第43話:死んじゃえば? <薫サイド>
再度、見直しました。
◆7月25日(土)
白い包帯でぐるぐる巻きにされた服部圭介の姿は、水草薫の心に大きなダメージを与えてしまっていた。相変わらず無表情な薫だが、心の中は珍しく動揺していた。
元々真っ白な薫の顔は、更に蒼白だった。大きな一重の黒い瞳が、まっすぐに圭介の足元があるべき場所を捕らえていたのだった。
「ああ、もう死にたいよお。死んでしまいたいよお……」
圭介が喚く。その声は、薫の胸を深く抉った。彼女の薄い唇の端が、ほんの僅かに歪んでいた。
今の薫にとって、圭介のケガは他人事ではない。ベッドの上に横たわる彼こそが、きっと未来の自分なのだ。
――圭介が可哀そう。
そう思った薫は、彼にとって何が最適かを考えた。
冷静な時の彼女なら、たぶん様々な新しい生き方を提示することもできただろう。けど、今の薫には、それらのどれもが「まやかし」のようにしか思えなかった。
圭介にとっての最善は、もう一度生まれ変わって、人生を一からやり直すことなんじゃないだろうか?
その時の薫は、『それしかない』と思ってしまったのだ。
――だったら、圭介、死んじゃえば?
それは薫が圭介に送った、心からの慰めの言葉だった。
★★★
その前日の金曜日、バイトが休みの日なのに早く起きてしまった薫は、妹の楓に借りた彼女の中学時代のジャージを履いて、外にジョギングに行くことにした。
薫が住むアパートの周囲は天王市で最も治安の悪い地区として恐れられているのだが、朝方はいつもひっそりとしている。悪事を働く不埒な輩は、基本的に朝寝坊なのだ。
薫は軽快なステップでボロアパートが林立する荒れた街並みを走り抜けて行く。そして、10分もしないうちに神社の前を通り過ぎると、さっきとは打って変わって端正なお屋敷街に入った。
やがて見慣れた黄緑色の看板が見えてくる。薫は駐車場の奥の店舗まで一気に走って行って、そこでいったん立ち止まる。そして、首から下げたタオルで軽く汗を拭いてから、店内に入って行った。
パぴパぴ……。
「いらっしゃいませー……あれ、薫ちゃん、今日ってオフじゃなかった?」
出迎えてくれたのは、男子大学生の原田だった。大島と同じ大学の後輩だ。
彼の場合、大島みたいに苦学生じゃないけど、親の教育方針とかで自分の遊ぶ金は自分で稼がないといけないらしい。その親というのは、両親共に天王警察署勤務。特に父親の方は結構、お偉いさんなのだそうだ。
薫は最近、警察のことはあまり良く思っていないのだが、この原田を見ていると、彼の父親は割と良い警官なのかもしれない。
さて、その原田だが、ひょろっと痩せた体格なのにん、意外とタフガイだったりする。昨夜も日比野店長と一緒に夜勤だった筈なのに、全く疲れた様子が見られないからだ。そういう所は、さすが警官の息子と言うべきかもしれない。
それと、この原田は何故か薫のことを、「薫ちゃん」と呼ぶ。馴れ馴れしく感じる割には割と真面目な性格だし、仕事の方でも頼りになる存在なので、特に薫も文句は言わない。
たぶん、単純に薫のことを同年代だと錯覚しているだけなんだろうけど、彼は大学二年生で薫より六つも年下。薫にとっては、何とも不可解な現象だった。
「あの、私、店長に用事があるんだけど?」
「えっ、何かあったの?」
「明日なんだけど、お見舞いで市民病院に行かなきゃいけなくなっちゃって」
「なんだ、シフトの変更かあ。そんなの、メールで済ませちゃエバ良いのに、やっぱり薫ちゃんは真面目だなあ」
「だって、直接会って話した方が交渉しやすいでしょう」
「まあ、そうだけどね。分かった。がんばってね、薫ちゃん」
そう言って二カッと笑う彼の顔は、何とも可愛らしい。背だってそこそこ高いし、妹の楓にはおすすめの物件かもしれない。ただ心配なのは、彼も軍の奨学金を借りていることだろうか……。
