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リアと別れた九曜は、木立を歩きはじめた。自分でもどこに行っているのか分からなかったが、足は自然とナバル市街へ向かっていた。
傾いてきた陽射しは、痛いほどまばゆく、乾いている。
暑いのが苦手な九曜は、陰へ陰へと動きつつ、土埃のたつ道を歩いた。
人々は、小さな仔猫など気にも止まらない様子で、せわしげに行き交っている。
大きな足たちの間を縫って歩いていた九曜は、ふいに、自分の目の前で立ち止まる男の足に気が付いた。
不思議に思って顔を上げ、仔猫の眼が点になる。
「――よお、九曜」
同じく驚いた相手が、先に声をかけてきた。
黒っぽい旅装、無造作に巻いた頭布からはみ出た奔放な髪、日に焼けた陽気な顔――。
「ディーン……」
思わず、口を名前がついて出た。なぜか胸がぐっと詰まり、懐かしさが込み上げてくる。
――馬鹿だな。僕は、こいつのところから出てきたんだぞ。
九曜は自分に言い聞かせた。
少年は変わらぬ笑顔で、
「何やってんだ、おまえ。こんなところで」
《ディーンには関係ないでしょ》
仔猫はつん、として答える。と、ある事実に気が付き、九曜はまじまじと相手を見つめ直した。
少年は寸鉄一つ帯びず、足も腕も泥だらけ。その肩には、九曜の倍ほどの大きなクーレが一匹と数匹のギルが縄に吊って担がれていた。
《ディーンこそ何やってんのさ? そんな汚い格好で。まさか……釣り?》
「ああ。ロブ湖で漁師の親父たちと意気投合してな。一緒に釣りしてきたんだ。すげぇだろ、この収穫」
少年は、得意げに鼻をうごめかす。その頬には、クーレとの格闘の跡らしき勇者の泥がついていた。
思わず、仔猫の片頬がひきつる。
――いけない、いけない。
ここで笑ったら、すべてが水の泡だ。
――だけど……。
九曜が想いを巡らせていると、ディーンが尋ねた。
「おまえ、今から暇?」
《なんでさ?》
「いや。こいつを食べるのには、人数がいた方がいいからさ」
少年が背中の収穫を指で差した。一瞬、仔猫が黙る。
《――いいよ》
「んじゃ、宿に戻るか?」
《宿で食べるの? 見つかって追い出されない?》
「こんなデカい魚、どこでさばくんだよ。大丈夫、こっそり入りゃ分かんねーって」
相変わらず能天気な少年に、妖魔の髭がぴくり、と動いた。だが、いつもの文句の代わりに出たのは、
《――顔に泥ついてるよ》
の一言だった。その指摘に、一応身形にはうるさい少年が、ばたばたと身体をはたいて騒ぐ。
妖魔は、それに笑い声で応えた。
《お願いだから、その泥落として宿にあがってね。泥だらけじゃ御飯が不味くなる》
「ほれ、おまえも泥仲間」
《やぁめてぇよぉっ》
傍目から見るとちょっと異様な二人は、ふざけながら[青しぎ亭]へ戻る。
[青しぎ亭]は、夕暮れを迎え、宿に戻ってきた客と新たな宿泊客とでごった返していた。九曜とディーンは物陰から中を窺う。
《軍人亭主、いる?》
「叱っ」
魚を担いだディーンが、先に入って様子を見る。
「あ、どーも」
帳場にいた、軍人あがりらしい[青しぎ亭]の亭主が、じろりと少年を睨んだ。
「魚釣ったんで、今晩の夕食これでお願いできるかな?」
「クーレにギルか。一人じゃこんなに食いきれんだろう」
「俺、大食いなもんで……。残った分は他の客に分けてくれよ。新鮮なうちに食べたほうが美味いからさ」
言いつつディーンは、後ろ手に九曜に行けと合図をした。仔猫が、身を潜めて二階の部屋へ向かう。
「どれくらいでできるかな? 何だったら、自分でさばくけど」
禿頭の巨漢は、鋭い眼光で魚を値踏みした。
「いや。二十分もあれば充分だ」
「じゃあ、それで。あと葡萄酒と……エール水を頼む」
「エール水?」
