第3話:意外なミッション <翔サイド>
再度、見直しました。
「藤田君、君もニューヨークは、まもなく三年になるそうじゃないか。あ、いや、君にはもっと長くここにいてもらいたいと思っているんだが、まだ独身だろ。独身のまんまじゃ、そんなに長い間、海外に置いとくわけにはいかんのだよな」
藤田翔は「はあ」と相槌を打った後、「でも、まだ二十六になったばかりですし、大丈夫ですけど」と答えた。
「いや、二十六というと、私が結婚した歳じゃないか。もっとも、カミさんは大学の同級生で、子供ができたからなんだがな。ははは、いわゆる『できちゃった婚』って奴だよ」
そこで山森支社長が、ニヤッと不気味な笑みを顔に浮かべた。
「藤田君、まずは質問なんだが、君は今、付き合っている女性はいるのかね?」
いきなりの不躾な質問に閉口した翔だったが、ここは素直に「いません」と答えておく。
すると、山森の目がキラリと光った気がした。
「そうか、そうか。そうじゃないかと思ったんだ。じゃないと、三年もこっちにいないわな」
山森が妙に馴れ馴れしい口調でそう言った。翔にとって腹立たしいことに、彼の目には明らかな憐れみの情が見て取れる。彼は、おもむろに「ごほん」と咳払いをしてから話を続けた。
「そこでなんだが、君にひとつミッションを与えたいと思うんだ」
「ミッションですか?」
「ああ、特命のミッションだ。まあ、それを簡単にクリアできるかどうかは、君の能力次第なんだがね」
山森がじっと翔の顔を見詰めてくる。そして、意外なことを言い放った。
「どうだ、藤田君。日本で一度、お見合いでもしてみないか?」
山森が言うには、お見合いと言っても正式なものではなく、「君に見合う女性が名古屋支社に三人ばかりいるから、行って会ってくるといい」というようなことだった。
「先方には既に君の写真とプロフィールを送っておいた。と言っても、人事部にある情報に、私のコメントを添えた程度のものなんだがね。実は、名古屋支社長の中山が私の同期でな、色々と話がしやすいんだよ」
そこまで言って、ちらっと翔に目をやった山森が、少し口調を換えてきた。
「なに、そんなに堅苦しく考えることはないぞ。気軽に会ってみて、気に入った子がいたら何度かデートとかしてみればいいじゃないか。三人とも実に可愛い子らしいし、身元もしっかりしている。全員、君のことは大いに興味があるそうだ。なあ、良い話だと思わないか?」
いきなりそんなことを言われても、翔には心が付いていかない。ただ「はあ」と曖昧に頷くのがやっとだった。
その後、翔は山森のパソコンにある三人の画像をちらっと見せてもらったのだが、ほとんど記憶には残らなかった。というのは、いきなりの話で動揺していたのと、支社長の前では恥ずかしくて、じっくりと見ている余裕なんて無かったからだ。
更に、もうひとつ理由うがある。
山森が見せてくれたのは人事システム上の二次元画像で、若手社員だと入社時の電子履歴書にあった写真を流用している。日本だと履歴書の写真は正面から固い表情で撮るのが普通で、デジタル画像だから多少の補正とかも加えることが可能だ。本当は駄目なんだろうが、人事部もそんなことは分かっていて、いわば暗黙の了解という奴である。そうすると誰もが同じような顔に見えてしまって、印象に残りにくいのだ。
「それでだな。君には出張で名古屋に行ってもらいたい。それに、君はまだ一度も帰任休暇を取っとらんだろう。で、私の提案は、出張と帰任休暇を組み合わせた一ヶ月の帰国だ。まあ、欧州並のロングサマーホリディというわけだな」
「一ヶ月もですか?」
「そうだ。とは言っても、正確には四週間だがな。出張が三週間で、帰任休暇が一週間。休暇の方は、もう少し長くできるんだが、それ以上になると仕事に支障がでそうだし、もし結婚ということにでもなれば、再度の休暇が必要になる。私としては、そのくらいが適当だと思ったんだが」
「あ、はい……ていうか、むしろ長すぎるんじゃないかと……」
