第13話:莉子 <翔サイド>
再度、見直しました。
七星商事名古屋支社内を案内してもらっている総務課の鈴村千春によると、今いる十二階のフロアには、来客用応接室が三ヶ所、大小のミーティングルーム、休憩コーナーや女子更衣室といった社員用スペース、それにサーバールームと小さな倉庫があり、オフィースは下の二つのフロアに集まっているとのことだった。
藤田翔は、それらを千春の案内でさっと見た後、エレベータに乗り、二つ下のフロアに降りた。
この十階のフロアには、人事、総務、法務、情報システム等の管理系の部署と物流、商品管理等の営業支援系の部署がある。
千春の説明によると、執務エリアには仕切りが一切なく、風通しの良い明るい職場になっているとのことだった。
「昔は、各部署が小部屋に分かれてたんです。それに紙のファイルとかが一杯あって、皆、紙に埋もれて仕事してたらしいです。そういう話、飲み会の時とかに部長さんとかから、良く聞かされるんですよ。今じゃフロアの隅で埃を被ってますけど、その頃はコピー機がフル稼働で、女子社員が列を作って順番待ちしてたんですって。信じられないでしょう? 職場にパソコンが導入されても、最初の頃は何でも紙に印刷しちゃうもんだから、却って紙が増えちゃったみたいです」
「てことは、こういうオフィースになったのって、割と最近なのかな?」
「部署毎の小部屋じゃなくなったのは十年以上前って聞いてますけど、ペーパーレス化が進んだのは、例のコロナ禍の影響みたいですよ。そん時に書類のキャビとかが無くなって、職場の雰囲気がガラッと変わったみたいです。その前から紙の書類は減ってたらしいんですけど、コロナ禍でほぼゼロになったんですって。まあ、あたしが入った時には、もうこんな感じでしたけどね」
フロアには、統一されたデザインの細長い机が二つずつ向い合せに整然と並んでいて、間に透明なアクリル板の仕切りが設けられている。
千春によると、東京の本社と比べても綺麗な職場なのだそうだ。
ただ、翔が驚いたのは、その向い合せの机に所狭しと社員が並んで仕事をしていることだった。皆、一様に小さなノートパソコンの画面に向かって指を動かしている姿が、翔にとっては異様に思えた。
しかも頭にヘッドセットを乗せて会話をしている社員も多く、職場の中は割と煩い。
「管理部門には在宅勤務の人も居るには居るんですけど、ほら、うちの会社ってそういうの好きじゃないじゃないですか。まあ、フレックスとかはあるんですけど……」
コロナ禍の直後は在宅勤務が流行ったらしいが、翔の会社のような商社だと「人と人との繋がりこそ大事」と主張する上司が大半で、顧客とか業者の所などに直行する時以外は、会社に来るのが当たり前になっているそうだ。
つまり、翔のような営業職の場合は、外回りの仕事があるので、ここで仕事をする時間は一日のうちの一部だろうが、このフロアの社員は、勤務時間の大半をここで過ごすことになる。
「どうされました、藤田さん? あ、そうだ。アメリカのオフィースって、やっぱり日本とは違うんですよね? ゆったりしてるだとか……」
「そうだね。 これでも昔と比べたら、だいぶ改善されたんだろうけど……」
翔は、そこで口を濁してしまった。ここで思ったことをそのまま言っても、たぶん彼女が困ってしまうだろう。そういう話は、飲み会の時にでもすればいい。
翔たちは、ひとまずこの階にある各部署を順番に回って、挨拶と翔の自己紹介とを始めたのだった。
★★★
十階のフロアにある部署を回り終えた後、翔と千春は、エレベータの前にある休憩スペースにいた。そこは、自動販売機とベンチが二脚並んで置かれただけのスペースなのだが、ちょっと喉を潤すだけなら、これで充分だ。
翔は、紙コップに注がれたブラックのアイスコーヒーを飲みながら、さっき自分が感じたことを思い起こしていた。
翔は、東京での研修を終えてすぐにニューヨーク支社へ派遣されている。その為、日本の会社のオフィースで働いた経験が無い。