パぴパぴ……。
「おはようございまーす」
原田との短いやり取りの間に、日比野店長が外回りの仕事から戻って来てくれた。
「あれ、水草さん、何でいるの?」
「ちょっと、店長に話があるんですけど……」
薫は、明日のシフト変更の件をおずおずと切り出した。高校時代の友達が軍に入って中東に派遣されていたのだが、負傷して帰って来て、天王市民病院に入院していることが分かった。元気づける為にできるだけ早く行ってあげたいので、明日の午後のシフトを変更して欲しい。
薫はそのように頼んだのだが、珍しく店長がすぐに首を縦に振らない。よくよく聞いてみると、顔の良さだけで採用してしまった石原咲良が昨夜、我儘を言って明日のシフトを断ってきたのだという。
「えーと、咲良ちゃんのシフトは何時から何時ですか?」
「五時から八時迄だけど」
つまり、牧野愛衣と薫が帰ってから咲良がシフトに入ることになっていたようだ。
「だったら、仕方がないので、私が戻って来て、八時までいますよ。となると、私が抜けている時間の補充ですね。誰か……」
「あ、そっちは大丈夫。たぶん、野田さんが受けてくれると思うんだ」
野田さんというのは近くの主婦で、休日の昼間だったら、だいたい受けて貰えるらしい。明日は午後三時から九時迄のシフトが入っていて、それをお昼からにするくらいだったら、たぶん大丈夫だろうとのこと。駄目な場合は、浅野里奈辺りに頼み込むことになりそうだ。
「野田さん、大丈夫だって。じゃあ、水草さん、悪いけど八時まで宜しくね」
という訳で、明日の昼から三時迄はシフトを外してもらったのだが、よくよく考えてみると、これって楽な時間帯のシフトを忙しい時間帯にされただけのような気がする。しかも、昼休みの休憩時間とかのことも考えると、実質的に増えちゃってない?
でも、まあ仕方がないので、薫は店長にお礼を言って店を後にしたのだった。
★★★
そして翌日の今日、薫は市民病院に来ていた。
Eマートでのバイトの方は、正午を十五分程過ぎて多少強引に切り上げた。それも同僚の牧野愛衣の協力があってのことだ。それと、正午から急遽入ってくれた主婦の野田さんにも感謝だ。
Eマートから天王市民病院までは、かなりの距離がある。女の足で普通に歩いたら四十分近く掛かる所を、薫は早足ですたすた歩いて、何とか二十五分で到着した。
お陰で全身が汗びっしょり。相手は親友の山口沙希だから、『まあ、いいや』と思っていたら、病院のロビーでいきなり知ってる顔に出くわしてしまった。しかも最悪なことに彼は一人じゃなくて、彼の視線の先には、今は会いたくない元カレの姿があった。
「なーんだ。松永くん、翔くんと一緒だったんだね」
薫は平静を保ってはいたけど、胸の奥では心臓が飛び出しそうだった。
それで、できるだけ元カレには近付かないようにしながら、外来受付の方に歩いて行ったのだった。
その後も元カレのことが気になって仕方がない薫は、圭介の病室に着くまで、ずっと口を噤んでいた。
★★★
それから、圭介の病室で「死んじゃえば?」だなんて失言をしちゃったりした薫だったけど、運よく看護師の堀田詩織に助けられた離もして、その場を何とか切り抜けられた。
できれば、父の武が入院していた際、お世話になった看護師の川上弥生さんに会いたかったけど、不在では仕方がない。
それに今日はすぐバイトに戻らないといけなくて、薫は友人達との挨拶もそこそこに病院を去ったのだった。
だから、Eマートに戻った一時間後、沙希から飲み会の誘いを受けた時は嬉しかった。
心配は、やはり火曜日にケンカ別れした元カレも一緒だということだけど、どっちにしたって、あのままにはできない。そう割り切ってバイト終了後に駆け付けることにした。