「確かに、君の同僚の中には文句を言う奴もいそうだな。そこは、私もサポートするつもりだから、君の方でもうまくフォローしてくれ。そういう連中には、日本の土産でも買ってくることだな」
「はあ」
「それに、もちろん名古屋支社での三週間は、見合いだけじゃなく仕事の方もしっかりとやってもらうぞ。そっちはそっちで君の上司には課題を出すように言ってある。現地の客と顔合わせをして名前を売っておくことは当然だが、名古屋支社の連中とも仲良くなって欲しい。君が担当する自動車関連の仕事については、何と言っても名古屋が中心だろう? 名古屋支社の連中に個人的な繋がりがあると、これからの仕事が断然やり易くなるからな」
山森は、そこでいったん話を区切ると、机の上のマグカップをひょいと持ち上げた。アメリカンサイズなので大きくて重く、相当な量が入る奴だ。彼はそれを傾けて、中のコーヒーをぐびぐびと飲んだ。
「確か、藤田君の出身は名古屋だったよな。つまり、久しぶりに実家にも帰れるというわけだ。それに、もし見合いがうまく行ったら、そのまま嫁さん候補を実家に連れて行けばいい。そしたら、親御さんも安心するんじゃないかな。まさに最高の親孝行というわけだ。どうだい、悪い話じゃないだろう?」
翔の実家は、正確には名古屋市内ではなく、郊外の天王市という所にある。翔は、その町で三百年以上も続く旧家の一人息子だった。父親は既に鬼籍に入っており、広い庭付きの大きな家には、母親が最近ボケ始めた祖母と一緒に二人だけで暮らしている。
この三年間、一度も帰っていない翔にとっては、確かにありがたい話ではあった。
「あの、支社長がおっしゃられたように、親孝行という意味では大変ありがたいご提案だと思います。いろいろと考えて頂き、どうもありがとうございます」
翔は、素直に感謝の言葉を述べ、頭を下げておいた。
お見合いの件はともかく、三年ぶりに地元へ帰れるというのは、それなりに嬉しい。大学を卒業してから会っていない高校の友人とかとも、久しぶりに会えるのだ。振られた彼女と会うかどうかは微妙だが、他に会いたい友人は何人かいる。
「そうか。分かってくれたようで何よりだ」
山森支社長の顔がパッと明るくなった。
ところが、この後の山森の発言は少し矛先が変わってしまい、翔は困惑することになるのだ。
「だがな、一ヶ月と言っても、本気で結婚相手を選んでゴールまで持ち込むとなると、非常に短い。中山にもサポートを頼んであるが、君の方からどんどん積極的にアプローチしないと、なかなかうまくは行かんからな」
「……はあ?」
「なんだ、頼りない返事だなあ。いいか。君は仕事では優秀だが、今度のミッションは、そんなに簡単ではないんだぞ。コンプリートできるかどうかは、まさしく君の頑張り次第ってことだ」
山森支社長の言葉が、何だか芝居めいてきた。そんな彼のテンションに、翔は少し引き気味だった。
「最後にもうひとつ、これは人生の先輩として言っておく。いいか、嫁さんというのは、大切だぞ。これからの君の人生の半分以上は、嫁さんで決まると言ってもいいくらいだ。つまりだな、もし理想の女性と結婚できたとしたら、未来はもう半分以上、約束されたようなもんだと言っても過言ではないということだ」
「……はあ」
「それでだ。これはありふれた表現なんだが、チャンスは絶対に逃すな。本当に欲しいものは、自分でしっかりと掴み取るんだ。そういう時は、格好とか人の目とか気にしちゃ駄目だ。欲しいものは自分のその手で掴み取れ」
山森は熱く語って、既にだいぶぬるくなった筈のコーヒーをぐびぐびと飲みほしてしまった。
「いいか、藤田君。自分の手で未来を掴み取って来い!」
山森支社長は、そこで翔の肩をポンと叩くと、「トイレ行ってくる」と言って、部屋をそそくさと出て行ってしまった。案外、自分で言ったことが恥ずかしくなったのかもしれないと、翔は密かに思った。
