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4

 


 リアと九曜が、ネバホ山に向けて街道をしばらく行くと、村の入り口に辿り着いた。

〝フフ・ネバホ村〟と書かれた立て札を指でなぞり、リアは右手を振り返る。

 ナバル市街地からリアが歩いてきた丘陵地帯が、眼下に広がった。日も傾き、茜色に包まれた景色の中で、それは暗く陰に沈んでいた。

 ところどころに転がる岩が白く浮かびあがり、


――骨のよう……。


 リアはぞっとした。


《どうかしたの、リア?》


 足元で仔猫が尋ねる。

 リアは、眼下の丘陵を指差した。


「ここ〝アウレリアの丘〟って言うのよ」


 長い睫毛が、頬にかげを落とす。


「あたしが産まれた頃はね、ここにはとっても大きな小麦畑があったの。その頃はこの国も小さくても豊かで、とっても幸せだった……」


 リアは、遠く暮れる空を見上げた。


「でも、もう駄目。水をひいていたロブ湖がおかしくなって、ここも変わってしまった。もう二度と……元には戻れない」


 茶色い眼に涙が滲む。振り切るように九曜を見、「行こう」とうながした。


 仔猫は何も言わず、少女に従った。

 彼は、リアが好きだからついてきたわけではない。ディーンと別れ、なんとなく暇をもてあまし気味だったときに、この家出少女のすることに興味を惹かれた。それだけだった。


――どうやらいいところのお嬢さんらしいけど、いつまでもつのやら……。


 今の九曜はだんだん、リアが根をあげて家に帰るのを見届けてやろう、という気持ちになっている。


――なんとなくおもしろそうな子だし……。


 自分も忙しくしていれば、余計なことを考えないで済むというものだ。

 また嫌な出来事を思い出しそうになり、九曜はぶるぶると頭を振った。

 と、リアの足が止まる。

 ぶつかりそうになった九曜は、少女を見上げ、その視線の先にあるものを知った。

 汚れ、はげた襤褸ぼろをまとった、小さな老人。

 影になってその造作はよく見えないが、白く光る眼が、じっとこちらを見つめていた。

 老人は、何やら呻き声をあげながら二人へ向かってやってくる。

 リアが蒼白になった。震える声で囁く。


「九曜、逃げよう」

《う、うん》


 老人を見つつ、慎重に大きくそれを迂回する。そして、リアは全速力で走り出した。

 例の悲鳴も逃げることに精一杯で、喉にからんだまま止まっている。

 走りながら、リアは後方を振り返った。後ろからついてきた九曜が叫ぶ。


《リア、危ない!》

「え――きゃああああっ!」


 夕闇に眼のきかなくなったリアが、勢いよくたるを積んだ荷車に激突する。

 がら、がらん、と乾いた音を立て、樽が地面に散らばった。


――よかった……。


 九曜は、ほう、と息をついた。樽の中に中身が入っていたら、今頃リアは押し潰されていたところだろう。


「あれまあ!」


 荷車をいていた農婦が、驚いてやってきた。樽の中に転がるリアに、声をかける。


「怪我はないかい?」

「だ、大丈夫です」


 したたかに額と膝を打ったリアだが、気丈にも笑顔で立ち上がった。


「まあ、暗いのにあんなに走って、危ないよう」

「すみません」

「なあに。それにしても派手にぶつかったねえ」


 農婦がおおらかに笑った。恥ずかしそうに、リアも笑う。

 ふと、彼女の眼の端に動くものが映った。地面に散らばっていた樽が、まるで生きているようにひとりでに転がり、坂を上っていく。

 少女が目をみはる中、農婦の背後で、樽は次々と荷車に積み込まれていった。

 見開かれたリアの眼が、地面に座る仔猫のそれと合った。

 ぱちん、と虹色の眼が、悪戯っぽく片方つむる。

 そのとき、農婦が荷車を振り向いた。

