第12話:初出社 <翔サイド>
見直しました。
◆7月21日(火)
前の晩、藤田翔は熱帯夜と時差ボケのせいでなかなか寝付けず、寝返りばかり打っていた。明け方になってようやく眠ることができたものの、今朝は口うるさい母親の恵美に叩き起こされるハメになってしまった。
「高校生じゃあるまいし、朝くらいちゃんと自分で起きたらどうなの」
「うるっさいなあ。今日は特別なんだってば。しょうがないだろ、時差ボケなんだから。普段はちゃんと自分で起きれとるわ」
そうは言っても、この歳で母親に叱られるっていうのは、照れくさいものだ。そのせいもあって、翔は慌てて浴室に行ってシャワーを浴びると、大急ぎで身だしなみだけ整えて、朝食も取らずに家を飛び出して行ったのだった。
★★★
翔は、古い家並みの街を急ぎ足で通り過ぎて、天王駅へと向かっていた。時刻は、まだ七時半。こんな朝でも外は何となく蒸し暑く感じてしまう。
早朝の天王通りは、意外と人の数が多かった。皆が一様に天王駅の方向へと歩いて行く。今は、自動運転車が当たり前の時代。運転手のいないセルフのタクシーが安価で利用できるようになったことで、電車通勤の人は減ったと翔は思っていたのだが、まだまだ大勢の人達が電車を利用しているようだ。
ホームに出ると、運よく五分くらいで翔は急行電車に乗ることができた。しかも、車内は意外にすいていて、まだ空いている席があちこちにある。
それでも次に停まった駅から徐々に混み始めて、名駅、つまり名古屋駅に着いた時には、身動きができない程の満員状態だった。
それから地下鉄に乗り換えたのだが、こっちは全く座れなかった。とはいえ、決してぎゅうぎゅう詰めという訳ではなく、それにたったの二駅なので、それほど苦にはならない。
最寄りの地下鉄錦駅からは、歩いて七、八分と聞いているので、全体の通勤時間は一時間程度。これは、悪くない。最終的な翔の感想としては、もう少し早めに家を出さえすれば、電車通期でも大丈夫、といったものだった。
別に車で通っても出張の経費として落とせるのだが、翔は、やはり電車という乗り物が好きなのだ。
★★★
七星商事の名古屋支社は、名古屋市の中心部、中区錦という所にある。近くにデパートや高級ブティックが立ち並ぶエリアで、名古屋のOL達にとっては憧れの街である。そこで働いていることが、一種のステータスになりうる街なのだ。
地下鉄錦駅のホームに降り立った翔は、東側の改札口を出て、そこからまっすぐの通路を歩いて行った。
翔がこの駅を使うのは、随分と久しぶりだ。通路の両側に広がる地下のショッピング街は、学生の頃に何度も来た所だった。でも今は朝なので、どこもシャッターが下りている。
そんな殺風景な通路を、多くのサラリーマンとOLが足早に通り過ぎて行く。床がタイルなので、足音がやたらと煩い。リズムが合っているようで微妙に合っていない靴音に不快感を感じながら、翔も同じ人の流れに乗って西出口へと向かって行く。そして、そのまま階段を上って地上に出た。
眩しさと共に翔を襲ったのは、やはり暑さだった。朝だというのに、既に三十度はありそうだ。ビル街なので熱気が籠るんだろう。
そうして少し歩いた後に翔が辿り着いたのは、光沢のある薄緑の外装の建物だった。高さは十二階建て。このおしゃれな雑居ビルに七星商事名古屋支社は入っているのだ。
そのビルに入る前に、翔は軽く服装と髪の毛のチェックをした。
今日の翔は、薄手のスラックスにブルーの半そでシャツ。薄手のジャケットを手に持っているのは、社内の冷房に備えての為である。
