第10話:動じない女 <翔サイド>
再度、見直しました。
それは、藤田翔と水草薫が高校二年の夏休み、剣道部一年と二年の有志で行ったキャンプの時のことだった。
二日目に近場の散策を始めた直後、かなり大きな墓場を見付けた一年の連中が騒ぎ出した。
「こんな近くに墓場があるのって、何か不気味じゃない?」
「だよねー。私、怖くて夜、おトイレに行けなーい」
「大丈夫だよ、眞帆。そん時は一緒に行くから」
「私も一緒に行くよ。ためらわずに起こしていいから」
「あ、桃香ちゃん。ありがとう」
「ちぇっ。女子は一緒にトイレに行くの好きだよな」
「しょうがねえんじゃね。それって女子の習性だからよ」
「何言ってんの、中島くん。男子だって、本当は怖いんじゃないの?」
「うっせーな。俺は怖くねーぞ。なっ、上野」
「お、おう。俺も大丈夫だ……たぶん」
「上野くんったら、何だかビビってるみたいなんだけどー」
「ふふっ、だったらさあ。上野くん、夜中に独りでこの墓場まで来てみなよー」
「何で夜中にこんなとこ、来なきゃいけねえんだよ」
「それは……うーん、肝試しとか?」:
「おおっ、それ、いいね、瑠々ちゃん。今夜、ぜひ、皆でやろうよ。俺、準備するからさ」
一年生達の会話に突然、割り込んだのは、翔たちと同じ二年の服部圭介だった。彼は、たまたま一年の集団の傍を通り掛かって、「肝試し」という単語に反応してしまったらしい。
怖がりの一年生部員達にとっては、とんだ迷惑であった。
服部圭介というのは、小柄で小太りのお調子者。同期の中ではムードメーカーの役割を担っていた男子である。そして、圭介はその話をお祭り大好きの部長、松永陽輝の所に持って行ってしまった。
当然、松永は乗り気だったのだが、残念ながら彼だけでは決められない。副部長にしてラスボス、時に鬼軍曹として恐れられている山口沙希の決裁を仰ぐ必要があるのだ。
彼女は最初、「肝試しなんて、ばっかじゃないの」とバッサリ切り捨てたのだが、そこは沙希の扱いに慣れた松永のこと、「お前、本当は怖いんだろう?」とからかった途端、ころっと意見を変えてしまった。
「分かった、やる。やってやろうじゃないの」
そう宣言した後で、沙希は周囲の部員達に言い放った。
「いいか。全員参加だぞ。辞退する奴は、臆病者と見做す」
「あのー、私、臆病者なので辞退しまーす」
要領の良い一年の小山瑠々が、さっと手を上げた。すると、そんな莉々を一睨みした沙希が、追加で言い放つ。
「女子は臆病者でも全員参加、決定っ!」
さすがにこれには、女子全員からのブーイングが巻き起こった。
莉々は、「沙希先輩、横暴ですぅ」とマジで涙目になるし、二年の小島紀香からも「それって、やりすぎじゃない?」といった声が上がる。いつも紀香と一緒にいる橋本美侑は、沙希と紀香、両方の顔を交互に見ながら、おろおろしているばかりだった。
とはいえ、こんな時の山口沙希を止められる奴なんて、当時の剣道部員には一人しかいない。それが水草薫なのだが、この手のイベントが誰よりも好きなのが、他ならぬ彼女なのだから、これはもはや天を仰ぐしかない。実際、薫は今も無表情の仮面の下に、不気味な笑みを湛えている。見ようによっては、沙希なんかよりもずっと怖い存在が薫なのだった。
セッティングは、服部圭介が一人でやってくれて、その内容が夕食後に発表された。
圭介が定めたルールは、こんな感じだった。
・墓場の中央を縦断する細い道をまっすぐに行くと竹林がある。その真ん中に小さな祠があるから、まずはそこでお参りをする。
・次に祠の裏手に周り、足元に置いてある箱を開けて、そこからカードを一枚だけ取り出して持ち帰る。
・帰りは迷子にならないように、必ず行きと同じ道を通って戻る。
・全員が戻ったら、持ち帰ったカードに書かれた番号を使って抽選会を行う。
話の途中から部員達は、誰と一緒に行くかの駆け引きを始めた。
それを聞きながら、翔がふと思い付いたことをボソッと呟いてしまったのがまずかった。