 途端、樽が動きを止め、元の普通の樽に戻った。

 ごまかすように、リアは足元の一つを拾いあげる。


「あれ、すまないねえ」

「いいえ」


 リアは答え、こっそり九曜の方を窺った。仔猫は素知らぬ顔で、器用に二本の前肢で樽を転がしながら荷車の方へ運んでいる。


「あれ、賢い猫ちゃんだねぇ」

《……猫ちゃん?!》


 リアの頭に、むっとした九曜の声が響く。

 慌ててリアは、仔猫を振り返った。だが農婦は、妖魔だと気付いた様子もなく、猫撫で声で九曜をあやしている。


――聞こえていない……?


 当然でしょう、という顔で、仔猫は少女の足元に樽を置いた。


――妖魔って、こういうことなのかしら……。


 不思議に思いながら、リアは樽を荷車に乗せる。最後の樽を積み上げ、農婦が荷を麻紐で縛り直した。


「ありがとうねえ、お嬢ちゃん」

「お家まで運ぶの手伝います」

「もう遅いよう。お家へお帰り」

「あの……あたしたち、この近くに泊まる予定ですから、平気です」


 農婦が不審そうな顔になる。リアは慌てて、


「明日ネバホ山に登る予定なんです。だから……」

「おや。何かの祈願かねぇ?」

「ええ」


 ネバホ山は古くから、ギルモアの人々にとって母なる聖山である。今でも祈願に訪れる人が少なくなかった。

 農婦は、太い腰に両手を当てた。


「それじゃあ、後ろから押してもらおうかね。その後、家にお泊りよう」

「え……いいんですか?」

「この辺りにろくな宿屋なんてありゃしないよう。納屋でよけりゃ貸してあげるさ。狭いし汚れてるけど、女の子が夜道を一人で歩くよりか、ましだよう」

「ありがとうございます。助かります」


 リアは、心からほっとした様子で農婦の両手を握った。

 農婦は照れ臭そうにそれを払い、荷車の柄を持った。


「猫ちゃん、あんたも泊まっていきなよう」


 九曜を振り返り、声を投げる。

 リアは荷車の後ろを両手で支え、足元についてくる仔猫に囁いた。


「よかったね、九曜。泊めてくれるところができて」

《猫ちゃん、さえやめてくれたら、もっといいけど》


 機嫌の直らない妖魔に、リアはくすりと笑いをもらした。


   *


 農婦の持った荷車を押して歩く少女は、濃くなった夕闇の中でもはっきり分かるほど美しい黄金色の髪をしていた。

 少女は、足元にちょろちょろとつきまとう白い仔猫に何やら話しかけながら、村の一軒の農家へ入っていく。

 その様子を遠くから見ていた男はしばらく待っていたが、少女が出てこないと悟ると、元来た道を戻った。


「おう、ジジ。見つかったか?」

「いたいた、ばっちりさ」


 ジジと呼ばれた先程の男は、街道に立っていた仲間と合流すると、肩を並べて歩き始めた。その様子は、二人の農夫が家路につくようにしか見えない。

 だが、二人の腰には短剣が隠され、その体からは血の匂いが色濃くたちのぼっていた。

 ジジが囁く。


「カシム、おまえはあの家を見張っていろ。なあに、ふもとの一軒家だ。すぐに分かる」

「王女はその中に?」

「ああ、変な仔猫と一緒にな。間違いねぇ、あの金色の髪。金の匂いがぷんぷんしやがる」

「スカーリ様には報告しねぇのか?」

「まず、イスファ様だ。王女を捕まえてから御頭に報告するのさ。そうすれば、イスファ様も手柄を立てられるし、俺たちも御褒美が出る」


 カシムは一瞬ためらったが、頷いた。


「よし、分かった」

「じゃあ、[豹の口]で会おう」


 二人は、街道の二叉路で左右に別れた。

 カシムは村へ戻る右の道へ、ジジはナバル市街に続く左の道へ、足早に下っていく。

 辺りが完全に暗闇に落ちると、ジジは農夫の服を脱ぎ捨て、常人とは思えぬ駿足で一気に市街へ迫った。だが市街へは入らず、その手前で西に折れ、山深い街道へ向けてひた走る。

