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第51話:幼少時代(2) <薫サイド>

再度、見直しました。


水草薫みずくさかおるの心の根底ベースにある思いとして、「私は可愛くない」と同様に重要なものがもうひとつある。

それは、「何事もほどほどに」というものだ。


幼い頃から、薫は全力で何かをやったことは数える程しかない。

ただでさえ「変な子」と思われているというのに、もしも突出した記録とかを出してしまったら、ますます化け物のように扱われてしまう。それが嫌で薫は、何事もほどほどに手を抜いてしまい、優秀な結果を残さないようにすることが習慣になっているのだった。

それは学校のテストもそうだし、体力測定だってそうだ。体育の授業で試合とかあっても、絶対に本気にはならないし、徒競走やマラソン大会とかでも必ず手加減してしまう。

つまり、薫は本番に強いと言われることがあるのだが、本当は「普段、適当に手抜きしてるから」というのが正しい。


もっとも、薫は手抜きをすることに後ろめたさとかは全く無い。それどころか、ほとんど意識すらせずに手抜きをしてしまう。それくらいに手を抜くことが薫の習慣になっているのだった。


この「何事もほどほどに」を薫に教えたのは、最愛の祖母、幸子である。それは、彼女の口癖のひとつだったのだ。


「良いかい、薫。『能ある鷹は爪を隠す』と言ってね。本当の力はめったなことで人に見せちゃいけないんだよ。伸び切ったゴムは、元に戻らなくなっちゃうだろう。立派な人というのは、余程のことがない限り、余力を蓄えておくものなんだよ。そうすることで心にゆとりが生まれる。本当の力を出すのは、ここぞという時だけで良いんだ。普段は『何事もほどほどに』だよ。よく憶えておき」


ただし、幸子の言う「ほどほどに」というのは、お稽古事だとか勉強とかをサボっても良いという意味ではなかった。

そういうことは、人の何倍も頑張る。だけど、そうやって身に付けた技や知識を人前で披露する際は、「ほどほどに」するようにということだ。つまり、「ほどほどに」するには、そうできる技や知識が自分に備わっていることが前提条件なのである。

実際、祖母の幸子は、こうも言っていた。


「あのね、薫。努力するのは、人として当たり前のことなんだよ。自分が何かになりたい、何かを成し遂げたいと思ったら、どうすればそれが手に入るかを考えて、努力することだよ。やるべき努力を怠るのは、馬鹿のすることだ。そもそも、何もしなくて手に入る物には、価値なんて無い。欲しい物は、自分で努力して自分から取りに行くこと。分かったかい?」


更に幸子は、こんなことも言っていた。


「努力することは当たり前だって言っただろう。努力そのものに価値は無いんだ。人から評価されるのは、結果だけ。でもね、努力しない限り、その結果は得られない。欲しい物は手に入らない。分かるかい?」

「うーん、それって努力しても、欲しい物が手に入らないことがあるってこと?」

「そうだよ。世の中には、運もあるからねえ」

「そっかあ。つまり、失敗したら、努力が足りないか、運が無いかどっちかってことだね」

「そういうことだよ」


幸子が教えてくれたことは、本当にたくさんある。


「人よりたくさん努力できるってのも、才能のひとつだよ」


「馬鹿は努力しない。努力しないと、少しずつ貧乏になるんだ」


「努力できるってことは、幸せなことなんだよ。勉強したくたって、家が貧乏で働くしかない人もいる訳だし、ほら、マラソンだって、足が不自由な人は走れないだろう?」


幸子は普段、とても優しいのだが、いいかげんなことを許さない人でもあった。

薫がさぼろうとすると、笑顔のままで背中を叩かれる。それは心にズキッと響く痛さで、そうなると薫は、やらざるを得ない。

そして、どんなに小さなことでも何か新しいことができるようになると、幸子は必ず褒めてくれる。それが嬉しくて、いつだって薫は一生懸命になってしまうのだった。



★★★



祖母の幸子からは「何事もほどほどに」と言い聞かされていた薫だったが、小さい頃は、それがうまくできなかったことが何度もあった。

それは、鬼ごっこで鬼の時、すぐに誰かを捕まえてしまい、その子に泣かれてしまったり、ドッチボールで少し強くボールを投げて、その子に軽いケガをさせてしまったり、駆けっこでついつい気分が良くなって、そんなつもりじゃなかったのに、ぶっちぎりの一番でゴールインして目立ってしまった、といった失敗だった。


