子だと思われていたからだ。祖母の幸子が知れば間違いなく激怒する筈だが、当時の水草家使用人の間では、それが暗黙の了解とされていたのである。
だからこそ、退屈な薫はいつも一人で屋敷の中をうろうろしては、使用人達の顰蹙を買っていたのだった。
そうした薫のことを哀れんでくれたのは、当時はまだ水草家の家政婦として働いていて、主に祖母、幸子の離れを担当していた瀬古梓紗だった。彼女は野崎小夜よりも年上なのだが、持病があるのに加えて気が弱く、小夜が薫に時々きつく当たっているのを知っていながら、忠告できずにいたのだ。
そんな梓紗でも、薫の遊び相手がいない話は、割と気楽に先代の奥様である幸子に伝えることができた。それで、すぐに幸子が手を打った結果、薫が五歳になった春からは親方衆の会合がある時に、西川家以外の親方衆が子供同伴で来てくれるようになったのだった。
つまり、水草家に集まってくれたのは、四家族の子供達だった。
まず八木家からは、ひとつ年下の八木瑛太。
川合家からは、四つ上の川合華月と二つ上の川合光流。
中野家からは、ひとつ下の中野美香。中野家にはもう一人、四つ下の拓哉がいるのだが、この頃は小さ過ぎて家政婦の人とお留守番のことが多かった。
それから、神主の河村家からは、二つ上の河村正人と同じ歳の直人がいた。
薫を入れれば、男子が四人に女子が三人。一見するとバランスが取れているように見えるが、女子の川合華月は小学四年生で少し歳が離れている。それに世話焼きタイプでもなかった彼女は、いつも他の子とは交わらずに本ばかり読んでいた。そして、もう一人の中野美香は、引っ込み事案で泣き虫。最初の日は、母親の中野美穂から離れようとはしなかった。
一方の男子だが、同じ歳の河村直人も泣き虫な子で、しかも持参した携帯ゲームにしか興味が無い。その直人が持っているゲーム機に興味津々なのが八木瑛太で、彼は直人にべったりくっ付いていた。
結局、いつも薫が一人で遊んでいるお庭に来てくれたのは、小学二年生の二人組、河村正人と川合光流だけだった。この二人は外で身体を動かすのが好きなようで、いつも一緒に遊んでいるのか、とても仲良しに見えた。
ただし、彼らも活発な男子の例に漏れず、足手まといで弱っちい女子を苦手としていることが露骨に態度に出ている。つまり薫も最初は、敬遠されていたのである。
それでも、この二人は最初から薫のことを仲間外れにしようとはしなかった。母親の方から薫と遊んでやるように言い聞かされていたのかもしれないが、性格的にも自分より年下の子を放っておけるタイプではなかったんだろう。特に光流の方は元から人懐っこい性格のようで、積極的に話し掛けてきた。
「えっと、お前が水草のお嬢様だよな。長いから、『お嬢』って呼んでも良いか?」
薫は、なんか変な呼び方だと思ったけど、この時は「うん」と頷いておいた。
すると光流は、二カッと笑って「じゃあ、お嬢。最初は駆けっこしよっか」と言った。そして、正人の方に目配せすると、さっと走り出してしまう。
水草家の屋敷の中はやたらと広い上に、いろいろと入り組んだりしていて、初めて来る人は迷うような場所だ。だから、薫は彼らとお庭の少し開けた辺りで遊ぼうとしたのだが、彼らはどんどんと作業場の方まで行ってしまう。『あっちは、意地悪な使用人の人達がいるエリアだから、ヤバいかも』と思った薫だったけど、すぐに今日が日曜だと気付いて、彼らの先回りをすることにした。
「うわっ」
「お、お嬢、いつの間に?」
正人と光流が予想以上の反応をしてくれたことで、薫は少し嬉しくなった。
それからも、薫は先回りをしては、何度も彼らを驚かせた。多少、体力差があるとはいえ、ここは薫の遊び場なのだ。初めて来た彼らなんかに負ける筈が無い。
そんな駆けっこが三十っ分も続くと、二人の方は息が上がってきたようで、見るからに動きが鈍くなった。
「お兄ちゃん達、もうへばったの?」
「お、お嬢?」
