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第17話:ケンカ別れ <薫サイド>

見直しました。


パぴパぴ……。

「いらっしゃいませー」


店の外回りの清掃を終えて店内に戻った水草薫みずくさかおるの背中の方でチャイムの音がした。それと同時に発せられた明るい声は、牧野愛衣(めい)のものだった。

もう一人の同僚、斉藤美月(みづき)は、たぶん休憩に入っているんだろう。店内には姿が無い。


今、薫は、コンビニ(エコ)マートでバイト中。残り四十分ちょっとで今日の彼女のシフトが終わる。


薫が咄嗟に見た所、レジはそれほど混んではいなかった。客足も少し鈍っているようだった。そろそろ部活帰りの高校生が減ってくる時間だからで、これからは仕事帰りの人がメインになってくる。

さっと店内に目を走らせた薫が、ようやくお目当ての人を探そうとした時だった。


「きゃっ」


薫は軽くポンと肩を叩かれて、思わず小さく叫んでしまった。まさか、すぐ後ろにいるとは思わなかった。


「あ、ごめん」

「もう、びっくりしちゃったじゃない」


薫は慌てて振り返って、軽く彼を睨み付ける。でも、それはほんの一瞬だけで、すぐに普段の無表情へと戻った。


「いらっしゃい、翔くん」


本当の所、薫は懸命に笑わないようにしてるのだ。何故なら、薫の笑顔は可愛くないし、それに愛衣の目だってある。

だけど、良く見ると、微かに口元が緩んでいた。それは決して薄気味悪いものではなく、ごく自然なものだったのだが、それに気付いたのは目の前の男性、藤田(かける)だけだった。


「翔くんが私のバイト先に来てくれたのって、これが初めてだね」

「えっ、そうだったっけ」

「そうだよ。東京にいる時は、一度だって来てくれなかったもん」

「うーん、そういや、そうかもな」


翔は、少し考えるふりをして、それから続けた。


「……でも、どうしてだったか、憶えてないや」

「まあ、それが翔くんだよね」

「どういう意味だい?」

「だって……」


薫は、少しだけ言葉を選んだ。


「翔くん、何だって忘れちゃう」

「えっ?」

「東京にいた時、私が差そうと『今度、行ってみるよ』って言ってくれるんだけど、毎週、忘れちゃってたじゃない」


翔は案の定、首を傾げている。たぶん、彼の中では、どうでもいいことなんだ。

そして、そのことをごまかす為に、彼は話題を変えてきた。


「でも、その制服、結構、似合ってるよ」

「そうかな?」

「そう思うよ」


Eマートの女子の制服は、上が白のブラウスで下が膝丈のスカートだ。冬だとか夏でも店内の冷房がきついと感じる時には、上にジャケットを羽織はおることもある。ジャケットとスカートの色は黄緑きみどりを基調にしており、所々でオレンジ色をあしらったデザインになっている。襟元には大きめのリボン。色はオレンジだ。

