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 なだらかな広い山道が次第に細く狭くなり、傾斜を増していく。

 草をかきわけ、石につまずきながら、リアと九曜はネバホ山を登った。

 最初は遊び気分でしゃべりながら登っていた二人だが、中腹を越え、さすがに会話もなくなる。

 陰が濃く深くなる山で、少女の荒い息遣いが響く。


「ふう……っ」


 リアは足を止め、額の汗を拭った。腰まで達する黄金の髪は、紐で一つに束ねてあった。

 後ろをゆっくりとついてくる仔猫が、声をかける。


《大丈夫、リア?》

「うん。でも、ちょっと休ませて」


 リアは、道端の石に腰を下ろした。

 仔猫は何も言わず、木々の合間から覗く青空の切れ端を見上げた。

 一時間ほど前から、もう六回も休憩している。

 山の日の暮れるのは想像以上に早い。こんなことで、日のあるうちに頂上に辿り着けるだろうか。

 心配する仔猫をよそに、リアは革の靴を脱いだ。


「いったぁ……い」


 昨日から歩き続けで、足の裏にまめができている。いくつかのそれは、醜く潰れていた。


――どうしよう。まだ先は遠いみたいだけど……。


 小さく息をついて、はるか緑の尾根を眺める。

 九曜が少女の様子に気が付いた。


《リア、足が痛いの?》

「あ……うん」


 リアは恥ずかしそうに、まめのできた足を見せた。

 仔猫の鼻に皺が寄る。


《なんで早く言わないのさ》

「だってえ……」

《だっても何もないでしょう。こんなので歩けるわけないじゃない》


 叱りつけ、仔猫は水筒の水で足をすすがせた。


「どうして?」

《魔力で治すんだよ。なるべく汚れてないほうがいいからね》


 リアが慌てて足をひっこめた。


「だめよ、それはだめ!」

《なんでさ?》

「だって、[願いの泉]を探しに行くのには、他の人の力を借りちゃいけないって……!」


 リアは真っ赤になりながらも、真剣に訴える。

 仔猫は嘆息をつくと、厳しい口調で言った。


《じゃあ、僕がリアを助けたのは? ゼルダたちは? 家に泊めてもらって、食事もして、お弁当までもらったんだよ。それはどうなるのさ?》

「でも……」

《他の人に助けてもらわなければ何も出来ないんだよ、リア。君が今ここにいるのは、決して一人の力じゃないと思う。だから君は、絶対に[願いの泉]を見つけなくちゃいけないんだ》