実際、薫は小さい頃から運動能力が非常に高く、子供の遊びで同年代の子に負けることが無かったのだ。

もっとも、彼女は十二月生まれということもあって身体からだは小柄だし、見るからにひょろっとしていた。それに、いつも無口でぼんやりしてばかり、とても運動ができるようには見えない子だった。


本当は、こうしたギャップこそ、彼女が様々なトラブルを引き寄せてしまう元凶なのだが、そんなことを幼女の薫に言っても仕方がないだろう。

祖母の幸子が言うように、薫には「ほどほどに」させる以外、対策など無いからである。



★★★



薫が六歳になって、小学校に上がる前の三月、薫は、その頃は既に一緒にいることが多かった水瀬美緒みなせみおと、天王池公園に来ていた。

外出の目的は、分校の入学に必要な文房具とかを買う為だった。薫は母の佳代に、「外商のカタログからじゃなくて、自分の目で見て買いたいの」とダメ元で言ってみたら、思いがけなくあっさりと「行っても良いよ」という言葉が返ってきたのだ。


そこに美緒も同行することになったのは、この話が出た時、たまたま薫の隣に美緒がいたからだ。いや、正確には薫が「自分の目で見て買いたい」と言い出したのも、美緒の発案だったりする。更に、連れて来てくれるのが佳代でなくて家政婦の野崎小夜(さよ)だというのも、薫と美緒が協力し合って、そうなるように仕向けたからだ。

佳代は出不精で小夜はその逆。そんな二人をうまく刺激して、思い通りの方向へと誘導してしまうのは、幼くして人の機微に聡い美緒の入れ知恵があってのことだった。


「どうせならさあ、買い物の後に天王池公園に寄ってもらって、そこで遊んじゃおうよ」


当時から美緒は、こうした策略に長けていたのだ。


その美緒は自分から小夜にお願いして、美緒の母親、水瀬雅美みなせまさみの了承を取り付けていた。ここは佳代ではなく、ちゃっかりと小夜に頼んだというのがポイントだ。

薫の母の佳代は、この水瀬雅美のことが苦手だった。彼女は元々天王市出身で、明るくて少々押しが強い。内気で大人しい佳代とは性格的に合わないのだ。しかも佳代より三つ年上で、薫の父のたけしと同じ歳。

実は、雅美とたけしは同じ天王北高出身で、同級生だったりする。更に美緒の父親の水瀬宏みなせひろしも同じ同級生で、宏と雅美は北高在学中から付き合っていた。そんな訳で、武は宏と雅美の夫婦と仲が良いのだが、佳代だけは違う。佳代も同じ北高出身なのだが、三学年違うので在学期間は重なっていない。


さて、この日は晴天で三月にしては暖かく、外で遊ぶのには最高の天気だった。

当然、薫は浮かれていた。中州なかすから外に出たのは久しぶりだったし、今日は美緒が一緒なのだ。嬉しくない筈がない。

行きは、水草家の使用人で小夜の旦那の野崎清隆(きよたか)にワゴン車で送ってもらった。この後、彼は農協と役場に用事があるそうで、帰りも時間が合えば送ってくれるらしい。でも、天王池公園でいっぱい遊びたいから、たぶんタクシーで帰ることになるだろう。

薫と美緒は文房具屋に付くと、早速あれこれと見て回った。二階建ての店舗には、カラフルなペンや色紙、筆入れ等が所狭しと置いてアリ、見ているだけで嬉しくなってしまう。だけど、それ以上に薫の気持ちは外で遊ぶことに向いていた。それで薫は買い者を早めに切り上げると、美緒と小夜を促して天王池公園の方に向かった。


