第18話:その夜 <薫サイド>
再度、見直しました。
水草薫がバイトをしているコンビニEマートに、夕暮れ時になって元カレ、藤田翔がふらりとやって来て、二人で天王池公園に行ってはみたものの、話が合わずにケンカ別れしてしまった。
その後、バイト先の同僚の斉藤美月に慰められ、一時的に気分を持ち直したのだが、この狭いアパートに戻って来た途端、再び落ち込んでしまった。
そんな沈んだ気持ちを少しでも拭い去ろうとシャワーを浴びてみたのだが、やっぱり気持ちは晴れなかった。それでも髪の毛だけはちゃんと乾かして、リビングのソファーにちょこんと腰掛ける。
この名ばかりのリビングには、サイズの合わない大きなソファーが置かれている。中州の屋敷から持ってきたもので、古いけど黒い牛革の立派な物だ。中州の屋敷にあった一番小さいのを選んだそうだが、それでもこのアパートには全くもって似つかわしくない。
最初は浅く座った薫だったけど、そのうち背もたれに身体を預け、天井を眺めて溜め息を吐いた。
ここは二階の角部屋で、このアパートでは一番良い間取りらしい。とはいっても名ばかりのリビングダイニングの他には、六畳の和室が二つあるだけだ。そのうち一室は受験生の楓が使い、もうひとつを薫と母の佳代が寝室にしている。
この狭いリビングコーナーに続いている台所には、四人掛けの小さな食卓テーブルがようやく置ける空間しかなくて、その一角に小さな玄関がある。浴室とトイレは一応別々で、脱衣所に洗濯機が置けるようになってはいるけど、とにかく何処も狭くて汚い。もちろん、入居する時に掃除はしたみたいだけど、黄ばんだり痛んだりしている部分はどうしようもないのだ。
春先から五月頃迄は頻繁にゴキブリが出没していたのだが、妹の楓と二人で徹底して排除したせいで、最近はあまり見掛けなくなっている。それでも、たまに遭遇することがあるのは、他の人の部屋から紛れ込むんだろう。そういうことも、アパートだから仕方ない。
「あれ、お姉ちゃん、帰ってたんだ。てか、何で灯りも点けないでそんなとこにいるの。しかも、その格好、何なの?」
「ちゃんと、Tシャツ着て、パンツ履いてるよ」
「もう、ちょっと待ってて。確か、お姉ちゃんのジャージが……」
「ゴムのとこ、駄目になってたし、両ひざに穴が開いてるから、さっき捨てた」
「えっ?」
「……はあ」
「もう、どうしたの、溜め息なんて吐いちゃって」
「うん、ちょっと疲れた」
「疲れたってことは……」
薫の額に楓の掌が当てられる。薫のより大きくて生暖かい手のひらだ。
「ふーん、熱は無いんだ。てことは、気分の問題か……」
もう一度、楓が顔をじろじろと見てくる。普段なら怒る所だけど、今はそんな気力も無い。
「お姉ちゃん、なんか暗いよ。もう、私に暗いの、うつさないでね」
何だか、散々な言いようだ。けど、一応は心配はしてくれているのは分かる。ていうか、後半は照れ隠しなんだろう。
そう言えば、今日は斉藤美月にも心配を掛けてしまった。その彼女が要ったのは、ぐっすりと眠ることと、後は……。
「そういや、楓。チョコレートがあるけど食べる?」
「えっ、チョコ? 何処に?」
「ほら、テーブルの上」
薫は、食卓テーブルの上のレジ袋を指差した。そして、それを楓が覗き込んだ途端……。
「うわあ、すっごーい。こんなにたくさんのチョコなんて、生まれて初めてかも……てか、どうしたの、これ?」
「貰った」
「貰ったって、これ、半分くらいは賞味期限前だよ」
「やっぱ、そうなんだ」
「そうって、何その、無気力な……てか、お姉ちゃん、何かあった? その落ち込み方、尋常じゃないよ」
「うん、ちょっと疲れた」
「疲れたのは分かったから、その理由だよ。何があったの?」
薫は少しだけ考えてから、「言いたくない」と答えた。
「ふーん。分かった。じゃあ、お姉ちゃんには聞かないけど、まずは、この板チョコ、食べたら? 私、お茶、入れるよ。ほら、こっち来なよ」
楓がそう言うので、食卓の方に移動して、チョコを食べ始める。お茶は、冷たい麦茶だった。
「珍しいね。お姉ちゃんがここまで落ち込むのって」
「うん」
「まあ、お父さんが死んだ時と比べたら、ずっとましだけどね」
「まあね」
「お姉ちゃん、それ食べたら、ちょっとご飯食べる?」
「いらない」
「もう。栄養、偏るから、サラダだけでも食べたら? ポテトサラダあるよ」
「そうする」
薫は、楓に冷蔵庫から出してもらったポテトサラダを食べ始める。楓が作ったのかと思ったら、母の佳代がスーパーの総菜の余り物を貰ってきたらしい。
その間、楓はスマホを取り出して何やらいじっている。
「ふーん、そっかあ。お姉ちゃんを泣かした男っていうと、あの人が帰って来たんだね」
冷たいポテトサラダは、意外にも美味しかった。それで、気が付くと無くなっていて、名残り惜しそうにしていた時、楓が気になることを口にした。
あの人って、誰だろう?