悔しそうな顔を向けてきたのは、光流だった。正人の方も肩で息をしていて、じっと離れの縁側の方を見ている。そのことに気付いた薫が離れの方に目をやると、使用人の梓紗が手招きをしていた。
「あれ、梓紗さんだ。何かくれるのかも。行ってみようよ」
今度は、薫の方が先に走って行く。二人は渋々といった感じで、とぼとぼと薫の後を追って行った。
梓紗が渡してくれたのは、冷たいオレンジジュースだった。三人は離れの縁側に並んで座って、そのジュースを飲んだ。そこは、薫が大好きな祖母の幸子と良く一緒にいる所で、そこに初めて会った男の子達がいることに薫は不思議な感じがした。
そんな薫に、光流が声を掛けてきた。
「お嬢、お前ってすげーな」
何が凄いのか、薫には分からなかった。でも、光流の視線は、好意的なものだった。
「なっ、正人もそう思うだろう?」
正人は、薫の方を見ようとはせず、お庭の方に顔を向けたまま「ああ、驚いた」と頷いた。
その二人の言葉は、その時の薫には、わりかし、どうでも良かった。
ジュースを一番最初に飲み干した薫は、さっと立ち上がって、こう言った。
「ねえ、お兄ちゃん達、次は何しよっか?」
二人の男子は、少しだけ困惑した表情を顔に浮かべていたが、それでも立ち上がってくれた。そして、次は鬼ごっこをやって、彼らは更に疲労困憊するハメになってしまったのだった。
★★★
親方衆の会合があった日に正人、光流の二人と遊んだことは、薫にとって忘れがたい出来事となった。
薫は祖母の幸子に次に彼らが屋敷に来る日を尋ねたのだが、一ヶ月も先のことだと言う。当時の薫は、既に月や曜日の概念を学んでいたので、薫の表情はみるみるうちに曇って行った。まだ幼女の薫にとって、一ヶ月後はあまりに先のこと過ぎたのだ。
当時の幸子は、薫にとって唯一の甘えられる存在だった。当然ながら、薫は駄々をこねた。
「そんな遠くまで待てないよう。明日が良いっ!」
「しょうがないねえ。明日はまだ金曜だから、明後日迄待ちなさい」
「なんで?」
「あの坊主二人は、学校に通ってるからだよ」
「だったら、あたしも学校に行く」
「学校は、来年の四月にならないと行っちゃいけないんだよ」
この時の幸子の言葉は嘘で、本当は図書室だったら行っても良かったのだが、どのみち二人と遊べないことに変わりはない。
それでも幸子は、すぐに家政婦の瀬古梓紗を呼んで、河村家と川合家との調整を頼んでくれた。そして、梓紗は両家の奥様達、河村千縁、川合千華に相談し、今度は河村家に集まることになったのである。
待望の土曜日、薫は梓紗に手を惹かれて、徒歩で治水神社へと向かった。そこは水草家の門からだと、ほんの二百メートル程しか離れていない。それでも幼女の足だと、それなりに時間が掛かる。
ようやく目の前に鬱蒼と生い茂る木々が見えて来た時、薫は歓声を上げた。それで薫は、勢い込んで駆け出そうとしたのだが、ぎゅっと薫の手を握っている梓紗は許してくれなかった。
そうこうするうちに、薫の姿を見付けた正人が出迎えてくれた。その後ろには光流の姿もあって、二人は梓紗に代わってそれぞれが薫の手を取る。二人のお兄ちゃんに両手を引かれた薫は、胸を高鳴らせながら治水神社へと足を踏み入れたのだった。
その神社の境内は、薫にとって新しい遊園地だった。
とりわけ薫を夢中にさせたのは、木登りである。最初は、二人の男子に助けられながら見様見真似で登ってみたのだが、薫はすぐに要領を覚えてしまい、一人でするすると上の方まで行ってしまう。
「こら、お嬢。そんな上まで行くな。下りられなくなるぞ」
すぐに光流が止めてくれたのだが、間に合わなかった。さすがの薫も、初めての木登りでは、一人では降りられそうもない。どうしたら良いか分からなくなってしまった薫は、ぼんやりと下を見た。
下には、正人だけがいた。薫を連れて来てくれた梓紗は、千縁に家の中へでも招かれたのだろう。
薫の様子がおかしいことに気付いたのか、正人が何処かに走って行った。誰か大人を呼びに行ってくれたようだ。
