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 いつともどこともつかぬ、宇宙の片隅。

 不思議な楽園のようで、それでいて人々の生きるあえぎがひしめきあっている世界、カナン。統一世界とも称されるそこは、帝都と呼ばれる強力な専制国家によって統治されていた。


 世界の人口の約七割が集中するセントゲア大陸の南西、キリキア地方の山岳の尾根を一人の旅人が歩いている。

 すらりとした印象のその旅人は、キリキア地方の乾いたほこりを遮るために、長い外套で全身をすっぽりと覆っていた。大きな荷袋ひとつを肩に掛けて行く姿は、このシ・セル山一帯に出没すると噂される山賊をまったく警戒する様子がない。

 それでも、尾根から見下ろす緑の中に光る街並みを見つけ、旅人の口元に安堵の色が漂った。

 そのとき。

 ヒュ…と何かが空を切った。

 同時に、旅人の体が(はじ)かれたように前に倒れる。

 倒されたというより、自分の意志で倒れた印象だ。

 それを示すように、寸前まで彼のいた場所に、拳大の石塊いしくれが二つ突き刺さって砕ける。


「ちっ……外したかっ!」


 どこからか、()(ぶと)い男の声が罵った。

 岩陰から、さらに数個の小石がはしる。

 旅人は、ごろごろと山道を転がってそれを避けた。腰の剣に手をかける。だがそれを抜く前に、いくつかの大きな影が現われ、逃げ道を塞いだ。

 男たちは手に山刀マチェットや短剣を持ち、傲慢な笑いを浮かべている。そのうちの、額に赤い布を巻いた黒髪の男が言った。


「ここは俺たちの縄張りだ。通るには、それなりのものを置いていってもらおうか」

「……」

「金か命か――。どちらかを選ぶんだな」


 旅人の答えはない。黒髪の男をとりまく仲間が、眼光で彼を威圧した。

 現われた山賊は四人。岩陰から石を投げた者が二人。それから少し離れた茂みの中にも何人かいるようだ。合わせて十人弱といったところか。

 荒っぽいやり口に慣れた山賊たちに囲まれ、諦めたのか、旅人は肩に背負っていた荷物を前へ放り投げた。


「いい子だ」


 にやりと笑い、黒髪の男は旅人から眼を離さぬまま、仲間に荷物を取るよう合図する。

 頭を剃り上げた大柄な男が進み出て、荷物に手を伸ばした。瞬間。

 荷物から飛びだした何かが、勢いよくその顔面を直撃した。

 間、髪を入れず、旅人が手首から引き抜いたものを岩陰へ向かって投げつ。


「うわあっ……」


 叫び声がして、誰かが倒れた。


「くそっ。この野郎!」


 顔色を変えた山賊たちが、武器を構え直す。が、旅人は抜き身の大刀を手に、すでに目前に迫っていた。

 応戦するいとまもなく、二人が討ち倒される。

 その間に、荷物からはしり出た何かが、禿頭とくとうの男の顔面を切り裂いて地面に降り立った。


「なんだ……あれは……?」


 大人の両手にすっぽりと収まってしまうほどの、一匹の小さな仔猫。

 だが青白い毛並みははがねに似て、その眼は明らかに高い知性の煌めきを帯びていた。


――魔性……!


 黒髪の男の頭を、ひとつの言葉がよぎった。

 仔猫が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 鳥肌が立つほど冴々さえざえとした、虹色の双眸。それは今まで眼にしたどんなものよりも美しく、鮮烈だった。

