天野さんと恋心
ティラノザウルスもどきから聞こえてくる声に、私は目を見開いた。
『ステナイデ……』
『オマエナンテ』
『キライ』
言葉は拙く醜いものばかりだ。でもこの声は、ついさっき聞いたばかりのものだ。
「花子さん?」
私がその名を呟くと、ぶくぶくっとティラノザウスもどきの体が泡立った。そしてティラノザウルスもどきの胸のあたりに波紋が出来、女の子の顔が現れた。水に濡れた髪をした少女は、まさに私が想像する怪異そのもので、冷汗が流れ落ちる。
怖くて仕方がないけれど、少女から目も離せない。
濡れた髪をぺっとりと顔にくっつけた花子さんは、髪の隙間からぎょろりとこちらを見た。しかしその目は人間のものではなく、虚空だ。ただ黒く塗りつぶしただけ。私の姿を決して映しだそうとしないソレに、吐き気を覚える。
ざらりとした悪意をぶつけられるような不快感。
女子トイレで話した時、彼女の姿は見えなかったけれど、こんな不快なものではなかったはずだ。彼女は、汚いものなどない王子様で、私の辛い気持ちを聞いてくれて――。
「――だからなの?」
ふと気が付いた。
花子さんは、私にトイレで嫌なものは吐き出してしまえと言った。鬼にならないように。
花子さんは宝塚系の王子様で、まさに少女達の綺麗な妄想から出来上がっていた。でもそれと同時に、少女達の辛い恋を吐き出させていた。少女達が捨てた恋の欠片には、嫉妬や恨み、妬み、様々な悪意があっただろう。恋は一見美しいものだ。でもそれだけではない。
『サミシイ……』
『ワタシヲミテ』
『スキナノニ』
『アイシテルノ二』
『ニクイ』
『ニクイ』
『ニクイ』
『ニクイ――不幸二ナレ!!』
実らなかった恋。実ったかもしれないけれど、それまで感じたドロドロとした想い。
それがボコボコと泡立ち、声をあげる。消さなければいけなかった。伝えられなかった想い達の声だ。トイレとは不浄を流す場所。
花子さんはそれに特化した存在だった。
でも流しきれないほどの言葉が淀み、彼女の存在を歪めた。
……ああ。
そして私の中にも、かつてソレはいた。
「だから、私なの?」
私の中にもあった感情だ。
でも今はない。
そう……ないのだ。
私の中になければいけない、誰かを恨んだり憎んだりするような感情は何もない。柳田君に好きな人がいて、諦めなければいけない、恋を忘れなければいけない現実を悲しみはしても、誰かに対しての害意は一つも感じない。いじめに対してもそう。……相反する存在を前に、唐突に私の置かれた現実に気が付いた。
私は恋する乙女のはずなのに、誰かに対して、嫉妬する心も憎む心も恨む心もない。
かつてはあったはずなのだ。でも記憶もおかしい。色々途切れている。切り取られたかのように、私の中にはただ美しい、恋の想いしか残っていなかった。
「そうか。私は……人間ではないんだ」
感情と記憶の欠損に気が付いた瞬間、認めたくないけれど……理解した。
そして悪意の塊のような、嫉妬や恨みの恋心は、自分に欠けた綺麗な恋心がホシイのだと泣いていた。




