第44話:沙希と喫茶店(1) <翔サイド>
再々度、見直しました。
◆7月26日(日)
翌朝、藤田翔は熟睡している所を、枕元に置いてあったウェアラブル端末への着信の音楽で叩き起こされた。
普段の翔は就眠モードにしてからベッドに入るのだが、昨夜は眠すぎて、忘れてしまったようだ。
『こら、翔。あんた、まだ寝てたの?』
高校時代の女友達、山口沙希の呆れた声がした。
そう言えば、昨夜、何か約束をしていた気がする。それでも翔の口からは、真っ先に文句が零れ落ちてしまった。
だって、時刻はまだ……。
「……まだ八時じゃないかよ。勘弁してくれよ、日曜なのに」
『うるっさーい。あんた、何いってんの。もう、八時じゃないのっ。昨日、話があるって言ったでしょうがっ。あたしは、もう出掛ける準備はできてて、タクシーだって呼んじゃったんだからね。とにかく、二十分後に集合。ほら、翔の家の近くの喫茶店、えっと……』
「愛愛だろ」
『そうそう。そこに来なさい。一分でも遅れたら、承知しないからねっ』
「ちぇっ、何、勝手なことを……てか、お前んとこから、二十分で来れるのかよ?」
『あ、タクシー来た。今から行くから、良いね?』
「ちょ、ちょっと……」
『もう、つべこべ言わずに早くする。分かった?』
「ま、待てよ……」『じゃあね』
一方的に、通話を切られてしまった。
翔は軽く「ちぇっ」と舌打ちした後、のそのそとベッドから起き上がる。そして彼は沙希のことを、『相変わらず、横柄でせっかちな奴だ』と心の中で罵った後、重たい身体を引き摺って、シャワーを浴びに浴室へと向かって行った。
★★★
藤田翔にとっての山口沙希は、それなりに大切な女友達だ。
沙希は昔、翔の家から割と近い所に住んでいた為、中学と高校の六年間を一緒に過ごしたのだが、親しくなったのは天王高校の剣道部に入ってからである。沙希は翔の親友、松永陽輝の事実上の彼女だったし、翔の元カノ、水草薫の親友でもあった。
その沙希は、女子にしてはさっぱりした性格で、女を意識せずに気楽に話せる相手である。むしろ、何かとすぐにいじけてしまう薫なんかより、ずっと付き合い易い奴なのだが、唯一の欠点というのが怒りっぽいことだ。そうした沙希の短気な性格は高校時代、「鬼軍曹」として剣道部の仲間達に恐れられていたのである。
今回、沙希と会う約束をしたのは、元カノ、水草薫とケンカ別れした原因を探る為だ。
翔と薫は、先週の火曜日に天王池公園で会って気まずい別れ方をしてから、仲直りができていない。昨日の土曜にも顔を合わせてはいるのだが、最後までぎくしゃくした関係のままだったのだ。
しかも、最後に薫の幼馴染である水瀬美緒から衝撃的なことまで訊かされる始末。薫に関しては、薫がこっちに戻って来て以来、とにかく謎が深まって行くばかりなのである。
沙希は薫と親友なので、たぶん、翔とのケンカ別れについても情報を共有している気がする。もし、そうでなくても、沙希からなら薫について何らかの情報が得られるに違いない。
ただ、問題は沙希が薫のこととなると、いつも激甘になることだ。それと沙希の怒りの沸点が低いこと。この二つが合わさると、自分が彼女に怒鳴られる未来しか見えてこない。
だけど、たとえそうであっても、翔は薫のことを知りたいと思った。これは、何事にも淡泊で、あまり執着することのない翔にしては、非常に珍しいことだ。
「仕方ねえな」
そうやって小声で呟きながら、翔は実家の格子戸を潜って外に出た。
すると、いきなり翔は、油蝉の大合唱に見舞われて閉口してしまう。二日酔い気味の彼にとっては、頭の芯にじんじん響く不愉快な音なのだ。
空は快晴。この時間でも、軽く三十度は超えているに違いない。
身体中から吹き出す汗の不快感に苛まれながら、翔は指定された喫茶店へと足を進めて行く。
目的地の和風喫茶、「喫茶愛愛」迄は、ほんの二分程度で到着した。ここは古い日本家屋を改造しており、和風喫茶と称しているとおり、抹茶と和菓子だとか、ぜんざいやあんみつといった和風の甘味処を兼ねている。