 やがてシ・セル山に入ったジジは、一枚の大岩の前で立ち止まった。

 鋭い口笛。

 呼応するように、四方から口笛が響きわたり、ゆっくりと大岩が動いた。

 ぽっかりと洞穴が開く。

 恐れげもなくジジがその中に入ると、再び背後で岩の扉が閉まった。

 真っ暗な闇に、ぽつんぽつん、と明かりが灯っている。

 通路の両側に掛けられた燭台の明かりを頼りに、ジジは、[豹の口]と呼ばれるイスファの部屋へ向かった。

 彼が兄貴分と頼む若き山賊は、今朝何やら大きな失態を演じたらしく、特別に機嫌が悪い。

 白髪に変じた頭を赤い布で隠し、イスファは憮然と椅子に腰掛けている。

 雷を落とされぬよう、駆け足でジジはイスファの元に走り寄った。ひざまずいて、


「兄貴、見付けました。今、フフ・ネバホ村の農家に泊まっています」

「一人か?」

「はい。あ――」


 ジジは、少しためらった。小さな仔猫が一緒に入っていったのを思い出したのだ。


――まあ仔猫くらい、いいさ。


 ジジは頷いた。


「王女ひとりきりです」

「よし。明日家から出たところを襲うぞ」


 眼に輝きを取り戻したイスファは、傍らの男へ命じる。


「ナスル、おまえはジジと一緒に一度現場を確認してこい。それから明日の朝[白の館]へ行って、見張っている手下どもを集めてくるんだ」

「はい」

「王の家来どもに、絶対に先を越されるな。――いいな! あの金の娘は俺たちが頂く」


 雄叫びを上げて、手下たちが賛同する。

 イスファは、手にした酒杯を一口飲み、ジジに差し出した。


「よくやった」


 ジジの顔が驚きと喜びに輝く。

 イスファは、悠然と椅子に身をもたせながら微笑んだ。


――どうだい、御頭みてえじゃないか……。


 兄スカーリになった気分で、喜ぶ手下たちを見つめる。


――兄貴もきっと俺を見直すさ。


 薄く笑い、イスファは肘掛に置いた右手に眼をやった。

 山賊たちの医師キケロによって傷口は縫合され、薬も打たれた今、出血は止まっている。

 だが、いかに傷が治ろうと、彼の屈辱は消えやすまい。

 それは、この右手を傷つけた少年に対しての怒りではなかった。

 不思議な青さを秘めた、白い魔性。

 小さな、彼ほどの男なら片手でひねり潰せそうな仔猫に感じた、あの恐怖。

 喉元についた爪跡をなでる手が、小刻みに震える。


――許せねえ……。


 獣ごときに心底怯えている自分。そしてここまで自分を変えたその魔性に、イスファは全身の血が沸きたつほどの怒りを覚えた。

 木の打ち砕く音がして、椅子の肘掛に亀裂が入る。

 手下が一斉に口を閉ざし、こちらを振り返った。

 しかし、それすらイスファの眼には入らなかった。

 彼の眼にはただ、あの白い魔性の姿のみが映っていた。


   *


 ゼルダと名乗る農婦の家は、ネバホ山のすぐ麓にある小さな平屋の家だった。

 藁葺きの狭い家にはゼルダの他に夫ヨハンと母親、そして三人の娘と一人の息子がいた。


「今晩は、おじゃまします」

「……」


 にこやかに挨拶するリアに、老婆がよう来たと笑顔で迎える。だが、ヨハンと四人の子供たちは、黙って少女から眼を逸らした。


「ほうら、ちゃんと挨拶おしよ。ごめんねぇ、こんな家で」


 ゼルダがとりなすように言ったが、リアは戸惑いを隠せなかった。

 夕食ができるまでの間、気まずい空気が漂う。


「さあ、たんとおあがり」


 ゼルダが、各人の前の皿にスープを注いで回った。ひとかけの肉も入っていない薄いスープと固いライ麦のパン、古びた乾酪(チーズ)


――これだけ……?