 いつになく力を込めて言う九曜に、リアは驚いた。


 この仔猫の姿をした妖魔は、なんて心豊かなのだろう。

 妖魔の恐ろしい伝説はいくつも残っているが、そんなのはでたらめだ、とリアは思う。

 現実の妖魔は、無邪気で冗談が好きで、ちょっと皮肉屋で――説教をする。

 リアは微笑んだ。


「じゃあ、お願い」

《いいとも》


 九曜は、リアの足に息を吹きかけた。

 それはかすかに冷たく、ほのかに暖かかった。ちり、と違和感が包み、足の裏を見たリアは眼をみはる。

 まめはきれいになくなり、足の痛みもなくなっている。


「すごぉい、九曜」


 感嘆して、リアは思い出したように頬に手を当てた。あの恐ろしい男たちから逃げた後、頬に今と同じような違和感をおぼえた気がする。

 そう、この頬には短刀で切られた傷があったはず――。

 九曜は、何も言わず、リアの知らないうちに傷を消してしまっていたのだ。


――九曜……。


 女の子に対する口のきき方を知らないとは、リアも身勝手な台詞を言ったものだ。

 彼女が早くあの恐ろしい出来事から立ち直れるよう、彼は陰ながら助けてくれていたのに。


――九曜があたしを守ってくれる……。


 リアは、胸の底がじいんと熱くなるのを感じた。

 少女の想いも知らず、仔猫はぶつぶつ言いながら、リアの足を守るための中敷きを作っている。

 リアは仔猫を見つめ、小さく囁いた。


「……九曜。あのとき、大嫌いなんて言ったの、嘘だからね」

《?》


 よく聞こえなかった九曜が、中敷き代わりの手拭(タオル)を持ったまま首を傾げる。

 いいの、と呟いて、リアはその中敷きを靴の底に敷いた。靴を履き、とんとんと爪先で地面を叩いて調子を整える。


「行こう、九曜」

《うん》


 二人がネバホ山を登りはじめてから四時間後、ようやく山頂が見えてきた。

 だが、その前で二人の行く手を阻むものがあった。

 岩壁である。

 汗と埃にまみれたリアは、息を切らしつつ、途方にくれた表情で空を仰いだ。

 あと少し、その先が頂上だ。

 九曜が救援を言い出そうとしたとき、決意の色を浮かべたリアが、岩に手をかけた。

 頑丈な固い岩。粘土でも砂ででも出来ているのではない。


――大丈夫、登れる。


 岩のでっぱりに右手をかけ、左足を凹部に乗せる。体を持ち上げざま、左手と右足で岩を掴む。そして、今度は右手で岩から出ている木の根を掴んだ。

 慎重にリアは登っていった。

 身軽な九曜が一足早く岩を登り、上からリアを誘導する。


《ほら、そこの出たところに足をかけて。右だよ、右。そう……その調子》


 から、とリアが足を滑らせる。その度にひやりとしながら、九曜は後ろを振り返った。

 そこにはもう、白い岩の壁が途切れ、無限に広がる青空が覗いている。


《もう少しだよ、リア。頑張って!》


 九曜の励ましを虚ろに耳に聞きながら、リアは登った。足元を乾いた風が吹き抜ける。


――下を見てはだめ……!


 自分を叱咤(しった)し、ついに岩壁の終わりに手を掛ける。

 上体を引き上げ、さらに足を乗せた。


――着いたあ……!


 リアは思わず、その場にへたり込んだ。よくやった、と九曜が眼を細める。

 岩壁の頂には、わずかに草叢が広がり、低い木立が繁っていた。

 耳慣れぬ小鳥が高い声でさえずり、羽虫が飛んでいる。

 仔猫が、地面にうつぶせる少女の服のすそを前足で引っ張った。


《疲れているのは分かるんだけど、急がないと日が暮れちゃうよ?》


 リアの眼の隅で、空はより深い青さを湛え、太陽が残り少ない命を散らしていた。

 リアは起き上がった。疲労に腕が、脚が震えている。

 もう動けないと頭が言っているのに、自然と体が立ち上がり、前へ進んだ。


――行かなきゃ……泉を探さないと……。


 ふらり、と大きくリアがよろける。その体を仔猫が支えた。


《頑張るんだ、リア。僕がついてる》


 少女の眼に光が戻った。リアは大きく頷いた。

 草をかきわけ、倒木をまたいで、より高い方へ向かう。

 周囲に耳をすませ、かすかに聞こえる水の音を頼りに、リアは泉の在処(ありか)を求めた。


「どこだろう、泉……」


 呟いて、リアは茂みを抜けた。


「きゃ……」


 咄嗟に悲鳴を殺す。

 その声に駆けつけた九曜も、一瞬言葉を失った。


 眼も眩む断崖。

 先程の岩壁など比較にならない、地獄の絶壁だった。

 少女の爪先からほんの一握り先で大地が終わり、それは真下、はるか半公里ミール下の樹海に続いていた。

 からん、と音を立てて、少女の足元から小石が落ちる。

 それは岩に当たり、四方に響きながら、真っすぐ下へ落ちていった。

 身震いした二人は、その先を追って――気が付いた。

 鼓膜を打ち叩く、轟音。それは、真下の樹海に囲まれた湖になだれ込む、巨大な滝の音だった。

 二人は息を飲んだ。

 ほうけたように、リアがひとりごちる。


「水の音は、これだったのね……」


 [願いの泉]ではなかったことの失望など、()(じん)もない声だった。


「ネバホ山に、こんな場所があるなんて……」


 九曜の毒舌も凍りつき、二人はその光景に見入った。

 ネバホ山を聖山とする人々の心が、はっきりと伝わってくる。

 その雄大さに飲まれ、しばし二人は時間を忘れた。やがて、


《行こうか》

「うん」


 九曜の呼びかけに、リアが慎重に体の向きを変えた。――と。

 まばゆい光が瞳を貫く。

 リアは、片手で眼を覆った。

 太陽が、山の尾根の合間に滑り込んでいく。


「日が……沈んでいくわ」

《急ごう》


 九曜は言い、リアと共に滝の上方にあたる地点を目指した。起伏は緩く、そんなに離れてもいない。


――あれだけの水があるんだ、絶対泉はある……!