金髪の女性秘書、ドロシーの方を見ると、彼女は肩を竦めて「もう行っていいんじゃない」と言う。彼女は日本語が少ししか分からないのだが、何となく翔の立場を気遣ってくれたのだろう。
「なんかあったら、私がフォローしとくから大丈夫よ。あの人、しつこいから、さっさと戻ったら? カケル、忙しいんでしょう?」
早口の英語でそんな感じのことを言ってくれたので、翔はドロシーにお礼を言って支社長室を後にした。
最近の日本では少子化が進み、女性への積極的なアプローチを苦手とする草食系男子が増えている。その為、身元がしっかりした若者に対しては、昭和の頃のように周囲の知人が結婚の世話を焼くのが、再び一般的になりつつあった。
加えて企業による婚活サポートも盛んに行われており、翔が所属する大手商社、七星商事でも総務部主催による婚活パーティー等のイベントが定期的に開催されている。また今回のような上司による働き掛けも、ごく普通に行われるようになっていた。
上司としては、優秀な部下にきちんとした家庭を持たせることで、落ち着いて仕事をして欲しい。そうすることで、定着率も上がるといった思惑がある。
更に企業側としては、社員の既婚率を上げて子供の数が増えればCSR、つまり企業の社会的責任の取り組みにも繋げられる。
一流企業の社員の子弟であれば、優秀である確率が高い。貧富の差の拡大を背景に、「上級国民は、きちんと子孫を残すべき」というのが、最近の日本の風潮なのであった。
★★★
「藤田さん。どうされました? 急に黙り込んだりして。やっぱり、お疲れでしょうか? あまりビールも進んでいないようですし」
「あ、いや……やっぱり、少し時差ボケぎみかな」
「そうですよね。ニューヨークとは、昼と夜がほとんど正反対ですものね」
そうやって気遣ってくれる目の前の美女、犬飼もまたアルコールには強い体質のようだ。既に三杯目だというのに、平然としている。ただ、鈴村千春とは違って、ほんのりと赤くなった顔が、妙に色っぽい。
対する鈴村千春の方はというと、まるで手品を見ているかのようにジョッキの中身が消えていく。この小さい身体のいったい何処に大量の液体が入って行くのだろう。まだこの店に入って一時間も経ってないというのに……。
と、その時だった。
「すいません。遅くなりました」
翔のすぐ後ろで、やや鼻に掛かった感じの可愛らしい声がした。翔が咄嗟に振り向いてみると、そこには水色のワンピースを着た若い女性が立っていた。
細身で華奢な分、小柄に見えるが、実際の背丈は鈴村千春よりも高そうだ。整った目鼻立ちの小さな顔。控えめな色のルージュ以外、化粧をしていないようでいて、しっかりと肌の手入れがされている気がする。背中の中程まで伸びたストレートの黒髪は、さらさらなのに艶があった。
いや、それだけじゃない。どこか彼女には、さりげない気品が感じられる。恐らくは、かなり良い所のお嬢様なんじゃないか?
翔には、そのように思われた。
「あれ、藤田さんったら、莉子ちゃんに見惚れちゃってる?」
千春の甲高い声でハッと我に返った翔は、慌てて「あ、ごめん」と小声で詫びた。すると水色ワンピの彼女は、軽く頭を下げて笑ってくれた。ほっと心が癒される温かい笑顔だった。
「じゃあ、行こっか」
突然、千春が声を上げてさっと立ち上がった。その隣の犬飼も立ち上がって、すたすたとレジの方に向かって行く。
翔は慌てて追い掛けて財布からクレジットカードを取り出したのだが、タッチの差で間に合わなかった。
とはいえ、女性に払わせるわけには行かない。さて、どうしたものかと思っていると、清算を終えた犬飼が、にこっと笑ってこう言った。
「ここは中山支社長の経費で落とせますから、大丈夫ですよ」
更に千春が、犬飼を指差しながら言う。
「あのね、こんなのでも一応、支社長の秘書なの。ここに来ることは支社長にも言ってあるみたいだし、藤田さんは気にしなくて良いんだよ」
「こ、こんなのって何っ?」
「別に、良いじゃん。犬って呼ばれるよかましでしょう」