大食いなもので、と愛想笑いを浮かべ、少年は収穫を亭主の手に託すと、逃げるように自分の部屋へ駆け込んだ。
扉を閉め、ややおいて慎重に階下の様子を窺う。
《どう?》
「――平気みたいだ」
答え、少年は大きく息をついた。
「じゃあ俺、水浴びてくるな」
《分かった》
「夕飯はここで食べるように言っておくから。すぐ戻る」
言い置いて、少年は着替えを持って部屋を出ていった。
「……なーんだ」
声に出して呟き、仔猫は尻尾をぱたりと振った。
最初の汚さからは想像つかないほど、清潔な部屋。きっと、ディーンが必死で掃除をしたのだろう。
その部屋の片隅に、無造作に投げ出された荷物を見て、九曜は苦笑した。
「どうして一つできると一つできないかなあ……」
その声に、彼を詰る響きはない。むしろ、元の生活に戻ってきた嬉しさに滲んでいた。
出ていったときのあのわだかまりが嘘のように、穏やかな感じがする。
――これで、いいのかな……。
自嘲ではなく、笑みが零れる。
「……いいのかもな」
自分に言い聞かせ、九曜はひとつきりの部屋の寝台に上った。
ナバルの外れにあるこの宿からは、ロブ湖と市街地が一望できた。
外の景色に眼を細め、九曜は陰の涼しい場所に寝そべる。急激に眠気が襲ってきた。
――リアと一緒じゃ、眠るに眠れなかったからなあ……。
あふ、と欠伸をひとつして、毛繕いにとりかかった。
ディーンのおまけについた泥を舐めとり、九曜は丁寧に毛艶に磨きをかける。
そのとき、突然、大きな男が部屋に入ってきた。
九曜の眼が、亭主の鷹のような眼と合う。
「……」
亭主は無言で、木製の杯ひとつと、葡萄酒とエール水の瓶を机に置くと、足音も荒く出ていった。
「……ありゃま」
九曜が呟く。
――これは、ちょっとまずいかもなあ……。
隠れておくべきだったと後悔しても、もう遅い。野生と言うには、九曜はあまりにも異国風の猫だった。
九曜がどうするか思案しているうちに、ディーンが戻ってきた。
少年は、上半身裸のまま髪を拭きながら、固まっている様子の仔猫に尋ねる。
「どうかしたのか、九曜?」
《あー……見つかっちゃったん……だよね》
九曜が先程の状況を説明すれば、ディーンも頭を抱える。
「はー。そりゃヤバいだろ、おまえ」
《だよねぇ》
「なんとか言い訳を考えるっきゃねぇよなあ」
生乾きの頭のままで手拭を肩にひっかけ、ディーンは思案を巡らせた。
「でもまあ……追い出されても、なんとか雨露しのぐくらいはできるだろ。幸い天気続きみたいだし、俺たち二人ならなんとでもいけるさ」
言って、陽気に笑いかける。
――俺たち二人、ねえ……。
九曜も、ちょっと笑った。
《ま、それもいいかもね》
「だろ?」
少年が屈託なく応じる。まるで、別れる三日前に逆戻りしたような、自然な感じだった。
――逆戻りしたんだろうか。何も、変わっていないんだろうか……。
迷って迷って結局元のところに帰ってきたけれど、それは最初の自分ではない。螺旋階段のように、同じところを回っているつもりでも、着実に上へと、次の階へと進んでいるのだ。
二人がのんびりした会話をしていると、再び亭主が、少し早い夕食を手に部屋を訪れた。
仔猫と少年が凍りつく前で、偉丈夫の亭主は、黙って酒瓶の横にクーレと野菜の牛乳煮とギルの塩焼き、あらのスープなどを並べる。
そして、小さな椀を二つ盆に入れたものを隣に置いた。
慌てて言い訳をしようとする少年の口を、鋭い眼光が制した。
「なかなかいい魚だった。他の客の夕食にいれようと思う」
「あ……ああ。それは……よかった……です」
「それから――坊主。連れがあるんなら、最初に言いな。それが礼儀ってもんだ」
「あ……すまない。その、動物は断られるかと思って……」
あたふたと、ディーンは本当のところをしゃべってしまう。
亭主は、鋭い眼を九曜に向け、口の両脇に皺を寄せた。
――怒鳴られる……!