 男は、ごくりとつばを飲み込んだ。何人もの命を奪ったはずの手が、足が、麻痺したように動かない。

 刹那(せつな)。景色が暗転し、熱いものが喉に食らい込んできた。


「――やめろ、九曜! 殺すんじゃねえっ!」


 鋭い制止に、仔猫が男の首筋に爪を突き立てたまま、旅人を振り向いた。

 澄んだ少年の声が、無邪気に尋ねる。


「どうしてさ?」

「どうしても、だ。何度も言ったろう。むやみに人を殺すんじゃない」


 旅人は、()んでふくめるような口調で言った。仔猫が小首を傾げる。


「でも、こいつら荷物をった後で僕らを殺す気だったんだよ? 殺してもいいはずさ」


 しゃべる仔猫という事実よりも、その淡々とした言葉に含まれた真実の響きに、男は戦慄した。

 つ、と、汗が頬を流れて落ちる。


「だけど、荷物も俺たちも無事だろ? 殺すのは、本当に自分が危ないときだけにしろよな」


 旅人は穏やかに命じると、血をぬぐった大刀を右腰に納めた。


「こんなやつら放っておいて、さっさと山を下りようぜ。こいつらも――これ以上邪魔をしないだけの頭は持ち合わせているはずだからな?」


 そう言って旅人は、外套の下から、茫然自失(ぼうぜんじしつ)の男を一瞥する。

 男は、訳も分からぬままに何度も頷いた。

 仔猫は、名残惜しそうにため息をつくと、ようやく男の体から離れた。


「変なの。同族を殺してまで物を奪おうとするのに、その同族の命を(かば)うなんてさ。人間って絶対変だよ。分かんないな、僕には」


 不満げにこぼす。

 旅人は苦笑し、荷物を担ぎなおすと、仔猫に手を差し伸べた。


「行こうぜ」


 仔猫が、身軽くその肩に飛び乗る。

 山賊たちは、動ける者はすでに去り、傷を負った者も這いつくばって逃げていた。

 振り返りもせず立ち去る旅人を、ただ一人、黒髪の男が見ている。

 その手が、足元に転がっていた剣を掴んだ。


「ぎゃあっ……!」


 途端、剣を取り落とし、男が叫んだ。男の右手には一本の太い鋭利な針が突き立ち、深々と地面まで達している。

 腕輪に仕込んだ棒手裏剣を投げ放った旅人が、向き直る。外套が揺れ、冷ややかな表情が垣間見えた。


「どうやらてめえは、少し頭が足りてねぇみたいだな……」


 その肩では、魔性が、虹色の双眸をじつとこちらに向けている。


「後悔することになるぜ」


 言葉が終わると同時に、冷たいものが男の顔を吹きつけた。頬をかすめ、何かが、はらり、と手のひらに落ちる。

 男は凝然(ぎょうぜん)と、すぐに消えていくそれを眺めた。

 それは冷たく白く、清らかで美しかった。

 まるで目の前の、あの魔性のように。

 それは、男が生涯で初めて眼にした、雪のひとひらであった。


   *


 統一世界(カナン)を構成する国のひとつ、ギルモア王国は、熱砂の国アルビオンから二十公里(ミール)ほど北上した小さな内陸の国であった。

 そこは湖から捕れる魚とわずかな耕地から収穫される作物、そして旅人の足休めの場所として細々ほそぼそと暮らしている。それでも人々は活気に満ち、首都ナバルの街も市場を行き交う人や家畜の喧騒に溢れかえっていた。


 立ち並ぶ露店の中、壷売りの大きく張り出された麻布の天蓋(テント)の陰で、一匹の仔猫が丸くなっている。

 それは、この地方には珍しく毛足の長い猫だった。見事に白いその体は、なぜか深い青さを感じさせる。

 仔猫は薄目を開けると、大きな欠伸(あくび)をひとつした。

 彼の名は九曜。妖魔(ようま)である。

 妖魔といっても、その存在はすでに伝説化され、現在正しく認識している人間は少ない。一般には物怪もののけあやかしを含めた未知の生物を総称することもあるが、正確には魔界と呼ばれる異世界の住人で、魔力を有し、生き物の精気をかてとする生物のことを言う。

 その特徴は長命であり、魔力によって変身が可能ということだ。


 勿論、九曜も例外ではない。実は仔猫の姿は中間形態(ミドルフォーム)で、本来は人間に似た姿をしているのだ。

 なぜ中間形態(ミドルフォーム)でいるかというと、ひとつに本体ではあまり魔力が使えず、いざというときに困るから。もうひとつは、仔猫の姿の方が人間たちに警戒されにくいからである。