そんな彼だからこそ、初めてきちんと見る日本の会社のオフィースというものが、どうしても不思議でならなかったのである。
まず最初に翔の頭に浮かんだのは、オフィースの設計に対する考え方が日米で根本的に違うんじゃないかということだった。
多少はゆとりができたとしても、アメリカと比べたら、まだまだ狭い。小さなスペースに人を押し込み過ぎなのだ。それに、椅子や机などの什器に掛けるコストが各段に安い気がする。
それから、これは一長一短あるのだが、部課長が平社員に交じって同じ環境で仕事をしているのが、翔には一番の驚きだった。一応、役職者は肘掛のある椅子に座れるということだけど、部課長の重みは肘掛の分でしかないのかと思うと何だか悲しくなってしまう。
仕事に自己顕示欲だとかは不要で、役職の違いも給料で処遇しているという発想なんだろう。「仕事のやりがいは仕事の成果で得られるもの」というのは、間違ってはいないと思う。ただ、その一方で、人というのはそれほど単純じゃないとも思う。
アメリカの場合、マネージャーには個室が与えられるのが一般的だ。常に平社員と並んで仕事をするなど、有り得ない。
これだと、通話時の受け答え等から部下に情報が筒抜けになりそうだ。むしろ、そうした情報共有を狙ってのことかもしれないが、部下に聞かせられない会話の時は会議室に籠れということだろうか。考えただけで、面倒そうだ。
それとアメリカの場合、平社員だって自分の仕事スペースは、きちんとパーテーションで区切られている。それに、デスクはもっと大きい。
最近は、長時間残業が減って有休の消化も推奨されているとはいえ、それでも大半の社員は週の大半を、特に外出の少ない社員なんかは一日の大半を、このオフィースで過ごすのだ。ということは、オフィースの環境が、その人の生活の質に直結するってことなんじゃないのか?
その細長い机の一部、横幅一メートル程のスペースには、個人の物を置く場所がほとんど無い。個人の物はロッカーに入れておく決まりなのだそうだ。昔と違って、ノートパソコンとスマホ等の携帯端末だけで仕事ができてしまう為だろう。
一定の範囲なら好きな場所に座って良いとのことだが、それとて如何にオフィースをコンパクトにまとめるかを優先したとしか思えない。つまりオフィース効率の最大化を図るということなんだろうけど、それって、そもそも工場の発想じゃないのか?
快適性どころか、人間性さえも二の次にされたような職場から、クリエーティブな発想が生まれるとは思えない。
それでも、日本のこうした職場で働いている人達は、これが当たり前だと思っているんだろう。
ひょっとすると日本のサラリーマンには、発想の根底に「御奉公」の精神が未だに残っているのかもしれない。つまり、そうした自己犠牲を美徳とする文化なのだと勘繰りたくなってしまう。
椅子ひとつ取ってもそうだ。アメリカでは、ずっと前から肘掛けとネックレスト付きが当たり前なのに、こっちは平社員だと肘掛すら付いていない。めったに席を離れない事務の女性社員とかは、身体を悪くしたりしないんだろうかと心配になってしまう。アメリカだったら、裁判で訴えられたっておかしくないと思うのだが……。
しばらくすると、翔の隣に座ってアイスカフェラテを飲み終えた千春が感想を求めてきた。しかも、例の調子でしつこく聞くので、さっきは言わないつもりだった率直な感想をオブラートに包んで、やんわりと話してみたのだが……、やはり彼女は、微妙な顔をしていた。
千春自身、綺麗なオフィースだと思っていることは明らかで、「そりゃあ、アメリカと比較されたらね」というのが本音の所だろう。
とはいえ、ここよりマンハッタンの方がオフィース単価はずっと高いのだ。それを思うと、考え方のベースが違うといった翔の感想は、あながち間違いではないように思う。
一方で、ここで働く人達に対しては、皆がフレンドリーで真面目な人ばかりといった印象だった。
もっとも、ここ十階で働いているのは間接部門の人達ばかりなので、上の営業フロアに行けば、また違った印象なのかもしれない。
