第19話:空白の三年間(1) <薫サイド>
見直しました。
藤田翔と別れ、一人になってからの東京での生活は、水草薫にとって空白の日々だった。
今になって思えば、あの三年近くもの間、何で東京にしがみ付いていたんだろうと不思議でならない。
だけど、あの頃は、そんなこと考えている余裕なんて無かった。時間的にもそうだったけど、いつも何かに急き立てられていて、精神的にも追い詰められていたんだ。
毎日毎日、今日と明日をどう生き延びるかで必死だった。だから、将来のことだとか、考えられる筈もない。
毎日が、ただ流されて行くだけの生活。
何処か心の中で『こんなんじゃいけない』と思ってはいても、具体的な行動に移すことができない。焦れば焦る程、前に進めない悔しさで、心が押し潰されそうになっていた。
そんな日々でも、もちろん抗ってはいた。大学で学んだことを思い起こして、当時の教科書やノートを読み返したりもしてみた。当然、ネットで情報を集めてはいたし、語学の勉強だって継続していた。
だけど、すぐに『こんなことして何になるの?』という思いが頭をもたげてしまう。そして、次に来るのは、どうしようもない虚しさだった。
ビルの谷間に巣くう巨大蜘蛛の透明な糸で、心を雁字搦めにされたみたいだった。都会の悪魔に身体を乗っ取られてしまい、何も行動を起こせずにいた。
完全に八方塞がりだった。
そうして無作為なままに毎日がだらだらと過ぎて行き、気が付くと貴重な二十代前半の時間を手放していた。
馬鹿だ。
どうしようもなく馬鹿だった。
私は、取り返しが付かないことをしてしまった。
都会はもう嫌だな。
都会は嫌い。
もう二度と都会には住みたくない。
それらが今の薫にとっての、偽らざる心境だった。
★★★
東京での水草薫は、六畳もない程の狭いワンルームのアパートに住んでいた。一応、小さなキッチンとユニットバス、そしてエアコンが付いてはいたけど、それらのどれもが古くて、あまり綺麗では無かった。
それと、ニ階の薫の部屋は日当たりがとても悪くて、窓から見えるのは隣のビルの薄汚れた壁だけ。その壁とは一メートルも離れてなくて、圧迫感で息が詰まる程だった。
そもそも建物自体が相当に古くて、薄暗いコンクリートむき出しの階段の壁には、蜘蛛の巣が張っていたりする。しかも、すぐ近くを首都高が通っているので、車の音が煩すぎて、慣れないとなかなか眠れない。その上、トラックが通る度に振動でガタガタ揺れるし、サッシの窓ガラスがカタカタと音を立てるのだ。
おまけに、周囲にはスーパー等のお店が無くて、だいぶ離れた所にコンビニが一軒あるだけ。当然、最寄りの駅からは、徒歩で二十分以上も離れていた。
まさにこれより悪い条件は無いと胸を張って言える程に酷いネガティブ要素のオンパレード。どう見たって、最悪の物件である。
では、薫が何でこんな部屋を選んだかというと、家賃が格安だったからに決まっている。不動産屋には、「とにかく家賃が安い部屋でお願いします」という条件で探してもらったのだから、これでも文句を言える筋合ではないのだ。
このアパートで唯一のメリットと言えば、女性専用だってことくらいだ。つまり、女性専用の安アパートということで、いろいろと社会の最底辺でもがいている女達が集まって来る。でも、ここに長くいる人は少なくて、大半の人は一年もしないうちに出て行ってしまう。たぶん、ここに長くいること自体が負けなんだろう。
それでも、ここに長く住んでる人には、特徴がある。住む場所にはこだわらない。寝られれば、それで良い。その「寝る」という行為にだってこだわりは無くて、多少は煩かったり、振動があったりしても平気で寝られる類の人達である。
例えば、薫の隣に住む椛姉さんがそうだった。
その椛姉さんは、たまにドアをドンドン叩いて、「おーい、薫~、生きてるかあ」と声を掛けてくれる。薫がドアを開けて顔を出すと、おにぎりとペットボトルの水を差し入れしてくれたりする。
「アタシにも経験あるけどさあ、男のことなんて、最後は自分の中で見切りを付けるしかないんだよ。無理に忘れようたって忘れられるもんじゃない。あん時こうすれば良かったとかぐちぐち悩みたくなるのも分かるけど、過ぎちまったことはどうにもなんないんだ。結局、そいつより良い男が現れるまでは、そいつとのことを心に抱えて生きて行くしかない。今は辛いとは思うけど、これ食べて元気出しな。どんなに落ち込んでても、生きてりゃ明日は来るんだからさ。アタシなんか、そうやって何人の男と別れてきたことか……ってね。あははは……」