「何、また犬って……まあ、今は良いわ」
何やら二人でいがみ合ってはいるが、ようやく翔は納得することができた。
すると犬飼が軽く目配せしたかと思うと、既に翔の大きなスーツケースは彼女の手に引かれていた。そして、そのまま、さっさとエスカレータの方に歩き出す。
それに気付いた翔も慌てて追い掛けたのだが、さっきから何度もこうしてあたふたしてばかりの自分には、そろそろ嫌気が差していた。元々体調が悪かった上に、さっき全く手を付けないのも悪いからと、ジョッキの半分ほどビールを飲んだのがいけなかったんだろう。
翔は、そんな自分を不甲斐なく感じながら、やっと追い付いた犬飼に続いてエスカレータに乗ったのだった。
★★★
エスカレータを降りた所で、やっと犬飼からスーツケースを奪い返した翔は、彼女と並んで歩いた。
「わたくし、さっきから思ってたんですけど、そのスニーカー、ニューヨークで話題の最新モデルじゃないですか?」
「そうですけど、よく気が付きましたね」
「はい。わたくし、こう見えても割とアウドドア派で、スニーカーも大好きなんです。会社ではヒールのある靴しか履かない分、プライベートではパンツスタイルにスニーカーなんですよ」
「てことは、今日は仕事の範疇ってこと?」
「あ、いや、別に、そういうわけじゃ……」
「分かってますよ。俺と初対面だからでしょう?」
「ええ、まあ」
彼女とそんな会話を交わした所で、翔たちは到着ロビーに着いてしまった。ガラスドアから見た外は晴れていて、まだまだ随分と暑そうだ。
「あ、藤田さん、知ってます? 今日の名古屋の気温、四十度近くあって、この夏一番なんですよ」
あまり聞きたくない話題だった。ニューヨークでもそのくらいになることはあるのだが、日本の場合は湿度が高い。しばらく忘れていたあのじめっととした息苦しい暑さを思い出した翔は、それだけで更に気分が悪くなりそうだった。
いつの間にか、二人は足を止めていた。
そこで翔は、後ろにいた筈の女性二人がいないことに気が付いた。
「あれ、えーと……」
「あ、千春なら、どうせお手洗いですよ。ああ見えて、あの子は恥ずかしがり屋なんで、藤田さんの前で言い出せなかったんです。まあ、恥ずかしがり屋なのも、最初のうちだけなんですけど。彼女なりの人見知りなんですかね」
「あれで、人見知りですか?」
「ふふっ、変な子でしょう? それと、もう一人の方は、千春の車を取りに行っていると思います。わざわざ取に行かなきゃいけないなんて、だからマニュアル運転車は不便なんですよ。困ったもんです」
「自動運転の車だったら、携帯端末で呼ぶだけで来てくれるから」ということだろう。犬飼は、千春のマニュアル運転車が嫌いなようだ。
いったい、どんな車なんだろうと思っていると、ガラスドアの向こうに真っ赤なオープンカーが横付けして停まった。運転席のドアが開いて、水色のワンピを着たドライバーの女性が優雅に降り立った。そして、ゆっくりとこっちに向かって来る。まるでファッションモデルのように綺麗な歩き方だ。
翔がじっと見ていることに気付いたからか、その彼女がペコリと頭を下げた。翔もつられて軽く会釈を返す。
「あら、車が来ましたね」「おっまたせー」
犬飼の落ち着いた声に被せて、背後から例の甲高いアニメ声がした。振り返ると、そこには巨乳の鈴村千春がフリルの付いたミニスカ姿で立っていた。
こうして見ると、この千春も高級そうな身なりをしている。やはり三人揃って良い所のお嬢様なんだろう。ニューヨークの山森支社長が言っていたとおりである。
ということは、例のお見合い相手は、この三人ということなんだろうか。
「あれー、藤田さん、またぼんやりして、どうしちゃいましたあ。車もちょうど来たことだし、行きましょうよー」
千春が声を掛けてきて、そのまま空いてる方の腕を引っ張られる。どうやら、あの派手なオープンカーで送ってくれるつもりらしい。
でも、あれに四人乗るのって、きつくないか?