それよりも翔が感じたのは、千春がどの部署に行っても人気者だということだった。
明るく社交的な彼女が顔を見せると、老若男女関係なく、誰もが気さくに話し掛けて来る。その都度、絶妙な返しで相手を楽しませ、和やかな雑談に持ち込んだ上で自然に翔を巻き込んで行く彼女の話術は、まさに尊敬に値するものだった。
時間はそれなりに掛かってしまったのだが、お陰で翔自身も多くの人達と会話を交わすことで、自分のことを知ってもらうことができた。ニューヨークに戻ったら、ここの間接部門の人達とは、ほとんど交流がなさそうだけど、ここにいる間だけでも、仕事がやり易くなることは間違いない。千春には、本当に感謝である。
「じゃあ、そろそろ上に行きましょうか」
この次に向かう十一階のフロアには、しばらくの間、翔が席を置かせてもらう営業部門がある。
その十一階への移動だが、千春はエレベータの方には向かわず、その横の階段を上がり始めてしまった。
どうやら、上下一階だけの移動には、階段を使うようにということらしい。
翔は慌てて彼女の後を追ったのだが、階段を上る時は少し間を空けることにした。階段で女性を下から覗くのは、明らかにマナー違反だろうと思ったからだ。
それでも、ついつい見てしまうのが男の性である。さすがにスカートの中を覗ける位置関係ではないが、形の良いヒップが左右に揺れる様は何とも言えず艶めかしい。
こうして改めて見ると、千春は小柄ながらもバランスの取れた身体付きをしている。巨乳だけが彼女の魅力ではなさそうだ。
そんな風に後ろから眺めていると、突然、千春が振り向いた。
「もう、藤田さん、遅いですっ!」
一瞬、焦った翔だったが、慌てて彼女の所に駆け寄って行ったのだった。
★★★
十一階の営業フロアも、見た目はほとんど十階と同じだった。当然、什器とかも同じ物が使われているようだ。
ただし、十階と違うのは、この時間、既に客先の所に出向いてしまっている社員が大半の為、内勤の女性アシスタントしか残っていないということだ。
つまり、十階のようにぎっしり人で埋まっているのではなく、スペースに余裕がある。
千春に先導された翔は、今度も端の営業企画室から順番に挨拶をして回る。外出している社員が多い部署は、残っている人と話せただけだったが、それでも、まあ有難かった。
ただ、そうした女性アシスタントの大半は派遣社員だったようで、翔は少し意外な気がした。
ちなみに、このフロアの座席数は、在籍者数よりも少ないらしい。客先に直行したり、直帰したりする社員が常に一定数いて、全員が揃うことは無いからということだった。
最後に翔の受入先である営業四課まで来ると、千春は、ここでの上司となる垣見課長に引き合わせてくれた。
その垣見は細身だが、お腹が出始めた感じの中年男性である。歳は三十代後半だろうか。
別れる前、千春は、名残り惜しそうに口を開いた。
「では、あたしは部署に戻りますので、藤田さん、お仕事、頑張って下さいね。垣見課長、藤田さんのこと虐めちゃダメですよ。何かあれば、いつでもあたしに連絡下さいね。社内メールでも直接の通話でもOKです……あ、そうだ。あたしのことは、ちゃんと千春って下の名前で呼んで下さいね。ち、は、る、って呼ぶんですよ」
「何だ、鈴村。お前、こないだの飲み会で、俺が千春って呼んだら怒っただろうが」
「あのね、垣見課長。そんなの、あったり前じゃないですか。あたしのこと千春って呼んで良いのは、イケメン限定なんですぅ」
千春はそう言い放つと、翔の方に右手をひらひらさせながら階段の方に向かって行く。
「俺、あの鈴村、苦手なんだよな。あいつのキンキン声、二日酔いの頭に響くんだよ」
垣見が、こめかみを抑えながらぼやいた。昨夜は休日にも関わらず客先の接待だったようで、眠そうな顔で目を何度も擦っている。
そして、翔の肩をポンと軽く叩いて、「藤田、お前も変な奴に目を付けられて大変だなあ」と同情してくれた。