椛姉さんは、そう言って大口を開けて笑う。この人は、どんなに辛いことがあったって、いつも笑い飛ばして生きて来た人だ。今まで何度も男に騙された挙句、もう男はいらないと見切りを付けたらしい。それからこのアパートにやって来て、今は自分の店を持つ為にお金を溜めてるそうだ。
つまり、藤田翔と別れた後の薫は、まるで魂の抜け殻のような状態になってしまっていたのだ。
派遣会社の研修があるから毎朝、研修会場には行くのだが、アパートの部屋に戻ったら、何もする気がしない。食べ物もあまり喉を通らず、何も食べずに済ましてしまうことも良くあった。
そんな薫のことを心配して、隣の椛姉さんがこうしてたまにおにぎりを持ってきてくれるのだ。
この椛という名前は、どうやら源氏名らしい。けど、本名の桜子よりはこっちの方が良いと、ずっと椛で通しているそうだ。
「アタシは桜みたいに綺麗な女じゃないよ。それに桜みたいに潔く散ったりもしない。秋の椛の方がずっと性に合ってるんだ。あははは……」
またも大口を開けて笑う椛姉さんは、柄は悪いが面倒見の良い人だ。たぶん、お店の若い子達からも慕われているんだろう。
再び部屋に引き籠った薫は、小さな口でおにぎりを少しずつ食べる。味はしない。味なんてどうだっていい。むりやり水で喉に流し込んで、ベッドに身体を横たえる。
派遣会社に行く以外、薫は部屋に引き籠っていた。椛姉さんには、「早く自分の中で見切りを付けろ」と言われているけど、今の薫にはまだできそうにない。目を瞑ると、いつだって翔との楽しかった日々が次々と蘇ってきて、ちっとも眠れやしない。
あれだけ考えて翔に別れを告げたのに、辛くて辛くてどうしようもないのだ。
だけど薫は、自分から翔に電話することだけは絶対にしなかった。それに、スマホのメールボックスをチェックすることも自分に禁じていた。そんなことを一度でもしてしまったら、翔と別れた意味がなくなってしまう。
彼氏と別れたら、普通はスマホのデータを完全消去してしまうものなんだろうけど、薫は何度しようとしても、それはできなかった。
薫が高校時代から使っている旧式のスマホには、翔との思い出がいっぱい詰まっている。その思い出を消してしまえば、自分自身も泡のように消えて、この世界から無くなってしまう気がしたからだ。
薫は今晩もベッドに寝転がったまま、何もしない。薫の心は過去に逃避してしまい、朝まで戻っては来ないのだった。
★★★
そんな状態の薫でも四月から社会人になったのだから、職場には向かわざるを得ない。何とか心にムチ打って出社はするのだが、ただでさえ表情が乏しく愛想が無いと言われがちな薫である。薫の評判が良くなるわけがない。
四月は派遣会社での研修期間だった為、それほど問題にはならなかったが、それでも研修中に居眠りをしたりとか、質問されてもぼんやりした状態でまともな受け答えができないとかで、しょっちゅう講師に怒られてばかりいた。それで薫は、ますます評判を落としてしまったのである。
五月に入って研修を終えた薫は、さいたま市にある貿易商社に派遣された。元々は丸の内にあった会社らしいが、三年ほど前、さいたま新都心の高層ビルに引っ越したらしい。
そこは着飾ったOLが多く働く職場で、派遣社員はあまりいなかった。お給料もそこそこ良いらしく、もしここで正社員として雇ってもらえたらどんなに良いだろうと、つい思ってしまったのだ。
ところが目付きの悪い人事課長は、開口一番、薫に言った。
「うちには、派遣を正社員にする制度は無いし、君を長くここで使うつもりもないから、あまり期待しないでもらえるかな」
ここまではっきり言われてしまうと、却って諦めが付くというものだ。
それでも初めての仕事だったし、研修の時とは違って薫は一生懸命やった。派遣なので補助的な仕事ばかりだったし、隣の部署の男性からセクハラめいたことをされたりもしたけど、決して声を荒げることはなかった。実際に薫は優秀で、職場の直接指示をくれる人達からは、とても重宝されていたのである。
「ああ、水草さんがずっとここで働いてくれてたらなあ。うちの実務職の女の子達なんかより、ずっと優秀なんだけどなあ」