それよりも問題なのは、バイトがなかなか上がれないことだった。夜八時までのシフトの筈だったのに、交替する相手の日比野店長がちっとも来てくれない。
こないだ、元カレとケンカ別れした後にお世話になった斉藤美月が、薫の状態を見るに見かねてか、「私、少し残ってるから、水草さん、先に帰って良いよ」と言ってくれた。彼女のシフトも薫と同じ夜八時までだったのに、またもや貸しを作ってしまった。それに、年下の子に仕事を押し付けるようで、心苦しくもあったけど、沙希達を待たせている。結局、お言葉に甘えて店を出たのだった。
「すいません、斉藤さん。あ、野田さんも、お先に失礼しまーす」
「「お疲れ様―」」
パぴパぴ……。
Eマートを抜け出すと、またもや早足で天王通りを駅の方に急いだ。珍しく通りは人出が多く、集団で歩くサラリーマンのオジサンとかとぶつかりそうになりながらも、何とか人混みをすり抜けて行く。
ようやく薫が大衆酒場に辿り着いた時には、既に夜八時半を過ぎてしまっていた。
「ごめん、遅くなっちゃった。すっごい待たせちゃったよね? あれ、皆、どうしちゃったの?」
知った顔を見付けて駆け寄ってみると、何だかギクシャクした雰囲気だった。
メンバーは、服部圭介の病室にいた山口沙希、松永陽輝、そして元カレの三人だ。何となく見ていると、元カレは何故か口数が少なくて、雰囲気の悪さは沙希と松永のいざこざが原因のようだ。
「もう、どうしたの、松永くん。せっかく四人揃ったんだから、楽しく飲もうよ」
元カレとのケンカを沙希と松永に誤魔化す意図もあって、柄にもなく薫は少しはしゃいで見せていた。そうこうするうちに酔いが回ってきたこともあって、どんどんとテンションが上がって行く。
いつもより早く酔いが回ってしまったのは、たぶん、昼食を抜いていて空腹だったからだ。それで、普段なら脂っこくて食べないようなものまで、どんどんと口の中に放り込んで行く。途中、横目で彼を見たら、何だか呆れた顔をしていたことに少しだけ傷付いた。
店を出る時、薫は払うと言ったのだが、誰にも聞いてもらえない。ここで飲み食いした時は、いつも奢ってもらっている。それで少し強めに言ったら、沙希に諭されてしまった。
情けない。だけど実際、お金がないから仕方がない。
ここでも彼の方を見たら、何故か笑われてる気がしてムッとした。
★★★
大衆酒場で飲んだ後は、そのままのメンバー四人でスナック未来というお店に行った。スナックなんて入ったのは初めてだったから、薫は緊張していたのだが、そこが薫の幼馴染で親友の水瀬美緒が、運営を任されているお店だと知った途端、とても居心地の良い空間に変わったのだった
実は、薫が美緒と会うのは、随分と久し振りなのだ。前回、薫が美緒と会ったのは、五月の頭。場所は、さっきまで薫たちがいたのと同じ居酒屋「大衆酒場」だった。その場には沙希もいて、四月末生まれの沙希と五月五日が誕生日の美緒の為、誕生日会と称しての女子会を開いたのだ。とはいえ、三人の中で一番に貧乏な薫に払える筈もなく、言い出しっぺで二人を祝う立場の薫が、反対に奢ってもらうハメになってしまったのだけど……。
「……本当のこと言うとね、五月に会ってから、美緒が中々会ってくれなくなちゃって、ちょっと心配してたんだ」
「五月の頭っていうと、沙希も入れて飲んだ時だね」
「うん。まあ、私の方も、そうこうするうちにゴタゴタし出しちゃって、六月に入ると今度は別のことで忙しくなっちゃってさ」
「そうかい。薫にも心配掛けたんだねえ。ごめんょ。それに、ゴタゴタしたってのは、あんまり良いことじゃないんだろ。全然、力になれなくて、本当にごめん」
「ううん、もう、今は大丈夫だから」
「そうなのかい? まあ、そっちは後で聞かせてもらおうかね……。本当は、もっと早く薫に言うべきだったんだけど、あたしも、こうやって人を使う立場になったのって、初めてでさ」
