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「へーくしょんっっ!!」
大きなくしゃみをひとつして、ディーンは鼻をこすった。
「やれやれ、風邪をひいちまったかな」
ぼやきつつ、彼はロブ湖の畔を通り、朝靄のたつナバルの市街へ入る。
昨日の午後からいなくなった相棒は、今朝になってもまだ帰ってこない。
少し前から様子が変だったこともあり、ディーンは街中を探し回ったが、なんといっても相手は妖魔だ。空間移動というものがあるし、少年の気配を察して姿を消すなどというのは、彼にとって造作もないことだった。
――まったく、どこに消えちまったんだか……。
もしかして、という想いを頼りに昨晩遅く宿屋に帰ってみたが、戻った様子はなく、ディーンはほとんどまんじりともせずに朝を迎えた。
またひとつくしゃみをして、ディーンは外套をもった手で、陽射し避けの頭布を深く引き下げる。
九曜は、見かけはかわいらしいが、けしてひ弱なわけではない。
ひ弱どころか、人間を脅かす恐るべき妖魔の一人だ。
ディーンは、以前彼と戦ったこともあり、その実力の程は痛いほど分かっているつもりである。
それなのにこうして探してしまうのは、仲間となったときの心強さに慣れてしまったからだろうか。それとも、彼の魔力の便利さを必要としているからなのだろうか。
――……どっちでもねぇ。
九曜がいなくなって思い出すのは、自分を叱り、からかい励ました、旅の仲間としての彼の姿だった。
九曜が自分の意志で出ていった以上、ディーンに連れ戻す権利はない。
それでも、ディーンは探さずにはいられなかった。
探して、そこからどうなるか。
――そんなことは知ったことじゃない。要はあいつが……。
ディーンは、薄茶色の家並みに昇りゆく真っ白な太陽を見上げた。
「あいつが幸せなら、何だっていいのさ」
苦くつぶやく。
そのとき、眼の端を幾つかの影が走った。
我に返ったディーンは、九曜を探しながら歩いていた自分が、いつのまにか市街の片隅にある林にさしかかっていることに気が付いた。
かすかに木の葉を踏む音が聞こえ、影たちが慌ただしくどこかへ去る。
――確かここはギルモア国王の屋敷がある辺り……。
そんなところに突然出現した怪しげな人影に、ディーンは不審なものを覚えた。外套を羽織り、跡をつける。
二つの人影は、[白の館]をわずかに見下ろす木立の中へ入っていった。
そこには、他に数人の人間がいた。
彼らはいずれも農夫のような格好をした男だが、刃物を携え、身振りもどこか人目を忍んでいる。
――賊か……。
察しをつけ、ディーンは身を隠しつつ、彼らの方へ近付いていった。
男たちは幸い、なにやら緊迫した様子で、かなり接近したディーンに気付く様子はない。
押し殺した話し声が聞こえる。
「本当か?」
「ああ、間違いねぇ。イスファ様に報告しねぇと、ヤバいことになるぜ」
「ふうむ……。そんなに凄い奴なのか?」
「そうさ」
頷いた男が、ふとこちらの方を見た。
――あいつ……!
ディーンは眼を瞠った。それは紛れもなく、昨朝シ・セル山でディーンたちを襲った山賊の一人だった。
続く彼の台詞が、ディーンをさらに驚かせる。
「あいつのちっせえ猫みたいな外見にごまかされちゃいけねえ。あいつにやられたおかげで、イスファ様はあんなふうになっちまったんだ」
「そいつは知らなかった」
「知っているのは、俺とイスファ様だけさ。他の連中はビビってどこかへトンズラこきやがった」
男が忌ま忌ましげに言う。
「俺が確認に行ってよかったぜ。知らずに行けば、あの白い化物に殺られて、みんなあの世逝きだろうさ」
「まったく、なんでそんな奴が王女と一緒にいやがるんだ?」
「分かんねぇよ。案外、金目当てかもな」
くだらない冗談に、男は薄く笑った。
「何にせよ、イスファ様もあいつに復讐できるいい機会だ」
「ああ、王女ともども派手にやってやろうぜ」
「俺はイスファ様に報せてくる。おまえは、ジジたちとこいつらを連れてカシムの所へ行け」
「分かった」
男たちは頷き、ディーンたちを襲った山賊の一人ナスルだけが、来た道を戻っていく。
見え隠れしつつ去る彼が、シ・セル山の方へ向かっていることを確認し、ディーンは残った男たちを見張った。
山賊たちは低い声で何やら囁きつつ、見張り所を片付けはじめる。どこかへ移動をするようだ。
そのとき、何かに気付いた様子で、近辺の警護をしていた[白の館]の兵士が一人こちらへとやってきた。
山賊たちが、木蔭に散る。
槍を手にした兵士が、茂みをかきわけ、彼らの見張り所に近付いてきた。
山賊の一人が顎をしゃくった。
――あっ!
