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第45話:沙希と喫茶店(2) <翔サイド>

再度、見直しました。


実家から二分程度の距離にある和風喫茶店「喫茶愛愛(あいあい)」で高校の同級生、山口沙希(さき)と会っていた藤田(かける)は、元カノの水草薫みずくさかおるについて自分が如何いかに何も知らなかったかを思い知らされ、愕然としていた。

それでも、これまでの情報だけでは、翔の薫に対する疑問を全て解消するには至っていない。


翔は、沙希の次の言葉をじっと待っていた。

その沙希は、冷たくなりかけたコーヒーをひとくち飲んで、それから、大きく溜め息を吐いた。

翔は、そんな沙希の沈黙に堪えられなくなって、つい弱音を洩らしてしまった。


「だって、薫は何も言ってくれないし……」

「だろうね。薫もああ見えて頑固だから、簡単に自分のことは言いそうもないもんね」


翔の言い訳を沙希が拾い上げて、ゆっくりと左右に首を振る。そして、またもや溜め息を吐いた後で、おもむろに語り出した。


「薫ね、就職に失敗した後、派遣で働いてたんだけど、そっちも長続きはしなくてさ。なんか、最初の派遣先で産休の子が戻って来たことで、薫のせいじゃないのに契約が途中で破棄されちゃったんだって。で、その後、ちっとも新しいとこが見付かんなくて……」

「なんでなんだ?」

「派遣って、高学歴で仕事ができる子は、却って嫌がられるらしいんだ。翔のとこみたいな一流会社は別なんだろうけど、普通の会社だと、自分より良い大学出てるとコンプレックスを刺激されちゃうんだって」


沙希の話を聞いて、翔はこないだの歓迎会で葉月はづき千春ちはるが話してくれたことを思い出していた。


「結局、薫はバイトの掛け持ちで何とか食い繋いでたみたいなんだけど、それだけじゃ奨学金が返せないわけじゃない。それでも三年近くは頑張ってたんだよ。でも、去年の十二月、お父さんが倒れちゃってね、こっちに帰って来たんだ」

「……えっ?」


沙希はその後、薫の家も圭介けいすけの所みたいに農家の経営で行き詰っていたこと、しかも薫の家の場合は、かなりの額の借金があったこと、父親の治療費とかで家と田畑を売らざるを得なくなってしまったことなどを話してくれた。


「でも、圭介の所にしろ薫の所にしろ、農家の人って本当に悲惨ね。しかも薫のとこみたいに広い土地を持っていた大規模な専業農家ほど、悲惨な状態にあるの。今までの設備投資が大きい分、借金が巨額になるわけだから。翔なら、この辺のことは良く分かるでしょう」


沙希はそこで一呼吸置くと、残ったコーヒーをゆっくりと飲み干してから、続きを語った。


「たぶん、知ってると思うけど、歴史的な観点からしても、この辺りの農家って、昔から相当に裕福だった訳じゃない。だから、織田信長が、あんだけ大量の鉄砲を揃えられたんだよね」

「その裕福だった農家が、今は散々な目に遭ってるって言いたいんだな?」

「そういうこと。あ、そう言えば、信長の天下統一には、薫の先祖も大活躍したんだよね」

「えっ、薫のとこが?」

「そうよ。あんた、知らないの?」

「いや、まあ」

「ええーっ、知らないんだ。この辺に住んでる人だったら、結構、常識だと思うけどね。ふーん、翔って、本当に薫のことには関心がないんだね」

「うっ」

「まあ、いいわ。今度、中州なかすの水草家でググってみなよ。薫の先祖のことが、いろいろと分かると思うよ」


沙希の口ぶりからすると、中州の水草家というのは、かなりの名家だったようだ。確かに昔、そんなことを剣道部の後輩から聞かされた気がするのだが、忘れてしまった。


「まあ、信長の天下統一には、翔の先祖だって商家として貢献したみたいだし、その辺で水草家と藤田家は、昔から繋がりがあったのかもね」


天王市は門前町であると同時に、信長の時代には港町でもあり富が集まる商都でもあった。その財力の下地は、大河に育まれた周辺の肥沃な大地を耕す農家によるものであることは間違いないだろう。