 あったとしても、それはただの普通の源泉でしかないかもしれないが、今見た景色は、彼らに[願いの泉]の存在を強く想起させた。


――きっと、ある……!!


 固く信じ、岩の道を行く二人の背に、ふいに強烈な光が差した。

 リアが振り返る。

 そして、長い、長い息をついた。


「ああ……」


 日没だ。

 九曜も足を止め、日が沈みゆく西方の景色に眼を投じた。

 楕円に形を変えて見える夕陽の膝元には、なだらかなアウレリアの丘が連なり、ナバル市街がまるで芥子粒けしつぶのようだ。

 その傍らに、ロブ湖が横たわっている。

 湖は、汚染されているとは思えぬほど、見事に夕映えに照り輝いていた。


「きれい……」


 リアは小さく感嘆し、まばゆい景色を指差した。


「あれがきっと、ウジャールの丘よ。父さまとよく馬で遠乗りしたわ。あっちはシ・セル山。手前の黒いのがシスの森。そしてあれが……」


 左の隅の方を指で示す。九曜が言った。


《分かるよ、フフ・ネバホ村だね》

「当たり」


 少女は、にっこり微笑んだ。ほどけた髪が夕風を受け、黄昏る空に煌めいて溶けこむ。


《詳しいんだね、リア》

「当然よ。ここはあたしの――」


 言い差して、リアはふっとうつむいた。


「あたしの産まれた国だもの」


『アウレリア……わたしの黄金の娘』


 父の言葉が、遠く耳によみがえる。

 いつだったか、馬でギルモアの一番高い丘を登ったとき、父は誇らしげに自分に言った。


『ごらん、この土地を。今は荒れ果て乾いているが、かつてはおまえの髪と同じように、黄金に輝いていたのだよ』


 リアは首を傾げた。


『白くて汚い土地だわ。どこにも黄金なんてないじゃない』

『アウレリア……黄金は、汗を流して作らねばならないのだ。苦労するからこそ、黄金の輝きと価値があるのだよ。黄金は今、この大地に眠ってしまっている。掘り起こすのに今しばらくかかるだろうが……』