その瞬間、眼にも止まらぬ速さで、別の男が兵士の後ろから飛びかかる。
「む……」
兵士の口を押さえ、首をひねりざま、もう一人がとどめを腹に突き刺す。
兵士がくずおれた。
ディーンが止める間もない、見事な連携攻撃だった。
「行くぞ」
声をかけ、兵士の死体を残したまま、山賊たちは薄暗い木立の中を風のように去っていく。
舌打ちをして、ディーンはそれを追いかけた。
早朝、リアと九曜はゼルダの家を旅立った。
昨日の疲れはまだとれきれていないが、リアは元気よくネバホ山に向かう。
妙に気持ちが浮き立っているのは、念願の山に登るだけが理由ではなかった。旅立つ前、昨夜一言も口をきかなかったヨハンが、言ってくれたことが耳に甦る。
「おっ母、この娘に、弁当つくってやんな」
ゼルダが驚いて、夫とリアを交互に見た。
「そったら、あんたの弁当がなくなっちまうよう」
「なあに、また働けばいいのさ」
ヨハンはこだわりもなくそう言い、リアに声をかけた。
「あんた、ネバホ山に登るんだってな」
「はい」
「そんなちっせえ体で頂上まで行けんのか?」
リアは黙って、大きく首を縦に振った。
「そっか……」
ヨハンのごつごつした手が、少女の頭を軽く撫でる。
「俺らの分も、しっかり願い事してこいよ」
「はい……!」
リアは頷いた。
外で子供たちの喚声がする。聞きつけ、弁当をこしらえていたゼルダが窓を覗いた。
「あれ、まあ!」
「どうした、おっ母」
「ディードリ爺さんが、また畑に入っているよう」
「仕方ねぇなあ」
ヨハンは頭をかいて、残っていた年少のヨアンナに言いつける。
「パン持ってってやれ。少しだぞ。俺らも厳しいからな」
ヨアンナが、ひとかけのパンを持って出ていった。
リアは、窓の外を覗いた。子供たちが遠巻きになりながら、昨日見た気味の悪い老人にパンを渡している。
「あたし、昨日あの人に会ったわ」
リアは、ゼルダに囁いた。
「あの人あたしを追いかけてきたの。とても怖かったわ」
「ディードリ爺さんはよう、ちっとも怖いことなんかねえのよう」
ゼルダが自分のこめかみを叩いて、
「ちょっとここが変なだけなのさ。[大災厄]で奥さんと子供を目の前で死なせてしまってから、ネバホ山の辺りをうろつくようになってしまったのよう」
「そうなの……」
小さな老人は、パンのかけらを手に、おぼつかない足取りで畑を出ていく。
「それでもいい人なのよう、ディードリ爺さんはよう。馬もよく慣らすし、言い付ければ牛も牽くのよう。動物に好かれるってことは、ここが温かいのさあ」
ゼルダは胸に手を当てると、包んだ弁当と水筒をリアに手渡した。外で待つ白い仔猫に気付き、リアの胸も指でつつく。
「お嬢ちゃんも、きっとここが温かいのよう。気をつけて、行っといで」
「はい、行ってきます」
リアは弁当を詰めると、背負い袋を両肩にかけた。手を振って家を出る。
外では、遊んでいた子供たちが、リアの姿を見て駆け寄ってきた。髪はまだ、昨日のままだ。
顔を赤らめ、もじもじしながら子供たちは、お互いを押しあいこしている。
やがて真ん中の娘が、
「――これ、あげる」
小さな花輪と人形を差し出した。
「え、あたしに……?」
四人の子供たちは照れ臭そうに笑い、リアの手にそれらを押しつけると、一目散に駆け出した。家の前に立って、
「それ、お礼、なのぉ」
「また遊ぼうねぇ!」
口の横に両手を広げて叫ぶ。恥ずかしがり屋の子供たちは、はしゃぎながら手を振った。
リアも大きく腕を振り返して、
「またねーっ」
口に手を当てて叫んだ。もう一度手を振ると、ネバホ山に続く山道に入っていく。
それに追いついた白い仔猫が、リアを見上げた。
《ねぇ、リア》
「なあに?」
リアは、花を編んだ輪を手首に通し、九曜を見た。
《またここに来るつもり?》
「分からないわ。どうして?」