当然、ネクタイはしていなかった。日本だと未だにネクタイをする習慣があると聞いているのだが、アメリカでは過去の遺物だからだ。翔の会社でも、オフィースではノーネクタイで良いことを確認してある。客先訪問の時に必要なら、何処かで買おう。翔は、そう思っていた。
その他、手土産が入った紙袋以外に荷物はない。パソコンは支社の方で用意してくれることになっているので、ビジネス用のカバンとかは持ってきていないのだ。客先訪問の際も、社用の方の携帯端末と折り畳み式ディスプレイだけで事足りてしまう。
髪の毛の方は、朝シャワーを浴びているので、特に跳ねたりはしていない。学生時代と同じ、後ろに流す感じの自然なスタイルだ。特に乱れたりもしてないようなので、手櫛でさっと整えて完了だ。
服装と髪の毛の確認を終えた翔は、意を決してビルの中に入って行った。そのままエレベータに乗って、予め指定された十二階のボタンを押す。ボタンの下に書かれた表示を見ると、七星商事名古屋支社は十階から十二階の三フロアを占めているようだ。
エレベータを降りると、すぐ正面の受付で待機していた女性が近寄って来たかと思うと、さっと四十五度に腰を折っておじぎをした。
「おはようございます。藤田さん。お待ちしておりましたわ」
この落ち着いた大人の女性の声には聞き覚えがある。そう思って良く見ると、昨日、空港で出迎えてくれた三人の女性の内の一人だった。
今朝の彼女は、スーツ姿。スレンダーなボディーを上品なグレーのスーツでピシッと固めていて、いかにも「できるOL」といった装いだ。思わずゾクッとしてしまう程の「良いオンナ」だった。
「先に改めて自己紹介をさせて頂きますね。わたくし、支社長秘書の犬飼葉月と申します。僭越ながら秘書という立場上、当支社全体に目を配っておりますので、何かと藤田さんのお役に立てることがあるかと存じます。もしお困りのことがありましたら、何なりとご気軽にお申し付け下さいね」
彼女の名前は「葉月」と言うらしい。そう言えば、昨日は犬飼という苗字の方しか聞いていなかった。アメリカだったら、最初にファーストネームを言う所だが、日本だと苗字だけで済ませられる所が翔にとっては、不思議と新鮮だった。
翔は三年間も日本を離れていたせいで、何事においても少し感覚がずれてしまっているのかもしれない。女性の容姿についてだって、日本人というだけで彼の目には何割かアップの補正が掛かって見えてしまうようだ。まして葉月のような黒髪和風美人は言わずもがなであった。その切れ長の黒い瞳に見詰められると、思わず魂まで持って行かれそうになってしまう。
そんなボーッとした状態のままに翔は葉月に促され、ひとまず支社長室へと向かったのだった。
★★★
支社長室は、十二階の一番奥まった所にあった。重厚な木目調のドアを開けると、正面が全面ガラス窓になっており、左右のビルの隙間からは、名古屋のテレビ塔が顔を覗かせている。
その手前にどんと置かれた大きな机の向こう側にいて、顔に穏やかな笑みを湛えているのが、たぶん中山支社長なんだろう。
「失礼します。藤田翔と申します」
「ほう、君が藤田君か。なるほど、ニューヨークの山森が言うとおりのイケメンだな」
立ち上がった中山は、恰幅の良い山森支社長とは対照的に痩せていて、飄々とした風貌の男だった。歳は、山森と同じ五十代半ばだろうか。
翔は、上司の山森が中山支社長に何を言ったかが気になったが、その答えは彼の次の言葉でなんとなく分かってしまった。
「これなら、うちの女の子達も放っておかないだろうし、君の今回のミッションも大丈夫そうかな。まあ、騒がしくなり過ぎるのもどうかと思うがね」
支社長からいきなり女性の話題が出てきたことに、翔はとまどいを感じていた。確かに山森支社長から言い渡されたミッションのこともあるが、普通は仕事の話が先なんじゃないのか?