二人が思ったそのとき、亭主の口の端がにや、と吊り上がった。
「気にするな。俺は、猫好きなのよ。他の客に迷惑がかからないかぎり、構わねぇさ」
「は……はあ」
「じゃあな。猫ちゃん」
茫然とする一人と一匹を残し、こわもての亭主は、気軽に手を振って出ていく。
反射的に手を振り返した二人は、しばし誰もいない扉を見つめた。
〝猫ちゃん〟が、唖然として呟く。
《……はあ~。やっぱり、人間ってぜんっぜん分かんないや》
「まったく、人間やってる俺にも時々分かんなくなるからな」
二人は顔を見合わせて笑った。そして、
「食べるか」
《そうだね》
少し早い夕食の席に並んでつく。ちゃんと九曜の分も取り分けてあり、しかも牛乳まで添えられているのを見て、九曜がまた唸る。
《うーん。本当、意外な亭主だよね》
「そうだな。案外いい奴なのかもな」
呟いて、ディーンが思い出したように席をたった。仔猫が顔をしかめる。
《まったく、食事中だっていうのに……》
思わず文句のこぼれる仔猫の首に、後ろから金の鎖が巻き付いた。
安手のその先には、古い硬貨がひとつ揺れている。
九曜は、きょとんとした。
以前ディーンがくれたはずの首飾りは、確かここへ来る途中、ロブ湖に沈んだはずだ。
《どうしたの、これ?》
「クーレを網で引いた時に、偶然引っかかってたんだ」
何気なく言うその言葉に、九曜はぴんときた。そこは、共に旅をしてきた仲である。
おそらく、九曜が首飾りを失くしたことが原因で出ていったと考えた少年は、ロブ湖の漁師たちに事情を話して、首飾りを探してもらう代わりに、漁の手伝いでもしていたに違いない。
例の魚は素人が簡単に釣れる品ではなかった。きっと、漁師たちの厚意でもらったのだろう。
――ディーンの嘘つき……。
それでも、やはり笑顔になってしまう。
仔猫の様子を横目に見て、照れ隠しか、ディーンは粗塩をふったギルにかぶりついた。
「ついでだよ、ついで」
《ふーん……ついでねぇ》
九曜は疑わしそうに彼を見る。
《ま、そういうことにしておいてあげてもいいけど》
少年がむっとした。
「なんだよ、その言い方は。ありがとうの一つもないのかよ?」
《ついで、なんでしょ? 僕が頼んだわけじゃないもんね》
あくまでも素っ気なく、九曜は言う。それでも虹色の眼は笑っていた。
素直でない妖魔に、ディーンは頬を膨らませ、葡萄酒を一口飲んだ。
大飯食らいの彼は、早くも食べ終えると、寝台の上でだらしなく寝そべって満杯の腹を休める。ふと窓の外を見、声をあげた。
「――あ」
《なに?》
亭主の心尽くしの牛乳を舐めていた仔猫が振り返った。
ディーンが、眼下のナバル市街を指差す。
「見ろよ、九曜。王女の輿入れだ」
《――え》
慌てて九曜は、ディーンの太腿を踏み台にして、窓から身を乗り出した。爪をたてられ、少年が呻く。
「いてて」
構わず九曜は、花を撒き散らして踊る女たちに囲まれた飾りたてられた馬と、その上の輿に乗った人物に眼を凝らした。
輿には薄い紗がめぐらされ、妖魔の視力でも、中の様子は分からなかった。
「たぶん、嫁入り先の国に口上を伝えにいく使者だろう」
同じく窓に肘をついて、ディーンが言う。
「この辺りの結婚式は派手だからな。少なく見積もっても、三日間はお祭り騒ぎだ。王女の方もいろいろとあったらしいし……。ま、まだ十二才の女の子だ。揉めるのも無理はないけど」
意味ありげに、横目で相棒を見やる。
《だけど……もう、大丈夫でしょ》
その台詞に、ディーンは驚いたような顔になった。仔猫は、虹色の瞳を使者の行列へ注いだまま、独り言のように言う。