それから、やはり同系色で、前に小さなひさしが付いた帽子もセットだ。この帽子は男女兼用だから、女子が被ると、ちょっとボーイッシュでかっこ良い感じになる。


薫は、この制服が割と気に入っていた。少なくとも、彼女が持っている服の中では一番まともだし、断トツで可愛い。


薫は翔の隣に立って、店の中をぼんやり見ていた。彼の方に視線を向けないのは、彼のことを愛衣に悟られたくないからだ。


けど、それは無理だったみたい。

愛衣が早足でこっちにやって来てしまった。


「あのー、薫さんのお知り合いの方ですかあ。ふふっ、ひょっとして、彼氏さんだったりして」

「いや、違うんだ。高校の同級生だよ」


愛衣の言葉を否定したのは、彼の方で、薫はそれが淋しかった。だけど、それは仕方のないことだ。薫は疼く心を懸命に鎮めながら、愛衣の方に顔を向ける。

誰にも無表情と言われる薫だけど、顔に何も出ないわけじゃない。完璧なポーカーフェイスは、それなりにしんどいのだ。特に、親しい人に対しては、細心の注意が必要になる。


「薫さんの同級生ってことは、私の先輩なんですね」

「そうなるね。昨日も思ったけど、この辺りは後輩だらけって感じだよ」


翔の視線が、愛衣のセーラー服に向いている。彼女は制服の上にEマートのロゴが入ったエプロンをしただけの格好だった。


愛衣がこうした格好をしてるのは、店長の指示だった。女子高生だと、その方がお客さんの受けが良いらしい。

もちろん、薫には、もうセーラー服は着れない。だから、薫はコンビニの制服姿だ。


「ふふふ。ここのコンビニ、たいていの天高生てんこうせいは通学路ですもんね」

「ああ、そうだね。てか、俺の場合は、家が近くだからさ」

「うわあ、そうなんですね。お屋敷街なんだ」


愛衣が感嘆の声を上げるけど、たぶん彼女は何とも思ってはいない筈。お屋敷街の人は、お客さんにも多いけど、いちいち羨ましがってたら、こっちが疲れてしまう。


パぴパぴ……。

「「いらっしゃいませー」」


お客さんが来て、愛衣がレジに向かおうとした所で、斉藤美月が休憩を終えて戻って来た。

愛衣は足を止めて振り返ると、早口でこう言った。


「薫さん、休憩に行ってきてもらっていいですよー。私、斉藤さんと一緒にお店、見てますから」


休憩と言っても、薫のシフトは残り四十分くらいしかない。だから、翔に待っててもらおうかと思った薫だったのに、愛衣が「早く行って」と目で合図を送ってきた。それで薫は、愛衣に甘えることにした。


「翔くん、外に出ましょう」


取り敢えず彼にそう言ったものの、本当に店を空けてしまって大丈夫なんだろうか?


夕方のこの時間帯は、基本的にはお客さんが多い。今は、たまたま少ないだけだ。

帰宅途中のサラリーマンやOLで賑わって、いつもかなり忙しい。夏休みに入ったことで中高生の来店は減っているが、部活帰りの子だっている。だから三人態勢でシフトを組んでるのに、抜けてしまうのは少し後ろめたい気がしたのだ。

それに、斉藤美月に何も言わないのも気になる所だ。

それで薫は愛衣に「本当に大丈夫?」と訊いてみたんだけど、愛衣は「さっさと行っちゃって下さい」と言って譲らない。


「斉藤さんには、私がうまく言っておきますから、このまま出て行っちゃって良いですよ」


愛衣は、とてもしっかりした子だ。薫の妹のかえでと同じ歳だというのに、甘えん坊の楓とは比べる気にもならない程だ。


「あ、でも二十分でお願いしますね。ちゃんと、戻って来て下さいよ」


ほら、言われちゃった。やっぱり、この子はしっかりしてる。


「だったら急がなきゃ」ってことで、薫は翔をかしながら足早に店を出て行く。

そのまま二人は、天王池公園の方角へと足を進めて行った。



★★★



もう少しで夕暮れになるこの時間、天王池公園にいるのは、犬を散歩させている人だとか、夕涼みの年配者が多い。子供達が遊ぶには遅い時間なのでほとんどいないし、平日だからか男女のカップルもたまにしか見ない。


園内は、まだセミの鳴き声がうるさかった。


翔は、あまり自分からは話し掛けてこない性格なので、薫の方から声を掛けないと駄目だ。そう思って頭の中で言葉を探しているうちに思い付いたのが、こんなありきたりな質問だった。


「ねえ、翔くん、日本の会社はどうだった?」

「うーん、まあまあかな」

「そっか」


まずは、翔くんと少しでも会話を続けなきゃ。


そう思う薫だったけど、すぐに会話が終わってしまう。なかなか次の言葉が見付からなくて焦っていたら、心にもないことを言ってしまった。


「えっと……あ、あのね、日本人の女の子って、やっぱり良いでしょう?」

「えっ?」

「だから、向こうの女の人って、気が強いって言うじゃない?」

「あ、そういうこと? うん。そりゃあ、もちろんだよ」

「うっ……」


翔の喰い付きが思いの外に強かったことで、薫は少し動揺してしまった。

でも、そんな薫の様子には気付かずに、翔はぺらぺらとしゃべり始めた。


「職場の女性がみんな、すっげえ綺麗に見えちゃってさ、それって、日本だと何を食ってうまいって現象と、おんなじなのかなあ」

「もう、翔くんったら、女性を食べ物に例えるのって、何かいやらしく感じるんですけど……」

「そ、そうかなあ。だけど、本当なんだぜ。俺って、研修が終わると、すぐにアメリカに行っただろ? だから、日本でちゃんと働いた経験が無くってさ。なんか、感動したなあ」