 彼は現在、旅の途中なのだ。それにはある目的がある。

 本気になれば大抵の妖魔や能力者(ヴィサード)には勝てる九曜だが、彼にはひとつ悩みがあった。過去の記憶がないのである。

 当然、自分の氏素性も知らないし、知っていることといえば、魔術師にハイラ高地で捕らえられたということくらいであった。

 ギルモア王国からハイラ高地のある地域まで、東へおよそ三千公里(ミール)。そこへ行って失くした記憶の手がかりを掴むのが、彼の旅の目的であった。

 しかし、連れはそうはいかない。


 九曜は、もう一度欠伸をすると、前肢を突っぱねて伸びをした。

 あふ、と欠伸をかみ殺して、天上に浮かぶ白い光球を見上げる。さまざまな色彩の踊る瞳が、硬質の光を反射した。

 戻る気配のない連れに、九曜が地面に寝そべって昼寝の再開を決めこんだ、そのとき。


「――おう。待たせたな」


 ハイ・バリトンが聞こえ、当の少年が姿を現わした。


「悪ぃな、九曜。退屈しただろ?」


 さして悪怯(わるび)れたふうもなく言う彼は、十七、八歳。よく焼けた褐色の肌と奔放にはねた短い黒髪の、どこか異国めいた顔立ちの少年だった。

 大きな切れ長の眼は、印象的な深い色合い。

 日除け用の頭布(シェーシ)を無造作に被り、麻の上着に洋袴(ズボン)、腰に大刀を差す姿は、若さに釣り合わぬ世慣れた雰囲気を感じさせた。

 少年はディーン・グラティアス。九曜を魔術師の手から救い出した張本人であり、また記憶のない彼の名付け親でもある。

 この少年に出会ったおかげでアルビオンを縦断するような事件に巻き込まれたと言えなくもないのだが、それも無事解決し、二人はこうして旅の途上と相なったのだ。


「研ぎ師の親父が強情でなぁ。注文つけるのに苦労したぜ」


 外套と共に旅の荷を肩にかけ、ディーンが陽気に笑いかけた。

 九曜は、それをちら、と見上げ、


《それはいいけど……そんな大声で話しかけたりしちゃ、妖魔だって隠してる意味ないでしょ》

「あ……」


 魔力を使って教えられた事実に、少年は片手で口を押さえた。


「わははは。悪い悪い。つい、いつもの調子でよー」


 頭を掻きながら言う彼をもう一度たしなめる気にもならず、九曜は、ため息をひとつついて腰を上げた。


《で、今日はどこに泊まるの?》

「そうだな。買い物もしたし、ロブ湖の辺りで一泊するか」

《また野宿?》


 少年の肩に飛び乗って、九曜が尋ねる。ディーンは荷物の口を開けてやり、


「でもないさ。あの辺りには、宿場(しゅくば)が集まってる。なんとか探すさ」

《なんだって、あれだけのお金を二ヵ月半で使っちゃうかねぇ》


 荷袋の中へ潜りこんで鼻先だけ出した九曜が、呆れ顔になる。

 二人は、少し前アルビオン南部で起きた事件解決の報酬として売れば五十万アルムは下らない額の貴金属を手にした。ちなみに、一万アルムあれば普通の一家族が一月は楽に暮らせる。

 それが二ヵ月半でほぼ底をつきかけているという原因は、ひとえにディーンの金遣いの荒さにあった。いや、荒いというのではない。無頓着なのだ。

 生来の乗りの良さと人の善さで、酒客に奢ったり女に騙されたり、持ち逃げされたりということを繰り返して現在に至る。

 人間社会にはうとく、また興味もない九曜でさえ、それは呆れてあまりあるものだった。


――まあ、金に執着するよりはいいけど……。


 と思いはするものの、やはり人間社会において、金はないよりもあるほうが便利だ。


『いいのいいの。金なんて、使っちまうもんなの』


 連れの少年はそう言って取り合わないが、十日も野宿続きだと、さすがに柔らかな寝床が恋しくなる。

 魔力を持つ妖魔には、本来そんなものは必要ではない。むしろ、そのような妖魔は世界広しといえども滅多にいないと言える。

 実は、九曜を呪縛から助け出す際、ディーンの右腕はほぼ完全に破壊されてしまった。そこで九曜は、彼を助けるという望みに従って、それを治癒したのだ――自分の分身を与えて。