「そんなこと、ないじゃない。中学と高校、生徒会長だった美緒が良く言うよ」
「それとこれとは、やっぱ、違うんだよ。生徒会ってのは所詮、学校の中の組織だからねえ」
「まあ、そだね。でも、良かった。美緒が偉くなったってことは、親友の私にも嬉しいよ」
「ありがと。そんでさあ、藤田のことだけど……」
「うん。翔くん、月曜に帰って来て、その時に天王駅前でばったり会ったんだ。そん時は、楽しく話したんだけど、火曜日の夕方にもふらっとうちのコンビニに来てくれてね。そん時、ケンカしちゃった。そんでね、実は、ちょっときまずいの」
「何でケンカしたんだい?」
「うん。翔くんと私じゃ、住む世界が違い過ぎちゃっててさ。話が嚙み合わないってゆうか……」
「ふーん。何となく分かったような気がするね。でも、まあ、ここで長話もなんだから、あっちに行こうかね」
美緒に促されて、元カレの隣の席におずおずと座る。その彼は、ここでも口数が少ない。沙希も同じことを思ったようで、「さっきから翔って、口数が少なくない?」って聞いていた。
それで薫はますます声を掛け辛くて、これじゃいけないって思ったら、こんな言葉が口から零れてしまっていた。
「……今日って翔くんの歓迎会じゃない。なのに、カンパイがまだだよね」
それに美緒が乗ってくれて、皆で乾杯はしたのだけど、その後で薫は彼にカチンとくるようなことを言われてしまった。
「こんなかで一番に変わってないのは、薫だろう?」
ここにいる四人の中で一番大きく変わったのは、間違いなく自分だっていうのに、彼だけは何にも分かっちゃいない。
すぐに沙希と美緒がフォローしてくれたけど、薫は彼との心のギャップを再認識せざるを得なかった。
もちろん、彼がニューヨークに行っていたせいもあるだろう。でも、今の薫の境遇なんて、本当は服装だけで一目瞭然の筈なのだ。
薫が着ているのは、よれよれのTシャツにだぼっとしたデニムのパンツ。どっちも、もう何年も前に古着屋で買ったものだ。彼は学生の頃と同じだなんて言うけど、実はあの頃の方がちゃんとした格好をしていた。中州にいた頃のオーダーメードの服だって、まだ手元に残っていたわけだし……。
でもね……、と薫は思う。
大学時代と同じ格好を二十五の女がしていた時点で、おかしいとは思わないんだろうか? しかも、今の私は完全にすっぴんだ。女子大生だったらギリで許されるかもだけど、二十五の女がスナックにすっぴんで来てるって時点で、普通の生活じゃないって思うべきだろう。
だけど、彼に『気付いて』なんて思ってみても無駄だ。彼は、翔くんは、そういう人なんだから……。
やっぱり彼は、自分とは別の世界の人間なんだ。
こうやって再会できた所で、彼は懐かしいと思うことはあっても、私に何かを求めたりはしない。所詮、この私は彼にとって、たったそれだけの女。
この時、薫は改めて思った。
――三年前、彼と別れて正解だった。
そんなことは、初めから分かってた。なのに今更、彼に何かを期待するなんて馬鹿げてる。
そうだ。全ては、今更だったんだ。
もう、彼のことは諦めよう。
だったら、もう会わない方が良いな。
ぼんやりと横で佇む彼の息遣いを感じながら、この時の薫は、そんなことを密かに誓ったのだった。
★★★
薫の横で、彼が知らない飲み物を飲み始めた。ジントニックと言うらしい。「翔くん、それなーに」と訊いたら、教えてくれたのだ。
「飲んでみるか?」と言われたので、ひとくち飲んでみたら、すごく苦かった。
薫が「苦―い。変な味だよ」と言うと、「ビールだって、苦いだろ」と返される。
「そりゃあ、まあ、そうだけど」
「ふふっ、薫は、そういう洒落たお酒は飲んだこと無いからね」
口を挟んできたのは、美緒だった。