そうこうするうちに、手が痺れてきてしまった。
「お、おい、お嬢。俺が指示するから、そのとおりに身体を動かしてみろ」
薫が声のした方に顔を向けると、薫よりだいぶ下の所に怯えた表情の光流がいた。
そっか、光流くんも怖いんだ。
そう思った薫は、少し冷静になれた。
すると、薫の頭に祖母の幸子の声が響いた気がした。
「水草家の令嬢はね、どんな時だって、平常心を忘れたら駄目だ。冷静でありさえすれば、必ず解決策は思い付くもんだよ。お前は私の孫だし、あの女傑と呼ばれた朋子さんの血を引く娘でもあるんだからね」
水草朋子は薫の曾祖母で、水草隆の妻である。その朋子は絶世の美女として名高く、天王高等女学校を主席で卒業した才女でもあるらしい。隆と結婚した後は、県会議員の夫を支えながら数多くの使用人達を束ね、水草家を実質的に切り盛りしたのは彼女だとされている。
そうして冷静になった後の薫は、慌てて飛び出して来た梓紗や千縁が見守り中、光流の指示を受けて難なく下りることができた。
普通の子なら、それに懲りて木登りが嫌いになる所だろうが、薫は違っていた。梓紗や千縁が止めるのも聞かず、再び同じ木にするすると登って行ってしまった。そして、今度は一人で難なく下りて来た後、無表情のまま正人と光流に向かって言ったのだ。
「楽しかった。ねえ、次はどの木に登ったら良い?」
この時の薫の格好は、ホッとパンツにタイツを履いていて、上は長袖のTシャツだった。ちゃんと境内で遊ぶことを見越して、小夜が選んでくれたのである。小夜は薫に意地悪はするのだが、そうした所はきちんと務めを果たしていたのだ。
それでもこの日、薫は服を汚した上に、タイツに大きな穴まで開けてしまい、帰った後で小夜に散々嫌味を言われてしまうのだった。
★★★
それからの薫は、河村正人と川合光流の二人と週に何度も遊ぶようになった。
平日の場合は、学校が終わった後、二人の方が水草の屋敷に来てくれることが多かった。そして、週末は薫の方が治水神社に出向く。
治水神社には、正人と光流の二人だけでなく、もっと年上の男子がいることもあった。そうした子は、当然、薫のことを「何でこんな子がここにいるんだ」といった目で見るのだが、薫が誰よりも素早く木の上の方まで登ることができるのを知ると、誰も文句を言わなくなった。
それに薫は何と言ってもすばしっこい。小学三、四年の男子でも、鬼ごっこではそうそう捕まったりはしないのだ。だから、彼らも「変な子だな」と言いながら、ちゃんと薫を仲間に入れてくれるのである。
やがて夏休みが来ると、天気の良い日は毎日、薫は小学生の男子達と一緒に遊ぶようになった。
その頃になると薫の顔も腕もすっかり日焼けしていて、見るからにお転婆な女の子の姿に様変わりしていた。
実際、薫の行動範囲は広がっていて、本郷の集落の中だったら、何処へでも一人で出歩けるようになっていた。
ただし、祖母の幸子に、「堤防の向こう側には絶対に下りちゃいけないよ」ときつく言われていた。だから、男子達が大河の川辺で遊ぶと言い出すと、薫は残念に思いながらも、別の所へと向かって行く。
薫はいつだって、祖母の幸子が言うことだけは、きちんと守る子だったのである。
★★★
水草家にとって、お盆は一族が集まる大切な日だ。だけど、「小学校に上がる前の子供は家でお留守番」が暗黙のルールだった。
薫の場合は自分の家でやるんだし、小さくても大人しく座っていられるのだから出ても良い筈なのだが、「お嬢様は不気味な顔ですので、お部屋にいて下さい」と小夜に嫌味を言われて、部屋に閉じ込められてしまっていたのだ。
ところが、薫が五歳になった年の親方衆の会議で、「これからは、小学校就学前の子供も参加して良いことにしよう」と急に誰かが言い出して、その通りに決まってしまった。これは明らかに、他の子供と積極的に遊ぶようになった薫への配慮だった。