店内は冷房がキンキンに効いていて、短時間とはいえ外の暑さにうんざりしていた翔には心地良かった。
ところが、入口に置かれた六脚ばかりの椅子には全て人が腰掛けていて、立っている人も何人かいる様子。まだ八時半だというのに、店内は満席のようだ。
「すいません。こちらにお名前と人数を書いて、お待ちいただけますか?」
青い浴衣に前掛けをした女性店員が翔に話し掛けてきた。
「すいません、あの、待ち合わせでして、連れが店内にいると思うんですけど……」
そう言って翔は店の奥に目を向けるのだが、元々照明が控え目なこともあって、外の強い陽射しに慣れた翔の目には店内が薄暗く感じてしまう。それに、どのテーブルもぎっしりと人で埋め尽くされていることも相まって、沙希が何処にいるのか良く分からなかった。
「えーと、女性の方でしょうか?」
「あ、はい」
「あちらの奥の女性が、こっちに手を振っておられますけど」
女性店員が指し示した方に目をやると、長い腕をゆっくりと左右に振っている髪の長い女性がいる。どうやら、一番奥の席のようだ。
翔は、その女性店員に軽くお礼を言うと、混み合う店内へと足を踏み入れて、彼女の方へと向かって行った。
★★★
「おはよう。翔の分も注文しといてやったよ」
目の前に座るや否や、沙希にそう告げられた。
彼女が頼んだのは普通のブレンドコーヒーなのだが、この時間だとモーニングセットがタダで付いてくる。それも、たっぷりとあんこが盛られた分厚い小倉トーストに小さなサラダ、そしてゆで卵という充実メニューだ。
これを目当てに来る客で、この店は朝早くからこうして賑わっているというわけだ。
「あー来た来た」
翔が席に着くと、すぐに青い浴衣姿の若い女性店員が、モーニングセットの乗ったプレートを二つ運んで来てくれた。
「私、これ大好きなんだよね、小倉トースト」
沙希は、さっと手を合わせて「頂きます」と言うと、嬉しそうに大きな口を開けて分厚いトーストにかぶりついた。昨夜、あれだけ酒を飲んだのに、その影響は全く見られない。
「あれ、翔、元気ないね」
翔は大きく溜め息を吐くと、最初はサラダから食べ始める。
沙希が自分の分をあらかた片付けた所で、まだ食べている翔に話し掛けてきた。
「ねえ、あんた知ってた?」
「知ってたって、何のことだ」
「薫が軍に入るってことよ」
翔が手にゆで卵を持ったまま、固まってしまった。
「えっ、知らなかった?」
「いや、昨日、沙希が薫を連れてあの店を出た後、水瀬さんに聞いた」
「水瀬さんって……あっ、美緒のことか。……ふふっ。なんだ、知ってたんだ」
「まあな。でも、軍に入るって聞いただけで、詳しいことは何も知らない。信じられないって気分だよ」
「ふーん、美緒はそれ以上、何も言わなかったんだ」
「沙希から聞けだってさ」
「そっか。じゃあ、お説教と一緒に、ゆっくり教えてやるとするかな」
「な、何だよ、そのお説教っていうのは?」
「まあ、じっくり聞きな。私もさ、薫が軍に入るのが正式に決まったって聞いたの、昨日なんだ。もっとも、薫だったら、大丈夫だって思ってたけどね」
「何なんだよ、それ。薫が軍に入るのが、大丈夫な訳ないだろうが。もう、全然わかんねーんだけど」
「まあ、そうだろうね……あ、コーヒーおかわり、お願いしま-す」
近くにいた浴衣姿の女性店員が二人のコーヒーカップにおかわりを注いでくれる。沙希は、それを待ってから、ようやく話を続けた。
「で、まず最初に訊いときたいんだけど、あんたは、どうするつもりなの?」
「げほっ」
ちょうどゆで卵にかぶり付いたばかりの翔は、少しむせて慌ててコーヒーで流し込んだ。
それから正面に目を向けると、今朝は沙希が眼鏡を掛けていることに今更ながら気が付いた。髪の毛も所々はねてるのを見ると、案外こいつも寝起きのまま急いでここに来たのかもしれない。