 父は、あたたかな眼差しでそれらを見渡した。


『覚えておおき、アウレリア。この国の宝は、この大地……この人々だ。それこそが、この国の黄金なのだよ』


 リアは、ギルモアの大地を見つめた。

 西へ沈む太陽が、鮮烈に辺りを色づけていく。

 赤から朱へ、そして眼も眩むばかりのまばゆい黄金へ――。

 景色のすべてを彩る黄金の光に、時さえも金色に染まる。

 リアの眼から、涙が零れ落ちた。

 ぬぐうことも忘れ、少女は涙を流し続ける。


――なんて……なんて美しいんだろう……。


 もう[願いの泉]のことなど、どうでもよかった。

 見る者の探していたすべてを満たすような、心の隙間のすみずみまでも埋め尽くすような、そんな美しさだった。

 自分自身もその黄金の一部になっているとも知らず、二人は陶然と暮れる景色を見つめる。

 リアが呟いた。


「……帰ろう、九曜。帰ろう――」


 家へ。懐かしいギルモアの大地へ。

 それは、この短い旅の終わりを告げていた。


   *


 日が完全に暮れ、二人はネバホ山の山頂で一夜を過ごした。

 辺りが暗く危険であるし、何よりもリアが疲れていて、空間移動トランスフェーズもできそうになかったためである。

 やわらかな草地を探し、持っていた薄布ショール一枚を体に巻き付けて、リアは丸くなる。

 夕食をとっていないが、空腹を感じる余裕は彼女にはなかった。

 枕元で、同じく丸くなった仔猫が言う。


《ゆっくり休むといい。僕がついているから》

「ありがとう、九曜」


 リアは、肩に薄布ショールをかけなおした。ふと、仔猫を振り向いて、


「ねぇ、九曜」

《なに?》

「あなた……人間にはなれないの?」


 妖魔が首を傾げて少女を見る。

 リアは、陰に沈む瞳に不思議な熱っぽさをたたえて尋ねた。


「すごい魔力を持っているんでしょう? 人間には、なれないの?」


 妖魔は、困惑した顔で首を振った。


《無理だよ。それは、神様にでもお願いするしかないね》


 馬鹿な考えは捨てたほうがよいというように、少女に笑いかける。


《さ、もう眠って。明日は早いよ》


 リアは頷いて、再び草の寝台(ベッド)に身を埋めた。夜空を見つめたまま、ぽつんと呟く。


「――ねぇ、九曜」

《ん?》

「あたし――あなたが人間だったら、きっと……恋をしていたわ」


 リアは独り言のように、囁いた。黄金の髪が、星明かりにかすかに煌めいて揺れる。


「お休みなさい」

《……お休み》


 リアは眼を閉じた。

 よほど疲れていたのだろう。身じろぎひとつせずに寝入る少女を見て、妖魔が微笑む。

 その微笑みに、ふと複雑な翳が落ちた。

 冷たい、清冽な光が辺りに満ちる。

 気が付くとそこには、青い巻き毛を漂わせた、美しい一人の少年が立っていた。

 人外の輝きを宿す虹色の瞳が、やさしくなご和む。


「――お休み、リア……」


 いい夢を。

 呟いて少年は、少女の白い額に、そっと口付けた。

 ため息のような夜が更けてゆく。

 東の空に一筋の光が差し込むその瞬間まで、少年は、少女の側を離れることはなかった。


 翌朝。

 泥のような眠りに就いていた少女は、耳元で怒鳴る九曜の声に眼を覚ました。


《起きて、起きてよ、リア! ねえってば!》


 翼の生えた仔猫が、目の前で浮遊している。リアはひとつ欠伸(あくび)をして、寝呆けまなこをこすった。


「おはよ、九曜」

《おはよう、リア……って呑気(のんき)に挨拶なんかしてる場合じゃないんだってば!》


 いつも冷静な九曜が、明らかに慌てている。リアは体を起こした。


「何かあったの?」

《水の音がするんだ。しかも、すぐ近くで!》

「え?」


 一瞬で眠気が吹き飛ぶ。リアは飛び起きると、足がもつれそうになりながら駆け出した。

 仔猫が叫ぶ。


《こっち、こっちだよ!》

「え、あ……待って、九曜!」


 昨日までの疲れはどこへやら、少女は髪が枝に絡まるのも気にせず、林に飛び込んだ。

 先にたつ仔猫は、翼をはためかせ、自在に木々の間を飛ぶ。

 飛べないリアは、地上で濃い茂みに悪戦苦闘し、はっと耳を澄ませた。


「聞こえる……」


 昨日聞いた滝の音は、この場所の下にあたったが、今聞こえる水音は前方からかすかに響いてきている。


《リア!》


 九曜の声に頷いて、リアは両手で茂みをかきわけた。やわらかな手のひらが枝で傷つくのも構わずに、茂みを抜け出る。その先はまた茂みだ。

 リアは息もつかず、固い木の枝に手をかけた。九曜が空中を漂いながら、少しずつ先へゆく。

 深く繁茂する茂みが、短い間に迷路のように続く。

 だが、リアはその一つずつを抜けながら、確実に水音が近付いていることを感じていた。

 まるで全身が耳になったように、せせらぎの音だけを追いかける。

 ――と。

 突然、目の前が開けた。

 大小さまざまな石の転がる岩場――そして、細い小川の流れ。


「こんなところに川があったなんて……」


 茫然となるリアは、足元の石の上にぽつんと落ちる、一輪の野の花を見付けた。


――セージェの花……こんな高いところにも生えるのかしら……。


 ラッパ形の薄紫の花は、摘み取られて間があるのか、少し萎れている。

 不思議に思って、リアは小川を振り向き、眼を瞠った。


「あ……!」


 急なその流れに乗って、野の花が、ひとつふたつとこちらへ降りてくる。


〝おいで〟


 花たちは、そう言っているようだった。リアは、小川に沿って登りはじめた。

 上空からそれを見る九曜が、驚く。

 花たちは、リアを誘うように、ひとつ、またひとつと上流から流れてくる。

 茂みが深く、迷いやすい岩場で、それは巧妙なまでにリアの眼を捉えた。


――すごいな、まるで花が道案内をしているようだ。一体……?