「どうした、藤田君。今回の滞在は一ヶ月しかないんだろう。君から積極的に行かんと、すぐに時間切れになってしまうぞ」
支社長からおかしな発破を掛けられた翔は、助けを求めて葉月の方に目をやった。彼女の机は、この部屋のドア付近にあるようだが、今は立ち上がって壁際に控えている。
その彼女と目が合った所で、翔はふと自分が持っている紙袋のことを思い出した。
「あの、中山支社長。これ、つまらないものですが」と言いながら、翔が紙袋のまま手土産を机の上に置くと、支社長は中身を見もせずに葉月を呼んだ。
「うわあ、これって、ニューヨークで今、流行の高級チョコじゃないですか。支社長、これ、東京でも滅多に手に入らない奴ですよ。藤田さん、ありがとうございます」
急にはしゃぎ始めた葉月は、クルリと振り返って翔にペコリと頭を下げた後、今度は中身をどう配分するかで悩み出した。
実は、いろんな部署の人にお世話になると思って五箱セットのものを買い、一箱は母親に渡して、残りを全て持参したのである。本当は自分で配った方が良いんだろうけど、面倒なことはできるだけ避けたい。
支社長も同様に面倒なことは嫌がる性格なのか、四箱をどう分けるかは葉月に丸投げしたようだった。
「そう言えば、そこにいる犬飼君だが、ほら、相当な美人だろう。年齢も確か君と同じだし、お勧めの一品だぞ」
支社長の言葉に、自分の席でチョコの分配方法を考えていた様子の葉月が突然、パッと顔を上げて口を挟んできた。
「あの、支社長。わたくし、まだ二十五になったばかりですので、藤田さんよりもひとつ年下です。大事なことなんで、間違えないで下さい。それに、女性を物のように言うのは失礼だと思いますけど」
葉月は、物腰は丁寧だが、はっきりと物を言う女性のようだ。
その葉月は、言い終えると席を立って、給湯コーナーの方に姿を消してしまった。
ということは、やはり彼女もお見合い候補の一人と考えて良いんだろうか。
それを支社長に尋ねると、「もちろんだとも」といった返事が返ってきた。他の女性達のことも追々紹介してくれるらしい。
正直な所、翔には今の自分に起こっていることが、あまりにも現実離れしているように思えてならなかった。
というのは、翔の人生の中で、女性にモテたことなど全くと言って良いほど記憶に無いからだ。
正確に言うと、デートのようなことをしたことのある女性というのが、昨日会った水草薫しかいない。その薫とも、ちゃんと付き合っていたのかどうか疑わしいような関係だったし、最後は結局、振られてしまった。
それに翔は思うのだ。これでは本当にお見合いだけの為に、わざわざニューヨークからやって来たみたいじゃないか。
仕事の方は、大丈夫なんだろうか?
確かにお見合いの話は山森支社長から聞かされたけど、翔はそれだけの為の出張だとは考えていない。
実際、ニューヨークの直接の上司からは数多くの業務を言い渡されており、きちんと出張計画書を作成して、それを事前に中山支社長には送ってある。
名古屋は自動車産業を始めとする日本の製造業の中心地であり、翔が担当する顧客の大半が拠点や工場を構えている。その為、その計画書には、顧客訪問の予定がぎっしり詰め込まれていた。
翔にとっては、これが日本への初出張なのだ。
それなりに成果を出そうと勢い込んでやってきたのに、どうにも出鼻を挫かれたような気分だった。
「支社長、いつまで藤田さんを机の前に立たせているおつもりですか。コーヒーを用意しましたので、隣の応接室の方で話されてはいかがでしょう」
葉月が、いつの間にか戻って来て声を掛けてくれた。その彼女が、給湯コーナーの横にある別のドアを開けてくれる。そこから隣の応接室に、直接行けるようになっているのだった。
★★★
支社長に促され、翔は黒い革張りのソファーの端に軽く腰掛ける。目の前のローテーブルには、高級そうなコーヒーカップが四つ置かれていた。
翔が「何で四つ?」と首を傾げた時だった。廊下側のドアが勢いよく開いて、大音量の「失礼しっまーす」が部屋中に響き渡った。