《またねって言ったからさ。分からないのに、どうしてまたねって言うのさ?》
リアはびっくりして、不思議な蒼さを感じさせる仔猫を見つめた。そして思い出す。
妖魔は嘘をつかないのだ。
《またねっていうのは、嘘なの?》
「違うわ。でも、本当ってわけでもないの。あれは……」
リアは少し考え、
「友達同士の挨拶よ。友達は、またねって言って別れるの」
《変なの》
「変じゃないわ。また会いたいのは本当だもの。だけど、会えるかどうかは分からない。未来のことがどうなるかなんて、誰にも分からないわ」
《……ふーん》
仔猫は納得しかねる様子でつぶやいた。連れの少年の言葉を思い出す。
『なんでおまえは、やってもみないであきらめるんだよ?』
《可能性か……。分からないものに賭けるなんて、人間って楽天的だな》
リアが振り向き、首を傾げて仔猫を覗き込む。
「あら、あなたも同じじゃない」
《僕が?》
「だって、あたしと一緒に伝説の[願いの泉]を探すんでしょ?」
悪戯っぽい笑みを茶色の瞳に浮かべてされた指摘に、九曜は言葉に詰まった。
人間の女の子は、侮れない。
苦虫を噛み潰したような顔になる九曜を、楽しそうにリアが笑った。
ふいに、猫の耳が動く。
――人の声……?
九曜は立ち止まり、聴覚を澄ませた。
――一人、二人……三人だな。馬に乗っている。甲冑の音……兵士か。
鋭い聴覚に魔力が付加され、九曜の脳裏に現実の彼らの姿が像を結ぶ。
白い鎧をつけた騎乗の男たちが、語らいながらアウレリアの丘を上ってくる。
『姫さまらしき姿を見かけたと、この近くの農夫が言っていたが……』
『まったく、どうやってこんな遠くまで来られたものか……』
動かない仔猫に、心配になったリアが声をかける。
「九曜?」
《叱っ、黙って。兵士たちがこっちにやってくる》
リアがかすかな悲鳴をあげた。
「い、行きましょう、九曜」
二人がいるのはネバホ山の麓とはいえ、平地より標高は高い。
下方の丘にいる兵士たちが、人気のない山道を行く少女を見付けるのは難しいことではなかった。
『おい、あれは姫さまじゃないか?』
『どこだ?』
九曜の脳裏に、兵士たちが言い合う声が届く。
「行こうよ、九曜! 早く逃げよう」
しびれを切らして、リアが走り出した。はずみで被っていた薄布が外れる。
きららかな黄金の髪が、外気に溢れ出した。
「あっ!」
「姫さまだ。急げ!」
兵士たちが口々に叫び、馬を駆って、丘を上りはじめた。
リアは落ちた薄布を拾いざま、九曜の体を抱え上げると、一目散に山道を進む。
《わわわわ》
慣れないことに、仔猫が眼を回した。
九曜を抱えたまま、リアは振り返りつつ山道から逸れ、林の中へ入った。
茂みを飛び越え、木々の間を縫って奥へ奥へと進む。休む間もなく三十分ほど走り続け、ようやく足を止めた。
「ここまでくれば……大丈夫」
息を切らしながら、リアは仔猫を地面に下ろした。
身を震わせ、九曜が辺りを見回す。
深い木立。だいぶ山に近付いているらしい。
と、その木立の中で、何が動いた。
人の眼では分からぬ程、微妙な何か。
瞬間。
《危ない、リア!!》
危険を感じた九曜が退いたと同時に、頭上から降ってきたものが、リアの身体をすっぽりと抱きすくめた。
「きゃあっ!!」
霞のごとく編まれた投網に動きをから絡めとられ、リアがもがく。
《リア!》
助けにいこうとした九曜は、木蔭から少女に突き付けられた刃物を見て、動きを止めた。
滲み出るように、周囲の木立から男たちが現われる。山賊だ。
その中から見覚えのある一人が進み出、にんまりと仔猫を見下した。
「――よう、また会ったな。化け物さんよぉ」
昨日シ・セル山で襲ってきた山賊たちの首魁である。まだ若い男は、しかしどこか老人めいていた。
異様な光をたたえる黒い眼で九曜を睨みつけ、男は、頭に被っていた赤い布を取った。
白い髪。