「あの人は、あの人でしょう。お姉ちゃんが過去に付き合った人って、一人しかいないじゃん。アメリカに行っちゃったって聞いてたけど、帰って来たんじゃないの?」
「で、でも、なんで楓がそんなこと知ってんの?」
「へへへ、私には秘密の情報源があるのだよ」
「も、もう、はぐらかさずに教えなさい」
「うわあ、怒った。てことは、動揺してるな、おぬし」
「うるっさーい!」
薫は、妹の楓をキッと睨み付けた。そうしながらも、頭を働かせて考える。
今日、Eマートに彼が来たのを知ってるのは、斉藤美月と牧野愛衣だけだ。てことは……。
「楓、あんた、愛衣ちゃんのこと、知ってんの?」
「ふふっ、お姉ちゃんって、やっと気付いたの?」
「『やっと』って、何よ。ちゃんと説明しなさいっ!」
「まあ、私も愛衣がEマートでバイトしてるの知ったのって、七月になってからだし……あそこ、颯太との待ち合わせに使ってたのに、全く気付かなかったんだよね」
八木颯太は、楓よりひとつ年下の幼馴染だ。天王北高に通っていて、楓は自分の用心棒みたいにしている。
「私って、Eマートの中って、ほとんど入ったこと無いんだ。だって、お姉ちゃんが仕事してんのに邪魔しちゃ悪いし、コンビニで買うよりはスーパーで買った方が安いんだもん」
それで、愛衣がEマートで働いていることに気付くのが遅れた、と言いたいらしい。
「それで?」
「うん。まあ、細かいことはすっ飛ばして結論から言うと、愛衣といろいろ話してるうちに、すっごく綺麗な女の人の話が出てね、苗字も水草だから、私のお姉さんじゃないかって愛衣が訊いてきたの」
「もう、愛衣ちゃん、ちっともそんなこと言ってくれてないんだけど……」
「それ、私がお姉ちゃんに言わないでって言ったんだよ。だから、愛衣を責めないであげて」
「良いけど、何でそんなこと言ったのよ」
「だって、その方がバイト中のお姉ちゃんの情報、取り易いと思ったんだもん」
「何よ、それ」
「愛衣の情報によるとね、今日、店にカッコ良い男の人が来て、お姉ちゃんと天王池公園の方に行ったと思ったら、お姉ちゃんが泣いて帰って来たって……」
「もう、愛衣ちゃんったら」
「だから、愛衣は心配しただけだからさ」
「そっか」
「でも、お姉ちゃん、あの人に何されたの?」
「何って、別に」
「別にじゃないでしょうが」
「別に何もされてない。ムカついただけ」
「ふーん」
楓は、ちょっと考え込んでいた。
「あの人、かなり鈍いとこあったもんなあ。久しぶりに見たお姉ちゃんが昔のまんまの姿だから、ちょっと調子に乗って、何か軽はずみなこと言ったんだね。お姉ちゃん、見た目はおんなじでも、中身は前とは違うわけだし……てか、このアパートのことも含めて、うちらの周り全てが変わっちゃったもんね」
楓の言ったことは、だいたい当たっている。客観的な目でまとめてみれば、そうなるってことだろう。
「まあ、アレだね。昔とは違って、あの人とお姉ちゃん、今はもう住む世界が違っちゃったってことでしょう?」
そのとおりだ。
そんなことは、ずっと前から分かってた。だから、あの時、薫の方から彼に別れを言い出したのだ。
薫の顔が強張ったのを察してか、楓が話題を変えてきた。
「ところで、愛衣のことなんだけどさ……ふふふ、あはは」
「ど、どうしたの急に。気持ち悪い」
「だってえ、キャははは、やっぱ、駄目だ。思い出したら、笑っちゃう」
「だから、何なのよ、もう」
「ごめんなさい、えーと、愛衣って、変じゃない?」
「何がよ。愛衣ちゃんは、良い子だと思うけど」
「うん。良い子だよ。すっごく良い子だし、頑張ってるんだ。愛衣ね、私なんかより、ずっとボンビーでさ……」
ボンビーガール。確かにそんな言葉があったな。
東京に居た時の薫にぴったりの言葉だけど、薫はあまり好きじゃない。そんな綺麗な言葉で表せるほど、薫の生活は良いものじゃなかったからだ。
「ふふふ、あははっ……やっぱ、おっかしい」
「だから、何なのってばあ、もう。気持ち悪いよ」
「あのさ、あの子の髪型、すっごい変じゃない?」
「えっ、ベリーショートでしょう?」