そう思った翔は、ふっと肩の力を抜いた。すると、素直な気持ちが自然と口をついて出ていた。
「俺は、大学を卒業した時、薫に振られた男だよ。そんな俺に、どうするのかとか言われても……」
「翔さあ、あんた、それ本気で信じてるの?」
ところが、翔が最後まで言わないうちに、沙希か意外なことを口走る。
「どういうことだよ?」
「だから、本気で薫に振られたと思ってんのかってことよ」
「違うのかよ?」
翔が少しムッとして言い返すと、沙希は心底あきれた顔をする。
「翔は、相変わらず鈍いね」
「鈍いって何だよ?」
「だから、鈍感ってこと。それも、普通の鈍感じゃ無くて、超鈍感。お勉強はできても、女心はからっきし疎いんだから、もう最低」
「何だよ。朝っぱらから、喧嘩でも売りに来たのかよ」
ますます苛立った声を上げる翔を、沙希は完全にスルーして話を続けて行く。
「あんた、高校の時、うちの部活の女子に何て言われてたか知ってる?」
「知らねえよ、そんなもん」
「あんたは、女子の間で『鈍感王子』って呼ばれてたの。まさに、ピッタリなネーミングだと思わない? ちなみに名付け親は、私じゃないからね。うちらが一年の時に、恵麻先輩が付けたんだから……。あ、そういや、KYってのも良く言われてたかも。こっちは、剣道部以外がメインらしいんだけど、あんたは、それも知らないんじゃない?」
「何だよ、それ?」
「空気読めないってこと」
「それくらい、俺でも知ってるよ」
「ほんとに、分かってんの?」
「だから、何で俺がそんなこと言われなきゃなんないんだよ?」
「鈍感王子だからに決まってるでしょう。あ、それに、ヘタレでもあるね。そっちも超ド級の、どうしようもないヘタレ。ついでに言うと、大馬鹿野郎だよ」
「な、何だってえ!」
イラっときた翔が沙希の顔を見ると、眼鏡の奥の沙希の目が鋭く光った。
彼女が本気で怒っていることに気付いた翔は、多少怯んだものの勢いで怒鳴り立てる。
「だから、鈍感とかヘタレとか、いったい何なんだよ。何で薫のことで俺がそんなに責められなきゃなんないんだ」
大声で怒鳴った後で急に周囲が気になった翔は、慌てて左右を見て、自分が注目されていないことにほっとする。ただ斜め前のテーブルに座った中年女性が翔の方をじっと見ていたので、ペコリと頭を下げておいた。
沙希は、おかわりのコーヒーをひとくち啜った後で、翔の質問に質問で返してきた。
「ねえ、翔。あんた薫のこと、どう思ってんの?」
翔は、沙希の言わんとしていることが良く分からなかった。
「どうって、何をだよ?」
沙希は、呆れ返った表情で答えた。
「だからあ、今でも薫のこと好きかどうかってことよ。ここまで言わなきゃ分かんないってことが、鈍感ってこと。分かった?」
翔は、黙り込んでしまった。
それでも、沙希は翔のことをじーっと見詰めたままだ。沙希からのプレッシャーに耐えきれなくなった翔は、しぶしぶ重い口を開いた。
「……たぶん、まだ好きなんだと思う。でも、正直な所、自分でも良く分からないんだ」
沙希は、すぐに次の言葉を返してきた。
「分からないって、何が?」
「いろいろとだよ。薫が何考えてるかとか、俺がどうしたらいいかとか……」
それを聞いた沙希の表情が、ほんの少し和らいだ。
「ふーん。あんたって、本当に変わんないね」
「変わんないって、どういうことだよ?」
「決まってるでしょう。ヘタレのままってことよ。つまり、高校の時から全く成長してないってこと」
「……っ」
「まあいっか。これから、おいおい教えてあげるよ。元から、そのつもりだったしね」
沙希が翔の顔を悪戯っぽい目で見詰めてくる。
「でも、その前に私の幾つかの質問に答えてもらうよ。まずはさあ、翔って薫のこと、どれだけ知ってんの?」
翔は、左右に首を振りながら答える。
「いや、今の薫のことは、ほとんど何も知らない。最初は昔のままだって思ってたんだけど、だんだん変だって思えてきたっていうか……、それで、できたら沙希に教えて欲しいんだ」