「おまえにやられて、このザマだ。[黒豹]のイスファの復讐を受けるがいい……!」
告げるや、イスファは芝居がかった身振りで短刀を抜いた。
九曜は舌打ちをした。
復讐したければ、自分を襲えばいいのだ。
だが、こんな大勢でも自分にはかなわないと思ったのか、リアを捕まえて脅しをかけてくる。そんな卑劣さが、九曜には許せなかった。
しかも、この卑怯な手に自分が乗せられると思われていることに、なおのこと腹が立つ。
――これだから人間は嫌いだ……!!
九曜は、痛烈に嘲笑った。
《僕に勝てるとでも思ってるの?》
頭に響く声に、山賊たちの間に動揺が走る。
「馬鹿野郎、騒ぐんじゃねぇ!」
イスファは大声でそれを諌め、短刀の切っ先を九曜に向けた。
「てめえ、随分といい度胸じゃねえか。どうやらあの若造と一緒じゃねぇようだが、今回は加勢なしか?」
《僕を止める人がいないだけさ。――リアを放してよ》
山賊たちがせせら笑った。
「ごめんだね。この娘は俺たちの金蔓さ」
九曜の表情が険しくなった。
――リアの正体を知っているとは、都合の悪い。
こうなっては、たとえリア一人を逃がしたとしても、別の仲間にすぐに捕らえられてしまうだろう。こういう男たちは、得てして結束力が固い。
イスファを殺して退くようならいいが、かえって団結を深めるようなら厄介だ。
九曜は素早く、魔力で山賊たちの数を計算した。
隠れている者も含め、二十人ほど。十七、八というところか。
少女と仔猫一匹を捕らえるには、何とも大袈裟なことだ。
――あの兵士たちが早く駆け付けてくれればいいんだけど……。
九曜と思いを同じくしたのか、様子の見えない少女が投網の中から叫ぶ。
「あなたたち、こんなことをしてただで済むと思っているの! あたしたちの後ろから兵士が来てるのよ。あなたたちみんな、牢獄行きなんだから!」
「うるせえなあ、お嬢ちゃん」
イスファが、ゆっくりとリアを振り向いた。背後の木に片手をついて、威勢のいい少女を見下ろす。
不気味な白髪の男を間近に見、リアが顔を背けた。
「お嬢ちゃん、俺たちがそんなことを見落とすとでも思っているのかい? え?」
イスファは包帯を巻いた手で少女の顎を掴むと、配下の男から受け取った何かを目の前にぶら下げる。
リアが息を飲んだ。
男の腕。
まだ乾かない血のついた革の手甲には、ギルモアの国章が刻み込まれている。
「悪いなあ、お嬢ちゃん。あいつらは……俺たちが殺っちまったよ」
囁いて、イスファは高らかに笑った。
悪魔のような哄笑。
みるみる血の気を失ったリアが小刻みに震え、ぐらりと地面に倒れた。
*
その一時間ほど前。
[白の館]周辺の木立を抜けた山賊たちは、路地をいくつも曲がって、アウレリアの丘の手前の林で仲間と合流した。どうやら彼らの目的は、その先にあるらしい。
――まいったな……。
跡をつけてきたディーンは、自分の甘さを呪った。
山賊たちも後ろ暗い身であるから、これまで人目につかぬよう進路を取ってきていた。
だがこのアウレリアの丘は、かつて雄大な小麦畑だったこともあり、この昼日中まったくと言っていいほど隠れる場所がない。
山賊たちはすでに策を練っていたらしく、手拭で顔を隠し、近隣の農夫などに化けて荷車や馬を牽いて、数人ずつ組んで丘を目指していた。
しかし、ディーンはとなると、どう見ても農夫ではない。
思案したディーンは、大胆なことを思いついた。
怪しまれないよう、少しずつ間隔をあけて行くため、山賊たちの最後の組はまだ出発していない。
ディーンは一人の男に狙いを定め、そろそろと背後から近付いた。
足を絡め、転んだ男の口を手で塞ぐ。同時に鳩尾に拳を突き入れ、当て落とした。
「――どうした、ジジ?」
前を行く仲間が、妙な物音に振り返った。
老巡礼に化けたジジが、頭をかきつつ立ち上がる。
「へへ。すっ転んで、頭を打っちまった」