「肝試しなんだから、独りじゃなきゃ意味ないんじゃないか?」
翔は小声で言ったのだが、不思議と大勢が聞いていたようだ。しまったと思った時には、既に遅かった。
「よし、翔がそう言うなら、私は、翔に賛成。独りで行ってやるよ」
「沙希、お前、本気か?」
最初に反応したのは、沙希だった。その彼女を気遣ったのは、部長の松永である。実は、沙希は相当な怖がりなのだが、それを知るのは同じ二年の一部だけなのだ。
ところが、沙希のその言葉で、その場が騒然となってしまった。特に騒がしかったのは、一年女子である。
「ねえ、山口先輩がああ言ってるよ。眞帆、どうする?」
「ムリムリ。私、絶対にムリ」
「だいたい、こういうのって、男女がペアでやるもんじゃないの?」
「だよねー」
「桃香ちゃんにさんせーい」
「山口先輩が言うなら分からなくもないけど、まさか藤田先輩が言うとは思わなかったよ」
「藤田先輩、サイテー」
「見た目、優しそうなんだけどね」
「違うよ、瑠々。藤田先輩、案外そういうの疎いんだよねー」
「ふふっ、鈍感だもんねー」
「水草先輩、可哀そう」
そんな大騒ぎの中、それまでずっと黙っていた二年の橋本美侑が泣き出してしまい、彼女と仲の良い小島紀香が駆け寄って慰める事態となった。そのせいで翔は、沙希を除いた女子全員から冷たい視線を浴びせられることになったのである。
翔は救いを求めて薫を見たが、翔でさえ何を考えているか分からない無表情だ。仕方がないので、沙希と顔を見合わせた上で、松永に助けを求めることになった。
「分かったよ。男女ペアでやることにしよう。沙希も翔もそれで良いだろ?」
もちろん、翔に異存などない。沙希は、軽く肩を竦めた上で、何故か薫の方を見て頷いた。
。途端に、歓声が沸き起こる。
「じゃあ、皆それぞれ、好きな相手を選ぶこと。確か、一人だけ男が多かったんだよな、圭介?」
服部圭介が頷くと、その場は再び騒然となった。
松永は気を利かせたつもりなんだろうが、人前で意中の異性を大っぴらにできるのは、全員公認のカップルか、相当にコミュ力の高い奴らだけである。大半の男女は、そうではない。
「部長も、たまには良い事いうよな」
「何いってんの。好きな相手を選ぶって、いきなり告白するみたいなもんじゃない」
「お前が好きなのって、あいつだろ」
「キャー、何、指なんか差しちゃってんの」
「元からバレバレだっちゅーの」
「えっ、それ本当なの? うわあ、恥ずかし過ぎるぅ」
結局、この場を納めたのはラスボスの沙希で、彼女は我らが総合プロデューサー、服部圭介に全権を委ねたのだ。
彼は、部員全員の恋愛事情を把握しており、誰もが注目している中で勝手に次々とペアを決めてしまう。中には複数の男子に思われてる女子だとか、その逆のケースもあったわけだが、その場合の采配も服部大明神におまかせとなった。一番脈がありそうなペアを選べるのは、圭介だと誰もが分かっていたからである。
もちろん、翔のペアは薫である。
松永のペアは当然、沙希だろうと思っていたら、意外にも沙希が「あんたとは組みたくない」と言い出した。
「何でだよ」
「嫌なのは嫌なのっ! 私、圭介と行く」
「だったら、オレはどうすんだよ」
「あんたは部長なんだから、一人で行けば良いじゃない」
まるで駄々っ子のような沙希の主張に、松永の表情がどんどんと険しくなって行く。
そこまで沙希が嫌がるのは、「怖がる自分を見られるのが恥ずかしい」といった、年頃の女子にありがちな理由なのだが、傍で見ている翔には分かっても、松永には分からない様子。たぶん、平常時の松永なら気付くんだろうけど、頭に血が上った状態の彼には無理だった。
結局、松永は、「お前だって、副部長だろうがっ!」と喚き出した。基本、女子に優しい奴なのだが、沙希に対してだけは別らしい。
『これはもう、薫にでも仲裁を頼むしかないか』と翔が思っていると、二年の小島紀香がつかつかと沙希の前に出て行って、「いい加減、我儘を言うの止めなよ、沙希!」とピシャリと言った。