「本当はこの後、業務の打ち合わせをするつもりだったんだが、悪い、ちょっと客に呼ばれちまってな。あと少しで出なきゃいかんのだわ。取り敢えず今日は初日だし、のんびりしててもらって、午後になれば外出してる連中も戻って来るだろうから、杉本君かho横転さんとでも先に打ち合わせをしといてくれるか。あの二人なら、君も日頃からコンタクトしてる筈だから、良く知ってるだろう?」
「あ、はい」
「じゃあ、宜しく頼むわ。あいつらの方には昨日、君と打ち合わせするように話してあるから、たぶん大丈夫だ……あ、それから、さっきの鈴村から聞いたと思うが、一応、フリースペースということで、席は好きな所に座ってくれ。まあ、でも俺からあんまり遠くには行くなよ。頼むわ、藤田」
垣見は、何故か最後だけお願い口調だった。
「分かりました」
話を終えた垣見は、さっきまで座っていた席へと戻って行こうと歩き掛けたが、そこで再び振り返った。
「あ、すまん。ひとつ忘れてたわ。パソコンとか社内システムの細々としたことは、桜木さんに頼んであるから、彼女に聞いてくれ。桜木さんは新入社員だが、そういうことはうちで一番詳しいんだわ。じゃあな」
垣見は、それだけ言って今度こそ席に戻り掛けたので、翔は慌てて呼び止めた。
「あの、すいません」
「何だ、何か質問か?」
垣見は、何故か不服そうだ。その低い声音に一瞬ビビった翔だったが、すぐに気を取り直して質問を投げ掛けた。
「あの、桜木さんって、どなたですか?」
垣見は「そんなもん誰かに……」と言い掛けて、途中で思い直したのか、彼が座っていた端の席と同じ列で反対側の端を指差した。翔が今いる所からは見難いが、そこに髪の長い女性が座っている。
「そうだ。今日の所は、彼女の近くに座った方が良いな。彼女に色々と教えてもらうには、その方が便利だろう」
翔は垣見に軽く頭を下げてから、その列の一番端まで歩いて行く。そして、その女性の前の席に腰を下ろして、彼女がパソコンから顔を上げるのを待ったのだった。
★★★
席に座ってから、改めて周囲を見てみたのだが、近くには別の女性が二人ばかりいるだけだった。翔は、さっきの垣見の様子からして、たぶんフロアに残っている女性とかは、機嫌の悪い彼の近くを避けたんだろうと思った。
目の前の女性は、それから五分もしないうちに顔を上げてくれた。
と思ったら、パッと立ち上がって、小走りで翔の方に回り込んで来た。
「ど、どうもすいません。私、気付かなくて。あの、藤田さんですよね?」
この少し鼻に掛かったような声、何処かで聞いた気がする。そう思って彼女の顔に目をやると、やっぱりそうだった。昨日空港で会った三人の女性の一人、ドライバーだった子に間違いない。艶のある長い黒髪に見覚えがある。
そう思った途端、翔の胸の鼓動が早くなった。翔にとっては、最近あまり馴染のない間隔だった。
「えーと、君は確か……」
「はい。桜木莉子です。昨日はちゃんとご挨拶せずに申し訳ありませんでした。短い間ですけど、宜しくお願いします」
彼女がペコリと頭を下げた。長い黒髪がばさっと下に落ちて、微かに簡潔系の甘酸っぱい匂いがした。昨日は水色だったが、今日は白い落ち着いたワンピース姿。翔が昨日感じた「どこか良い所のお嬢様」というイメージは今日も変わってなくて、むしろ強調されている気がする。
「あ、こちらこそ宜しく」
彼女につられて頭を下げた時、翔の脳裏に蘇ったのは、昨日、彼女が最後に見せてくれた笑顔だった。そう言えば、あの時は長い髪の毛が綺麗だったっけ……。
翔がそんな回想に耽っていると、目の前の彼女が怪訝そうな表情に変わっていた。
「あれ、聞いていませんでした? 私、藤田さんのお世話係をするようにって今朝、垣見課長に指示されたんですけど……」
垣見からは、そんな言い方はされていない。けど、翔は咄嗟に、「あ、さっき垣見課長から聞いたかも」とあいまいに答えてしまった。
何気に垣見の方に目をやると、大きな口を開けてあくびをしている……と思ったら、机に突っ伏して寝てないか?
