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 太陽が天頂に差しかかる頃、王女の捜索に慌ただしい[白の館]で、新たな事件が起こった。部下から報告を受けた兵隊長が、蒼白な顔で王に告げる。


「先程、アウレリアの丘で兵士三名の死体を発見いたしました」


 悔しげに唇を震わせ、続けた。


「何分人気ひとけがなく目撃者もおりませんが、()(ぞく)どもの仕業かと思われます」

「むう……」


 蒼褪めたアル・シール国王の眼に、悲痛な光が宿る。


「兵士たちは、そのような場所まで捜索しておったのか?」

「は。何分手がかりも薄く――」


 言い差して、隊長は少しためらった。


「何だ、申してみよ」

「はい。わたくしの一存で申し上げることでございますが、彼らは何か姫に関します手がかりを掴んでいたように思われます」

「なに?」

「そうでなくては、あのように何もない土地で捜索するはずがございません」


 アウレリアの丘は不毛の土地となって以来、ほとんど住む人もない。

 また、荒野ゆえに泊まる場所も隠れる場所なく、水や食物もなかった。

 そんなところで行方不明の王女を捜すだろうか。捜すとすれば、何らかの情報を手に入れたときだけであろう。

 アル・シールの顔に、さらなる苦渋が宿った。


「ならば……姫も鼠賊に……?」

「分かりませぬ。ですが、捜索範囲をアウレリアの丘に絞ってみたく存じます」

「頼む」


 兵士が下がる。それと入れ代わりに、やつれ、変わり果てた王妃が蹌踉そうろうと現われた。

 王が呻くように告げた。


「……兵が死んだ。三名もだ」


 王妃は固く眼を閉じた。


「先刻、館の周りで死人があったばかりだというのに……」

「今、アウレリアの丘を捜索してくれている。どうやら……賊が絡んでいるらしい」


 王妃が必死に悲鳴を殺す。

 王は、金色の髭をたくわえた顎に拳をあて、沈鬱に言った。


「ウージュラン国との婚儀は、三日後に延ばしていただいた。だが、これ以上は――」

「陛下」


 王妃の眼が、怒りに満ちる。


「元はといえばこの婚儀がいけないのです。あなたはあの子の父親でしょう? アウレリアが嫌がるのを分かっていて、あなたは……あなたは……!」


 叫んで、夫の胸に拳を叩きつける。泣きながら、


「何故やめると一言言って下さらないのです! あなたは国王でしょう……!!」


 王は黙って妻の手を取ると、ゆっくりと抱き締めた。リリアヌが泣き崩れる。


 ギルモアが王政を守る以上、易々と帝都の力は借りられない。だが、この国が[大災厄(クライシス)]から立ち直るには、早急にまとまった大きな金が必要であった。

 幸いウージュラン国は肥沃で、十数の国が集うキリキア地方での権力を強めたがっている。今ここで婚姻によって金を手に入れられなければ、この国は飢え、確実に他国に蹂躙されるだろう。それだけは避けなければならない。