それにトランクちっちゃそうだし、とてもこのスーツケースが収まるとは思えないんだけど……。
翔がそれを彼女達に伝えると、千春と犬飼が騒ぎ始めた。
「莉子ちゃんの横にスーツケースを載せて、藤田さんとあたしが後ろの席に並んで座ってと……」
「あんた、あの狭いリアシートに藤田さん、乗せるつもり?」
「大丈夫じゃないかな。あたし、スマートだし」
「絶対に無理でしょうが。あんた、背はちっちゃいけど、お尻はどうなのよ」
「うーん、仕方がない。じゃあ、藤田さんは前に乗ってもらって、後ろにあたしとスーツケースを……えいっ、あれ?」
千春がリアシートに翔のスーツケースを押し込んだ所、隣に人が乗るスペースはほとんど残っていなかった。
それを見た千春が何やら考え込んでいる。
「千春、諦めて藤田さんは桜木さんに送ってもらったら?」
どうやら、桜木さんというのが、水色ワンピの女性らしい。
犬飼の提案に異議を唱えたのは、その桜木の方だった。
「ええーっ、これって千春先輩の車ですよ」
それを聞いた翔は、彼女達の申し出を断ることにした。
「俺が名鉄で帰るよ。久しぶりに帰って来たんだし、どうせなら電車でのんびり景色でも見たいしさ」
「えー、名鉄ですかあ」
「そう言えば名鉄って、あんまり乗ったことありませんね」
「あの、危なくないですか?」
「せめてタクシーで行かれた方が……」
翔が名鉄で帰ると言うと、何故か三人揃って否定的な反応だったのは意外だった。翔が高校生の頃は普通に名鉄を使っていたんだけど、最近になって何か変わったんだろうか。
疑問に思った翔は、支社長秘書だという犬飼に聞いてみた。
「そうですね。昔と比べて治安が悪くなっているのは確かでしょうが、そこまで悪いかと言われると大丈夫な気もします。実際、地下鉄とかなら、千春も使ってますし、たぶん藤田さんが昼間に乗られる分には問題ないかもしれません」
「夜は駄目ってことですか?」
「まあ、ケースバイケースでしょうね。確かに殺傷事件とかは稀ですし、男性の場合は痴漢の冤罪とスリに気を付けていれば大丈夫かと」
「そうですか」
「あとは、そのスーツケースですが、それだけでもセルフのタクシーで運ぶ方法もありますよ。受け取りだけご家族の方にお願いすれば、翔さんは手ぶらで帰れます」
「あ、だったら、そのスーツケース、あたしと莉子ちゃんで運んで……」
「それだと、却って藤田さんに気を使わせてしまうでしょうが。千春は、もう折れるべきよ」
なおも食い下がろうとする千春を犬飼が素早く制してくれたのだが、それでも千春は諦め切れない様子で何やらぶつぶつ言っている。それにイラついたのか、犬飼が強めの言葉を放った。
「だいたい、わたくしが気を利かせて『社有車、手配しようか』って言ってあげたのに、それを無視して、こんなド派手な車を持ち込むから、こんなことになったんでしょうが」
「だって、こっちの方が藤田さん、喜ぶかもって思ったんだもん」
「違うでしょう。自分の車、見せびらかしたかっただけじゃないの」
「ふん。貧乳のくせに」
「だ、誰が貧乳よ」
「ペチャパイ」
「胸は関係ないでしょう、胸は。あんたなんか、チビのくせに」
「チビ言うな」
「最初に人が嫌がること言ったの、あんたでしょうが」
「ええい、うるっさーい」
「もう、二人とも、こんなとこでケンカしないで下さいっ!」
最後は桜木という子が涙目になって仲裁に入り、ようやく二人の痴話喧嘩は治まったようだ。
「せっかくお出迎えに来たのに、こんなことになってしまって、大変申し訳ありませんでした」
「ごめんなさい、藤田さん」
「それでは藤田さん、明日、会社でお待ちしてますね」
「失礼します」
神妙な顔付きの千春と犬飼とは違い、桜木という子はとても素敵な笑顔を翔に向けてくれた。
まあ、あの二人の方は、さっきまで喧嘩してたから当然だろうけど、結果として、桜木という子のことが翔の印象に残ることになった。
実際、真っ赤なオープンカーを見送った際、翔の視線はずっとドライバー席に釘付けだったのだ。
その車が左ハンドルの外車だったこともあって、翔から見ると手前に彼女が座っていた。だから余計に彼女の長い黒髪が風に靡く様子が見られたのだろう。
午後の強い日差しに照らされたその髪は、翔の目に強く焼き付いて、いつまでたっても消えそうに無かった。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
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