「うん。そうとも言うね。私には、男子のスポーツ刈りに見えちゃうけど」
「……?」
「あれね、愛衣が自分で切ったんだよ」
「それは、私もそう思った。ていうか、それくらいだったら、普通じゃない。私も東京にいる時、自分で切ってたし、楓の髪だって、こないだ私が切ってあげたじゃない」
「うん。そうなんだけどね。でも、あそこまで短くするって普通じゃないと思わない? あの子が髪の毛、切った理由って、シャンプー代を浮かせられるかもって思ったからなんだよ。それで切ってるうちに、やり過ぎちゃって、結局、お母さんに直してもらって……でも、切っちゃったのは、すぐには戻んないじゃん。それで次の日、暗―い顔してんの」
薫も貧乏だったけど、そういう発想は無かった。だって、翔くんの前では、少しでも可愛くありたかったし……。
「それ、マジ?」
「マジだよ……てか、お姉ちゃん、そのマジって言葉、死語だから止めなって言ってるじゃん」
「だって、どうしても出ちゃうんだもん」
前々から楓に直すように言われてるけど、どうしても口癖になってて、なかなか直せない言葉ってあると思う。……。
「だから、私の前で練習すればって言ってあげてるんじゃん。そしたら、外で出なくなるでしょう?」
「だけど、どうしても直さなきゃなんないわけでも……」
「えー、古い言葉遣いだったらまだしも、昔に流行った言葉は、やっぱ、相当にハズいと思うけど」
「でも『マジ』は、使う人いるよ。美緒だって言うし、松永くんも使ってるの聞いたことあるもん」
「それ、お姉ちゃんと同じ歳の人達でしょう? うちらの世代は使わないから」
「うぐっ」
「お姉ちゃん、せっかく若く見えるってのに、そういう所から歳がバレちゃうんだよ」
薫も楓の言うことは分かるのだが、しかし……。
「私、別に自分の歳を隠そうとか思ってないもん」
それどころか、五つも年下の斉藤美月に年下だと思われたりとかの弊害だってある。
あれ? でも、斉藤さんの場合は、年下に思われて良かったのかも?
チョコも貰ったし……。
ともあれ、妹の楓との他愛ないおしゃべりをすることで、ほんの少しだけど気を紛らわすことができた。やっぱり妹がいて良かったと思う。妹を産んでくれた母に感謝だ。
それと薫は、バイト先の愛衣に意外にもドジっ子な属性があると知って、親近感が湧いてしまった。しっかりしてる子のようで、実はあまり深く考えずに行動してしまうタイプなのかもしれない。
彼女も天王高校の後輩な訳だし、もし機会があれば、進学のこととか相談に乗ってあげよう。自分の失敗談だって、多少の役には立つかもしれないだろうし……。
★★★
それからも薫と楓は、しばらくの間、愛衣の話で盛り上がっていたのだが、それに飽きると楓の方は、「もう少し勉強する」と言って、自分の部屋に籠ってしまった。
薫は、きちんと歯磨きをしてから、斉藤美月に言われたとおり早く寝ようと思い、少し湿った布団の上に身を横たえたのだが……、駄目だ。ちっとも眠れやしない。
昨夜も薫は、あまり寝ていない。突然、藤田翔と再会してしまった興奮からだ。それで寝不足なのだから、本来なら眠れる筈なのに、こうして何度も寝返りを打っては、悶々としている。
もちろん、暑くて寝苦しいのもあるだろう。窓が網戸にしてあるのに、そもそも今夜は風がないみたいだ。
たけど、問題はそこじゃない。
目を瞑った途端、夕方の天王池公園で交わした彼との会話が、薫の脳裏に蘇ってしまうのだ。
薫がこんな状態に陥ったのは、全て元カレ、藤田翔とケンカ別れしたからだ。ケンカとはいっても、薫の方が一方的に怒りをぶつけてしまった形だから、気まずいことこの上ない。
ああ、私って駄目だな。全然、駄目だ。
さっきから、幾度となく繰り返される溜め息。
せっかくまた会えたというのに、これで全部だいなしになっちゃった。
ああ、本当に何をやってんだろう。もう二十五歳だというのに、私、ちっとも成長してないや。これじゃ、東京に居た頃と何にも変わらないじゃない。
目を瞑ると、東京で彼と別れてからのことが次々と走馬燈のように思い起こされる。