 豪華な、とはいかないまでも、せめて肉くらい出るかと思っていたリアは、ゼルダに尋ねようとして、はっと気が付いた。

 左隣に座わる一番年下の娘が、じっとリアの皿を見つめている。

 リアは、自分がこの家に歓迎されない理由を知った。


――あたしの分だけ、この家の人たちの食事が減るんだわ……。


 自分がいかに恵まれていたか――。

 リアは、痛いほど思い知った。

 食事の進まない彼女の様子を見て、ゼルダが声をかける。


「どうかしたかね?」

「いえ……ちょっと、家を思い出して」


 言い訳をするそばから、理由の解らない涙がこぼれ落ちる。

 リアは慌てて、涙を拭った。

 右隣の老婆が、皺だらけの手でリアの手のひらを握る。


「あれまあ、泣くでないよ。ほれ、ばあちゃのを一つやるからよう」


 自分の分のパンをリアによこした。


「でもこれ、おばあちゃんの分……」

「いいのよう。ばあちゃはもう腹いっぺだから、気にせず食いねえ食いねえ」


 リアは困って、隣の子供たちを見た。八つの瞳がリアのパンにくぎ釘づけになっている。

 リアは少し考えて、彼らににこっと笑いかけた。


「あたし一人じゃ食べきれないから、みんなで分けて食べようか」


 慎重にパンを五等分する。一番小さな一かけを食べ、おいしい、と眼を細める。

 すぐに四つの手が伸びて、小さな屑の一粒まで残さずパンを平らげた。

 リアは、自分の分のパンを口にした。

 パンは固く、口の中でもそもそと広がって、とても美味しいとは言えない。

 それでも、リアはこの味を忘れないだろうと思った。それは暖かく、少し苦い涙の味がした。


 夕食を終え、リアが見様見真似で後片付けを手伝っていると、突然後ろから髪の毛が引っ張られた。


「いったぁい」


 何するの、と怒ろうとして、リアは一番小さな娘と眼が合った。

 三つくらいの少女が、眼を輝かせて、無邪気にリアを見上げている。


「なあに、何の御用?」

「きれい。きらきら」


 少女は、リアの髪を指で差した。リアは理解した。

 ギルモアでは金髪はめずらしい。ましてやリアのように濃い金色の髪は、光を受けるとまさに本物の黄金のように見えた。

 リアは、ぱさついてはいるが艶のある少女の黒髪を撫でた。


「あなたもきれいな髪よ。母さまと同じ黒い髪――そうだ」


 つぶやいて、リアは自分の荷物から、とリボンを取り出す。


「いいことしてあげる」


 リアは少女を椅子に座らせると、その髪をくしでとかしはじめた。髪を左右に分け、頭頂付近から根元まで丁寧に編み込んでいく。


「わあ、すてき」


 上の二人の娘が感嘆する。それをきっかけに話がほぐれた。


「わたしにもしてくれる?」

「いいわよ」


 いつにない子供たちのにぎやかな様子を、老婆がうれしそうに眺めている。

 しばらくして、三人の姉妹と長男も含め、子供たち四人全員の頭にリボンが結ばれた。


「どう?」


 リアは、自分の出来栄えに満足して尋ねた。ゼルダと老婆が、にこにこと何度も頷く。

 だがヨハンだけはふん、と鼻を鳴らすと、部屋を出ていった。子供たちの笑顔が、みるみるしぼむ。

 ゼルダが慰めるように、


「すてきだよう。こんなのお祭りのときでもしたことないもの。ねぇ?」


 うつむいた子供たちの頭を撫でる。


「ほれ、お姉ちゃんに御礼をいいな」

「……」

「はあ、もうあんたたちは困った子だよう。ほら、もう寝な」


 子供たちを叱りつけ、リアに声をかけた。


「納屋に案内しようね。ちょっと待っててよう」


 ゼルダは燭台に火を入れると、それを手に外に出た。納屋は家のすぐ裏手にあった。