「馬鹿、気をつけろ」
「へへ。すまねえ」
薄笑いを浮かべ、ジジは巡礼の組の最後尾に加わった。
――どうやら、大丈夫のようだな。
外套の下で、ディーンは胸を撫で下ろした。
巡礼の外套は頭からすっぽりと被るため顔立ちを隠せるし、色や形もディーンの旅の外套とよく似ている。
尾行している間、自分とよく似たジジの体格や素振りなどを見ていたディーンは、
――こいつならいける。
と見極めたのだ。
本物のジジは気を失わせたまま、当人の腰帯で手足を縛り、茂みの中へ放りこんである。
一人を驢馬に乗せ、ジジに化けたディーンと他三人が、脇を固めて歩いた。よくある旅の巡礼の風景だ。
そこへ別の方角からもう一組の巡礼がやってきた。立ち止まり、両手を合わせて軽く頭を下げる。巡礼同士の挨拶だ。
「神の御光があなたに降り注ぎますよう……」
「あなたにも……」
その一瞬、眼と眼が合う。ディーンは、はっとした。
――こいつらも仲間か。
「首尾は?」
「大丈夫です」
唇の動きで返された答えに、馬に乗った男が頷く。
その外套から垣間見える、死んだ魚のような眼の光をディーンは見逃さなかった。それは間違いなく、昨日シ・セル山で最後まで抵抗した山賊の眼だった。
「カシムは?」
「兄貴に伝言を、と言ってねぐらへ向かいましたが……」
「聞いてねぇが……馬鹿め。放っておけ」
「はい」
「ぬかるな」
男は、手下を引き連れて去っていく。
去り際、一人の男がディーンの肩を叩いて、話しかけてきた。
「聞いたぜ、ジジ。今回はお手柄だってな」
「あ……ああ」
親指を立てて、その男が去る。
ディーンは、頭巾の下で冷汗を拭った。
そのとき、前方で声がした。
「――姫さまだ!」
叫びながら、馬に乗った三人の兵士がネバホ山へ向かって走っていく。
馬の男が合図した。
先を行っていた農夫たちの組が、丘を駆け上がり、散開して兵士たちの前へ回りこむ。
馬を引き、兵士たちが立ち止まった。
「なんだ、おまえたちは?!」
「そこを退け!」
口々に叫んだ兵士は、だが、背後からも迫る男たちの姿に顔色を変えた。
その脇を通り過ぎつつ、馬の男が手下に囁く。
「――消せ」
「はい」
山賊たちは、兵士を馬から引きずり下ろすと、一斉に刃物を抜いた。
蒼褪めるディーンに、仲間の男が小声で告げる。
「おい、ジジ。俺たちはイスファ様と一緒に王女の先回りをするぞ」
そして――。
時刻は現在に戻る。
山賊たちは失神したリアを投網から出すと、太い紐で縛りあげた。木の根元に座らせ、少女の喉元に短剣をかざす。
「お嬢ちゃんにはここで見物してもらうとして――」
イスファは、兵士の腕を無造作に茂みに投げ捨てた。薄笑いを浮かべて九曜を見下す。
「てめえをどう料理しようかなあ?」
《どうだっていいけど、その汚い顔を近付けないでよ》
「なに?」
《臭いんだよ、あんた》
言い捨て、九曜は魔力を高めはじめた。
冷気が辺りに満ち、男たちが一歩後退る。
《死にたくないんだったら、さっさと彼女を置いて逃げるんだね》
言いつつ、九曜は気を失う少女を横目に見た。
――近すぎる。
空間移動は妖魔しかできない。しかも、それを行なう妖魔から離れたものには、魔力はその効力を失うのだ。それほど微妙なのである。
九曜がリアの元へ移動し、そこからさらに移動――。
それだけの手間を、この男たちが見逃すはずがない。
そして、攻撃力の強い分身・冽牙と離れている今、魔力はその精度を欠いていた。
九曜は、はじめて窮地に追い詰められた。
一連の出来事を茂みに隠れて見ていたディーンは、眉をひそめた。
絶対の魔力を誇る九曜は、攻撃に時間をかけない。
戦う前に脅しをかけることは勿論、時には警告すらしないで相手を仕留める。
たまに愚痴をこぼすが、それは相手を敵とみなしていない場合だけであった。
――九曜のやつ、調子が悪いのか……?