薫があの時、彼と別れようと思った理由……それは就職活動の過程で、自分と彼との違いをまざまざと見せ付けられたからだ。
――一流企業からの内定をいくつも軽々と取った上に、最後は就職人気ランキングの上位に名を連ねるような大手商社への就職を決めてしまった翔くん。
――靴を何足も履き潰すほどに駈けずり回って、百社を超える企業での面接を繰り返したというのに、その全ての企業から断られてしまい、結局は派遣社員にしかなれなかった自分。
大学名では決して負けていないのに、この差っていったい何なんだろう。男と女の違いを差し引いたとしても、あまりに差があり過ぎて、もう笑っちゃうしかない。
この時、薫は思った。
――まるで神様が私に、翔くんのことを諦めるようにって諭してくれているみたいだ。
――翔くんと自分とでは、住む世界が違ってたんだもん。しょうがないじゃない。
薫は、ずっと前から知っていたのだ。彼の実家は、天王市でも有数の名家なのである。
かつては商家だった藤田家は、明治の頃に毛織物の会社を起こして莫大な富を築いたと聞いている。戦後になって毛織物の工場は他社に売却したものの、その会社は藤田コーポレーションとして現在も残っている。非上場ながら、衣料を中心とした卸の老舗として地元では有名だ。上場してないのだって、それだけ資金に余裕があるということだろう。
昔は彼の父親が社長だったが、今は別の人が社長で、翔の母親が専務をやっているようだ。つまり、翔は元々、良いとこのお坊ちゃんなのである。
薫の実家、水草家も実は、この辺りで名を馳せた豪族の末裔であり、中州に広大な田畑を持つ豪農だったのだが、今はすっかり没落してしまった。それでも薫が大学の頃には、まだかろうじて屋敷も田畑も残ってはいたけど、内情は既に火の車だった。
つまり、当時ですら彼の実家とは、明らかに格が違っていたのだ。
薫は、一度だけ彼の実家にお邪魔したことがある。高校三年の夏休みのことだ。
いつものように図書館で勉強しようとしたら、その日は休刊日で閉まっていた。そして、炎天下で薫のことを待っていてくれた彼が「俺の家でやろう」と言い出したのだ。
それでも、いきなり男子の家に行って良いものかと戸惑う薫に、彼が言った。
「大丈夫だよ。平日の昼間なんて、うちには誰もいないからさ。あ、祖母さんはいるけど、離れから出て来ないし」
普通は「誰もいないから」と言われれば別の意味で身構えるところだが、彼の場合、そんなの考えられない。『だったら、いいっか』と思って、彼の後を付いて行った薫だったのだが……。
★★★
とても街中とは思えない大きな家だった。立派な門構えの日本家屋で、一部が二階建てになっているものの、基本は平屋。中は彼が小学生に上がる前にリフォームされたとのことで、台所やお風呂、リビングダイニングなど、一部が洋風に改造されたのだそうだ。
リビングは、恐らく二十畳くらいの広さで、壁一面が巨大な3Dディスプレイになっていた。中央に豪華な革張りのソファーが置かれていて、薫の生家と少し似ていた。
敷地には離れが二つあって、ひとつには彼の祖母が住んでおり、もうひとつは使われていないとのこと。
更に垣根を挟んだ向こう側も藤田家の敷地で、先祖代々藤田家に仕える倉橋という家が居を構えているらしい。今は常時使用人として雇っているわけでは無いが、何かイベントがあればいつでも手伝いに来てくれるとのことだ。
ちなみに倉橋家の御主人は藤田コーポレーションの重役で、その家族も大半は社員だという。
お庭も街中とは思えない広さで、手入れの行き届いた日本庭園だった。
実は、これでも薫の生家の方がもっとずっと広いのだが、農家とこんな街中の家とでは比較にならないだろう。
薫は多少気後れしながら玄関の敷居を潜ると、上がり框には上品な着物姿の女性がいて、「いきなり「いらっしゃい」と声を掛けられてしまった。もちろん、彼の母親である。
薫もきちんと挨拶を返したのだが、どう評価されたかは不明だ。それに、急な訪問だったから、手土産ひとつ用意してこなかったのが悔やまれた。
話が全然違うので彼の方を睨み付けると、すぐに目を逸らされてしまった。