その日は、朝から家政婦の人達が慌ただしくしていた。しかも人が増えている。いつもは作業場にいる女の使用人まで借り出されているみたいだ。
午前十時を過ぎると、ぞろぞろと人が集まり出した。子供の姿もちらほら見える。その中に正人と光流を見付けたので、すぐに外で遊ぼうと思ったら、小夜に手を引かれて連れ戻されてしまった。この後、和尚さんが来て、お勤めがあるのだという。
襖を取り払い幾つもの部屋を繋げてできた大広間に、ぎっしりと人が集まって正座をする。人が多いので使用人とかは全員が入れないらしい。それでも二百人近くはいそうだ。
皆が神妙な顔付きで座っているのが、薫には奇妙に思えた。それと、お線香の匂いが辺りに漂っていて、変な感じだ。
小夜に手を引かれて最前列に連れて来られた薫は、祖母の幸子の隣にちょこんと座った。
幸子の真似をして手を合わせていると、変わった着物を着た頭に毛の無い男の人が現れた。幸子が軽く頭を下げたので、薫も同じようにしておく。
それから、長い長いお経が始まったのだった。
実は、この時の法要は薫の祖父、滋の三回忌も兼ねていて、その為に例年以上に人が多かったのだが、そのこと迄は幸子も教えてはくれなかった。
それでも薫は「お盆」という行事に何となく不思議なものを感じて、お勤めが終わった後、いったん祖母の離れの部屋に戻った時に早速幸子に尋ねてみた。
幸子は、こんな感じに答えてくれた。
「お盆というのはね、ご先祖様の霊が帰って来てくれる日なんだよ。だからね、今日はお祖父さんもちゃんと帰って来て、大きくなった薫の姿を見れて嬉しいだろうよ」
それを聞いた薫は、すぐに祖母の話が矛盾していることに気が付いた。幸子は、祖父の滋が亡くなった時、薫に「人は死んだら生まれ変わるんだよ」と教えてくれたのだ。
「お祖母ちゃん、それって、おかしいよ。人は死んだら生まれ変わるんだって、お祖母ちゃん、前に言ったじゃない」
幸子は、少しだけ間を空けた後、笑顔のまま答えてくれた。
「たぶん、薫が大きくなる迄は薫のことが心配だから、天国から薫を見ててくれるんじゃないかねえ。生まれ変わるとしたら、きっとその後だよ」
「ふーん、そうなんだ」
薫は、幸子の言ったことは何でも信じてしまう。けど……。
「でもさあ。あたし、まだお祖父ちゃんに会ってないよ。 ここで待ってたら、来てくれるかなあ?」
「ええとね……」
幸子は、またしばらく考えてから答えた。
「たぶん、薫にお祖父さんの姿は見えないんだよ」
「えっ、どうして?」
「見える人もたまにいるんだけどね、普通の人に死んだ人は見えないんだよ。でも、大丈夫だ。お祖父さんには、ちゃんと薫が見えるんだからね」
それを聞いた薫は口を尖らせて、「それって、ずるーい」と言ったのだが、幸子は「仕方ないんだよ、神様が決めた事だからねえ」と言って、静かに笑っていたのだった。
★★★
しばらくすると、梓紗が呼びに来てくれた。食事の準備ができたのだという。
それで薫は幸子と一緒に、さっきの大広間へと向かった。
その大広間には、細長い座卓が所狭しと並べられていて、その上には豪華な料理が載っていた。
既に席は、八割方が埋まっている。さっき梓紗は「食事」と言ったのだが、それは薫にとって初めて味わう「宴会」だった。
薫が案内されたのは一番上座の席で、薫は今回も祖母の隣にちょこんと座った。すると、給仕を行う年配の女性使用人が次々と冷えたビールを運んで来る。そして礼服姿の男の人達は、隣り合った人が手に持ったグラスにビールを注いで行く。注ぎ方が悪いと泡が溢れてテーブルに落ちてしまい、それを女の人が笑いながら台拭きで拭きとっている。
そんな様子を薫がぼんやりと見ていると梓紗がやって来て、すぐ目の前のグラスにジュースを注いでくれた。
薫が「頂きます」を待っていると、父の武が立ち上がって挨拶を始めた。それが終わると、今度は八木家当主の一樹が立ち上がり、ビールの入ったグラスを片手で持ち上げて、「カンパーイ」と叫んだ。