「分かって……分かっているのです。だけど……だけど、どうしても……!!」

「わたしを許してくれ。娘の幸福よりも民の命を選んでしまった、わたしを……」


 王の眼から、涙が零れる。

 その一雫は、まぎれもなく父親の愛情に滲んでいた。


   *


 物陰から一部始終を見ていたディーンは、身震いをひとつすると、茂みから躍り出た。

 しばし、言葉もなく辺りを見渡す。

 傍らの木の枝から凍りついた葉をひとつ取り、指で軽く押し曲げた。

 硝子(ガラス)が砕けるに似た音をたて、木の葉が粉々になる。


「はぁ~。すげえよなあ、あいつは」


 少年は感嘆し、地面に座り込む白髪の男を放って、周りに転がる男たちの様子をみた。


「うーん、さすが」


 山賊たちは、いずれも死んでいなかった。動けないよう、二、三の傷を負わされているのみである。

 だが、初めて見る妖魔の迫力が強烈すぎたのか、全員心神喪失状態で、またその傷も凍傷にかかっているため、二度と元の生活には戻れないだろうとディーンは思った。

 簡単に、二十名近い全員の手当てをし終え、ディーンは白髪の男を振り返る。

 男は、未だぽかんと口を開け、天を仰いだまま放心していた。

 少年は、深い息をついた。


 九曜をここまで怒らせてしまった男――。

 彼は禁断の領域に足を踏み入れ、すべてを喪ってしまった。

 そう、あのときの蒼い光。

 あれは、この男の魂を凍りつかせ、粉々に砕いてしまったのだ――木の葉のように。

 ディーンは苦い面持ちで、腰布サッシュを取り、腕のなくなったイスファの右肩を縛った。


――九曜……。


 ディーンは、あれほどまでに怒った九曜を見たことがなかった。

 常に冷静で、軽口を叩きつつ飄々ひょうひょうと敵を片付ける――そんな相棒の印象をがらりと変えるほど、その怒りは凄まじかった。

 それは、人間嫌いも理由のひとつだったのかもしれないが、ディーンはそれだけには思えなかった。

 少女を巻き込むのを恐れ、ためらっていた九曜。

 初めて眼にした妖魔の動揺に、ディーンは、そこはかとなく寂しさを覚える。


 もう、相棒と呼べないのかもしれない。

 ディーンは無言で、地面に突き立った棒手裏剣を抜き、革の腕輪に収めた。

 ふいに大勢の人の気配がした。

 振り向くとそこには、黒髪の大きな男が、男たちを従えて立っている。

 よく響く低声が尋ねた。


「ジジによく似ているが……おまえは何者だ?」


 ディーンは、外套の頭巾フードの下からその巨漢を見た。

 赤い頭布シェシと反り身の長刀。自信に満ちた態度は、ある種の支配者であることを窺わせる。

 彼の背後で、手下らしい男たちが、九曜にやられた男たちを収容している。

 ディーンは、外套を取った。

 正気を取り戻したらしい、怪我をした男の一人が叫ぶ。


「あ……スカーリ様、こいつです! こいつが昨日化け物と一緒にイスファ様を……!」

「……ふむ。ナスル、下がっていろ」


 スカーリと呼ばれた大男は、そう命じ、ディーンの前に立ちはだかった。


「小僧。おまえは白い化け物の仲間か?」

「ああ。もっとも、俺は小僧じゃなくてディーン。あいつは化け物じゃなくて妖魔だけどな」


 伝説の魔性の名に、山賊たちがどよめいた。だがスカーリは一人動じず、問い重ねる。


「どっちだって構わん。そいつが俺の弟をあんなふうにしたのだな……?」


 白髪の男を見やる黒い眼に、炎のような怒りが宿った。


「ああ」

「昨日弟に傷を負わせたのはどっちだ?」

「俺だ」


 ディーンは平然と答えた。

 ぎらり、とスカーリが少年を睨む。


――眼光だけで人を殺せそうだな、この男は……。


 ディーンは妙に感心して、山賊の首領らしき男を眺めた。人を殺せそうな視線を受け流しつつ、口を開く。


「こっちも質問いいかな?」

「――何だ?」

「あんたは、こいつらの()()か?」


 何を、という顔で、スカーリは髭面を歪めた。


「そうだ。それがどうした」


 ディーンはつとめて抑揚を押さえ、怒りをこめて尋ねた。