 考えて、その先に眼を向け、九曜は気が付いた。


《リア! 泉だ!!》


 息を弾ませて、リアが岩場を登ってくる。こけに足を取られ何度も転ぶ少女は、服も顔も汚れ尽くしている。

 無造作に切り割られたごとく転がる大岩と、豊かな茂み。そして木々に囲まれたそこは、静かに少女を待っていた。


「あ……あったあ……っ!!」


 荒い呼吸の下で、リアが喜びの声をあげる。

 岩と岩の隙間から溢れ出る、清冽な泉。

 それは、手鏡ほどの池を作って、下流へ注いでいた。

 底の石が見える澄んだ池には、リアを案内した花たちが小さな輪になって浮かぶ。

 九曜はそれに何かを思い出しかけたが、分からなかった。


 朝の食事をはじめたのか、辺りの木立から、鳥たちの鳴き声が聞こえる。

 二人はしばらく黙ってその神聖な空気を味わっていたが、やがて、


《さ、リア。願い事をして》

「うん」


 頷いて、少女は泉の側に膝をついた。

 ゆっくりと手を水に浸す。途端、跡形もなく手のひらの傷が消え失せる。

 二人は顔を見合わせた。

 間違いない。これは伝説の[願いの泉]なのだ。

 リアは、両手で泉の水をすくった。

 清らかな水は、きらきらと朝日を反射して揺らめき、黄金をうちに秘めているようだ。


――きれい……。


 リアはうっとりと見つめ、口をつけた。ゆっくりと飲み下す。


――ああ……命が溶けていくみたい……。


 不思議な力に満たされ、リアは眼を閉じる。

 再び開けた瞳には、えもいわれぬ静寂が漂っていた。


「終わったよ、九曜」


 翼をたたみ、仔猫が足元にやってくる。


《願い事も、完璧だね?》

「うん。充分」


 頷いて、少女は輝くような笑顔をみせた。

 だが、すぐにいつもの悪戯っぽい表情に戻って、


「ね、九曜も飲んでみれば?」

《は?》

「美味しいよ、このお水。あたしなんか、顔も洗っちゃうもんね」


 湧き出る泉にすっぽり顔を浸す。勢いよく振って、顔を上げた。水しぶきが散る。


「あー、気持ちいい」

《神聖な泉なのに……》


 文句を言いつつ、九曜も、千年に一度しか現われないのなら妖魔でもなかなかお目にかかれないかも、と一口御相伴ごしょうばんに預かる。

 池にたまった水を舐め、


――あ、おいし。


 思わず夢中で飲んでしまう。ふいに、池に動く影に気が付いた。

 泉の起こす波に揺れる水面に、見覚えのある老人の顔が映っている。


――まさか……ディードリ爺さん……?