沙希は教師なだけあって、さすがに郷土の歴史や風土に関しては詳しかった。


「うちらの母親世代のことだけど、名古屋の嫁入りが凄いって話題になってたの知ってる? テレビドラマとかにもなったんだけど、あれもこの辺りの農家が裕福だった証拠なの。今じゃそんなの、昔話でしかないんだけどね」


天王市が過去に繊維産業で栄えたのも、大河が運んでくる豊富な水資源と、この辺りの豪農が保有する潤沢な資金のおかげらしい。そうした歴史を知れば知るほど、ここ数年に起こった専業農家の急激な没落ぶりは、目に余るものがあるということのようだ。


「それに最近、医療費が高騰してるじゃない。貧乏人は医者なんか行かずに、さっさと死ねって風潮だと思わない?」


確かに最近の日本では、高額の医療費が当たり前になっていることは、翔も知っていた。大きな病気をすると、ちゃんとした民間の医療保険に入っていない限り、家も財産も失ってしまうことがざらにあるとも聞く。原因は混合診療の普及で国民健康保険でカバーできる範囲が、かなり限られたものになってしまったからだ。

だから一流企業では、福利厚生の一環として民間の保険会社と提携し、より広範囲をカバーするグループ保険を社員に提供するのが普通だ。アメリカでは昔から行われていることだが、日本ではまだここ数年の変化なので、流れに乗り遅れた人たちの間では、様々な悲劇が起きているらしい。


「で、薫の親父さん、その後どうなったんだ?」

「今年の二月に亡くなったの。まだ五十だったのに、残念だわ。亡くなったのは、昨年末に薫が戻ってから一ヶ月と少しだったかな。薫、こっちに来てから毎日、病院で寝泊りして世話してたんだよ」

「そうだったんだ……」


翔は、自分の父親が死んだ時に助けてもらったことを思うと、薫に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「薫のお父さんのお葬式には、もちろん私も参列したんだけど、凄く大勢の人が集まっててね。天王市で一番大きな斎場を使ったんだけど、変な人達まで来ちゃって、いろいろと大変だったんだよ」

「変な人って?」

「チンピラみたいな連中のことだけど……、まあ、その話は止めとく」

「何だよ、それ」

「うん。薫の家って名家だって言ったでしょう。没落したとは言っても、それなりに凄い影響力あってさ。市長とか助役とか警察署長とかも参列してたしね」

「そうなのか?」

「うん。そもそも、薫の家を没落させたのって、たぶん、役所とかのお偉いさん達が絡んでるんだけど……って、こういう所で言う話じゃないか」


いきなり沙希の口から物騒な話が飛び出して、翔は耳を疑ってしまった。


「えっ、それって、本当の話かよ?」

「うん。そうだね。ごめん、忘れて。翔って、水草家について、何にも知らないんだもんね」

「……?」

「えーと、まあ、取り敢えず関係するとこだけ話すとね。薫のお父さんの葬儀って、千人以上は集まったと思うんだけど、喪主は薫がやっててね、ほら、あの子って、そういう場面でも、全く怖気付いたりしないでしょう?」

「まあ、動じない女だもんな」

「うん。あ、でも、あそこでは、中州の人達に『最後の姫君』って呼ばれてたんだよね」

「えっ?」

「薫のお父さんが亡くなったことで、伝統ある水草家の没落が決定的になった訳じゃない。薫って、その直系の娘だからさ。それで、中州の人達にとっての薫は『最後の姫君』だとか、『ラストプリンセス』ってことになるって訳なんだけど……」


最後の所は小声でぼそぼそと言っていて、翔には聞き取れなかった。葬儀の時の時のことを思い出したのか、沙希が涙声になってしまったからだ。

翔には「最後の姫君(ラストプリンセス)」という言葉が大げさに思えたのだが、すぐに思い直した。

きっと、その時の薫が「お姫様」のように凛として美しかったということなんだろう。

薫は、見た目だって相当にスペックが高いのだが、普段は陰気な態度とか粗末な服装で隠されてしまっている。それに薫は、普通の人だったら怖気付くような舞台でこそ、堂々としている所がある。


その後、沙希は涙を拭ってから、思い出したように話し出した。


「ごめん。あの子、告別式の後で長いスピーチをしたんだ。それがさ、私みたいに、中州とは関係ない人間でもジーンとくる内容でね。そのスピーチの終わりの方で、中州がこんなことになったのは、全部自分のせいだって言ってた」