「こいつらは今日、[白の館]の兵士を四人殺している。あんたの差し金か?」


 先程の争いを知らぬらしい、新たに訪れた男たちの顔色が変わった。


「いいか、小僧。俺たち[赤い風]党は人殺しをせん。その辺の鼠賊どもと俺たちを一緒にするな。そんなのは下道がすることだ!」

「本当だろうな。だったら、こいつらの独断か?」

「口をつつし慎め、小僧……!」


 スカーリが、ディーンの胸ぐらを掴み上げた。


「弟を侮辱すると許さんぞ!」

「やっぱり、あんたの差し金じゃねえの? 血の気多そうだもんな、あんた」


 ディーンは薄く笑い、服を掴む強靭な男の拳をちらりと見た。

 参謀らしい小柄な男が、慌てたように呼びかける。


「御頭、お気を沈めて――」

「……むう」


 低く唸り、スカーリが手を放した。

 表にこそ出さなかったが、かなり喉を締め上げられていたディーンは、横を向いて咳き込み、こっそり深呼吸をする。


「小僧。そこまで言うからには、証拠があるんだろうな?」

「ああ」


 咳払いをして、ディーンは背後の茂みを親指で差す。


「あの辺りに、斬りたての兵士の腕が転がってるよ」

「――捜せ」


 その一声で、数人が散開した。他の者は仲間の手当てを済ませ、じっと茂みに屈んで次の命令を待っている。

 鉄の規律があるのだろうが、それでもこの荒くれどもを治めるには、よほどの人柄でなくてはならない。

 やがて一人が声を上げ、片手に戦利品を掲げてやってきた。


「ございました、御頭!」

「見せろ」


 スカーリはそれを奪い取ると、食い入るように見る。


「……む」


 太い眉が、厳しい皺を刻んだ。先程の小男に手渡す。


「アブドゥル」

「――へい。間違いございません。[白の館]の兵士のものです」


 参謀役の男が頷き、深いため息を洩らした。

 その背後では、イスファの動向を御頭に報告したカシムが、蒼褪めて成り行きを見守っていた。


 スカーリは、血の気の多い弟に眉を顰めてはいたものの、つい数時間前まで彼の()(こう)を疑ってもみなかった。そこが、情愛の深い彼の盲点である。

 ところが、弟の警護につけたはずのカシムによって、彼らの裏切りが明らかになった。

 イスファは、御頭に相談もなく勝手に手下を使い、王女の誘拐を企てたのだ。それを止め、弟たちを罰しようとここへ来たスカーリは、すべてが遅かったことを知った。

 ディーンが尋ねる。


「なあ、あんた。あんたも弟の様子が変だから、こうして来たんだろ?」

「……」

「なのに、なんであいつを庇うんだよ?」

「……イスファは、俺の弟だ」


 押し殺した声に、苦悩が滲む。


「おまえの言うとおり、俺はイスファの裏切りを知っていた。だが……信じたくはなかった。この世でただ一人の弟だ。この手で処罰はしたくない」

「処罰?」

「人を殺さない。貧しい者から奪わない。女子供に手を出さない――[赤い風]党の規律だ。それを破った者は、俺が殺す」

「――馬鹿馬鹿しいな」


 ディーンの一言に、山賊たちの眼の色が変わった。

 だがディーンは、茶化すのではなく、むしろ激しい怒りをこめて言った。


「山賊に規律もなにもあるものか。自分たちを正当化したい、ただの言い訳さ」

「貴様に何が分かる! 人の物を奪う生活に落ちざるをえなかった俺たちの、貴様はいったい何を知っているというのだ?」

「知らないさ。だけど、地獄なら知っている」


 簡単に言い切る少年は、スカーリの年令の半分にもなっていないはずだ。

 それでも翳りを含んだ瞳は、紛れもなく自分たちと同じ傷痕を抱いている。

 スカーリは、一瞬怒りを忘れて、この少年を見つめた。


――こいつ……何者だ。俺たちを恐がりも卑しみもしないとは……。


 ディーンは不可思議な双眸を彼らに向け、なおも続けた。


「人の物を盗るということは、人を信用できないのと同じだ。人を信用できない者は、人から信じられることもない。そして、人を信じないで生きる世界は地獄だ。――這い上がれ、地獄から。あんたたちなら出来る」