 ゆらゆらと揺れるその顔は、満足そうにこちらに笑いかけ、波間に消えた。

 九曜が慌てて顔を上げる。だが、緑の岩場には、物影一つ立っていなかった。

 眼の端で、漂っていた小さな花輪が小川の流れに乗り、ゆっくり動いていく。

 そして輪を解き放つと、清流と共に一気に大地へ駆け下った。

 九曜はかすかに微笑み、体を起こした。――と、誰かが背中を突く。


《わわわわ》


 平衡バランスを崩した妖魔は、情けなくも池の中へ転げ落ちた。

 頭からずぶぬれになる仔猫を見て、突き飛ばした張本人リアが笑い転げている。

 九曜は池の中から立ち上がると、天真爛漫な少女を、ぎらりと睨んだ。


《よくもやったなあ……覚悟しろ!》


 食らえ、とばかりにリアに飛びかかる。濡れた仔猫を避けようとして、リアがのけぞった。飛び抜けざま、その背後から九曜が後脚でとん、と蹴る。


「きゃあっ」


 妖魔の思惑どおり、少女は真っ正面から泉に突っ込んだ。わはは、と妖魔が笑う。


《やった、仕返し大成功!》

「く~よ~う~」


 リアは、びしょぬれの金髪の下から、悔しげに九曜を見上げた。


「やってくれたわねっ」

《悔しかったら、ここまでおいで♪》


 妖魔は秘密兵器の翼を出して、空中を逃げる。リアが追いかけた。


「ずるい、九曜」

《へへーんだ》


 二人は、他愛もなく泉の周りを走り、跳びはね、時に水しぶきを散らしながら遊びまわる。それは何の見栄やてらいもない、最高に自由なひとときだった。

 しばらくして遊び疲れた二人は、濡れた服と体を乾かすため、並んで朝日の零れる大地に寝そべった。

 リアが、うっすらと瞼を開ける。


「もう……行かなきゃ」


 九曜にはそれが、なぜか決別の宣言のように聞こえた。

 リアの茶色の眼が、青空を見据える。すこし大人びた顔で、少女は妖魔を振り向き、そして微笑んだ。


「帰ろうか、九曜」

《うん》


 二人は立ち上がると、[願いの泉]に手を振り、茂みをかきわけて、来た道を戻った。

 帰り道は、すぐに分かった。それでも、一泊した場所に戻って後ろを振り返った二人は、濃い茂みの向こうの泉に、もう二度と辿り着くことはできないだろうと思った。

 荷物を持ち、ネバホ山を下る。

 泉を探すのにあれだけ迷ったはずなのに、先人たちが作った登山道から、思ったより離れてはいない。

 下りながら道を捜し当て、二人は順調な帰途についた。

 下山する途中、九曜がリアに尋ねた。


《ねぇ、リア》

「なあに?」

《泉に、何を願い事したの?》


 リアは少し黙り、肩をすくめた。


「――よく分からないわ」

《は?》

「昨日までは、いろいろ考えてたのよ。結婚しないで済みますように、とか、お金持ちになれますように、とか……世界一の美女になりたい、とか」


 少女は慎重に足を運びながら、思い起こすように、考え考え言葉を紡ぐ。


「だけど、あの泉についた途端、そんなことはどうだってよくなって……ううん、きっとあの夕焼けを見た時から――ひょっとしたらもっと前から、あたし願い事なんていらなくなっていたんだわ……」


 なかば自分に言い聞かせるように言った。


「だって……願い事は、みんな叶ってしまったんだもの。泉に辿り着く、その前に」

《……》

「本当は、ギルモアが豊かになってこれから先もずっと……みんなが幸せでいられますように――ずっと九曜と一緒にいられますようにって頼もうと思ったんだけどね」


 照れ臭そうに笑って、少女は山道をふさぐ石を飛び越えた。


「だけど、だめになっちゃった。願い事、なんにもしなかったんだから」

《そんなことはないよ》


 リアは、九曜を顧みた。妖魔は静かに笑って、


《ギルモアはこれから先もっともっと豊かになるよ。この土地とロブ湖と……ネバホ山に眠るあの水があれば……きっとね》

「じゃあ、みんな幸せになれるのね」

《そうとも。僕を信じなさい》


 妖魔は断言した。寂しそうだったリアは、少し笑ってうつむき、そして顔を上げた。


「よし。麓の村まで競争だわ」

《は?》

「よーい、どん!」


 急な展開についていけない九曜を尻目に、掛け声をかけ、リアは元気に坂を駆け出した。


《一体、なんなのさ……》


 茫然と呟く。さっきまではあんなに神妙で大人びていたはずなのに、今はそんなことなど露ほども感じさせずに、子供のようにはしゃいでいる。


――人間の女の子って、みんなこうなのかな。それとも、リアだけが……?