いきなりのことで薫は驚いたけど、隣の幸子に促されてジュースの入ったグラスを手に持つと、その幸子のグラスにカチンと合わせる。そんなことでも薫には初めてのことで、何だか大人になった気がして嬉しかった。
その後、薫が目の前に置かれた鯛の塩焼きの身をほぐすのに四苦八苦している間に、薫の近くの席にいる武の所に次々と人がやって来て挨拶を始めた。そのほとんどの人達が、挨拶を終えると薫の方にちらっと視線を向けてくる。
最初の頃の八木家と川合家の人達は顔見知りなので優しい目線だったし、光流などは「後で遊ぼうな」と声を掛けてもくれたのだが、その後の人達は冷たい視線の方が多かった。やがて使用人とかになると、明らかに嘲りや侮蔑の表情を向けてきた。
父の武は当然だろうけど、幸子の方も挨拶の方に気を取られていて、薫に向いた視線にまでは気付かない。それでも薫は慣れているので、そんなのは無視して淡々とご飯を食べていた。
薫の前に置かれた食事は一人前のお膳だったので、当然、全部は食べられない。いつもは「きちんと全部食べなさい」と言う幸子も、「量が多いだで、食べられんだったら残しても良いんだでね」と聞かされていた薫は、お腹がいっぱいになった時点で一度席を立った。退屈だったのと、早めにお手洗いに行っておこうと思ったからだ。
近くのお手洗いはいっぱい人がいたので、わざわざ遠くまで行った。そして用を済ませて戻ろうとした時だった。目の前の廊下に礼服姿の男が三人いて、薫の行くてを塞いでいたのだ。
彼らは、薫に見覚えのある使用人達だった。しかも、いつも薫にきつく当たってくる連中だ。
咄嗟に薫はお手洗いの入口に身を潜めた。男達は、何やら小声で話している。薫は、耳をそばだてて彼らの話を聞いた。
最近は他の子と遊ぶようになってしなくなったけど、それまでの薫は退屈を紛らわせる為、そうやって大人の会話を聞くことが多くあったのだ。
「やっぱり、今の頭領じゃ駄目だなあ」
「何でだ? 武さん、良い人じゃねえか。先代なんか、俺らには碌に口も利いてくれんかったけど、武さんは気さくに話し掛けてくれるし、良く宴会にも呼んでくれるだろうが」
「ああ。好きか嫌いかでいうと、今の頭領の方がええに決まっとるわな。けど、本当にそれでええんか? あの人、悪い奴にコロッと騙されてまいそうで怖いんだわ」
「ああ、それな。オレもそう思うわ」
「先代は賢かったみていだけど、武さん、頭の出来は今ひとつだもんな」
「女将もだぞ。まあ、今は幸子様がおられるから大丈夫だがな」
「全部、お前らの言っとる通りなんだけどよ、心配なのは、その次だと思うぞ」
「ああ、あの知恵遅れの娘か。あれは駄目だな」
「だよな。いつ見てもぼーっとしとって、何考えとるか分からんもんな」
「なーんも考え撮らんのじゃねえか?」
「そうやってみると、水草の家は、もう先が短いかもしれんな」
薫がここで聞いたことは図らずも全てその通りになってしまうのだが、この時の彼女には知る由もないことだった。
もちろん彼らの会話を聞いても、この時の薫は何のアクションも起こさない。薫は聡い子であったとはいえ、それだけの会話で危機感を覚える程ではなかったのだ。五歳の幼女であれば、当然である。
それよりも薫の関心事は、「早く道を開けてくれないかなあ」だった。
五分くらいで男達がいなくなったので座敷に戻ってみると、父と祖母への挨拶は終わっていた。それでも父の武の周りには男達が大勢いて、お酒を飲みながら談笑している。祖母の幸子の方は、年配の女性使用人二人と話し込んでいた。
薫が「退屈だなあ」と思っていたら、突然、慌ただしい様子でやって来た夫婦がいた。彼らは、ずんずんと薫がいる方までやって来ると、武に向がい妙に馴れ馴れしい口調で話し出す。
「武さん、遅くなってしまって申し訳ない。ほら、お前も挨拶しろよ」
「あの、お参りもせずに、今頃ノコノコ来ちゃって本当に申し訳ないね。実は、うちの亭主ったら、朝から車で事故っちゃってさ。まあ、人身にはならなかったんだけど、警察の調査がなかなか終わんなくてね……」