天気が良いからか、平日なのに天王池公園は随分と賑わっていた。薫くらいの年頃の子もたくさんいて、活発な男の子とかは、知らない子とも一緒に公園中を走り回っている。子供特有の甲高い歓声が、あちこちから聞こえてくる。何だかとっても楽しそうだ。

普通、そういった男の子達は、たいてい女子と一緒には遊びたがらないものなのだが、この時は、男(まさ)りの美緒がいた。


「ねえ、あんたら、うちらも混ぜてよ」

「やーだよ。女なんかと遊んだって、つまんないじゃん」

「なんでよ」

「だって、鬼ごっこですぐ捕まるし、捕まえたらすぐ泣くし」

「うちらは違うよ」

「そんなの分かるもんか」

「だったら、競争しようよ。ねっ、薫」

「えっ?」


薫は、美緒から話を振られて困惑した。薫は基本、人見知りだ。知らない子とは正直、一緒に遊びたくなんかない。

けど、そんな薫の様子に気付いていながら、美緒は薫の背中を押してくる。


「この子もやるって」

「えっ、大丈夫なのかよ、その子」

「全然、大丈夫。駆けっこだって、あんたらには負けないよ」

「お前、そんなこと言って、後で泣いても知らねえからな」


美緒は天王池公園一周の駆けっこをしようと言ったけど、さすがの男の子達も無理だと言って受け入れてはくれなかった。それで銅像のあるところまでの駆けっこになったのだけど、薫は男の子達と競り合って、焦った先頭の子が転んだので、薫が一番、美緒が二番で銅像にタッチした。

そこまでは、まあ普通のことだったのだが……。・


「ちぇっ、今のはまぐれだ。今度は池の周り一周でやるぞ」

「えっ、さっきは嫌だって言ったじゃん」

「やっぱ、さっきのは、張ったりかよ」

「違うよ。やるなら、乗るけど。良いでしょう、薫」


正直、薫にはどうでも良かった。


「じゃあ、やるぞ。用意、ドン」


いきなりだった。男の子達は五人。一斉に走り出してしまった。

「これ、ズルじゃん」と言いながら、美緒も走り出す。仕方なく薫も付いて行ったのだが、乗り気じゃない薫は、ゆっくりだ。


「美緒、もっとゆっくりで大丈夫だよ」

「でも、あいつら……」

「そのうち、バテるって」


美緒は少し考えて、「それもそうだね」と言った。

そして、ニ分もしないうちに、薫と美緒は男の子達をあっさり抜いてしまっていた。


やがてゴールした薫と美緒だったが、男の子達はちっとも来ない。言い出しっぺの男の子だけがぜえぜえ言いながらやって来て、ゴールしたかと思ったら地面にへたり込んでしまった。それと同時に、その子の母親がやって来た。


「こら、たっくん、行くよ……てか、どうしたの?」


地面に膝間づいた状態のまま苦しそうにしている我が子を見た母親は、初めのうち困惑顔だった。そうかと思うと、さっと振り返って、そこにいた薫と美緒に向かって甲高い声で怒鳴ったのだ。