 イスファを抱き上げると、肩に(かつ)いだ。


「この男は人殺しだ。警察に連れていく」


 言い置き、きびすを返す。山賊たちは、むしろ茫然とそれを見送った。


「――待て!」


 スカーリが呼び止めた。


「弟を渡してくれないか」


 ディーンが無言で振り返る。

 スカーリは、先程の怒りが嘘のように真摯な態度で、少年に頼んだ。


「弟を俺に返してくれ――頼む」

「返してどうする?」

「どのみちまともな生活はできん。俺が世話をする」

「こいつに殺された者はどうなる? 残された人たちは?」


 スカーリは、傷を負い、後ろに控える裏切り者たちを一瞥した。


「――どんな手段を使っても手を下した者たちを見つけ、おおやけの裁きを受けさせる」


 重々しい声で、断言する。


「この[赤雷]のスカーリの命を賭けよう」

私刑(リンチ)は、なしだぞ?」

「分かっている」


 束の間彼を見つめ、ディーンは白髪の男を肩から下ろした。


「三日だ。その間、この男は死んでいる。それ以降は……あんた次第だ」

「承知した」


 頷いて、スカーリは変わり果てた弟を両腕に抱き締めた。わずかに、眼が潤む。

 すぐさま手下が走り出て、イスファの身柄を受け取った。

 ディーンは、外套を肩に引っかけると、再び山賊たちに背を向けた。

 アブドゥルが、スカーリに囁く。


「御頭、このままあの男を帰しては――」

「構うな! 行かせてやれ」


 スカーリは言下に命じた。かすかな苦笑が頬をよぎる。


「この俺に説教するとは、いい度胸だぜ、あの小僧……」


 呟き、去っていく少年の後ろ姿を見つめた。


 かつては自分たちも希望を抱いたことがある。それに傾けた情熱は今や別なものに転じ、弟イスファは生けるしかばねとなる未来を選択してしまった。

 自分たちの未来に、まだ選択は残されているだろうか。

 スカーリは、少年に大声で呼びかけた。


「おい、小僧!」


 ディーンが振り返る。


「なぜ弟たちを助けた? おまえらの命を狙った奴らを、なぜ手当てまでして助けたのだ?」


 その問いに、少年は軽く肩をすくめる。


「簡単な理由さ。俺は……人殺しが嫌いなんだよ」


 激情を宿す山賊の瞳が、しばし彼を凝視した。


「小僧。たしか、ディーンといったな」


 ふ、と黒い眼が和む。親指を立て、スカーリは微笑と共に告げた。


「おまえ、いい山賊になれるぜ……!」


 ディーンが破顔した。

 その笑顔は今日の青天のごとく、すがすがしく晴れやかだった。


「あんたも大したものさ、御頭」


 片手を上げ、ディーンは木立の中へ去っていく。

 かすかな木々のさざめきを残し、やがて少年の姿は、男たちの視界から消えた。


   *


 悪夢を追い払うように固く眼を閉じていたリアの頬に、ちり、と灼けつく感覚があった。そしてすぐに生暖かく湿った、ざらざらしたものに変わる。

 やわらかな肌にそれは少し痛く、くすぐったい。


「ん……」


 リアは眼を開けた。


《良かった……。やっと目を覚ました》


 安心したように言ったのは、毛足の長い仔猫だった。


「九曜……」

《大丈夫、リア?》


 リアは現実か確かめるように、仔猫に触れた。恐る恐る、尋ねる。


「ねえ、あの怖い人たちは……?」

《もう平気さ。どこかに行っちゃったよ》


 リアは、辺りを見回した。先程までいた木立の中とは違い、深い木々に囲まれた、岩肌の露出する草叢くさむらだった。右手には、登山道らしき土の道が見える。

 リアは、眼を閉じるまでの出来事を思い出して、身震いをした。


「九曜、あの人たち……殺し……ちゃったの?」

《ううん。全員生きてるよ。どうにか、ね》


 九曜の返事に、リアは深い息をついた。

 気がゆるんだのか、両目から涙が零れる。


《リア、どうかした?》


 心配そうに顔を覗く仔猫を両腕に抱き締めると、リアは泣きだした。


「怖かった……とっても怖かったの……」

《う……うん》


 息ができなくなった仔猫は、リアの腕の中から首を出す。


「あたし、もういや……! 家に帰りたい……!!」


 泣きじゃくり、リアは一層強く、九曜を抱く手に力を込めた。


――ぐえぇ。


 今度は喉を絞められ、仔猫が舌を出す。

 仕方なくリアの腕の中からもぞもぞと抜け出し、九曜は隣に座った。少女を見上げ、


《帰りたければ、帰ればいいさ、リア》

「――」

《ネバホ山に登ると決めたのは君だ。だから、それを途中で投げ出そうがやり抜こうが、君の勝手だ。僕は止めないよ。ただ――》


 神秘的な虹色の瞳が、不思議な落ち着きを湛えている。


《ただ、ここで帰れば[願いの泉]に願をかけることもできないし、家出して両親に心配をかけたことも、ゼルダたちの励ましも全部ムダになる。それだけのことさ。それでいいんだね?》