「うちの人事、頭かったいからなあ」
「知ってます、水草さんの出身大学。うちの課長なんかよりずっと良いとこですよ」
「やっぱ、そうなんだ。でもなんで彼女……」
そんな会話は聞きたくない。この会社は、本人の能力よりも家柄とコネを重視するのだ。薫も前に履歴書を送ったけど、書類審査で落とされてしまっていた。薫の大学の名前があれば、普通は面接くらい受けさせてくれるのに、ちょっと異常な会社だった。
そして案の定と言うか、薫の働きぶりを直接知らない人達からの薫の評判は、最低だった。
そんな中のひとりが次長の杉山さんである。この人は、仕事はまるでできないくせに社長の一族ということで、社内でそこそこ影響力を持っている。
「俺は、人事に若い可愛い子をくれと頼んだんだがなあ、若いまでは良かったんだが、君は全く可愛げがないじゃないか。いつもムスッとしていて、笑った所を見たことがない。派遣の子なんて所詮、仕事はそんなにできないんだから、ニコニコしてくれてたらいいんだ。もっと愛想よくしろよ……」
「杉山次長、痩せてる子って興味無いですもんね」
「そりゃそうだろう。女はもっとむっちりして、出るとこがちゃんと出てないとな……」
セクハラオヤジ達の戯言など、どうでも良かった。
けど、この会社で評価される女子は、仕事なんかできなくたって、いつもニコニコして愛想だけ振りまいてる若い子だけのようだ。実際、女性社員の平均年齢は若い。ということは、社内結婚した後は家に籠って専業主婦ってことだろうか。
同じ課の女性社員が教えてくれた。
「さすがに今どき専業主婦ってのは、少ないわね。アラサーになると皆、ここを辞めて転職しちゃうのよ。この会社の魅力は、そこそこ楽で若くても給料が良い事なんだけど、その後の昇給が少ないの。だから、できる子から転職して行くってわけ。できない子はだんだん居づらくなって、やっぱり辞めちゃうわね。私もいろいろ探してるんだけど、なかなか良いとこが無くてさ……」
つまり、女性社員を若く保つ為に若年層を優遇し、ある年齢になると役職が上がって行かないと昇給しない給与体系のようだ。それでも男性社員の場合は、杉山次長のようにコネさえあれば役職が付いて、いつまでも会社に残って居られる。きっと、そういったオヤジ連中にとって、この会社は天国のようなものだろう。
こんな会社でもそこそこの収益を上げられるのは、昔からの様々な利権があるからで、いわば過去の遺産を食い潰しているだけである。彼らは、何の社会的価値も生み出さない。なのに、そうした遺産がある限り、そこから彼らは甘い汁を吸い続け、ゾンビのように生き続けるわけだ。
薫は、この会社に派遣されたことで、社会の歪な一端を垣間見た気がしたのだった。
★★★
気が付くと梅雨に入っていて、雨模様の天気が毎日続いていた。日付は七月に入り、翔と別れて既に三ヶ月が過ぎたが、その間、薫はスマホをただの電話としてしか使っていなかった。
ところが、この時期になってスマホが何度も点滅したり震えたりするのが気になって、ついついメールボックスを覗いてしまった。
実は、翔から大量のメールが届いているかもと内心期待していた薫だったが、予想に反してそんなことは無かった。それでも、短いメールが何本かは来ていて、それらはどれもここ一週間以内のものだった。
こうなると、中を見ないわけにはいかない。
震える指で画面をタッチする。
『俺、NYに行くことになった。薫も仕事ガンバレ。翔』
他のも見たけど、どれも同じような内容だ。翔らしいとは言えるけど、あまりにもそっけない。
そもそもNYって何の略語なんだろう?
しばらくして、それがニューヨークだと気付いた時、薫は『ああ、遠いな』と思った。
遠すぎる。行くにはお金がいっぱい掛かるだろう。派遣のお仕事では、生活費を稼ぐので精一杯。そんなお金なんて、何処にも無い。
もう、追い掛けては行けないよ。もう、絶対に会えない。
そう思ったら、目の前が真っ暗になった……。
★★★
悪いことは重なるものだ。
七月の中旬、梅雨もそろそろ終わろうかといった頃のことだった。早朝、スマホの着信音で叩き起こされた薫が眠たい目をこすりながら
「祖母さん、亡くなったんだ。できたら帰っておいで」
父の言葉の意味が分からない。
亡くなった? どういうこと?