「ふふっ。翔くん、バイトもしてなかったもんね」

「まあな」


翔に対して、わざと口を尖らせて見せたりしながら、薫は何とか会話を進めていく。だけど内心では、自分とはまるで懸け離れた世界の話にドギマギしていたし、とても悔しい思いだった。


「でも、良かったね。翔くんの職場、やっぱり、可愛い子が一杯いたんだ」

「あれ? ひょっとして、気になるのか?」

「ううん。そんなわけないじゃない……あ、でも、日本人の子がみんな、綺麗に見えちゃうってことは、ひょっとして私もってこと? ねえねえ、私も前より綺麗に見える?」


彼の同僚の女性のことが本当は気になって仕方がないのに、薫は相変わらず本心は隠して、悪戯いたずらっぽく自分のことを訊いてみる。そして、彼の返事を祈るような気持ちでじっと待つのだ。


けど、彼はちっとも答えてくれない。


「ねえ、答えてよ」


薫は、思わず催促してしまった。いつの間にか握った手が、汗でびっしょりと濡れていた。


「えっ、あ、いや、薫は昔のままだよ」

「……何それ」


思いがけず低い声が出た。彼の返事に、自分でも不思議なくらいムッとしてしまったからだ。


「えっと……まあ、あれだよ。ほら、薫は昔から割と綺麗な方っていうか……」

「ふーん、翔くんも一応は、お世辞とか言えるようになったんだ。まあ、サラリーマンだもんねえ」

「べ、別にお世辞じゃないけど……」

「嘘ばっかり。昔は、そんなこと言ってくれたことなんて無かったじゃない」

「えっ、そうだったっけ」

「そうだよー」

「そうかなあ。……でも、俺、前から、そう思ってたから」

「何なの、それ。心にもないこと言うの、止めてよね」


薫は、再びカチンときた。

薫が放った言葉で彼は黙り込んでしまったけど、そんなことは関係ない。ひとたび噴き出してしまった心のもやもやは、そんなに簡単には治まりそうも無かった。



★★★



薫と翔は、いつの間にか立ち止まっていた。そこはまだ公園の入口からそれほど離れていない場所で、二人の頭上から油蝉アブラゼミのジーという鳴き声が大音量で浴びせられている。