「東京に居た時、俺が何度かバーとかに誘ったけど、お前が嫌がったんじゃないかよ」
「だって私、場違いな服装しかしてなかったんだもん」
「お前、いつもそんな恰好してるから、高校生とかに見られるんだぞ」
「えっ?」
だって、それは仕方がないことだ。私はビンボーなんだから。
そう思ったけど、もちろん、薫は言わなかった。それより薫が思ったのは、『やっぱり彼は、私のことを何にも知らないし、知ろうともしていない』ってことだった。
「何だよ、薫。それって、驚くことか?」
「……そうだね。ふふっ、そうだよね」
最初は、自嘲的な笑み。人に嫌がられる奴だけど、関係無いやって思ったから、笑ってやった。
それから薫は、目の前の水割りを一気に喉に流し込む。そしたら、なんか、さっきとは別の笑いが込みあげてきた。
「ふふふ、あはは……」
「どうしたんだよ、急に笑い出したりして」
「うん。だって、翔くんは、翔くんだなって思ったら、何か、おかしくなっちゃって、ふふふ、あはははは……あ、ごめん」
薫は、そこで一度、席を外すことにした。背中で翔が「何だよ、それ」と呟いたのが聞こえたけど、薫は無視してトイレに飛び込んで行ったのだった。
★★★
この日、薫が彼と交わした言葉は少なかった。美緒と一番多く話していて、次が沙希と松永のカップルだった。その二人との間に彼がいたけど、そっちの二人の方が声を掛け易く感じたからだ。
沙希と松永は何度も別れたというけど、未だにすっごく仲が良い。もっとも、それが恋心かどうかは微妙だけど、少なくとも彼らは、きちんとお互いに分かり合っている。顔を合わせるとケンカばかりしている二人だが、本当は、「ケンカするほど仲が良い」って言葉がピッタリの関係なのだ。
薫には、そんな二人が羨ましかった。
沙希と松永の関係に比べたら、私と元カレの間には何もない。全てがまやかしの関係だ。彼は私を知らないし、私は彼に何も見せてはこなかった……。
心の中で薫は、もう何度目かの溜め息を吐くと、新しい水割りのグラスを口に運んだ。
そういや今夜の沙希は、前よりも気軽く美緒と話しる気がする。
この二人とは、二月と四月の二回、一緒に大衆酒場で飲んでいるのだが、四月の時でもここまで親密ではなかった。てことは、きっと沙希は、それから何度かこの店に来ているんだろう。
あ、そうだ。例のこと、美緒に言わなきゃ。
薫には、美緒に伝えておくことがあった。それは、薫が軍に入るということだ。
沙希には六月、二人だけで大衆酒場で飲んだ時に話してある。もっとも、その時には、まだ正式に入隊が認められてなかったのだけど……。
薫は、できるだけ明るく振舞いながらも、その機会をずっと伺っていた。そして、ひと組のお客さんが帰って、しばらくボックス席の方に誰もいなくなった時、美緒に「話があるの」と切り出したのだ。
美緒の手を引いて、一番奥のソファーに座る。すぐにキャストの女性がおしぼりを持って来てくれたけど、薫は断った。
「椿さん。飲み物もいらないから、しばらく二人だけにしておいてもらえますか?」
事情を察した美緒が声を掛けると、そのキャストは、「ごゆっくり」と言って去って行く。
薫はおずおずと、自分が軍に入ることを打ち明けた。
美緒は、特に怒ったりしなかった。代わりに一度だけ深く溜め息を吐いて、ボソッと「仕方がないね」と言った。
「光流さんは海上自衛軍だったけど、薫はどうなんだい?」
「私は、陸上自衛軍だよ」
「てことは、中東かい?」
「そだね」
やはり、美緒は淋しそうだった。
川合光流は、川合家の嫡男だ。川合家もまた、水草の分家のひとつで、八木家と並んで以前はとても栄えた家だった。
その光流は薫や美緒よりも二つ年上で、親しい幼馴染の一人だ。特に美緒とは中学の時から恋人関係にあって、美緒と同じ天王北高校を卒業した後も、彼が軍に入るまでは付き合っていた筈だ。