 家畜の匂いとざわめきが、闇から漂ってくる。


「猫ちゃんは先に入れておいたよう。安心して、ゆっくりお休み」


 ゼルダはリアに毛布を渡すと、大きな笑顔を残して出ていった。

 リアは、ゼルダの姿が見えなくなったのを確認するや、闇に向かって小声で叫んだ。


「……九曜! 九曜いないの?」

《ここにいるよ》


 音声のない声が聞こえ、足元の藁の束が崩れた。

 仔猫は、大きく伸びをして藁をふるい落とすと、リアの隣に座る。


「九曜、御飯は?」

《もらったよ。パンとスープの残り。ちょっと薄味だったけどね》


 平然と言う妖魔に、怒りの色はない。リアは不思議に思って、


「でも、九曜の御飯は人間なんでしょ?」

《大雑把な言い方しないでよ。生き物の精気を食べているの。失礼しちゃうな》

「精気でも元気でも何でも、食べなくて大丈夫なの?」


 恐るべき魔性は猫の顔をしかめ、まるでリアの家庭教師のような口調で言った。


《あのね、リア。君の食べているものだって、元は生きていたものなんだよ? 生きたままそのエネルギーを摂るか、殺して加工したものから摂取するかの違いで、僕たちが必要なエネルギーに代わりはないんだ》


 リアが腕組みをして考え込む。


「うーん。よく分からないけど、とにかく人間の食事でも大丈夫なのね?」

《ま、そういうこと》


 九曜はうるさく飛ぶはえを尻尾で払うと、リアの側で丸くなった。


《だけど、僕みたいな妖魔はめずらしいんだけどね。人間と話したり、食事をしたり……》

「それに、助けてくれたり」

《そうだね。僕がこうなったのは、ある大馬鹿野郎のせいなんだけど》

「お、大馬鹿野郎?」

《そう。僕を九曜って最初に呼んだやつ。僕を助けて旅に連れ回して、厄介な人間社会に引きずり込んだ最低最悪の大馬鹿野郎》


 九曜は鼻息も荒く、一気にまくしたてた。苛立たしげに、また尻尾で蝿を追う。

 リアは、くす、と笑った。


「九曜、その人のこと好きなのね」

《嫌いじゃないよ。だけど好きかどうかは……》


 仔猫の虹色の瞳が、迷いに揺れる。


《分からない。――あいつはね、自分勝手な人間の見本みたいなやつなんだ。都合のいいほうへばかり考えて、僕のことちっとも理解しようとしないのさ》

「あたしの父さまと母さまもそうよ」


 リアは毛布をかぶると、藁の上で両膝を抱えた。


「大人ってみんな身勝手だわ。分かってくれていると信じていたのに、勝手に結婚を決めてしまったの。あたしは嫌。絶対に嫌よ……!」

《それで、家を出てきたの?》


 リアは頷き、潤んだ瞳を隠すようにうつむいた。かすれた声で、


「ねぇ……九曜。九曜は、さっき言っていた人のこと、本当に好きじゃないの?」

《そりゃあ、ちょっとはいいやつかもしれないけど……》

「あたしは、父さまも母さまも好き。勝手に結婚を決めてしまったけど……それでも好き」


 仔猫が納得できない表情になる。リアは、ぐす、と鼻をならし、呟くように言った。


「それに、あたし知ってるの。父さまも母さまも、あたしを愛してくれてるってこと。とても大切に思ってくれてる――」

《大切なのに無理に結婚させるの? リアが嫌なのに?》


 リアは涙に濡れた頬を膝に当てて、九曜を見る。


「そうよ。大人の世界には、どうしようもないことってあるんだもの」

《僕には分からないな》

「あたしは、なんとなく分かるわ。だってあたし、父さまも母さまも愛しているのに、二人があたしを愛しているって知っているのに、家を出てしまったんだもの。とても辛いわ……二人に、あたしに裏切られたって思われるのが」