取り敢えず薫はリビングのソファーに座らされ、お茶と和菓子を頂く。それらを運んできてくれたのは上品な中年女性で、『ああ、これが倉橋家の方だな』と思った。もちろん、薫はそちらの女性にも丁寧に頭を下げておく。
出されたのは、洋間だというのに抹茶だった。薫は一瞬、とまどいを覚えたものの顔には出さず、祖母に叩き込まれた作法のとおりに振舞った。
その時、尋ねられたことは学校のことばかりで、不思議と家のことは訊かれなかった。きちんと水草薫と名乗ったので、中州の水草家のことを知っていたのかもしれない。
ようやく彼の母親から解放されて、彼の部屋に入った薫は、「誰もいないっていったのに」と文句を言った。
「ごめん、ごめん。まさか母さんが家にいるだなんて知らなくてさ。たぶん、病院にでも行った帰りに家に寄った時に、たまたま俺らが来ちゃったんだと思うんだ。ほんと、家にいるならいるって、教えてくれればいいのに……」
「翔くん、お母さんに私が行くって知らせたの?」
「ああ、一応。あとで揉めると嫌だから、メールだけしといた。でも、普通は平日の昼間なんかに家にいることなんて無いんだよ。ほんと、運が悪いっていうか……、うちの母親って、割と忙しい人でさ、帰りも遅いことが多いんだ。そういう時は倉橋の誰かが食事の準備をしてくれるんだけど……」
彼は色々と言い訳してたけど、薫は何となく彼の母親の意図が分かってしまった。
その後、彼の部屋で予定どおり勉強させてもらい、夕食前には藤田家を後にした。
次の日の図書館で彼は、前日のことを薫に詫びた後、母親が薫のことを褒めていたと言った。「さすが、中州の有名な豪農の娘だけあるわね」と感心していたと言うのだが、たぶん、それは違うと薫は思っている。
その頃は彼の父親が入院していた時期だし、彼の母親だって藤田コーポレーションの重役として多忙な身なのだ。家に居たのはたまたまだと彼は言ったが、薫は全くそうは思っていない。たぶん、薫と会う為にわざわざ大急ぎで駆け付けたのだ。
そんなことは、どうだっていい。
大事なのは、薫が彼の家を辞去した時だ。その時、彼の母親は、薫の顔を見てにっこりと笑ってくれた。
それなのに薫は素直に喜べず、不安だけが募った。
その理由が今なら分かる。東京で数多くの人に会ってきたからだ。
あの笑顔の意味は、嘲笑。そして、瞳は「もう二度と来ないでね」と語っていたのだ。
『あなたは、うちの息子に相応しくはないの』
薫は彼の母親から、そう判断を下されたと思っている。
★★★
彼と薫が一緒に居られたのは、お互いがまだ学生だったからだ。
その束の間の時を一緒に過ごせたことを、薫は後悔してはいない。今でも、とてもラッキーだったと思っている。
二人が学生で無くなった時、それぞれが自分の社会での立ち位置を気にし出すのは当然だ。そうなれば、二人の関係だって変わってしまう。現実は、容赦なく二人に襲い掛かってくる。そこには本人の意志とかが入り込む余地はない。徐々に二人の関係がぎくしゃくして行って、きっと最後は、お互い気まずい状態で別れることになる。
今の日本には身分制度が無いとはいえ、人間は決して平等ではないのだ。
その格差を何とか跳ね返す唯一のチャンスが「就職活動」だったのだが、その戦いで薫は惨敗してしまった。
もう薫にできることは、何も無い。
潔く身を引こう。
――私達って、もう会わない方が良いよね。
あの時の薫には、このように言うしかなかったのだ。
彼が就職したら、どのみち周囲の女性達が彼のことを放っておかないだろう。単なる派遣社員の自分なんかが近くにいたら、きっと彼の足手まといになってしまう。
そんなのは駄目だ。彼の足を引っ張るくらいだったら、自ら身を引いた方がましだ。
あの時の言葉は、薫にとって苦渋の選択だった。
だけど、どんなに考えても、もはや彼の隣にいる自分を思い描くことができなくなってしまったのだ。
そんな薫に残された道は、もはや、何処にも無かった。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
この続きも宜しくお願いします。