うっとおしいと思った薫は、早足で池の淵まで歩いた。そこで大きく二回、深呼吸した後、彼に背を向けたまま、独り言のように呟いてみる。


「私、翔くんの職場の女性が羨ましいな。社内恋愛とか、楽しそう」


最初は独り言だったけど、だんだんと声が大きくなる。


「私なんかね、恋なんてしてる暇、無いんだもん。もうずっと、生きるだけで精一杯。楽しいことなんか、なーんにもない」


少し刺のある言い方になってしまった。だけど、これが薫の現実だ。何も間違ったことは言ってない。


そのまま、薫は水面みなもを見詰めていた。今は背中の方に夕陽があって、水面みなもは眩しく光って見える。


思った以上に沈黙が長い。

たぶん、薫は無意識のうちに待っていたのだ。今の薫の境遇に、彼が少しでも歩み寄ってくれることを……。


「だったらさあ、薫もコンビニなんかじゃなくて、きちんとした会社で働いてみたらいいんじゃないか? せっかく良い大学、出てるんだし……」


なのに、翔から浴びせらえたのは、薫にとって最低最悪の言葉……。

所詮、彼は彼。ほんの少しでも期待した自分が馬鹿だった。


「翔くん、それ、本気で言ってんの」

「あれ、冗談だと思った?」


薫は「ばっかじゃないの」と小さく吐き捨てると、ゆっくりと振り返った。夕陽を背にした翔の顔は、今は全く見えない。見えなくて良かったと心から思った。

本当は大声で叫びたいけど、そんな心を懸命に抑え付け、やんわりと言ってあげた。

でも、そんなのは無駄だった。鈍感な彼には、何も伝わりゃしない。


「無理よ。私、OLとか向いてないし」


爆発しそうな感情を無表情の鎧で覆い隠して、薫は乾いた声を絞り出したのだが、それで返ってきたのは……。


「そうかなあ。薫は真面目だし、きっと重宝されると思うんだけどな。あ、それに薫って、いつも冷静沈着だろ。ほら、昨日の爆発みたいな非常事態でも、マイペースを崩さずに正しい判断ができると思うんだ。そういうのって、どこの企業でも、すっごく重宝されるスキルなんじゃないかなあ」


たぶん彼にしてみれば、薫のことをきちんと考えて言ったつもりなんだろう。だけど薫には、現実を知らないエリートの戯言たわごとにしか聞こえない。


だったら、何で私はコンビニなんかでバイトとかやってなきゃなんないわけ?

なんで、そこに目を向けてくれないのよ、このバカ野郎!


けど、そんな薫の心の声は、ちっとも彼には届かなかった。


「あれ、どうした? 考え込んじゃって……」

「あのね、翔くん。私には翔くんの言ってること、全然分かんないよ」


薫は、彼の足元をじっと見ながら言った。たぶん、彼が履いている靴は、薫の持ってる衣類全てよりも高い筈。

そう思ったら、最初に喋ろうとしたことじゃなくて、卑屈な言葉が溢れ出てしまった。


「あのね、翔くん。翔くんと比べたら、私なんてダメダメなドジっ子だよ。愛想あいそだって良くないし、コンビニでもお客さんに怒られてばっかり。こんな私を雇ってくれる会社なんて、何処どこにあるっていうの? そんなとこなんて、何処どこにも無いよ」


話してるうちに、だんだん自分がみじめに思えてきた。それと同時に込み上げてきたのは、行き場の無い怒りだ。


それは、とても不思議なことだった。

だって、その怒りの対象は翔くん。あんなに好きだった彼に対して、薫は本気で怒っている。


「あのさあ、薫。そんなに悲観的になるなよ。薫は昔からそうだけど、そういう自己評価が低い奴ってのは、他人からの評価も実際より低くなりがちなんだぞ。自信を持って言うべきことはきちんと言う奴が、ビジネスの現場じゃ尊敬されるんだ。薫も、もっと自分に自信を持てよ。もっと頑張って、いろんな会社を受けてみろよ。薫の良さを分かってくれる所が、きっと見付かると思うよ」


まるで他人事のようだと、薫には思えてしまった。


『翔くんは、昔のままだ。私のことを、ちっとも分かってない』


そう思った薫は、心の中で何かがプツンと切れる音がした。そして気が付くと、思うがままに捲し立ててしまっていたのだ。


「一流会社にお勤めの人が、何バカなこと言ってんの。そんなの無理に決まってんじゃない。頑張っただけて就職できるんだったら、もうとっくにやってるよ」


薫は、そこで一息つくと、今度は普段の口調で先を続けた。


「翔くん、私はね。工場のラインから落ちた不良品みたいなものなの。一度ラインからはじかれた不良品は、もう商品としてお店に並ぶことは無いんだよ。二度とお客さんには買ってもらえないの。それが常識ってもんでしょう。私のこと分かったふりして、いいかげんなこと言わないでよっ!」


気が付くと、薫はその場から走り去ってしまっていた。


惨めだった。大学を出てからの私は、ずっとずっとみじめだ。


 コンビニの自動ドアの前で薫はようやく立ち止まり、息を整えて涙をそっとぬぐった。

店内のデジタル時計に目をやると、ちょうど二十分だ。


パぴパぴ……。


薫が店内に戻ると、愛衣めいが「お帰りなさーい」と元気な声で迎えてくれる。


「あれ、薫さん?」


愛衣の声を背中で聞き流した薫は、一目散に化粧室へと駆け込んで行った。



★★★



化粧室に入った薫は、急いで顔を洗った。それから、泣き腫らした目を冷やしたハンカチで少し押さえて、恐る恐る鏡を覗き込んだ薫は、「こういう時はお化粧ができたら良いな」と思ってしまった。