「ふふっ、やっぱりね。翔って、そんな感じで薫のことを見てたんだ」
翔は、またもや沙希に馬鹿にされたと感じてムッとしたものの、とりあえず黙っておく。だけど沙希の攻撃は、まだまだ続いた。
「あのさあ、あんた、東京で四年も薫と一緒にいたんだよね? その間、あの子のいったい何処を見てたの?」
「……っ」
「例えばだけど、薫の髪の毛って、高校の時からずーっと長いままでしょう? あんた、あの髪を見て何も気付いてなかったの?」
「えーと、ずっと黒いままで、一度も染めたことが無いとか……」
「それは、そうでしょう。髪を染めるのだって、お金が掛るんだし」
「何が言いたいんだよ?」
「あのね、私が天王高校に入った初日、剣道部の道場で薫を見て、『ああ、すっごく綺麗な髪』って思ったの。その頃の薫の髪の毛、本当に艶々のサラサラで美しかったんだ。それが、高校を卒業するころには割と普通って感じになってて、大学に入った後は会う度に痛みが目立つようになって行ったの」
「そうなのか? 薫の髪の毛って、高校の頃から時々跳ねてたりしてたけどな」
「あのさ、私、真面目な話をしてるんだけど……」
「あ、ごめん」
「まあ、そうやって茶化すってことは、全く気付いてなかったってことだね」
「うっ」
困惑気味の翔を余所に、沙希はおかわりのコーヒーを再び口に含んでから、意を決したように口を開いた。
「薫の髪の毛がパサつくようになったのはね、使ってるシャンプーやトリートメントが変わったからよ。それまでの薫って、凄く良い物を使ってたみたいなの」
「それって、薫が東京に行って一人暮らしを始めてから、安いのに変えたってことか?」
「あの、私、高校を卒業する頃から変わってたって言ったと思うんだけど」
「それは、あれだよ。あいつ、大学受験で必死になって勉強してたからさ、髪の毛の手入れが疎かになってたんじゃないの?」
そこで沙希は、これ見よがしな溜め息を吐いた。
「さっきの翔の話だと、薫が東京で一人暮らしを始めたから、ビンボーになったみたいに聞こえたんだけど」
「違うのか?」
「まあ、そんなには違わないかも」
沙希は、そこで何かを言い淀んでいたけど、翔は無視して話し出した。
「だろ。あいつ、東京じゃあ、ほんとにビンボーって感じだったもんな。昔から薫って、結構、見栄っ張りなとこがあるからさ。どうせ親に良いとこ見せようとか思って、少ない仕送りでやりくりしてたんじゃないのか……あ、そうだ。東京の大学を受ける時、親父さんと喧嘩したとか言ってたな。まあ、とにかく、仕送りが少ないからか、必死にバイトしてたのは良く知ってる。そんでも、いつも金欠金欠って騒いでたもんなあ。てことは、ひょっとして、あいつって親からの仕送りを一切、断わってたとか?」
学生時代の話題は、翔にとって楽しいものだった。それで翔は、沙希の眼鏡の奥の目が、次第に鋭く険悪なものになっていくのになかなか気付かない。だから、勢い良く喋り続けてしまう。
「そうね。親からは一銭も貰ってなかったわね」
「げっ、本当だったんかよ。あいつ、やっぱり相当に頑固だよなあ……あ、それでさ、俺は少しでも援助してやろうって、あれこれ提案してやったこともあるんだけど、そういうの、薫って嫌がるんだよな」
「まあ、そうでしょうね。誰だって、施しなんて受けたく無いもの」
「いや、俺は別に施しとかじゃなくってさ、薫の食生活を少しでも改善しようと思って……」
「あんたがどうのこうのじゃなくて、薫がどう感じたかじゃないの?」
「だって、あの頃のあいつって、ガリガリに痩せててさ。あれ見たら、何とかしてやりたいって思うだろ? だから、俺と一緒の時だけでも栄養のある物を食わせてやろうと思ってイタリアンとか連れてってやるんだけど、あいつって肉が駄目だからさ、そうなると、ミネストローネにバジルスパゲッティとかになっちゃって……」