その甲高い声には、翔も聞き覚えがある。
「こらっ、千春。支社長の前では静かにって何度言ったら分かるのっ!」
すかさず葉月が注意するが、鈴村千春はそれを無視して翔の隣の席にちょこんと腰を下ろした。
近い。五センチも離れていないような……。
「千春、くっつき過ぎ」
今度も葉月の警告を無視した千春は、翔の方に身体を向けると、嬉しそうに話し掛けてくる。
「藤田さーん。またお会いできて嬉しいでーす。総務課の鈴村千春でーす。ち、は、る、ですよー。覚えて頂けましたかあ?」
千春は、大きな二重の目から星屑が零れ落ちそうな、満面の笑みだった。
翔が思わず目を逸らすと、支社長が苦笑いしているのが見えた。
「あれ、藤田さん、いかがされました? お疲れですか? 昨日の夜、あんまり眠れなかったんですね。やっぱ、時差ボケありますものね……だったら今日、飲みに行きましょうよ。たくさん飲んで騒げば、ぐっすり眠れますよー。藤田さんの送別会は明日になっちゃったから、ちょうど良いです。ねっ、そうしましょう…痛っ」
例のキンキン声、いやアニメ声に翔が辟易とし始めたところで、葉月がタイミング良く千春の頭を叩いてくれた。更に千春の襟首を掴んで立たせると、翔の正面の席に移動させてしまう。翔の隣には、代わりに葉月が座った。
正面に目をやると、涙目になった千春が葉月の方を恨めしそうにじーっと睨んでいる。
「相変わらず君たちは、朝っぱらから元気だなあ。いや、まあ、元気が一番だ。俺みたいに年取ると、朝はコーヒーでも飲んでゆっくりせんと、頭が働かんのだよ」
支社長は、うまそうにカップを傾けていた。
「ああ、やっぱり犬飼君の入れてくれるコーヒーは最高だなあ」
さすが支社長だ。騒々しい女子社員のことなど眼中に無いかのように泰然としている。
そう思って再び支社長を見ると、カップを置いた後は、しかめっ面をしながらこめかみを押さえている。翔は慌てて視線を逸らして正面を見た。
すると目に飛び込んでくるのは、千春の豊満な肉体である。
白いブラウスにグレーのスカート。さすがに今朝はシックな装いをしている……と思ったら、ふわふわのソファーに身体を埋めているせいで、ムチッとした太ももの奥に白いモノが……。
「ねえ、藤田さん。それでこれからなんですけどぉ……」
翔が必死に煩悩と戦っていると、当の千春が身を乗り出してきた。当然、大きな胸の膨らみが目の前に迫ってくる。ブラウスのボタンが二つも外れているせいで……。
彼女の横で、支社長が咳払いをした。
「私の方から話そう。総務課の鈴村君には、一緒に支社内の各部署を回って、藤田君を紹介してくれるように頼んである。彼女には支社全体の細々とした庶務業務を担当してもらっているから、そういうことには適任だろう」
そのタイミングで、葉月がさっと席を立った。
「それでは、わたくしはしばらく外出してきますので、ここで失礼させて頂きます」
葉月は、全員の飲み終わったコーヒーカップをさっと片付けて部屋を出て行く。
それを合図に、翔もまた退室した。もちろん千春も一緒だった。
★★★
結局、支社長とは仕事の話を何もしなかった。お見合いのこと以外、自分には関心がないのだろうか。
そう思うと、気分が沈んでしまう。
先に歩いて行った千春は、エレベータの前で翔を待ってくれていた。その彼女が立っている辺りは、ちょうど日向になっている。強い陽射しを浴びて、元々明るい色の髪が金色に輝いていた。
黙っている千春は、掛け値なしに美人である。グラマーなボディーに整った目鼻立ち。大きな二重の目は少し垂れているが、それも彼女の愛らしさを引き立てる要素である。
「どうしました、藤田さん?」
千春のすました顔が突然、笑顔になった。男から見られて当然という余裕ある女の笑みだった。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
この続きも宜しくお願いします。