「えっ、水草家のことだけじゃなくてか?」

「水草家は中州全体を治める立場だったからじゃないかな。それに、借金があるのは薫の家だけじゃないみたい」

「そうなのか」

「うん。薫って、いつも無表情なんだけど、あの時は特に不気味な感じだった。まあ、すっごく綺麗ではあったんだけどね。それこそ、神々しいまでに綺麗だった……。あ、それから、最後まで全く泣いて無かったかも」

「そっか。てことは、あいつ、相当にこたえてたんだろうな。全然、知らなかった……」

「知らないのは仕方ないよ。あん時、陽輝はるきと相談したんだけど、翔には言わないでおこうって……」

「なんでだよ」

「怒んないでよ。だって、薫のこと考えると、知られたく無いんだろうって思ったんだよ。あの子、自分の弱い部分って、翔には見せたくないみたいだったから……てか、薫のそういうとこ、本当は翔も見たくなかったんじゃないの?」


図星だった。


「たぶん、あんたのそういうずるい部分、薫は見抜いてたんだと思う。だから、自分の家の事情とかも、絶対に翔には知られないように必死に隠してたんじゃない?」

「……っ」

「もっとも、薫って自分の悩みとかは、あんまり人に言わない子だけどね。私にだって、あんまり教えてはくれなかったし……美緒みおは知ってたみたいだけど」

「幼馴染だからだろ?」

「うん、そうだね」


沙希は、そう呟くと下を向いてしまった。



★★★



「ねえ、翔ってさあ。ひょっとして、薫の奨学金のことも知らないんじゃないの?」


しばらく黙っていた沙希から、またもや意外な言葉が投げかけられた。


「奨学金って、何のことだ?」


もちろん藤田翔には初耳だった。山口沙希は、そんな彼の表情から全てを読み取ったようだった。


「やっぱりね。薫のこと、本当になーんにも知らないんだ」


沙希は、目の前のグラスに残った氷を噛み砕いていた。その間、翔は沙希の話の続きをじりじりとした気分で待った。

 

やがて、おもむろに沙希が口を開いた。


「薫はね、翔が東京の大学に入るってことで、自分もどうしても東京に行きたいと思ったわけ」

「知ってるよ。だから、高校三年の夏から猛勉強を始めたんだよな」

「それはそうなんだけど、あの時はもう薫の家は借金まみれで、薫を東京の大学なんかにやる余裕なんか無かったの」

「えっ、そんな前から……」

「そうよ。あの時、薫が頑張ったのは勉強だけじゃないの。薫はね、どうしても翔に付いて東京に行きたいって、そりゃもう、必死だった。ただ、勉強だけやってりゃ良かった翔とは、大違いだよ」

「……そうだったんだ」

「その時、初めて薫は、父親と大喧嘩おおげんかしたの。それで必死になって借りられる奨学金を探して、やっと見付けてきたのが、軍が出してる奨学金。知ってるでしょう、有名だから」

「ああ、こっちに来て知ったよ。あちこちで宣伝してるもんな。確か入学金に授業料全額と在学中の生活費の一部まで借りられて、五年間軍に勤務すれば返済しなくていいとかいう奴だろ。軍も人集めに必死なんだって思ったよ」

「そう、それよ。もっとも薫が借りた時は、まだ自衛軍じゃなくて自衛隊だったし、その奨学金自体、今みたいにメジャーじゃなかったんだけど、内容はだいたい同じ。確かに見かけは良いんだけど、実際は学生にとって相当シビアな制度よ。返済時は金利が付くし、その金利は他の奨学金よりも若干高めに設定されててね。まあ、借りられる金額が大きいから当然なんでしょうけど、フルで借りた場合、卒業と同時に一千万を大きく越える借金を抱えることになるの。それをコツコツと返して行かなきゃなんないわけ。翔みたいに一流企業に就職できれば返済も可能だろうけど、派遣とかバイトとかじゃ絶対に無理ね。だから、借りた学生の大半が、最終的には軍に入るしかないわけ」


沙希は、そこまで一気に話してから、再びコップを持ち上げて、何も入っていないことに気付くと、苦笑して見せた。


「薫はね、その奨学金を見付けて、自分がその条件に適うことを確認してから、親には一切、迷惑を掛けないって啖呵たんかを切ったらしいの。それで薫は、ちゃんと大学に合格して、借りられる上限ぎりぎりまで奨学金を借りたってわけ」