そのオバサンの話は、長かった。
実は、彼らは前の番、天王市にある妻の実家に泊っていて、今朝、車で中州に戻って来た際に事故を起こしてしまったらしい。
でも、五歳の薫にとって、そんなことはどうだって良い。
薫は、もはや退屈してはいなかった。それどころか、とてもそわそわしていたのだ。というのは、やって来たのは夫婦だけじゃなくて、後ろに二人の子供が控えていたからである。
一人目は、大きなお兄ちゃんだった。実際はまだ小学生だったのだが、五歳の薫には「大きなお兄ちゃん」としか認識できなかった。そして、もう一人は……。
「ねえ、あんたが薫ちゃん?」
ぶっきらぼうだけど、悪意の感じられない明るい声だった。
そして、その声の主はと言うと、今まで見たことのないくらいに綺麗で可愛い女の子だったのだ。もっとも、その時の薫が知っている同世代の女の子は泣き虫の中野美香だけだったから、余計に目の前の彼女が特別に見えたのかもしれない。
薫は、生まれて初めてくらいにドギマキしてしまい、小声で「うん」と頷いて見せた。
「そっかあ。思ったよりもずっと可愛い子で、びっくりしちゃったあ……。えーと、あたしね、水瀬美緒っていうの-」
「美緒ちゃん?」
「そう。美緒、だよ。知ってる? あたしと薫は、友達なんだよ」
「えっ、ともだち?」
「うん、ともだち。今朝ね、うちのお祖母ちゃんが教えてくれたんだ。今日、あたしが会うのは、あたしの最初の友達なんだって」
その子は、そう言って立ったまま自分の右手を薫の方に差し出してくる。薫がぽかんと間抜けな顔をしていると、「ほら、手を出して」と言ったので、薫が左手を出すと、「反対。そっちの手」と言う。それで薫が気が付いて、今度は右手を出した所、彼女はぎゅっと力強く握り締めてきた。
ちょっと湿った暖かい手だった。
だけど彼女の温もりが感じられて、薫は嬉しくなってしまった。
たぶん、それでなんだろう。その時、薫は少しだけ笑ったのだ。もちろん、ごく自然な幼女の笑顔だった。
その子の方もまた、そんな薫を見て満面の笑みを顔に浮かべていた。
これが、初めて薫に女の子の友達ができた瞬間だった。
★★★
薫の最初の友達は、紛れもなく水瀬美緒なのだが、同時期に知り合った同世代の女子となると、もう一人いた。薫よりもひとつ年下の中野美香である。しかも、知り合ったタイミングで言うと、この美香の方が早い。美香は、その年の春から月に一回、親方衆の会合がある日に水草邸に来ていたからだ。
しかし、この頃の美香は引っ込み思案ですぐに泣く子だった。それに薫の場合、見た目とは違って外で遊びたがるタイプだったのに対し、美香は室内で遊ぶ方を好んだ。その為、この時点で薫は身かと顔見知りではあっても、一緒に遊んだことはあまり無く、とても友達と呼べる関係ではなかったのである。
さて、宴会が終わった後の薫だが、当然、待ってましたとばかりに正人や光流の所に走って行った。もちろん、一緒にお庭で遊ぶ為だったのだが、そこに今日は美緒が現れて、「あたしも遊ぶ」と言い出した。薫が男子二人の方を見ると、光流が、「良いよ」と言ってくれる。この時の美緒は既に六歳になっており、しかも薫と違って発育が良かった。それに薫のこともあったから、正人も光流も一緒に遊ぶことを嫌がらなかったんだろう。
四人は簡単な挨拶を済ませると、すぐに靴を履いて外に出た。そして、じゃれ合うように鬼ごっこが始まった。すると、男子二人だけじゃなくて、美緒も薫に付いて来てくれる。すぐに薫は嬉しくなって、本気でお庭を駆けて行く。
ところが、五分もしないうちに、そんな薫たちを邪魔する者が現れたのだ。普段は一緒に遊ぼうとしない年下の男女、八木瑛太と中野美香だった。