「あのさ、薫が痩せ過ぎだと思ったんなら、レストランに連れてくとかする前に、することがあるんじゃないの?」
「することって何だよ?」
「ちゃんと薫と話し合うとかでしょうが。そんな施しを与えるようなことをする以前に、そうなった原因を排除すべきなんじゃないの? 私は、これでも教師だからさ。例えば、真面目そうな子供が何度も宿題のノートを持って来ないとかすると、どうしても子供同士のいじめだとか家庭環境だとかを疑っちゃうわけ。翔の仕事だって、おんなじなんじゃない?」
翔は少し考えてから、「まあ、そうだわな」と言った。
「でもさ、大学の時の薫に何があったって言うんだよ。親に頭下げて、仕送りして貰えば済む話じゃなかったのかよ……えっ、違うのか?」
翔の話の途中で、沙希の眼鏡の奥の目が光った気がした。それで翔は、本能的に質問してしまった訳だが、何故か沙希は困った様子だった。
「うーん、あんたにどう説明してやれば良いのか、だんだんと分からなくなってきたわ」
「何だよ、それ?」
「あんたが毎回、明後日の方角の返事をするからでしょうが」
「どういうことだよ?」
「あんたの理解力が、予想以上に低いってこと。私の今の教え子にだって勝てそうにないレベルかもね」
「はあ?」
相変わらず小馬鹿にしてくる沙希に翔は、ついイラっとした声を上げてしまい、少し心配になって彼女を見た。
目の前の沙希は、首を横に振っている。そうかと思うとボソッと何かを呟いてから、「それで、今の薫のことは、どんな風に思ってんの?」と訊いてきた。
「どんな風って、どういうことだよ?」
「そのままの意味よ」
「さっき、す、好きなんだと思うって言っただろう。二度もおんなじこと……」
「そういう意味じゃなくてさ、薫の見た目だとか、おかしいと思わない? 東京にいた時と比べてって意味で……」
「ああ、昔と全然、変わらなくて驚いたよ。なんか、俺だけ歳を取ったような気がしてさ。正直、ちょっとへこんだんだ」
翔の返答を聞いた沙希が、もう何度目かの溜め息を吐いた。
それを訝しく思った翔が、「な、何だよ?」と尋ねてみたのだが、沙希は必死に怒りを抑えるかのように、翔の目の前で大きく深呼吸をしてみせたのだった。
★★★
さっきから、翔の頭の中で警告音が鳴り続けている・それを最初は聞こえていないと自分に暗示を掛けていた翔も、今の沙希の深呼吸で、いよいよ無視できなくなってきた。
要するに、目の前の沙希は今現在、猛烈に怒っているのである。
そして翔には、彼女が何故こんなに怒っているのかの答えが見付かっていない。これは、翔にとって最悪の状況なのだ。
目の前の暴力的な女とは、中学の時からの長い付き合いだ。だから、ここで彼女が怒っている理由を尋ねたりしたら、現在ギリギリの所で彼女が必死に抑え込んでいる怒りが、いよいよ爆発してしまうのは目に見えている。
そうかと言って、彼女の怒りの理由を知らないままに、この後、うまく立ち回れるとは思えない。ただでさえ怒りの沸点が低い彼女を口八丁で宥めることなど、口下手の自覚がある翔なんかにできる筈がない。たぶん、翔よりも彼女を知っている親友の松永陽輝にだって無理だろう。いや、あいつの場合、わざと沙希の怒りを好んで買っていそうな気がする。思えば松永って、昔から少しマゾっ気がある奴だったな。それって、きっと姉の京香さんが影響してるんじゃないか? あの人、普段は優しいんだけど、怒ると相当に怖いって言うし……。
要するに、今の翔は積んでしまっているのだった。それで、こうして翔は現実逃避している訳なのだが、その間、当の本人である山口沙希は、時折りブツブツと呟きながらも黙り込んでいた。
そんな沙希が唐突に次に言葉を発したのは、それから五分程してからだった。
「あのさあ、翔が戻って来てから、あんたらって何度か会ってんだよね?」
翔は、少しだけ悩んでから、ここは素直に話すしかないと思って彼女の問いに答えることにした。