「確かに、軍の奨学金は評判が良くないよな。俺も大学のゼミの先輩から、『絶対に借りるな』って話は聞いたことがあるよ」

「そうね。それがまっとうな人の考えだと思う。軍の奨学金を借りるってのは、まさにギャンブルなのよ。人生っていうか、自分の命そのものを賭けた究極のギャンブル。大げさに聞こえるかもしれないけど、私は全然そんなことないと思う。それなのに、それを分かって借りてる学生は、ほとんどいないんじゃないかな。たいていの子は、軍に行くハメになって初めて気付くのよ。自分が過去にしでかした大きな過ちって奴にね。だけど、その時にはもう遅いってわけ」

「つまり、薫が奨学金を借りたのは、間違いだったって言いたいのか?」

「うーん、どうだろう。私は、反対したんだよ。でも、あの時の薫は、私の言葉なんか聞きゃしなかった。翔、あんたを追い掛けるので必死だったの。私もそれが分かってたから、それ以上は強く言えなかったんだ」

「そんなことがあったんだ」

「そうよ。実はね、私も東京に行ってみたかったんだ。私は私で夢があってさ。でも、私の夢は薫ほど強いもんじゃなくて、私はそうそうに諦めた。そんな私だったからこそ、最後は薫のこと、応援したくなっちゃったんだよね」


沙希は、ずっと遠くを見る目をしていた。



★★★



「それで薫は奨学金が返せなくなって、軍に行くしかなくなったってことなんだな?」

「ううん、それだけじゃないと思う」

「あと、何があるんだよ?」

「家の借金だよ。さっき、話したじゃない」

「そっちは、屋敷と田畑を売って返したんじゃないのか?」

「ううん。まだあるんだってば。さっきからそう言ってると思うけど」

「自己破産とかは?」

「軍の奨学金については、駄目なの知ってるよね?」

「ああ。だけど、家の借金の方は?」


翔の問いに、沙希は首をゆっくりと左右に振った。


「農協からも相当な金額を借りてるみたいなんだけど、その分の債権がたちの悪い貸金業者に回されてて、自己破産なんかしたら、殺されちゃうんじゃないかな」

「なんだよ、それ。警察は何を……」

「無駄よ。今の警察って、暇じゃないから」


つまり、地方自治体の財政難の影響で、どこの警察も人手不足ということだろう。その結果、天王市のような地方都市でも、治安が悪化している訳だ。


「となると……」

「八方塞がりなのよ。だから、軍なの。とにかく、薫の家には、まだ相当な金額の借金が残ってて、その分も軍から追加で借りることにしたみたい。要は、これから軍で薫が働く分の前払い金みたいな形なんじゃないかな。私の想像だけど……」

「それって、家の借金を薫が肩代わりするってことだろ。それで死ぬまで働かされるんじゃ……」

「翔ったら、そんな言い方しないでよっ……あ、ごめん」


沙希が謝ったことで、翔も「ごめん」と言って、頭を下げておいた。

それから沙希は、黙り込んでしまった。


翔の意識は、自然に薫の借金へと向かった。

薫が抱える借金の金額が分からない以上、具体的なことは言えないが、それがバイトとかで返せるものでは無い事は、翔にも容易に想像が付いた。となれば、薫は相当な決意をして軍に行くことを決めた訳だ。

そこに思い至った時、翔の口から自然に言葉が零れ落ちてしまった。


「薫は、凄いよな」


翔の言葉に沙希は、「そうね」と掠れた声で返した。


「奨学金の返済だけでも大変なのに、家の借金まであるんだもんね」

翔は「そうだな」と相槌を打った。


普通だったら、とっくに心が折れてしまっていても不思議じゃない。

それを思うと、薫のメンタルは相当に強い。


それには、沙希も同感だったようだ。


「奨学金のことだけだって、薫は凄いよ。本当はね、さっき言った夢を叶える為に私も奨学金を借りようとしたんだ。だけど、両親に猛反対されて、私は親を説得できなかった。それなのに薫ったら、親には絶対に迷惑を掛けないとか言って、それを実現しちゃうんだもん。薫らしいよね」


そう言った後、沙希は翔の方に自嘲じみた笑みを向けてきたのだった。



★★★



その時の翔は、ただ啞然としていた。

今の薫を取り巻く悲惨な状況、それでも健気に立ち向かおうとする薫の強い意志、そして何よりも自分自身に対する思いに圧倒されていたのだ。


翔は、薫がそこまでのことをして東京に来ていただなんて、思ってもみなかった。だけど、これで全てのことがしっくりくるのだ。


薫がなんであんなに痩せていたのか?