 大人になったり子供になったり、泣いたり笑ったり。くるくる動く表情は、見ていて眩しいくらいだ。


――人間って、ほんと分かんない生きものだよ。


 思い、九曜はため息をついた。坂の下で、リアが手を振って呼びかける。


「九曜、早くーっ」


 長いまっすぐな髪が、太陽に煌めいて、まるで本物の黄金のようだ。

 九曜は微笑んだ。


《今、行くよ》


 そして、駆け出した。


   *


 ネバホ山の麓に辿り着いたときは、もう昼を過ぎていた。リアと九曜は、迷わずゼルダの家に立ち寄り、ひとときを共にした。

 ゼルダが、優しい丸顔に満面の笑みを湛えて二人を迎える。


「お嬢ちゃん、願い事は叶ったかねえ?」

「……はい!」


 リアは力強く頷いた。

 ヨハンは農作業に行っていて留守だったが、ヨアンナたち四人の子供たちは、家で母親の手伝いをしていた。もちろん、彼らの祖母も一緒である。

 お茶のわずかな時間に、リアは、ネバホ山であったことを残らず彼らに語る。それは到底語り尽くせぬ程であったけれど、ゼルダたちは眼を細めてそれに聞き入っていた。

 暖かな家で二時間余りを過ごし、リアと九曜は彼らに別れを告げた。


「またおいでよう」

「はい。お世話になりました」


 リアは手を振って、アウレリアの丘に向かう。ゼルダたちも手を振りながら、


「またねぇ、お嬢ちゃん。猫ちゃんもねぇ……!」


 それを聞いて顔をしかめた九曜は、だが、尻尾をぱたり、と振って文句を言うのをやめた。


《またね、か……。ま、許してやるか》

「あら、九曜。今日は寛大なのね」


 九曜の呟きを聞き付けて、リアが意地悪く言う。仔猫は照れを隠すように、


《まあ、ね。ひょっとしたら、[願いの泉]の水を飲んだせいかもね》

「へえ。じゃあ、[願いの泉]の水をずっと飲ませれば、寛大なままでいるのね?」

《どうやってずっと飲ませる気さ?》


 リアがにっこりと笑った。


「あら。あたし、あの泉の水を持って帰ったのよ」


 眼を剥く九曜の鼻先に、ゼルダの水筒が突き付けられる。ちゃぽん、と中から、なみなみと満たされた水音が聞こえた。

 九曜は頭を抱えた。


《それで、山を下りる時に水筒を使わなかったの? まったく、一体いつのまに……》

「あなたが水を飲んでいるときよ。この水に不思議な力があるのなら、後で何かの役に立つかと思って」


 悪びれた様子もなく言う少女を、妖魔は呆れ果てて眺めた。その非難の眼差しに、リアはいささか気を悪くする。


「いいじゃない。ゼルダにも水筒をちょうだいって頼んだら、いいよって言ってくれたし、もう願い事はしてしまったんだし……本当はしてないんだけど」


――まったく、人間の女の子ってやつは……!