「二人で会ったのは二回だけだよ。それに、二回目はケンカ別れだったし……」
「うん。そっちは、ちょっと聞いた」
「やっぱり」
翔が想像していたように、薫は沙希にケンカ別れのことを話していたようだ。
「薫、相当に怒ってたよ」
「俺は、普通に話してたと思うんだけど、なんか突然、怒り出しちゃってさ。俺には何がなんだか分かんなくて……」
「あんた、薫に『コンビニなんかじゃなくて、きちんとした会社で働いてみたら?』とか言ったんだってね」
「……言ったよ」
「あんた、薫が就職に失敗したの、知ってんでしょう?」
「もちろん、知ってるけど……」
「けど、何なの?」
「あの年はコロナ禍で、特別に就職が厳しかった訳だろ。その後だって景気が悪いのは分かってる。だけど、一度やって駄目だったからって、次も駄目だとは限らないんじゃ……」
「あのさあ、翔。あんた、ひょっとして薫が、その後も就職活動してなかったとか思ってんの?」
「違うのか?」
「違うに決ってんでしょうが」
「でも、だったら、どっかの会社が採ってくれてるんじゃないのか? 薫は、ああ見えて優秀だぞ」
「知ってるよ、そんなこと」
沙希は、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「翔さあ。今までに薫が何社くらい面接を受けたと思う?」
沙希に言われて、翔は少し考えた。翔の場合、面接を受けたのは三社だ。それよりも薫が多いことは間違いない。でも、薫は人見知りだし、そんなに行動力があるとも思えないし……。
「十社くらいとか?」
「ぶはっ、きゃははは……」
翔の答えを聞いた沙希が突然、笑い出した。
「な、何なんだよ?」
「やっぱりねえ。話が合わない訳だわ」
「どういうことだよ?」
「あのね、私や陽輝だって、五十社くらいは回ってるよ。まあ、面接まで漕ぎ付けたのは、その半分くらいだけどね」
「えっ?」
「そんなの常識でしょう。さっき翔も言ってたように、今は不景気なの。よっぽど優秀かコネでも無い限り、そんなにすんなりとは決まらないもんなの」
「そうなのか?」
「そうよ。薫だったら、軽く数百社は行ってる筈よ。あの子、大学の名前だけはあるから、だいたいの会社は、とりあえず面接だけは応じてくれるの。だけど、そこをクリアするのが薫の場合は難しいのよ。それで卒業してからも、休みの日や定時後にひたすら面接を繰り返してたみたいよ」
「……」
「つまりさ。翔って、常識を何も知らないお坊ちゃまなわけ。少しは自覚したら?」
「で、でも、俺の就職活動の時は……」
「それはさあ、藤田の名前があったからなんじゃないの? 藤田の取引先だとか……」
「あっ」
その時、初めて翔は、自分が内定を貰った三社が全て翔の実家がオーナーの会社、藤田コーポレーションと深い繋がりがあることに気が付いた。
いったん気付いてしまえば、どうして今まで分からなかったのかが不思議に思えてしまう。
「それからさ、あんただって、本当は今の薫がビンボーだってことには、薄々気付いてたんじゃないの? あの子がビンボーなのは、何も東京で一人暮らししてた時だけじゃないんだからさ」
「やっぱり、そうなのか?」
そう言いながらも、翔は考える。薫個人が貧乏なのは、理解できなくもない。バイトしかしていないのだが、家にお金を入れてたりすれば、個人で使える分は少なくなるだろう。だけど、そうじゃなかったとしたら……。
「『やっぱり』って言ったってことは……」
「それって、薫自身がビンボーだってことか?」
翔は、沙希の言葉を遮るようにして、自分の疑問を口にした。
「違う。薫の家自体がビンボーってことよ」
即答だった。
「そうか」
沙希の言葉に何故か納得している自分がいて、翔は少し困惑していた。
沙希が言う通り、最初から自分は気付いていたのかもしれない。それなのに、見て見ぬフリをしてたんじゃないのか?