なんで、パンの耳ばかり食べてたのか?

なんで、いつも同じ服ばかり着ていたのか?

なんで、化粧のひとつもしてこなかったのか?

なんで、歩いてばかりのデートなのに、誘えば必ず来てくれたのか?


あの晩、どれほどの決意をして、渋谷の道玄坂に俺を誘ったのか?


たぶん薫は、俺に迷惑を掛けまいと必死だったんだろう。だから、自分が貧乏だということをひたすら隠していたんだし、俺に「彼女を作ってみたら?」などと心にも無いことを言ったりもしたんだ。

それでも薫は、きっと俺との間にもっと確かな繋がりが欲しくて、勇気を振り絞って俺を道玄坂に連れて行ったんじゃないのか?


そして、俺が入社式前日のあの時、薫はこれ以上、自分が俺の隣にいると迷惑になると思って、自ら身を引いた……。


そんな薫に対して、今までの俺はいったい何をしてきたんだろう?

いや、何にもしてこなかったじゃないか?


そのことに思いが至った時、翔は目の前が真っ暗になってしまった。


翔は、薫のことをそれなりに大切に思っていながらも、常に彼女との間に一線を引いていた。そして、その線から先に踏み入らないようにしてきた。

彼女の食生活にしたって、「草ばっか食べてる」だなんて茶化したり冷やかしたりするんじゃなくて、もっと真剣に追及していれば、いくら薫だって少しは心の鎧を解いてくれたかもしれないのだ。

何かひとつでも掴めさえすれば、そこから芋づる式に様々なことが明らかになった筈だ。


いや、アプローチの方法は他にだってあっただろう。

彼女のあの服装のことだって、「もっと女の子らしい格好しろよ」なんて言ってないで、何故その格好なのかを追求していれば、真実の糸口が掴めた筈だ。

化粧のことだって、そうだ。薫は別に面倒だからって、化粧をしなかったわけじゃなかった。俺みたいに、めんどくさがりとは全く違う。

俺は、何で気付いてやれなかったんだろう。


就職のことにしたって、俺がもっと真剣にアドバイスしてやれば、全部の会社の試験に落ちるなんてことは無かったかもしれない。それに、最後の最後は母の恵美を説得して、うちの実家がやっている会社に押し込むことだってできた筈だ。


翔の実家、藤田家は、地元でそこそこの規模の商社の実質的なオーナーなのである。

ただ、その場合は、母親を説得する上でも、翔と薫との関係を明確にしなければならない。それは、翔にとっては、それなりに高いハードルではある。


そうだ。全ては、そういうことなのだ。

俺は、あいつと真剣に向き合ってなかったんだ。


本当は薄々分かっていたんじゃないか? それなのに、自分の心に蓋をして、見て見ぬふりをしてたんじゃないのか?


薫は、明らかに貧乏だった。

薫の実家は中州なかすの豪農で、本来であれば裕福な筈だ。だから大丈夫だ。

大学生の翔は、勝手にそんな風に思い込んでいたのだ。


あの時、もし薫の金銭事情を知ってしまっていたら、俺はどうしただろう?

ひとつでも何かを知ってしまえば、もう中途半端は許されない。彼女の全てを引き受けるか、それとも彼女を突き放すかのどちらかしかないのだ。

そして、俺には薫を自ら手放す選択肢は無い。


たぶん、薫に対して「好き」とひとこと言ってしまえば、全ては変わっていたのだろう。

それが突破口になって、俺は薫の全てを受け入れざるを得なくなっていた。

それが分かっていたから、たぶん俺は、無意識のうちに避けたのだ。そして、薫との関係をずっとあいまいなままにして放置した。


――責任は、全て自分にある。


翔は、頭を抱えてうずくまりたくなった。



★★★



「翔、翔ったら。どうしたの、黙り込んじゃったりして。ふふっ、あんたにとっては、よっぽどショックだったみたいね。あんた、そういう重い話題って苦手だもんね……」


沙希がぐちゃぐちゃ言っていたが、翔はほとんど聞いてなかった。


「……翔は、いつだってそう。何をやっても、そこそこうまくこなせるくせに、何かを本気でやろうとはしない。剣道だって、本気でやれば県大会にだって行けた筈なのに、そこそこの所までで満足しちゃうの。まあ、松永が翔に輪を掛けていいかげんだから、二人の相乗効果でこうなっちゃったのかもね……翔、聞いてる? おーい、翔、戻って来―い」