 リアは涙目で九曜を睨んだ。


「ひどい、九曜。あなたは違うと思ったのに。あなたも父さまたちと一緒ね。あたしここまで頑張ったわ。あたしにこれ以上、どうしろっていうのよ。ひどいわ……!」

《え、と……》


 九曜が言葉に詰まる。

 リアは乱暴に頬をこすると、泣き顔のまま荷物を持って立ち上がった。


「いいわ、行けばいいんでしょ。行くわよ。行ってあげるわよ!」


 一緒に行こうとする九曜を睨み、


「ついて来ないで! 九曜なんか、大嫌い!」


 怒鳴ると、歩き方も乱暴に山道を登りはじめた。


――むっかぁ。何だよ、あの態度。


 九曜は腹を立てながらも、足はリアの後についていってしまう。

 先をゆくリアが振り返った。

 九曜が立ち止まる。


《?》


 リアは、思いっきり顔を顰めると、舌を出した。


「いーだ!」


 ふん、とそっぽを向いて、駆け足で山道を進んでいく。

 一瞬絶句した九曜は、慌ててそれを追いかけた。


――何だよ何だよ何だよ。僕は妖魔だぞ。なんであんな騒がしい人間の女の子なんかに振り回されなきゃならないのさ。


 いっそのことリアの記憶を消して、ここからいなくなろうか――。

 そこまで考えて、九曜はさらに不機嫌になった。

 それが逃げるという言葉のせいなのか、リアの記憶から自分が消えるという、決してありえなくはない可能性のせいなのかは、分からない。


――僕は……。


 考え込んだ九曜は、ふと道の途中で、リアが立ち止まっているのを見た。

 彼女の前方には、フフ・ネバホ村で会った、あの奇妙な老人が立っていた。

 リアは怯えに足をすくませ、老人を見つめた。

 [大災厄(クライシス)]以来痴呆(ちほう)となったディードリ爺さんが、なにやら呻いて、手を伸ばした。

 怖い人ではない、と言ったゼルダの言葉を思い出し、リアは無理に笑顔を作る。


「……こんにちわ」


 震える声で言い、リアは、できるだけ道の端に寄って横這いに進んだ。


「いい天気ね。ほんと、晴れてよかったわ」


 言いながら、自分が何をしゃべっているか分からなくなる。

 ふいに、爺さんが近付いてきた。枯れ枝のような手で、リアの右腕を掴む。


「いやああっ」


 悲鳴を聞きつけ、翼をはためかせて仔猫がやってきた。爺さんの胸を軽く蹴飛ばし、少女を背後にかばう。

 ディードリ爺さんは、あっけなく道にころん、と寝転んだ。

 それでも仰向けになったまま、じっとリアの腕を見つめ、手をのばしてくる。

 その視線に、九曜は気が付いた。


《リア。あのお爺さん、その腕輪を欲しがっているんじゃないのかな?》

「え?」


 言われて、リアは自分の右腕を見た。少し散ってしまったが、そこにはフフ・ネバホ村の少女たちがくれた野の花の輪が飾られていた。


「だめよ。これはみんながくれたものだもの。あなたにはあげられないわ」

「……あー」


 リアの言葉が分かったのか分からないのか、爺さんは空中に手を伸ばしたまま固まっている。


《いいじゃない、あげれば?》

「どうしてよ? これはヨアンナたちがあたしにくれた物なのよ」

《たかが花輪じゃない。それに、もらったのはそれだけじゃないでしょ》


 リアは、スカートのポケットに入れた小さな人形に手を触れた。


「だけど、これはこれで大切なの!」


 怒ったように言い、再び歩きだす。

 その途端、ぐきゅるるる、と誰かの腹の虫が鳴った。リアが、ディードリ爺さんを振り返る。すると今度は、リアのお腹が鳴った。九曜が吹き出す。

 リアは真っ赤になって、空中の仔猫の尻尾を引っ張った。


「笑わないでよ!」


 ディードリ爺さんは、お腹を鳴らしたまま手を伸ばし、まだ地面に寝転がっている。