「あんたら、うちの子にいったい何したのっ?」


まさに鬼のような形相で睨み付けてくる母親には、美緒もビビった様子だった。

でも、薫は冷静だった。


「何もしてないよ。この子達がね、お池の周りを駆けっこしようって言うから、一緒に走ってあげただけだよ」


そう言う薫は、息ひとつ乱れてはいない。

そうこうするうちに、途中でへばって歩きになっていた四人の男の子達が、とぼとぼとやって帰って来た。そして、薫たちの後ろで何事かと見ている。


「あんた、何いってんの? あんたがズルしたのが、みえみえじゃないの?」

「えっ? 何で?」


薫には不思議だった。いったい何を根拠に、薫がズルしただなんて言うんだろう。それに、言い方だっておかしい。姿は大人の人なのに、まるで子供みたいな物言いだ。


「オバサン、嘘つきなの?」


薫は単に不思議だったから、そう言っただけなのだが、その女は、完全に逆上してしまった。そして、薫の手を掴もうと、さっと片手を伸ばしてきたのだ。

当然、薫はける。もっと小さい頃から、こういう大人の扱いには慣れているのだ。

女の手が空を切った。薫の思い掛けなく俊敏な動きに、彼女はバランスを崩して倒れ込んでしまう。

薫は咄嗟に、彼女の後ろ側に回り込んでいた。その前に美緒が自分の身を差し込んで、薫を女から守ろうとする。

起き上がった女は肘を地面に打ち付けたらしく、顔を歪めながら肘の辺りを押さえていた。


「ううっ、いた―い。あんた、こんなことして……」

「薫、行こうよ」


喚き出した女が薫を再び睨んだ所で、美緒が薫の手を引いて立ち去ろうとする。ところが、そんな美緒の肩を女の長い手が掴んだ。

『ヤバいかも』と薫が思った時、その場にすーっと小夜が現れて、彼女に話し掛けた。


「奥様、お手を放して下さいませ」

「な、何よ」


さっと女が振り返って、小夜の方を見た。この時の小夜は着物姿で、普段どおりの前掛けをしている。


「誰よ、あんた」

「中州の水草家で家政婦をしております、野崎小夜と申します」

「そ、その子達は何なのよ」

「何かと申されましても……水草家のお嬢様とそのお友達でございますが?」


小夜の言い方には、どことなく凄味があった。その女が水草の名前を知っていたかどうかは分からないが、たぶん、小夜の様子から何かを感じ取ったのだろう。

もう大丈夫だと思った薫は、美緒を女から引き離した。

女は、薫の方をキッと睨み付けると、ようやく立ち上がった息子の手を引いて、すごすごと離れて行く。その後ろに、他の男の子達も付いて行って、誰もいなくなってしまった。


「お嬢様、そろそろ参りましょうか?」


薫は、もう少しいたいと思ったから、首を横に振る。すると小夜は、「だったら、近くの喫茶店にでも行きましょうか?」と提案してくれた。


「この近くに、和風の喫茶店があるんですよ。餡子がいっぱい載った小倉トーストなんていかがでしょうか?」


それに反応したのは、美緒だった。


「あたし、行きたーい」


季節は春だけど、その日は晴天でぽかぽか陽気だったから、たぶん着物姿の小夜は少し暑かったんだろう。それに、その喫茶店、「喫茶愛愛(あいあい)」で甘い物が食べたかったのかもしれない。

そうして初めて入った喫茶店には物珍しさもあったし、大好きな美緒も一緒に美味しい物が食べれて、薫は大満足だったのだった。


そのお店で薫は小夜に尋ねてみた。


「ねえ、小夜さん。さっきのオバサン、何であんなに怒ってたの?」


薫は、本当にそれが不思議だったのだ。

小夜は答えてくれないかもと思ったけど、意外にも答えが返って来てびっくりした。


「それはですね、たぶん、お嬢様のことが羨ましかったんですよ」

「えっ、どういうこと?」

「つまり、お嬢様のことが、何か特別な人に見えたんだと思いますよ」

「……?」


小夜は、それだけ言うと、自分用にも頼んだ小倉トーストを美味しそうに口にした。

薫は、小夜が言ったことが良く分からなかったけど、『まあ、いいや』と思って、それ以上は訊かないことにしたのだった。


この日のことを思い返してみた薫は、少々困惑していた。二回目の駆けっこで、薫は「ほどほどに」ゆっくりと走ったのだ。

スタートの時だってゆっくりだったし、その後も美緒と言葉を交しながらのんびりと走った。

男の子達が途中でへばって、勝手に負けてしまったのだ。


それなのに、あの女の人は怒り出してしまった。


とすれば、薫にできるのは、ああいった子を相手にしないことだけだ。

やっぱり、知らない子と一緒に遊んじゃ駄目だ。特に男の子は要注意。知らない大人は、もっと気を付けなきゃだけど、これからは子供にも気を付けよう。


こうして薫は、ますます人見知りになって行くのだった。



★★★



やがて薫が川田かわた村立北小学校中州(なかす)分校に通うようになって、一ヶ月と少し経った頃のことだった。ゴールデンウィークが終わった後、薫にとって初めての運動会が行われた。