目の前で沙希に手を振られて、翔はやっと彼女の方を見た。

沙希は、肩を竦めて呆れ顔で見詰めてくる。


「あんたにも、多少はこたえたみたいね」

「まあな」

「どうせ、またすぐに忘れちゃうんでしょうけど、まあいいわ。翔は翔だもんね」

「何だよ、その言い方」

「あれ、怒った?」

「怒ってねえよ」

「だよね。悪いのは、全部あんただもんね。まあ、いいわ。翔のことは、今はどうだっていい。大事なのは薫のことよ」


沙希の話は、まだ終わっていないようだった。


「今にしてみれば、薫が東京に行ったのは間違った選択だったと言わざるを得ないんだよね。けど薫には、そうまでしてでも東京の大学に行きたい理由があったわけだし、それに薫が自分で決めたことだもの、私がどうこう言うことじゃない。分かるでしょう?」

「ああ」

「でもね、夢に破れた結果がこれじゃ、どうにもやりきれなくってね」


沙希がもう何度目かのため息を吐く。翔には、どう返せば良いのか分からなかった。


「翔にこんなこと打ち明けたって、何にも変わらないことは分かってんだよ。あんたにとっては迷惑でしかないってことも、ちゃんと分かってるつもり。ぜーんぶ、私の自己満足でしかない」

「……迷惑なんかじゃないよ」


何とか口にした翔の言葉は、ただ宙に浮かんでいるだけの空虚なものでしかなかった。


「そっか。そう言ってくれるだけでも嬉しいよ」


沙希の表情がまた一段と暗いものになった。


「薫はね、これまでずっとずっと頑張ってきたんだ。薫は、自分の人生をあんたに賭けたの。でも、薫の思いは、あんたに届かなかった。あんたは、自分が振られたと思ってるのかもしれないけど、明らかに振られたのは薫であって、あんたじゃない。それはもう、翔にだって分かるよね」

「ああ」


本当は、翔も薫の思いには気付いていたのだ。それをきちんとした形で受け取らなかったということは、翔が薫を振ったのと同じことになる。


「だからと言って、翔に責任があるわけじゃない。所詮は薫が自分で勝手にやったことだもんね。全ては自業自得。今日、私が言わなかったら、翔はずっと知らないままだっただろうし、本当は別に知る必要なんて無かったんだろうね。さっきも言ったけど、これは私の自己満足なの。なんか、やり切れなかったんだよ。だって、行き場の無い薫の強い思いが、遠い異国で消えて行っちゃうかもしれないんだもの」


興奮しているせいか、沙希の顔が赤い。酒にはめっぽう強いくせに、興奮するとすぐ顔が赤くなる。


「本当いうとね、私、薫に『もう頑張らなくていいんだよ』って言ってあげたい。けど、私じゃ彼女を救ってあげられないの。口先だけで、そんなこと言っても意味ないもんね。ねえ、翔、昨日の圭介を見て分かったでしょう。あんた、薫がもしあんな風になったらどうする?」


翔の頭に浮かんだのは、昨日、圭介の病室で無言だった薫のことだった。自分がああなると思うと、薫でも、やはり怖かったんだろうか?

あの時に放った「死んじゃえば」は、ひょっとすると自分を圭介に置き換えてみて、発作的に出てきてしまった言葉だったのかもしれない。


それでも彼女は、戦場に行くと言うのだろうか?

たぶん、行くのだろう。あの強情な薫なら、きっとそうする。


先程から興奮ぎみだった沙希の声は知らず知らずのうちに大きくなっていたようで、周囲の客がちらちらとこっちに目をやっている。それに気付いた翔が「沙希、声がでかい」とささやくと、沙希が周囲をさっと見て恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。

翔が「出よっか」と言うと小さく頷いたので、翔は伝票を掴んで席を立った。






ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。

次話は、翔が家に帰って、あれこれ悩んだ後で、薫に会う為にコンビニに向かいます。


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