 九曜は苦虫を潰したような顔で、少女を叱りつけた。


《持って帰ってきちゃだめでしょう! あれはあそこにあるべきものなの!》

「どうしてよ。たとえ魔法の力がなくても充分においしい水だったし、それに……どうしても何かの記念が欲しかったんだもの……」


 しゅんとなる少女に、九曜も少し態度を和らげる。


《人間には分からない、禁域ってものが自然には存在するの。それは僕に渡して。戻してきてあげるから》


 水筒を両手に持ち、リアは妖魔を見た。そして、思いっきりあっかんべーをする。


「い・や・よーっ。取りたければ、取ってごらん!」


 一気に丘へ駆け下った。九曜は一瞬絶句して、


《こらぁっ。待てぇっ……!》


 血相を変えてリアを追いかける。

 村の入り口を越え、二人の競争はアウレリアの丘までもつれ込んだ。


「きゃっ……」


 リアが、草に足を絡め取られて転ぶ。その上から、


《わわわわ》


 勢いの止まらない九曜が突っ込んだ。二人が大地に倒れこむ。そして、爆笑した。

 笑いながら、


《ほら、返して》

「いやぁよ」


 リアは、同じく地面に転がってしまった水筒に手を伸ばしかけ、気が付いた。

 青い、まだみずみずしい若い麦の穂。

 いつからだろう。それは、まだこの丘が麦に埋め尽くされていた頃にこぼれた、一粒の子孫なのだろうか。

 たった一本の麦は、ばらばらに伸びた草や石の大地の中で、かぼそく震えながら立っていた。


――ああ……黄金の大地が見えるわ……。


 リアは、まだ青い麦の穂の向こうに、果てしなく広がる金色の豊穣の海原うなばらを見た。

 いつの日か、それは現実となって彼女の目の前に広がるだろう。


――そのときあたしは、何をしているのだろう。


 未来は、この丘のように茫漠ぼうばくとしている。だが、その中にはきっと自分だけの黄金が眠っているはずだ。


――歩こう……前へ。


 微笑む少女の隣で、妖魔は、その聴覚に大勢の人間の気配を捉えていた。


――[白の館]の兵士たちか……。


 もはやその音は、現実に映像となって丘の向こうに見えている。

 仔猫は、少女の服の裾をひっぱった。


《リア》


 振り向いた少女は、遠目にも分かる兵士たちに、無言で蒼褪める。

 だが今度は、逃げなかった。代わりに、ゆっくりと水筒を掴んで立ち上がると、その中身を青空へ向けて勢いよく撒き散らした。

 [願いの泉]の水が、一滴残らず、きらきらと輝く光の雫となって大地に降り注ぐ。


「これで魔法は……終わりよ」


 リアは呟いた。大地に吸い込まれる雫を見つめたまま、


「送って、九曜。[白の館]の近くまで」

《わかった》


 リアは、黙って仔猫の体に腕を回した。

 足元が消失し、大きな眩暈(めまい)。その次の瞬間には、リアは見慣れた木立の中にいた。

 木々の隙間から、懐かしい[白の館]が見える。

 一瞬、胸が締め付けられる。

 それは、とても矛盾した感情だった。帰りたくてたまらなかった自分と、帰りたくなくてたまらない自分。どちらも真実だった。

 リアは、九曜をもう一度固く腕に抱いた。


「……九曜。あたしたち、一緒にいられないの?」

《だめだよ、リア。僕たちは、いるべき世界が違うんだ。僕は記憶を取り戻すための旅へ、君はあの[白の館]へ――》


 リアの眼から、一粒の涙が零れた。仔猫はそれを頬の毛で拭い、


《泣かないで、お姫さま。君には、涙はふさわしくないよ》

「知ってたの……?」

《分からなきゃ、妖魔失格だよ》


 冗談めかした九曜の言葉に、リアがわずかに微笑む。


「今までいろいろありがとう、九曜」

《ほんと、いろいろだね。だけど、楽しかったよ》

「あたしも」


 リアは頷き、潤んだ眼で仔猫の瞳を覗き込んだ。


「また、逢える……?」

《さあ? 僕は人間が嫌いだし、可能性を考えるなんて楽観的なことはしたくないけど――たぶん、ね》


 やっとリアが笑顔になった。


「ねぇ、九曜。あたしたちずっと友達よね?」

《君がそう望むかぎり……ずっと》


 リアは、名残を惜しむように九曜を抱きしめると、土埃を払って、立ち上がる。


「じゃあね、九曜。ありがとう……!」


 笑顔で告げ、リアは[白の館]へ向かって走り出した。


《転ばないように気をつけて!》


 九曜が、その背中に呼びかけた。

 少女が走りながら、背を向けたまま大きく片手を振る。そして、そのまま小さな後ろ姿は、[白の館]の中に消えていった。

 少女の姿が門に飲み込まれたのと前後して、館から大きなどよめきが起こる。喜び、驚き――無事を感謝する祈りと涙。そして、父母との対面。


『父さま、母さま……ただいま!』

『おお……アウレリア。よく無事で……!』

『心配かけてごめんなさい』

『いいのよ。あなたがこうして無事に帰ってきてくれたのだから……』


 リアはやつれた父母に抱かれ、抱きしめ返して涙ぐんだ。そっと外を振り向き、囁く。


『――またね、九曜』


 優れた五感と魔力で[白の館]の様子を探っていた妖魔が、かすかに笑った。


《またね……リア》


 聞こえるはずのない呼びかけ。

 それは、ひとひらの雪のようにはかなく、黄金の陽射しに溶けていった。




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