だって、まだ七十になったばかりだよ。
薫が最後に祖母の幸子に会ったのは、この年の正月。その時の祖母は、もちろん元気だった。
「薫には言ってなかったがな、祖母さん、去年の秋からずっと天王市民病院に入院してたんだ。薫が帰って来た時だけ、病院に許可を貰って屋敷に帰ってたんだ」
「な、何で教えてくれなかったの」
「祖母さんが言ったんだ。絶対にお前にだけは言うなって……」
父が言うには、祖母は子宮ガンで、分かった時には既に手遅れだったらしい。そのことは、本人も知っていたという。父は言わなかったけど、本人が医師からうまく聞き出してしまったそうだ。
そこで薫は、お正月に帰省した時のことを思い返してみた。
そう言えば、妹の楓が少し変だった気がする。あれって今思うと、私に祖母の病気のことを伝えようかどうかで迷っていたからかもしれない。
だけど、当時の楓は中学三年の受験生だったから、そのせいだろうと見逃してしまったのだ。あの時、ちゃんと妹を問い詰めておかなかったことが、今となっては悔やまれてならない。
父が教えてくれたのは、こんな内容だった。
薫が就職に失敗したことに心を痛めていた祖母は、もし薫が自分のことを知ったら、こっちに帰って来ようとする。自分のせいで、薫が夢を諦めるようなことになるのは駄目だ。だから言わないでくれ。
薫は、あの祖母らしいと思った。
この時だけは、あの父も祖母の気持ちの方を優先したんだろう。
正月に帰った時、父はこう言った。
「就職が駄目だったんだから、東京はもう良いだろう。帰って来い」
今になって思えば、祖母のことで父も弱気になっていたに違いない。
でも、薫には帰る決心が付かなかった。本音では父が言ってくれたことは嬉しかったのに、ついつい抵抗して意地を張った。
――今、自分がここで帰ったら負けだ。
薫は、そんな風に意固地になってしまったのだ。
その時に唯一、薫を庇ってくれたのは、祖母だった。
「派遣会社だって良いじゃないか。どんな仕事だって、一生懸命に頑張りなさい。自分が納得できる所までとことんやって、それでも駄目で帰りたいと思ったら、そん時はこっちに戻って来りゃええ」
その祖母の言葉は、今も薫の胸に強く刻み込まれている。
★★★
気が付くと、もう三十分以上も父と電話で話していた。父とこんなに長く話したのは、薫が東京に来てから始めてのことだ。
父との電話を切ると、すぐに薫は帰る準備をした。ありったけのお金を持って新幹線のぞみに飛び乗ってから、派遣先の会社に連絡を入れる。薫の派遣先の上司である松崎課長は、快く了承してくれた。
新幹線のぞみの車窓から、ぼんやりと外に目をやる。高速で流れて行く景色は、薫の目に入らない。不思議と涙も出て来なかった。
ふと、祖母の幸子が昔、言った言葉を思い出した。
「人は死んだら、別の人に生まれ変わるんだよ」
祖母は昔、こう言ったのだ。
祖母は、どんな人に生まれ変わるんだろう。
あの祖母のことだ。どんな人であろうと、きっとまた優しい人になるに違いない。
薫は、新幹線のぞみに揺られながら、祖母の一生のことを思った。
若くして、箱庭のような狭い中州の集落に押し込められて、そこで一生を終えた祖母、幸子。
祖母は、中州に嫁いで来て、本当に幸せだったんだろうか。
だけど、その中州を飛び出して東京に出て来た自分だって、果たして幸せだと言えるのだろうか?
――幸せって、いったい何だろう?