《十二才って、結構大人だよ。特に……女の子はね》
特に威勢のいい、金髪の女の子は――ディーンには、なぜかそう聞こえた。
だが、何も問わずに頷く。
「ああ……そうだな」
窓のすぐ下の道では、街の仕事に出ていた人々の帰宅に賑わっていた。その中から、若い男の興奮した声が二人の耳に届く。
「――昨日、兵士が殺されただろう。今日の朝早く犯人が捕まったんだとよ」
「へぇ、そいつは早いな。やっぱりどこかの破落戸か?」
「賊だよ、賊! しかも、みんなまとめてふんじばって、警察の前に突き出してたっていうから驚きじゃねぇか!」
「へぇ~。奇特なやつもいるもんだねぇ……」
語り合いつつ、彼らは遠ざかっていった。
仔猫が、誰なんだろうね、という視線を少年に向ける。
ディーンは、日の光に真紅の酒杯を透かして呟いた。
「奇特な奴さ。はみ出し者のくせに一本筋の通った、古い男だよ。……たぶんな」
そう言う彼の口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
――あいつ三日の約束を一日で片付けやがった……まったく、変わった男だよ。
燃えるような黒い眼の山賊を思い出し、不思議な気分に陥る。
ディーンは杯を飲み干して、白髪の男のことを頭から消し去った。
その態度に、九曜はおぼろげに何かを察したが、口にすることはなかった。
いつか、寝物語にでもできるだろう。何しろ旅の先は長いのだから。
ディーンの話も、九曜自身の話も、そしてリアのことも、笑いながら語れるときが来るだろう。だが今はまだ、あまりにも生々しく――疲れていた。
動くのも面倒になり、九曜はそのまま少年の膝の上で丸くなる。
ディーンが眉を顰めた。
「おい、重いだろ」
《何言ってるの。これくらい我慢しなよ》
冷たくいなし、仔猫はもう一度、窓の外に視線を投じた。
――リア……!
鮮烈な夕陽がひとすじ、少女のいる[白の館]に向かって走る。
落ちていく太陽。黄昏に染まる街と人々。
雄大な湖は、恐いくらいにぎらぎらと照り映えて、さながら黄金の鏡のようだ。
静止した時の中で、天も地も人も動物も、すべてが黄金に色付けられていく。
「……なあ、九曜」
ディーンが、黄金の景色に眼差しを向けたまま、呟くように語りかけた。
「自分以外の誰かと何かを――この一瞬の夕陽の美しさでも――分かち合えるって、すごいことだよな」
「……うん」
九曜は頷いた。
きっと、リアもこの夕陽を見ているに違いない。そしてこれから先もずっと、黄金の夕陽を見るたびに、彼女は共に過ごしたあの短い日々を思い出すことだろう。
――またね、リア。きっとまたいつか逢おう……この黄金の大地のどこかで。
まばゆげに夕陽を見つめ、九曜は、ゆっくりと眼を閉じた。
安らかな、淡いまどろみの波へと落ちていく。
遠くで、ディーンの呼ぶ声が聞こえる。
「……九曜?」
だが九曜はもう、その呼びかけに答えることはなかった。彼は、眠っていた。
膝上の仔猫の呼吸が、ゆるやかな寝息に変わったのに気付いて、少年が笑う。
「なんだ――九曜。寝ちまったのか……?」
穏やかな、低い笑い声。
暖かな陽射し、乾いた風。
それはとても満たされた、心地よい最高の気分だった。
Canaan Saga 外伝1~黄金の大地~ 終
外伝いかがだったでしょうか。このあと時系列的には、九曜主人公?の外伝がもう1本あるのですが、一度本編に戻ります。季節外れですが、1から半年後の秋のリューンが舞台となります。
良ければ、そちらもお楽しみください。