二人は親に言われてここに嫌々来たといった感じで、黙って薫たちの方を見ている。薫が『どうしようか』と思っていると、美緒が「大勢で遊んだ方が楽しいから、入れてあげようよ」と言い出した。それでも正人と光流は『嫌がるに違いない』と思ったら、光流の方が「そうだな」と言い出したことに薫は驚いてしまった。美緒と会うのは初めてだけど、残りの四人は既に何度も顔を合わせている。瑛太はまだしも、美香と一緒には遊べないことは、ちゃんと光流だって分かってる筈だ。
不思議に思ったのは正人も同じだったようで、「どうしてだよ、光流」と問い質した。
「別に良いじゃん。鬼ごっこは無理でも、かくれんぼぐらいだったら一緒にできるんじゃないか?」
光流の言うとおりだと思った薫が了承すると、正人も頷いてくれた。
それなのに、最初の鬼の正人が一瞬で美香と瑛太を見付けてしまい、案の定、美香は大泣きしてしまった。
割と近くに隠れていた薫は、仕方なく出て行って美香を慰める。その隣でぼーっと突っ立ってるだけの正人と瑛太に、薫はちょっとムカついた。
それから、光流と美緒もやって来て、完全にしらけ切った薫たちは、未だに泣き顔の美香を連れて幸子の離れへと向かった。そして縁側に六人が並んで座って、梓紗が用意してくれたスイカを食べたのだった。
その後、薫は初めて会った美緒に手を引かれて、別の離れの縁側の方に歩いて行った。男子三人の中で光流が一緒に来たそうな素振りを見せたけど、その場に正人が引き留めてくれた。
目的の縁側に着いた薫と美緒は、早速、二人だけの会話を始めた。最初はぎこちなく受け答えをしていた薫も徐々に慣れてきて、美緒との会話を楽しみ出した時だった。縁側に腰掛ける二人の前に、突然、美香が現れたのだ。瑛太と一緒に美香は母親の所へ戻ったと思っていた薫は、困惑した。だけど美香は目の前にいて、何故か薫の顔を睨み付けている。
「カオルちゃんったら、ひっどーい。何でミカを置いて行っちゃうの?」
咄嗟に薫は、ごまかすことにした。
「あ、ちょうど良かった。この子と会うのって、美香は今日が最初でしょう?」
本当は薫も美緒と会うのは今日が最初なのだが、そんなことは言わない。
美香は、一瞬きょとんとした後で頷いた。
「この子は、美緒ちゃん。あたしの初めてのお友達だよ……あ、正人くんと光流くんもお友達だから、女の子としては初めてって意味だけど……えっ? ど、どうしたの?」
薫が話しているうちに、どんどんと美香が泣き顔になって行く。
「ひ、ひっどーい」
薫が、『今度は何だろう』と思っていると……。
「ミカは、カオルちゃんのお友達じゃなかったのお?」
そう言われても薫には最初、『こいつ、何いってんの?』と思ってしまったのだけど、口に出しては言わないでおいた。だって、それを言ったら美香は大泣きするに決ってる。
少しだけ悩んだ末に、またもや薫は、ごまかすことにした。
「あのね、美香はあたしの妹みたいなもんじゃない。だから、友達とは違うんだよ」
「妹?」
「うん。つまりね、あたしは美香のお姉ちゃんなの」
この時の薫は一人っ子。美香には、小さな弟しかいない。
美香は少し混乱した様子だったけど、しばらくするとパッと顔を輝かせて「そっかあ」と叫び声を上げた。その声があまりに大きかったので、薫も美緒も少しびっくりした。
それだけじゃなくて、正人、光流、瑛太の男子三人も寄って来てしまった。
「カオルちゃんって、ミカのお姉ちゃんだったんだあ」
薫には、何で美香がこんなに嬉しそうなのか分からなかったけど、この時は「そうだよー」と肯定しておいた。
こうして薫は美香を咄嗟の思い付きで自分の妹分にしてしまった訳だが、その後、この時のことを後悔することになる。それは美香が思った以上に残念な子だったからんなのだが、それを知った時には全てが後の祭りなのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次も薫の幼少時代の話です。
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