 その腕に、つい、と小鳥が飛んで止まった。

 爺さんは動かない。うっすら笑って、小鳥を見ている。

 二羽、三羽と鳥の数が増えてきた。


「わあ……すごい」


 リアは感嘆した。そして、ゼルダの言葉を思い出す。


『動物に好かれるってことは、()()が温かいのさあ』


 リアはわずかにためらい、やがて思い切ったようにディードリ爺さんに近寄った。少し屈んで、片手を差し伸べる。


「あの、一緒にお食事しませんか? お弁当ひとつしかないんだけど」


 爺さんのしわしわの顔が、笑った。

 翼を収めた九曜もやってきて、少女を見上げる。


《ね、僕もいい?》

「――いいわよ」


 そう言ってリアは、ようやく久しぶりの笑顔をみせた。

 登山道の脇に大きな木蔭を見つけ、三人は並んでその下の岩に腰かける。

 弁当は、例のかちこちのパンに、野菜と乾酪(チーズ)を挟んだもの。そしてリアが近くの川から汲んできた、新鮮な水。


「いただきまーす」


 ちょうど三つあったサンドイッチをひとつずつ分け、三人は仲良く食事をはじめた。

 リアが大きな口を開け、サンドイッチにかぶりつく。


「ん。おいし」

《ほんと》


 口を舐め、九曜が言った。彼は地面に置いた食事を前足で押さえ、少しずつかじっている。

 リアの隣では、ディードリ爺さんが、ぽろぽろとパン屑をこぼしながら食べていた。

 それを見て、くす、とリアは笑う。


――なんだ。ぜんぜん怖い人じゃないじゃない。


 目の前には、眼の眩むような昼の青空が広がり、山の緑に映えている。


「もうこんな時間だったのね。……いい気持ち」


 ぼんやり呟く。こんなにのんびりした気分になるのは、いつぶりのことだろうか。

 乾いた羽音をたてて、ディードリ爺さんの肩に青い小鳥が止まる。

 小鳥は首を傾げつつ、跳びはねて、爺さんの腕にやってきた。


「……あ」


 小鳥が、爺さんのパンをつつく。爺さんは気にせずに食べている。

 リアは追い払おうとしたが、自分の足元にも鳥がやってきているのを見て、動きを止めた。

 その間にも鳥たちは次々にやってきて、散らばっているパン屑をついばみはじめる。

 攻撃をしない人間たちに、やがて鳥も大胆になった。

 リアたちの頭や肩、果ては膝に乗り、傍らから直接御飯を頂く。


「ぷ……くく、くすぐったい」


 リアは鳥を脅かさないよう、必死にこらえた。

 九曜の頭にも、一羽の鳥がとまる。彼が固まったその隙に、他の鳥がパンの上に陣取り、御馳走を頂戴してしまった。


《あ……》


 リアが声を忍ばせて笑う。

 爺さんは相変わらず、焦点の定まらぬ目付きでサンドイッチをかじっている。

 そのうちに、三人は鳥で埋め尽くされてしまった。

 いったい山のどこにいたものか、大きいものや小さいもの、茶や黒、灰色といった地味なものから赤や黄、鮮やかな緑まで様々な種類の鳥たちがにぎ賑わった。

 ピュルピュル、チチ、と雑多な鳴き声が入り交じる。

 それは、かつてないほど賑やかな昼の食事風景だった。


「――ああ、楽しかった」


 食事が終わって鳥たちも去り、リアは空に向かって伸びをした。

 自由を取り戻した九曜も体を振るう。自分の毛並みの輝きに満足して、少女を見上げた。

 ぷっと吹き出す。


《リア、髪に鳥のふんがついてるよ》

「やーん、どこぉ?」


 リアが慌てて、金色の頭を振った。


《あ、落ちた落ちた》


 荷物から手鏡と櫛を取り出し、リアは、身だしなみを整えた。


「九曜。前から思っていたけど、あなた、女の子に対する口のきき方がなってないわよ?」

《は?》