普段の紀香は、そんなことを人前で言う女子ではない。だけど、さっき橋本美侑が泣き出した件に沙希も絡んでいたことで、その鬱憤をぶちまけたんだろう。大人しい美侑は、彼女の無二の親友で庇護対象。『こういう所で、女子は面倒くさい』と、翔は常々思っていた。
これは、揉めるかもしれないな。
そんな風に翔が思っていると、意外にも沙希は、すんなりと紀香と松永に謝った。たぶん彼女だって、自分の行為が「子供ぽかった」と分かってはいたんだろう。
ともあれ、今回のイベントの大きな目玉となる「部長、副部長ペア」が、すったもんだの末に誕生したのである。
次の議題は、抽選の賞品についてだった。
「当然、豪華賞品がもらえるんだよな」と松永が問い掛けると、圭介は「それをこれから決めるんじゃん」と笑って言う。皆で相談した結果、一位が購買のカツサンド、二位がミックスサンドで三位がコロッケパンだった。
「オレさあ、何か嫌な気がするんだけど、商品を買う金って誰が出すんだ?」
「決まってるじゃん。一位は部長、二位が副部長、三位以下は残りの二年で出し合うんだよ」
「やっぱり、それかよ」
「まさか、カツサンド二個を可愛い部員達に奢らないとは言わないよね、部長さんと副部長さん?」
「……っ」「……」
圭介のあっけらかんとした返事には、松永はもちろん、ラスボス沙希ですら返す言葉がない。ただ黙って頷いたのだった。
★★★
そうして始まった肝試しだったが、最初から波乱の幕開けとなってしまった。
「よし、お手本を見せようぜ」と勢い込んで出発した松永と沙希の部長・副部長ペアが、五分後、必死の形相になりながら、大慌てて引き返して来たからだ。
松永は翔の前に蹲ったかと思うと、いきなり訳の分からないことを喚き出した。
「で、で、出たんだっ!」
「何がだよ」
「だ、だから、火の玉だって。お、お墓の上をふわふわと飛んでんだぞ。あ、あんなの見たら、誰だって逃げるわっ!」
「そ、そうなの。嘘じゃないんだってばあ。本当なの。本当に……」
あの気が強い沙希が必死に薫にしがみ付いて震えている。その沙希の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。その姿を間近で見た圭介までもが、ブルブルと震え出した。
翔自身も、さすがにこれは尋常でないなと思い始めた時だった。
「翔くん、行こう。次、私達の番だよ」
薫の声は、普段と全く変わらない。いや、むしろ楽しげですらある。
その場の誰もがシーンと静まり返る中、空気を全く読まない薫は、自ら翔の手を取って颯爽と歩き出した。
翔は、恐る恐る足を交互に動かしていた。薫の手が妙に冷たく感じられる。そのひんやりとした手が、翔をずんずんと墓場の方へといざなっていく。まるで何かの霊に取り憑かれているかのように……。
翔は、ちらっと薫の横顔に目をやった。色白で端正なその横顔は、普段と同じように無表情だ。翔にはそれが、人外の魔物のように思えてくる。
「か、薫?」
遂に耐えられなくなった翔は、そっと薫の名を呼んだ。すると、自分でも情けないくらいに震えた声が出てしまう。
「翔くん、怖いの?」
「だ、だって、あの沙希が、あんなんだったんだぞ」
「私は別に何ともないけど。沙希はね、元々怖がりな子なの。松永くんだって、おんなじ。あのペアがああなるのって、最初から分かってたでしょう。あれって、圭介の陰謀だと思う」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。だいたい皆、怖がり過ぎだよ。夜中のお墓なんて、なかなか来られないんだから、もっと楽しめばいいのにね」
ああ、そういう奴だったよな、お前は。
そう思ったら、心が少しだけ落ち着いた翔である。それで墓地に入ってからも、最初のうちは何事もなく進んで行けた。
ところが、あとちょっと歩けば墓地から抜けられると思った矢先、翔は「う、うわあ」と叫び声を上げてしまったのだ。