思い、ディーンが仲間に悟られぬよう腕輪に仕込んだ棒手裏剣に手を伸ばした、そのとき。
少女が息を吹き返した。
目の前の刃物を見て、口から悲鳴が迸る。
「きゃああああっ!!」
離れていたディーンでさえ一瞬耳が遠くなる叫び声に、男たちが怯む。
――今だ!
九曜は魔力を放出した。
猛烈な吹雪。
風に氷片が混じる烈風に、山賊たちの眼が眩む。
「うわあっ!」
初めて見る雪に、彼らは大混乱に陥った。冷たい、寒いと叫んで逃げまどう。
その隙に九曜は跳躍し、リアを脅していた男を魔力で木蔭に吹き飛ばした。体の縄を解く。
《大丈夫?》
「う……うん」
リアが蒼褪めた表情で頷いた。
九曜は、リアの腕を自分の身体に回させる。
《掴まって、移動するよ》
声をかけた瞬間、リアの後ろに大きな影が立ちはだかった。少女の髪を掴んで、引きずり上げる。
「いやああああっ!!」
「てめえを逃がすと思うのか、化け物め……!」
イスファは、憎悪にぎらつく眼で九曜を見下した。
吹雪は止んでいる。
見ると、逃げたはずの山賊たちが、松明を灯し、辺りをぐるりと取り囲んでいた。
リアを捕らえたイスファが、笑う。
「[黒豹]のイスファに、二度も同じ手は通じないぜ!!」
《――彼女を放せ》
九曜は命じた。怒りが、ふつふつと湧きあがる。
イスファは短刀の刃を舌で舐め、薄笑いを浮かべた。
リアが泣きだした。
「九曜……助けてぇ……」
「ほうら、お嬢ちゃんがそう言ってるぜ。助けてやれよ、化け物」
すう、と刃先がリアの頬を滑る。血がしたたった。
「俺はなあ、もう金なんてどうだっていいのさ。この子の命なんて悪魔にでもくれてやるさ。俺が欲しいのは――」
ぎらり、と狂気の瞳が九曜を射抜く。
「てめえの命なんだよ……」
九曜は、久しぶりに心の底から怒りを感じていた。
この男は、自分以外のことなど何一つ頭にない。
先程の攻撃で魔力が上手く統御できることも確かめられた。後は――。
《リア、眼を閉じていて。ここから先は、見る必要はない》
訳が分からずに、少女はおびえた眼差しを妖魔に向けた。
かつてない輝きを宿した虹色の瞳が、微笑む。
《眼を閉じて、リア》
少女は、固く両眼をつむった。
イスファが嘲笑う。
「なに寝呆けたことを言ってやがる、化け物め!」
九曜は笑った。
壮絶な、恐ろしいほど超自然的な笑みだった。
ふわり、と再び冷気が巻き起こる。
《化け物は――》
「同じ手は通じねえと言ったはずだあっ!!」
リアを地面に投げ出し、イスファが飛びかかった。
《おまえだよ》
冷酷な宣言と共に、九曜は魔力を解き放った。
閃光。
凝縮された凍気が、一瞬で男たちの持つ松明の火を吹き飛ばす。
驚く彼らの前で、それは低く咆哮をあげ、明確な攻撃体制をとって現われた。
鋼の光沢を放つ被毛、豊かな鬣、鋭い爪牙。
想像上の獅子に酷似したその巨体は、氷山を刳り貫いて創られたごとく白く、荘厳だ。
本性を現わした妖魔は、硬質のその虹色の瞳を男たちに向けた。
疾風が、彼らの間を駆け抜ける。