ふと、そんな風に思ってしまったのだ。
「だいたいさあ、そんなの薫の格好を見れば一目瞭然じゃないの。大学生であの格好だったら、まだ分からなくもないけど、薫はもう二十代の半ばなのよ。そんな大人の女がぼろい格好してたら、普通はビンボーだって思うんじゃないの? まあ、薫の場合は、ちょっと特別で、単に高校生みたいに見えちゃうこともあるんだけどね」
最後の所は小声で聞き取れなかったのだが、そう言われてみれば、そんな気がした。確かに、薫の服装は少し変なのかもしれない。
それでも翔には、分からないことがあった。薫の格好が変だということと薫が貧乏だということが、翔の頭の中では結び付いていなかったのだ。
それで考え込んでいると、それを沙希は肯定と受け取ったのか、またもや翔を非難し出した。
「あのさあ。薫がビンボーだって分かってたなら、もう少し薫のことを気遣ってやんなよ。あんた、昨日だって薫に『そんな恰好してるから、高校生とかに見られるんだ』とか言ってなかった?」
「だって、それは、その通りだろ?」
「あんたねえ……」
翔は本当にそう思ったから、そのまま答えただけなのだが、今度も沙希に呆れられてしまった。
「あのね、翔。あんた、今の薫が服なんか買う余裕、あると思ってんの?」
「えっ?」
翔は、沙希の言ったことが相変わらず良く分からない。そして、そのことに沙希もようやく気付いたようで、重ねて訊いてきた。
「翔、ひょっとして、薫が服を買う余裕が無いってことが分かってないの?」
翔は、また少し考えてから口を開いた。
「えーと、薫が着てる服って確かに地味なんだけど、東京にいる時だって、結構、良いもん着てたと思うんだけど……」
「それは、だいぶ前に買ったのなんじゃない? あ、それから、最近、良く着てるデニムとかは、たぶん、古着だと思うよ」
「古着って、ビンテージ物ってことか?」
「そんな訳ないじゃないの。ただの古着よ……って、翔みたいなお坊ちゃまだと、古着って言っても分からないか。オシャレな若い子とかが、掘り出し物を漁りに行くお店だって思っちゃうだろうし……。えーと、どう説明しよっっかな……」
「こら、沙希。俺だって、古着くらい分かるわ」
そうやって沙希には返してみたけど、やはり翔には分からなかった。
服も買えないだなんて、いったい、どういうことなんだ?