二人の前方に突然、揺れる炎が現れたからだった。それはぼんやりとしたオレンジ色の光で、地上三メートルくらいの高さに浮かんでいる。
「大丈夫? 翔くん」
慌てて引き返そうとすると、翔の手をしっかりと握った薫が声を掛けてきた。落ち着いた声だった。
翔が震える手で光の方を指で示すと、薫が表情を変えずに答えを言った。
「ああ、あの灯りのことかあ。あれ、街灯だよ。昼間もあったじゃない」
薫が翔の手を引いて、それが見やすい位置に移動させられる。勇気を出して改めて見て見ると、薫が言うように、ただの街灯だった。木立の影に柱の部分がすっぽりと隠れていたせいで、全然気が付かなかった。
その灯りは寿命が今にも尽きかけているのか、不規則に点いたり消えたりを繰り返している。たぶん、それが揺れているように見えたんだろう。色がオレンジだったのも、炎だと思った原因のひとつだ。
「もう、驚かせやがって」
翔が思わず悪態を吐くと、薫が珍しく声を出して笑った。それが余計に腹立たしくて、翔は不機嫌になる。
「さあ、祠の方に行くよ」
それでも翔は,、薫に手を引かれたまま竹林の中の祠の前まで連れて行かれて、ちゃんと手を合わせてお参りをさせられた。そして裏手に回り、そこに置かれた菓子箱からカードを一枚取り出すと、無事に仲間達の所へと戻ったのだが……。
戻った薫に沙希が、そして翔には松永が抱き付いてきた。
「薫~。無事で良かったあ!」
「……」
沙希の目は、相変わらず潤んでいる。
「どうしたの、沙希?」と首を傾げる薫の横で、翔は無言の松永の身体を、「気持ち悪いんだよ」と言って押しのけた。
その後、松永と沙希が皆に散々からかわれたことは、言うまでもない。
★★★
その後のペアは、薫が街灯のことをバラしてしまったこともあって、全員無事にカードを持って来ることができた。
そして、抽選会を始めることになったのだが……。
「あのさあ、抽選とか、もう必要なくない? どう見たって、今日のMVPは決まってんじゃね?」
そう言い出したのは、総合プロデューサーの服部圭介である。
その瞬間、パッと手が上がった。
「さんせーい!」
それは小島紀香の幾分、甲高い声で、その後に全員の拍手が沸き起こる。
圭介が言うMVPとは、もちろん水草薫のことだった。
「やったね、翔くん。カツサンド、ゲットだよ」
そう言って彼女なりに喜んだ表情をする薫だったが、翔にしてみれば、全然嬉しくなんかない。だってMVPは薫であって、翔はただ彼女に手を引かれていただけなのだ。
「いいじゃない。私、カツサンド二個も食べれないよ。ていうか、ミックスサンドの方が良いなあ。圭介、私の分だけミックスサンドに変えてくんない?」
そうだった。薫は肉類が好きじゃない。ハムだったら、かろうじて食べられるということなんだろう。
最後に翔と薫は、圭介が適当にノートを破って作ったカツサンドとミックスサンドの引換券を二人並んで恭しく受け取ることで、この肝試しイベントは何とか無事に終了したのだった。
――動じない女
これは、この肝試しで薫に与えられた二つ名である。
それと、もうひとつ、この肝試しの後、部内で囁かれるようになった格言があった。
――鬼の目に涙
これも言い出しっぺは服部圭介なのだが、その後で彼が当の鬼からどのような仕打ちを受けたかは、「知る人ぞ知る」といった所である。
★★★
ふいに翔が薫の背後に目をやると、外は既に真っ暗だった。
高校時代の話で盛り上がっているうちに、随分と時間が経ってしまっていたようだ。
そのせいで翔は、つい口走ってしまったのだ。それがこの日、三つ目の失言だとは気付かずに……。
「なあ、薫。お前ん家、中州だろ。そろそろ帰らなくて大丈夫か」
それは昔、翔がいつも口にしていた気遣いなのだが、言った直後に後悔した。薫が怪訝な顔をしたからだ。
彼女の家は、ここからかなり離れた所にある。自転車だと三十分以上は掛かる距離なのだが……考えてみれば、薫も今なら車を使うだろう。運転手のいない格安なセルフのタクシー、つまり自動運転車によるタクシーがスマホですぐに呼べるのだから。