「もう少し、女の子には丁寧に言うものよ。そうじゃなきゃあ――」


 ぱちん、と手鏡を閉じ、仔猫の鼻先に突き付ける。


「女の子に嫌われるわよ」

《そんなディーンみたいなこと、気にするもんか》


 九曜は顔を顰めた。


《人間と違って異性にもてる必要なんて、僕にはないもの》

「どうして?」

《妖魔は各個体そのものが、その唯一の生き物だから》


 リアは眉をひそめた。


「よく分からないわ」

《繁殖できないんだよ、僕たちは。つまり、結婚して子供を作ることが出来ないの。当然家族なんていう煩わしいものもないってわけ。双子を除いてはね》

「じゃあ……九曜には、お父さんもお母さんもいないの?」

《当然でしょ》

「じゃあ、どうやって産まれたのよ?」

《知らない》


 あっさりと九曜は言った。


《僕たちは、ほとんど不死に近いからね。新しく妖魔が産まれないかぎり産まれ方なんて分からないよ。僕は過去の記憶を失っているし……》


 凄まじい魔力をもつ妖魔は、無邪気に微笑んだ。


《死に方は分かってるけどね》

「どう……なるの?」

《本体の死と同時に、死滅した細胞はすぐに元素段階まで分解される。後には何も残らない》

「何も……?」

《そう、きれいさっぱり》


 リアが、少し蒼褪めている。九曜は、こんな話をして恐がらせてしまったかと思ったが、少女は彼を両腕に抱き締めた。


「――九曜、寂しくない?」


 全然、と答えようとして、仔猫は思いとどまった。リアの声が潤んでいる。

 妖魔は、少女の子供らしい同情に苦笑し、そして何とも言えぬあたたかさを味わった。


《平気だよ。生きている間、いろんな人たちと巡り逢えるからね》


 リアは顔を上げた。仔猫が笑う。


《鳥の糞を頭に乗せたまま食事する女の子とか、ね》

「……嫌ぁね」


 リアは笑い、もう一度九曜を抱き締めると、涙を拭いて立ち上がった。

 もう、太陽は天頂を過ぎている。

 ディードリ爺さんは、二羽の小鳥を肩に乗せ、まだ岩に座っていた。

 その大きな澄んだ双眸は、山並みを見ているようでもあり、ここではないどこか別の場所を眺めているようでもある。

 リアは、ゼルダから借りた水筒に水を汲み、荷物を背負った。


「お爺ちゃん、あたしそろそろ行くね」


 声をかけたが、爺さんは動かない。その虚ろな眼もまた、少女を見ていなかった。

 リアはため息をついた。


「お食事、楽しかったわ。また逢いましょうね」


 自分の手首から少し萎れた花輪を取り、痩せた老人の手首に通す。爺さんの手を軽く握って、


「じゃ、元気で」


 リアは九曜をうながして、山道を登りはじめた。

 登りながら、九曜が話しかける。


《ねえ、リア。あのお爺さん、リアの言うこと分かってたのかな?》


 リアは肩をすくめた。


「分からないわ。あなた、妖魔なんでしょ。どうなのよ?」

《それがよく分からないから聞いてるんじゃないか》


 二人は、後ろを振り返った。

 その途端、二人の眼が大円だいえんになる。

 道の真ん中で、ディードリ爺さんが、両肩に鳥を乗せたまま立っていた。

 水のように澄んだ眼をした老人は、花輪をつけた手を掲げ、ゆっくりと左右に振る。

 そして、鳥たちと共に山道を降りていった。

 チチッと鳴いて、青空を鳥の影が翔けぬける。

 二人は顔を見合わせると、笑いはじめた。


「うふ……ふふふ」

《あははは》


 深緑の山頂は、まだ遠く青空に立って、彼らを待ち受けている。

 二人は、笑いながら長い山道を走りだした。




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