良く分からないと思った。少なくとも今の自分には、とっても縁遠いものに思えてしまう。
そんなことをつらつらと考えているうちに、新幹線のぞみは名古屋駅に到着した。
タクシー代までは無かったから、名鉄に乗って天王駅まで行ったら、そこに父の武が古い軽トラで迎えに来てくれていた。
父の顔を見てほっとしたけど、それでも薫は泣かなかった。
名古屋駅に付いた時から雲行きは怪しかったが、父の軽トラックに乗ってすぐに雨が降り出した。しかも、どしゃぶりの雨だ。
「この雨で今年の梅雨が終わると良いがな」
父がそう言ったのをきっかけにして、ぽつんぽつんと薫は父と会話を交わした。もっとも、会話の内容は、たわいもないことばかりで、薫も父も祖母のことには触れなかった。
やがて大河の大きな橋に差し掛かった頃、雨は小降りになって、橋から下りて中州に入った時には止んでいた。
水草家の屋敷の大きな門を潜ると、父は車を駐車場ではなく前庭の隅に停めた。すぐに使用人の野崎がやって来て、薫が助手席から降りるのに手を貸してくれた後、父を連れてテントのある方へ行ってしまった。
ただ一人、その場に取り残された薫は、目の前の光景が信じられなかった。屋敷の前庭が大勢の人達でごった返していたからだ。
屋敷にこれほど多くの人が居る所を見たのは、薫が小さい頃の記憶にある祖父のお葬式の時以来だ。
そこには、二種類の人達がいた。忙しくしている人達とそうでない人達だ。
前者は薫の家族と使用人、分家の主だった人達、一部の元使用人、それと、ご近所さん達だ。つまり、ほとんどが薫とは顔見知りの人達で、誰もが忙しそうに動き回っている。
それ以外の人達は、神妙な面持ちでゆっくりと動いては、何やらひそひそ話をしている。男性も女性も同じだ。
そして、屋敷にいる全ての人達が、黒い服を着ていた。
薫が受付らしきテントの近くまで歩いて行くと、家政婦の小夜が小走りでやって来た。彼女は挨拶もそこそこに、できるだけ人の少ない使用人用の出入口へと薫を連れて行ってくれる。
そこから母屋に入ると、当然のように、そこも大勢の人で仲はごった返していた。自分の家だというのに知らない場所へ迷い込んだような気がする。だけど、立ち止まってなんかいられない。
そこには、葬儀やお通夜の準備をする人、お客様としてもてなしを受ける人、そして、その人達をもてなす人がいて、それらの人達の多くと薫は、次々に短い言葉を交わして行く。
本当は、まず母の佳代に会いたかったのだが、来客の対応でそれどころではないらしい。正式なお通夜は夕方だというのに、既に遠方からも大勢の参列者が来ているようなのだ。
中州には宿泊施設など無いので、それらの人達は当然、この屋敷に泊ることになる。幸いにも余っている部屋はいくらでもある。
問題は水草家にある寝具がどれも古く、押し入れに入れっぱなしだったこと。なので急遽、使用に耐える物を選定し、不足分は分家から借用することにしたそうだ。そして今は、手の空いている者が総出で掃除中なのだという。
この時の薫は、一応グレーのスーツ姿でいたのだが、小夜が手頃な喪服を持って来てくれたので、昔の自分の部屋で素早く着替えた。
再び、小夜がいそうな台所に戻ると、「お嬢様、お腹は空いてませんか?」と訊いてくる。薫は、「そんなことより、まずは祖母に合わせて下さい」と頼んだ。
どうやら、祖母の亡骸は、離れにある祖母の自室に安置されているらしい。
そこまでは薫にとって歩き慣れた道筋なのだが、途中の廊下ですれ違う人達がいちいち話し掛けてきて、なかなか前に進めない。
ようやく最後の角を曲がった時、妹の楓が抱き付いてきた。楓は喪服の代わりとして、川田中学の制服姿だった。でも、うちの中学の制服は白のブラウスに青色系のチェックのプリーツスカートだ。なので、明日はレンタルの喪服を借りることになっているらしい。
薫の胸でわんわんと泣きじゃくる楓をしばらく宥めてから、一緒に祖母の部屋へと足を踏み入れる。
入口の所に祖母の弟である松浦栄治がいて、薫に軽く会釈をしてくる。薫も軽く頭を下げた後、目を部屋の奥へと向けた。
祖母の幸子は、布団の上に寝かされていた。顔の上に白い布が掛けてあるのが薫には不思議でならない。
「お祖母ちゃん?」
思わず小声で、そう呟いた。
当然、返事は無い。
突然、薫の両方の瞳に涙が溢れ出た。
薫は、その場に崩れ落ちた。
そして、薫は号泣した。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
この続きも宜しくお願いします。