考え込んでいた翔の耳に、沙希の次の質問が届いた。
「ねえ、翔。薫って、痩せてるでしょう? それって、何故だか聞いても良い?」
翔は、『何で、そんなこと聞くんだ』と訝しく思いながらも、「それは、肉とか好きじゃないからだろ」と答えておく。
ところが、その沙希は翔に、「あんた、本気でそう思ってるの?」と返されてしまった。怒っているというより、呆れているといった感じだった。
だけど翔は未だに混乱していて、取り繕っている余裕なんかない。だから思ったままに、「本気っていうか、他に思い付かないんだけど……」と口にしてみたのだが、その言葉で沙希は何かを悟ったようだった。
「翔、あんたに常識を期待した私が馬鹿だったわ。あのね、世界には未だに餓死する子供達が大勢いるのよ」
「それは、余所の国の話だろ? それと、今の薫の状況と、どう関係があるんだよ?」
「関係、大ありでしょうが。少なくとも、薫が東京から帰ってきた時なんか、あの子、ガリガリに痩せてたわよ。まあ、最近は多少ましになってきたんだけどね」
翔は、ここでようやく沙希が何を言いたいのか分かりかけてきた。だけど……。
「いやあ、まさか、今の日本で食事に困るとか……」
「翔さあ」
何故か、またもや呆れられてしまった。
「もう、あんたって、どんだけ世間知らずなのよ。私、頭が痛くなってきたわ……。今の日本にだってね、満足に食事が取れない人なんて、いくらでもいるんだよ。今の私の教え子達なんて、ほとんどがそうなんだから」
その時、ふと翔の頭に蘇ってきた光景があった。
翔がこっちに戻って来た初日、天王駅前で物乞いをしている人がいた。あのコンビニ爆破事件が起きて、薫に再会した少し前のことだ。
「翔って、今の薫が住んでるとこ、知ってる?」
「ああ、最初に駅前で会った時、天王市に引っ越したって言ってたな。あの日は一緒にお好み焼き屋に行ったんだ」
「ふーん。薫が行きたいって言ったのね。何となく分かるわ。で、そん時は、送って行ってあげるとかしなかったの?」
「……っ」
「まあ、それで良かったと思うよ。あんなとこに翔なんかが行ったら、カモがネギしょって来たって思われて、身ぐるみ剝がされちゃいそう」
「何だよ、それ」
「昨日も言った気がするけど、薫が住んでる今のアパート、天王市内で最も治安が悪いって言われてるとこにあるの。薫はね、あそこの古い安アパートに家族で住んでるんだよ」
「えっ、まさか?」
昨夜、翔が薫を送って行くと言った時、沙希が「徒歩だと危険な所」に薫が住んでいると言っていたのは、翔も覚えていた。
でも、まさか、そんなに治安が悪い所だとは……。
「どうしたの? 驚いた?」
「あ、まあ」
「本当のことよ。私、行ったことあるもの。そん時は夕方だったけど、正直、私でも怖かった。それに、昨日だって送って行ったしね」
どうやら、昨夜、翔が薫を送って行くのを沙希が反対したのは、そういう理由だったようだ。
「薫って、そんなにビンボーなのか?」
「そうよ」
「でも、高校の時は……」
「名家のお嬢様だったわね」
「えっ、どういうことだよ」
「家が没落したみたい。私にも、だいたいのことしか教えてくれなかったけど、借金があるんだって」
「えっ、借金?」
「そうよ。借金」
「そっか。そういうことなんだな」
翔は、「借金」という言葉で何となく納得ができてしまった。
翔の実家、藤田の財政は万全だが、それは何よりも借金の怖さを知っているからだ。この地方の商家は、借金を嫌う。それは、企業の形態に変わっても受け継がれており、この地方の企業の堅実経営に繋がっているのだ。
薫の実家がどの程度の事業を行っていたかは知らないが、たぶん、投資に失敗したか何かだろう。
借金という聞き慣れた単語が出て来たことで、ようやく翔は本来の落ち着きを取り戻すことができた。
ところが、そんな様子の翔に対して、どうやら沙希は苦々しく思っていたようだ。
「何かさあ、翔の世間知らずが凄すぎるっていうのと、薫のこと、あまりにも知らなすぎるってことのダブルパンチで、私、気が遠くなりそうなんだけど……、ああもう、この後、どうやって説明すれば良いのよ」
目の前で、沙希は小声で何やらブツブツと呟いている。
その様子を見た翔は、沙希の嫌みたらしい話が、この後もまだまだ続くのを悟ったのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
すいません。ストーリーには影響ありませんが、だいぶ加筆してあります。
次話は、沙希と喫茶店の後編となります。
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