「あれは、完全に寝ちゃってますね」
「そうだね。昨日、遅くまで接待だったみたいだし」
「そうなんですか……あ、でも、そろそろ出ないとまずいんじゃ……」
そう呟いた彼女は、早足で垣見の席に行ってトントンと肩を叩いた。それでハッと目を覚まし、彼女の前でバツが悪そうにしている垣見が、翔には何ともおかしく思えてしまう。
そんな垣見も彼女に時間を告げられた途端、慌てて立ち上がって出て行ってしまった。
戻って来た彼女は、翔の方を向いてニッコリと笑う。昨日見たのと同じ可愛い笑顔に、翔は思わず胸を高鳴らせてしまった。
「垣見課長って毎日、忙しいみたいですよ。今日の夕方は空けてあったんですけど、藤田さんの歓迎会が明日になったんで、慌ててスケジュール調整したみたいなんです」
彼女によると、垣見はこれから客先の所に行った後、更に何カ所か別の客先を回ることになっており、今日は戻って来ないそうだ。
その彼女の手には、いつの間にかノートパソコンがあった。女性でも片手で持てるくらいに、薄くて軽い素材でできているものだ。
「これ、こっちに滞在されている間、藤田さんに使って頂くものなんですけど……」
そう言って彼女は、それを翔に手渡すと、先を続けた。
「取り敢えず、私の方で分かる所だけは、セッティングしておきました。それで、もし藤田さんが宜しければ、この後、ご一緒にセッティングを終わらせて、簡単な説明をさせて頂きたいんですけど、お時間の方、大丈夫ですか?」
もちろん、今日が初日の翔には予定なんて何も無いので、「大丈夫だけど」と答えると、彼女は彼を椅子に座らせて、自分は彼の隣で中腰になった。そして、そっと手を伸ばしてきてパソコンを立ち上げると、翔に質問しながら追加のセッティングを行っていく。
一通りの作業が終わると、社内ネットワークシステムの画面が立ち上がり、更に細かいセッティングをした上で、今度は実際に操作をしながらの説明を始めてくれる。
同じ社内のネットワークでも、アメリカのものとは少し使用が異なっているらしい。それに国内だけとか、名古屋支社だけとかのサブシステムとかデータベースなんかもあるようで、意外と覚えることがある。例えば、ローカルで運用している承認システムだとか、会議室の空き状況の確認と予約システムだとか、この支社にある様々な備品の借り方とかである。
「うちのシステムって、その場しのぎの継ぎはぎだらけで、ほんと困るんですよね」
「それは、どこも似たり寄ったりじゃないかな。アメリカの方も状況はおんなじだよ」
「へえ、そうなんですね」
最初のうちは、そんな他愛ない会話を挟みながら、彼女の説明は続いていたのだが、やがて徐々に熱を帯びて行って、二人の間の物理的な距離が次第に狭まって行く。
気が付くと、翔の肩に彼女の身体が密着していて、翔の顔のすぐ真横に彼女の柔らかそうな頬があった。赤いルージュを引いた唇との距離が、二十センチも離れていない。彼女の息遣いまで感じられる距離だ。最初は耳に掛けてあった黒髪が途中でバサッと落ちて来て、今は翔の肩に掛かっている。その黒髪から漂う柑橘系の匂い、たぶんシャンプーの香りだろう、それに若い女性の甘い匂いだとかが翔の鼻腔を刺激して、もはや理性を保つのが危うくなりそうですらあった。
翔は必死に気を逸らそうとするのだが、なかなかそれがうまく行かない。
彼女の目がディスプレイを真剣なまなざしで見詰めている。大きな黒い瞳がせわしなく動く。長いまつ毛が綺麗な円弧を描いていて、瞬きする度に翔の胸を搔き乱す気がする。まるで魔法か何かのようだ。
彼女の白くて細い指がタッチパネルに触れて、艶めかしく跳ねる。軽快なリズムで蠢く十本の指を見ていると、まるで翔自身の肌が直に触れられているような錯覚を起こして、彼の心を波立たせるのだ。
これでは彼女の説明など、頭に入る筈がない。どんなに集中しようとしたって無理に決まってる。
たぶん彼女は無意識にやっているんだろうけど、あまりにも無防備なんじゃないか? ソーシャルディスタンスとかいう言葉は、いったい何処に行ってしまったんだろう?