そして、この運動会の徒競走において、薫は少々やらかしてしまったのである。


薫が通う中州分校では生徒数が少ない為、低学年の徒競走では男女が一緒に走ることも珍しくはない。

しかも、この年は一年生も二年生も共に三人ずつしかおらず、一、二年生合同で実施することになったのだった。


男女一緒に走るとはいえ、男子は一年の河村直人(なおと)ただ一人。低学年は男女の体力差よりも歳の差の方が普通は大きいのだから、男子が一緒なのは、あまり問題にならない。それよりも少々問題なのは、走る距離だった。低学年の徒競走としては、だいぶ長めに設定されていたのだ。つまり、二百メートルトラックの四分の三も走ることになっていたのである。

たぶん、こうした方が応援のし甲斐がいがあるだろうと先生方が見物の親達におもねった結果なんだろう。


だけど、体力の無い一年生の中には、途中でへばっちゃう子がいるんじゃないの?


どうやら、担任の飯田早苗(さなえ)先生は、そんな風に考えていたようだ。それで彼女は、教頭先生に文句を言いに行ったらしい。でも、彼女の意見は、当然のように却下されてしまったのだという。


「ごめんねえ、先生の力が及ばなくて。だけど、やるからには、ちゃんと走るんだよ。ペース配分とか言っても難しいだろうから、とにかく一生懸命やりなさい」


こんな訳の分からないことを聞かされた上で、薫たちは練習で何度かトラックの周りを走らされた。薫は全然大丈夫だと思ったのだが、飯田先生は薫の方を見て、何度も「大丈夫かなあ」と不安げな顔を向けてくる。

薫には、先生は何が不安なのか分からないことが、不安になってしまった。


ちなみに、薫が小夜さよから聞かされた下馬評では、こんな感じだった。

唯一の男子、河村直人は、ゲーム少年ということもあって、あまり運動が得意そうでないので上位はムリ。

となると、二年だが、三人の中で一番に運動が得意そうなのは、村会議員の娘、水野碧衣(あおい)だろうというのが大方の味方だった。

そして、次点候補としては、意外にも一年の水瀬美緒だった。当時の美緒は大柄な子で、二年を入れても一番背が高かったからだ。

逆にビリ予想としては、薫がダントツの一位だったのだが、これは外見的に薫が一番小さくて、体格も痩せていたからだろう。


「お嬢様。ここは本気になって、この下馬評を引っ返してやって下さいよ」


この下馬評を教えてくれた時、小夜はこんな風に言っていたのだが、この時の薫は、まだ幸子の「ほどほどに」を守るつもりでいた。つまり、三位狙いだったのだ。


ところが、担任の飯田先生は、尚もしつこく薫のことを気にしていた。直前になっても「頑張ってね」を繰り返す。更には、「ビリでも大丈夫だから、一生懸命に走るのよ」とまで言い出す始末。


「薫ちゃんには、ちょっと距離が長いかもしれないけど、疲れちゃったらゆっくりでも良いからね。最後まで頑張って走って、ちゃんとゴールするのよ」


ここまで言われてしまうと、さすがに薫もムッとしてしまう。だって、こないだなんか天王池公園一周を余裕で走り切ったのだから。

薫は、そう言いたくなるところを、頑張って黙っておいた。どうせ、そんなこと言ったって、この先生は信じてくれないだろう。

この運動会までの間にも体育の授業は何度かあったのだが、そこでの薫はきちんと祖母の「ほどほどに」の言い付けを守っていた。だから、飯田先生が薫の身体能力の高さを知らなくてもしょうがない。