それに、そもそも今の薫はもう女子高生じゃない。多少帰りが遅くなったところで、親に叱られる歳でもない筈だ。
ところが薫から返って来たのは、翔にとって予想外の言葉だった。
「今はね。私もこの近くに住んでるの」
「えっ、この近くって……ひょっとして、一人暮らしなのか。あっ、でも、さっきお前、母親と一緒のようなこと言ってたんじゃ……」
翔は途中で口をつぐんでしまい、しばらく気まずい沈黙が訪れた。
その次に翔が耳にしたのは、固い口調の「出ましょうか?」という言葉だった。
★★★
さっきの爆弾騒ぎが嘘のように、外はしんと静まり返っていた。
別れの言葉を何にしようかと悩んでいた翔だったが、意外にも薫の方から話し掛けてきてくれた。
「ねえ、翔くん。今日は、会えて嬉しかったよ」
ハッとして薫の方を見ると、微かにはにかんだ微妙な笑顔を浮かべている。知らない人なら素っ気ない表情だと思うかもしれないけど、翔には見間違えようもない懐かしい笑顔だった。
翔は、『さっきの気まずさは何だったんだろう』と思いながら、「俺もだよ」と答えた。
すると薫は、翔のメアドを訊いてきた。
「じゃあ、また連絡するね」
そう言い残して、薫は軽快な足取りで去って行った。
途中気まずい事もあったけど、最後は普通の別れだった。翔がこっちに居る間、きっとまた会える。そう思えたから、翔は簡単に薫を見送ったのだ。
それなのに……。
薫の背中が、何故か記憶より小さく見えてしまった
その背中は、暗闇に消されて、すぐに見えなくなってしまう。
それから、ふっと気が付いた。送って行かなくて良かったんだろうか?
とはいえ、今から追い駆けて行くのも、どうなんだろう。それって、まるでストーカーみたいじゃないか。
そんな言い訳を心の中でして、それから、さっきまでの薫のことを思い返してみる。
そう言えば薫は、化粧をしてなかったよな。
高校でも大学でも彼女はほとんど化粧っけの無い女だったが、さすがに二十代半ばにもなって、口紅ひとつ塗ってないというのは、おかしくないか?
それに、薫はアクセサリーの類を全く身に着けていなかった。それも大学生の時と同じなのだが、あの年齢の女性にしては、かなり奇妙だと翔には思えた。
そして、更にあの黒髪である。いや、格好だって、大学の頃のままだった。
そりゃ地元だから、ちょっとした用事でノーメークのまま普段着で外に出て、たまたま翔と出会ったということだってあるだろう。
けど、本当にそうだろうか?
薫は今、天王市に住んでると言っていた。しかも、歩いて行った方角は翔の家の方だ。それなら、一緒に帰ろうと普通は言うんじゃないか?
薫は、家族で住んでいると言っていた。だったら、中州の家はどうしたんだろう?
ああ、もう。分からないことが多すぎる。
ただ、もうひとつ思ったことがある。
さっきの薫は若く見えた。見た目、高校生と言われても充分通用するくらいだった。むしろ、昔よりも若返ったんじゃないかと思うくらいだ。
たぶん、それは彼女が少しだけ身体に肉が付いて、健康的になったからだろう。特に大学時代の薫は、痩せ過ぎで顔色も青白かったのだ。そして、目だけがギラギラ光ってるような、少し不気味な所があった。
つまり、薫は綺麗になったということなのだが、それをストレートに彼女に言っても、たぶん彼女は、そのとおりに受け取らないだろう。
まあいっか。
メアドを交換したんだし、また会えるだろう。さっき感じた疑問は、その時に聞き出せばいいさ。
しばらく店の前で佇んでいた翔は、ふっと息を吐くと、それまで自分が抱いた疑問を頭の隅へと追いやってしまった。
まあ、薫だからな。
まるで、その言葉が全ての答えであるかのように、翔は軽く肩を竦めた後、さっき薫が歩いて行った方向へと足を踏み出したのだった。
たくさんの作品の中から、読みに来て頂いてどうもありがとうございます。
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