冷たさを感じる暇もなく、山賊たちは、朽ち木が折れるごとく弧を描いて地面に倒れた。ひとつの悲鳴も、血さえも流れなかった。
残る一人。
数瞬の出来事に、イスファは呆然とその場に立ち尽くしていた。
先程までいた仔猫の代わりに突然現われた、百獣の王。
獅子が一歩進むごとに、冷気が立ち昇り、大地が凍りついていく。
「ひ……! く、くるなあっ!!」
短刀を構え、イスファが悲鳴を上げた。
獅子はゆっくり歩みつつ、憐れみひとつなく言う。
《僕をここまで怒らせたのはおまえだ、人間》
雪片を漂わせ氷の息を吐く巨獣は、あの仔猫より何倍も美しい。
至上の美とは、死と同質だ。
イスファは、なぜ自分が執拗にこの生き物を狙ったのかを悟った。
――美しすぎる……。
あのとき自分は、美しいこの魔性に魂を魅せられたのだ。
この美しさを手に入れたい、どうしても――。
「手に、いれてやる……!!」
イスファは、短刀を手に九曜に踊りかかった。
獅子は前脚で短剣を払うと、軽々と男を地面に引きずり倒した。胸元に、長い爪を食らいこませる。
『殺すんじゃない、九曜! 殺すのは、自分が本当に危ないときだけにしろよ』
九曜の脳裏を、少年の声がかすめた。
横を見ると、両手で顔を覆ったリアが、地面に倒れたまま小さくなっている。
頬の傷からは血が流れ、かすかに泣き声が聞こえた。
脚の下の白髪の男は、うすら笑いを浮かべて、譫言をしゃべっている。
「俺のだあ……これは俺のおぅ……」
《――狂っているか……》
虹色の双眸から、ゆっくり怒りが退いていく。
ため息をひとつついて、九曜は男から離れた。
《殺す価値もない》
吐き捨て、リアの元へ歩み寄る。まだ震えている少女に声をかけようとした――と。
「ま、待てえっ!! 行くなあぁっ!!」
狂人の雄叫びをあげて、再び短刀を手にしたイスファが立ち上がった。
獅子の喉から、苛立ちの唸りが洩れる。
「行かせるかあぁっ!!」
叫ぶイスファに、九曜が跳びかかる。同時に、男の手から短刀が放たれた。
――しまった……!
己れを行き過ぎ、まっすぐに地面に倒れる少女へと向かう短刀を眼に捉え、獅子が蒼褪める。
瞬間、物陰から細い影が疾った。
ギン、と鈍い音を立てて、短刀が弾けとぶ。
それは二つに砕け、太い針に似た武器と共に地面に突き立った。
――棒手裏剣?!
その様子を横目に留め、勢いのまま空を駆った九曜は、イスファの右腕を食い千切った。
「ぎゃあああぁっ!!」
イスファが絶叫する。
再び跳躍してリアの元へ戻った九曜は、男の腕を投げ捨てると、まだ眼を塞いでいる少女を背に担ぎあげた。
「俺の……俺の腕がぁ…ああっ!!」
残った肩口を振り回して、イスファは狂人のように暴れ回っている。
九曜は、一片の哀れみすら浮べぬ瞳で、それを顧みた。
《そんなに死にたければ、死ぬがいい。――この世でな……!!》
告げ、背を向ける。
ド……ンという衝撃と共に、真っ青な光の柱がイスファに突き立った。
声にならぬ断末魔。
獅子はそれすら切り捨てるように、その場から姿を消した。