だけど、無い物ねだり慕ってしょうがない。そんなに長居もできないので、諦めて出て行くことにした。


薫がゆっくりと化粧室のドアを開けた時、そこに立っていたのは意外なことに、斉藤美月(みづき)だった。


「水草さん、今日はもう上がって良いわよ」


薫は、店内の壁に掛かった時計をちらっと見て言った。


「でも、あと10分ありますから、働きます」


それを聞いた美月は飽きれた顔をして、「やっぱり、水草さんは真面目ね」と呟いた。


「だけどね。そんな顔じゃ、お客様に失礼でしょう。何があったかは聞かないけど、あなたを見てれば何となく分かるわよ。そういう時はね、甘ーいものでも食べて、いつもより早く寝ること。それで、今日あったことは全部、忘れちゃいなさい」


それから美月は、「これ、破棄品だから」と言ってレジ袋に入った商品を押し付けてきた。ちらっと中を見ると、お店にあったチョコレートがぎっしりと詰まっている。


「あの、でも、これって……」

「大丈夫だよ。持って行きなさい。ほらほら、早く更衣室に行って着替えておいで」


美月にうながされて更衣室へと向かう。急いで着替えてから、一瞬だけためらった後、貰ったレジ袋いっぱいのチョコは、ちゃんと持って店内に戻った。

そして、美月の前でお辞儀じぎをする。


「斉藤さん、ありがとうございました」


すると、斉藤さんは苦笑いをしながら、「私は、たいしたことやってないわよ」と小声で返してきた。

それから愛衣の方を見ると、レジ打ちの最中だったので声を掛けるのは諦めた。

再び美月の方に向き直った薫は、さっきの美月と同じように小声で言った。


「あの、斉藤さん、今日の愛衣ちゃんのシフト、九時までなんです。あの子、初めてだから、注意して見ててやってもらえますか?」


すると、微かに美月が笑った。薫が初めて見た彼女の笑顔だった。


「大丈夫よ。私だって、牧野さんのことは気になってたもの。確か、知り合いの人が迎えに来てくれるのよね?」

「あ、はい。そうみたいです」

「分かった。その人と一緒に帰るとこまでちゃんと見てるから、水草さんは心配しないで良いわよ……あ」


パぴパぴ……。

「「ありがとうございましたー」」


お客さんに声を掛けてから、美月は先を続ける。


「牧野さんって、水草さんと同じで目一杯にシフト入れてるじゃない。今は夏だし、身体からだの方は大丈夫なのかって心配だったのよ。ご家庭の事情で働かなきゃならないの知ってるから言わなかったけど、身体を壊したら何にもならないんだから……。水草さんも一緒よ」

「あ、はい」

「まあ、いいわ。とにかく、牧野さんのことは、私がちゃんと見てるから、任せなさい。だから、水草さんも早く元気になってね」

「はいっ、ありがとうございます」


薫は元気よく言って、再び頭を下げた。それから「お先に失礼します」と言って外に出る。


パぴパぴ……。


お店のチャイムの音が、薫を優しく後押ししてくれた。


さっきは最悪な気分だったけど、今はもうだいぶ足取りが軽い。


斉藤美月のお陰だ。


薫は、彼女が他人思いの優しい子だったことに驚いてしまっていた。でも、それは嬉しい驚きだ。


彼女は薫より五歳も年下なのに、まるでお姉さんみたいだった。


そして、姉のいない薫には、そのことが殊更に嬉しくて、思わず顔がにやけてしまいそうになる。この顔は不気味だって言われる奴だから、普段の薫は絶対にしないのだが……。


今は、いいや。


そう思った薫は、だらしなく顔の表情筋を緩めながら、陽が暮れて薄暗くなった街を早足で歩き始めたのだった。






たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。

この続きも宜しくお願いします。

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