 手のひらで涙を拭い、


「だからね、あたしネバホ山に登ろうと思うの」

《どういうことさ?》


 秘密を打ち明けるように、リアは声を潜める。


「あのね、ネバホ山の頂上には、[願いの泉]があるの。その泉の水を飲んで願い事をすれば、何でも叶うのよ……!」


 九曜が、疑わしげな眼を向けた。


《本当? だとしたら、どうしてこの辺りの人たちはみんな登らないのさ?》

「[願いの泉]はね、千年に一回だけ現われるのよ。そして願い事も、その時の一回だけ」


 リアは涙など忘れたように、眼を輝かせ、九曜の隣で腹ばいになった。


「あたし本で調べたのよ。そしたら、今年がその千年目なの!」

《どんな本?》

「〝ギルモアの伝説〟よ」


 九曜は、やれやれと首を振った。


《伝説は伝説。お伽話だよ》

「あら、本当かもしれないわよ。だって――」


 少女はいたずら悪戯っぽく笑い、仔猫を見上げる。


「あなたがここにいるんだもの」

《……》


 リアは、藁の布団に丸くなると、お休みなさい、と声をかけ、九曜にも毛布の端をかぶせて、瞼を閉じる。穏やかな寝息が聞こえてきた。

 九曜は、もう一度ため息をついて、その寝顔を眺めた。

 丸まったまま、[願いの泉]について知っているだけのことを思い出す。


 確かそれは、ギルモア王国の誕生と結びついて語られていたはずだ。

 昔ギルモアは、今以上に貧しかった。多くの国同士の戦争に巻き込まれ、人々は皆飢えて土地は痩せ、乾いていた。

 その様子を悲しんだ信心深い一人の娘が、ネバホ山に登り、祖国の救済を神に祈った。

 そこへ、ひとりの仙人が現われて、娘の足元に一本の杖を突き立てた。するとそこから、みるみる新鮮な水が湧き出、大きな川となって大地に注いだという。

 その名残がロブ湖なのだと、伝承では伝えられている。


――[願いの泉]ねえ……。


 伝説は往々にして歴史の真実の一側面を反映することがあるが、この場合冷静に見て、


――可能性は薄いな。


 九曜は思う。しかし卓越して高い山でもないネバホ山が、ギルモアの人々の篤い信仰を受けているのもまた事実であった。

 そして、リア。

 まだ成人も迎えぬこの少女は、この伝説に一縷いちるの望みを繋ごうとしている。

 ある意味それは、現実からの逃避とも言えるかもしれない。

 だが九曜には、リアが逃げているとは思えなかった。

 彼女は彼女なりの方法で、現実を納得しようとしている。


――僕は……どうだろう。


 本来の自分に戻るために、ディーンの元を離れてきた。すべてを彼のせいにして、もう片付いたと思っていた。

 しかし、本当にこれで片付いたのだろうか。


――逃げているのかな……僕は。


『傷つくことを恐がらないで。傷のない信頼なんて、ないんだから』


 以前そう他人に忠告したことがある。だが、自分はどんな傷を知っていたというのだろう。

 そして傷つけあうほど誰かを信頼したことが、あっただろうか。


――ディーン……。


 黒髪の少年の笑顔が、脳裏をかすめた。

 虹色の瞳が、奥深い色を湛えて、隣の少女を見つめる。


「僕も行くよ、リア。――[願いの泉]を探しに」


 静まっていた蝿が、再びうるさい羽音をたてて飛びはじめた。

 仔猫は顔をしかめ、ふうっと息を吹きかけた。

 空中を飛んでいた蝿が凍り付いて、藁の上にぽとりと落ちる。

 それを横目に、九曜は長い毛のなかに鼻をつっこむと、眼を閉じた。




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