それでも翔は、一生懸命に説明してくれている彼女の好意に水を差す気にはなれなくて、じっと熱心に聞いているふりをしていた。
「……説明は以上ですけど、何かご質問はありますか?」
気が付くと、彼女の説明は終わっていた。
改めて彼女の方をちらっと見ると、胸元のペンダントに目が行ってしまった。銀色に光っているのは、十字架だろうか?
「あの、藤田さん」
「あ、いや」
慌てて目を逸らして、急いで頭を働かせる。それでも碌に説明など聞いてなかったのだから、質問など浮かんでくる筈が無い。
質問があるとすれば、彼女自身のことだ。彼女は、クリスチャンなんだろうか……。
翔は何も言葉を返せないでいたけど、彼女はそれを気にした様子もなく話を続けた。
「すいません。私、一気に色々と喋ってしまいましたから、分かりづらかったですよね。私、今日は藤田さんがここにいる間、できるだけ席にいるようにしますから、実際にお仕事していく中で分からない所があれば、いつでも気軽に声を掛けて下さいね」
そして、翔の前の席に戻った彼女は、また例の可愛い笑顔を向けてくる。
そうして一時間ほどが過ぎ、翔がようやく新しいパソコンに慣れてきて、まずはニューヨーク支社の上司や同僚に安着の挨拶を送った。それから、メールでの質問に対する返信を行っている時だった。
「あの、藤田さん。宜しければどうぞ」
前の席の彼女が持って来てくれたのは、紙コップに入った麦茶だった。
「うちの支社、冷たい麦茶と暖かいほうじ茶だったら、飲み放題なんですよ」
そう言って笑ってくれる彼女の笑顔は、やっぱり可愛い。
その彼女は、翔の前の席に戻ると、そっとお菓子を差し出してきた。ごく普通のスナック菓子で、翔には少し意外だった。下の売店で買ってきたものらしい。
それを二人で摘まみながら、彼女が遠慮がちに話し掛けてくる。
「あの、昨日は、ちゃんと帰れました?」
「うん。あ、でも、天王駅に着いた所で、爆発騒ぎがあってさ。コンビニが爆破されたんだ」
「えっ、大丈夫だったんですか?」
「ああ。俺は大丈夫だったんだけど、周りは結構、大騒ぎだったよ」
「良かったあ、藤田さんに何も無くて。でも最近、そういうのって多いんですよ。だから、藤田さんも気を付けてくださいね。うちの親なんか、心配症だから、電車とか乗るなって言うんです」
「そっか。じゃあ、通勤も車なんだね」
「はい。本当は電車にも乗ってみたいんですけど……あ、ごめんなさい」
話の途中で携帯端末に着信があったようで、彼女は誰かと会通話を始めてしまった。
翔は、とても残念な気がした。こんなタイミングで彼女に通話を発信した奴を呪いたい気分だ。
それでも少しすると、「まあいっか」と口の中で呟いた翔は、さっきやっていた仕事の続きで、メールの問い合わせに対する返信作業へと戻って行ったのだった。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
この続きも宜しくお願いします。