その光流は地元の国立大学の工学部に進んだ際、薫と同じ奨学金を目一杯借りていて、しかも大学院にまで行ってしまった。そして、やはり薫と同様に民間には良い就職先が見付からなかった訳だが、彼の場合は無駄にあがいたりせずに、あっさりと軍に入ったのだ。
そんな彼は、今も軍艦の機関士として、どこかの海で働いているらしい。
「それで、いつからなんだい?」
「お盆が終わった辺りだって。最初の三ヶ月くらいは国内で訓練があるみたいだけど……」
「国内って言っても、どっか遠くなんだろ?」
「どうだろう」
光流の場合は、九州だったらしい。彼は、その後、こっちには帰って来ずに、そのまま船に乗ってしまったという。
それからは、まだ一度も帰って来ていない。
「仕方ないね」
美緒は、もう一度さっきと同じ言葉を呟いた後、薫から目を逸らしてしまった。そして、しばらく押し黙った後、ゆっくりと立ち上がる。そのままカウンターの方へと向かう美緒の後を、薫が付いて行こうとした時だった。振り向きもせずに美緒が言った。
「あいつらは、知ってるんかい?」
薫は小声で「沙希には言った」と答える。そして薫は、何気ない風を装って、再び彼の隣の席に座ったのだった。
★★★
それから薫は、更にピッチを上げてお酒を飲んだ。そうしていないと、心の中で様々な思いが暴れてどうしようもなくなりそうだったからだ。
結果として、美緒にも沙希にも迷惑を掛けてしまった。
アパートには、沙希がタクシーで送ってくれた。沙希は沙希で辛いことがいろいろあって、本当は薫が愚痴を聞く筈だったのに何も聞いてあげられなかったことが悔やまれる。
アパートに着いて、水を一杯飲んだら、だいぶ落ち着いた。たぶん、このくらいだったら、二日酔いにはならないだろう。
すぐに服を脱いで、熱めのシャワーを浴びる。ドライヤーで髪を乾かしていたら、母の佳代が帰って来た。
「薫、お酒を飲んだのかい?」
「うん。高校の時の剣道部の仲間で集まって、大衆酒場で飲んだの。その後、美緒のお店に行ったよ」
「美緒のお店って、何だい?」
「あの子、昼間の仕事は辞めちゃって、スナックで働いてるの。朱音さんがやってるお店なんだけど、美緒はね、そこの責任者みたいなことやってるんだよ」
「そうかい。まあ、あの子だったら、大丈夫だろうね」
「うん。私もそう思う」
佳代は別に薫を咎めることもなく、洗面所の方に向かって行く。相当に疲れているんだろう。
薫は、佳代のその背中がいつも以上に小さく見えて、急に悲しくなってしまった。
水草家の女は、皆だいたい背が高い。祖母の幸子もそうだったし、薫も楓もそうだ。最後まで残ってくれた使用人の一人、野崎小夜だって、薫と同じくらいの背丈があった。
唯一、小さいのが、母の佳代だ。
そして、その小さな身体と同様に、彼女は水草家で存在感の薄い女性だった。
普通、水草の女主人と言えば、左うちわの人生が約束されていると考えるのが当然だろうけど、この佳代の人生は本当に苦労の連続だった筈だ。
その佳代は、歯を磨くとすぐに寝室に向かって行ってしまう。
本来なら佳代は、何人もの使用人にかしずかれて生活するのが当たり前の身分だった筈なのに、今では肌や髪の手入れさえもしておらず、すっかりやつれ果ててしまった。
私、お母さんにも苦労掛けてばっかりだな。
そんな情けない思いを胸に抱きながら、薫は母の後を追って狭い六畳間の寝室へと向かって行くのだった。
ここまで読んで頂き、どうもありがとうございました。
次話は翌日の日曜日、翔が朝から沙希に叩き起こされて、彼女が待ってる喫茶店に向かいます。
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