まあ、いいや。一番じゃなくたって、飯田先生は褒めてくれるに違いない。だから、やっぱり三位狙いで行こう。


薫は、そんな風に心に誓っていたのだが……。



★★★



この日、父のたけしは、機嫌が良かった。彼の周囲には、瀬古や野崎といった使用人が数多く集まっていて、缶ビール片手に娘の最初の運動会を見学していた。

たぶん、そんな使用人達の手前もあったんだろう。その時、武は薫にこう言ったのだ。


「薫、ぜってえ負けるんじゃねえぞ。もし一等を取ったら、後で褒美をやるからよ。思いっ切り全力で走るんだぞ」


その場には当然、祖母の幸子も母の佳代も来ていたのだが、二人ともたけしには何も言わなかった。


たけし以外にも、「薫ちゃん、頑張って」とか「一生懸命やるんだよ」と言ってくれる人はたくさんいた。みんな、親方衆やその家族とかだ。

それだから、薫が多少誤解してしまったとしても、それは薫の責任ではない。


そして、薫は全力で走ってしまった。その結果、薫は当然のように一位である。しかも、二位の水瀬美緒に十メートル近くの差を付けてしまっていた。


一方、ビリはというと、二人いた。一人は唯一の男子である河村直人。もう一人は二年の吉田舞香(まいか)。中州に最後まで残った小型のスーパー、吉田商店の次女である。

そして、この徒競走でもっとも大きな声援を得たのは、懸命のビリ争いをした二人、直人と舞香だったのだ。

この二人の走る姿は、まるでスローモーションを見ているかのように遅かったのだが、最後は二人並んで倒れ込むようにゴールしたのである。

観客の親達の何人かがビデオ撮影をしており、それらを使っての判定を行う意見も出たのだが、結果は仲良く同着で五位。これはビリを二人作っただけのようにも思えるのだが、この結果が発表された時、会場は割れんばかりの大きな拍手に包まれたのだった。


ところが、薫には誰も拍手をしてくれなかった。

あんなに「頑張って」と言ってくれた飯田先生でさえ、同着ビリの直人と舞香に掛かりっきりで、その二人の頑張りを褒めまくっている始末だ。


これじゃあ、薫は何も頑張っていなかったみたいだ。

いや、確かに薫は普通に走っただけで、別に特別なことをした訳じゃないけど、それでも、どうにも納得が行かない。


お昼休み、薫は肩を落として家族の下に向かったのだが、普段からの無表情が災いしてか、そんな薫の胸中に気付く者は誰一人としていなかった。


悪いことは、更に続く。

父のたけしは、薫に褒美をくれると言った筈なのに、「俺は、そんなことは言ってない」と言い出す始末。最低の親である。


屋敷に戻った後で、その武は薫の何が駄目だったかを教えてくれた。


「あのな、薫。ぶっちぎりで一番を取ったって、誰も褒めてはくれねえぞ。二番の子と最後まで競り合って、最後の最後にほんのちょっとだけ前に出て勝つ。見てる方からすれば、それが一番おもしれえんだよ」


実は、この時の徒競走において、大人達はいろいろと賭け事をしていて、薫の父のたけしも、野崎小夜も、それから小夜さよ以外の使用人達にも様々な思惑があったようなのだが、そんなのは当の子供達にとってあずかり知らぬところである。


それで、薫は悟ったのだ。

ただ勝つだけじゃ、駄目なんだ。大事なのは「ほどほどに」勝つこと。

それと、大人達がどんなに「頑張って」だとか「全力でやれ」とか言ったって、そんなのは聞かなくて良い。

本気でやったって馬鹿を見るだけだ。これからは、「ほどほどに」で行こう。


この後、薫は「ほどほどに」を徹底するようになり、緊急時以外は本来の実力を隠すようになった。

そのうち、それを彼女は無意識に行えるようになって行き、そんな薫を周囲の人達が、「本番に強い薫」として認知する結果へと繋がって行くのである。

更には、それが「格上の相手にも、あっさりと勝ってしまう」現象を繰り返し引き起こす要因でもある訳なのだが、その起源がまさか彼女の幼少時にあることは、本人も含めて、誰も知る由もないことなのであった。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

次話も薫の子供時代の話になります。


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