 分身と離れると困る、というほどではないが、身近なほうが都合がよいのもまた事実である。

 そこでディーンについてきた九曜は人間社会に溶け込まざるを得なかった、というのが本当のところなのだが、ここでいささか問題が出てきた。


 繰り返すが、九曜は妖魔である。人並みに食事もし、寝台(ベッド)で寝るが、強大な魔力を持った恐るべき妖魔の一人である。

 妖魔は、得てして自尊心が非常に高い。魔力が強ければ強いほど、自尊心も高くなる。

 そして、九曜は最高級に強い妖魔であった。自尊心は金剛石ダイヤモンド並みである。

 そしてもう一つ。妖魔は、人間が嫌いである。

 中でも九曜の人間嫌いは、自尊心の高さと比肩(ひけん)していた。それが旅のためとはいえ、人の暮らしの供である仔猫のふりをしなくてはならない屈辱は、たとえ同じ妖魔であっても分かりはしないだろう。


 九曜は、記憶を失ってはいても百年単位で生きていることは間違いなく、その知識の量も半端ではない。だから最初は、まあつきあってみるか、という軽い気持ちだったのだ。強者が弱者にみせる、あの寛大な心で。

 ところが度重なる〝猫〟扱いとディーンのいい加減さに、彼の忍耐はそろそろ尽きかけていた。

 これは九曜の人格に問題があるのではなく、かといってディーンをはじめとした人間たちに非があるのでもない。やはり双方の見解の違いから生じた軋轢あつれき、というものだ。

 これまで二人の間に何の問題も起きなかったのは、それでも、九曜が多少なりともディーンを好きだったからだ。だからこそ我慢もしたし、親のような気持ちで見守ってきたつもりだった――今までは。


 だが今は、そんな気持ちにはなれなかった。

 軽い響きをたてて、首にかかった金の鎖が揺れる。

 古銭を吊るしただけの安物だが、アルビオンを旅したとき、ディーンが自分の手首にしていた物を九曜にくれたのだ。

 ただの気紛(きまぐ)れだと思うのだが、九曜は妙にそれが嬉しかった。記憶のない不確かな自分の居る場所があった――そんな気がしたのだ。

 それも今では、まやかしに思えてくる。

 所詮、自分は妖魔。人間とは別だ。

 それが、人間への嫌悪と軽蔑の念に直接結びついていく。

 九曜は今、泥沼のごとく葛藤の真っ只中にいた。


 九曜の口から重い息が洩れる。能天気な連れの少年は、そんなことに全く気付かない様子で、意気揚揚(いきようよう)とロブ湖への道程を歩いていた。

 たっぷりした綿の服をまとった男女が、魚や果物を積んだ大きな籠を器用に頭に乗せて行き交う。

 世界統一以前、様々な国の支配下に置かれたギルモアは混血が進み、南方とも北方ともつかぬ顔立ちで、肌の色も白から夕闇ににじむ暗い色のものまで、頭髪も金に茶、黒と多様だ。

 その中で、この地方の服を着たディーンは、しっくりと彼らに溶け込んでいる。

 ギルモアの風土がそうさせるのかもしれないが、それでも成人したてのこの少年は、何人なにびとともつかぬ容姿をうまく利用して、異国の景色に馴染むすべを心得ていた。


 切れ長の大きな瞳が不可思議な色を湛えて、街並みの途切れる彼方をまっすぐに見つめる。

 横たわる、生命(いのち)の紺碧。ロブ湖だ。

 ディーンは、わずかに口元をほころばせると、足並みを早めた。

 湖の周りでは、朝の釣りを終えた漁師たちが収穫した魚を広げている。彼らは、近隣の山から降りてきたらしい、果物や岩塩を積んだ荷を下げた人々と声高こわだかに交渉していた。このような正規の店ではないところでは、まだ物々交換が主流なのだ。

 湖からの風は涼しく湿っていて、わずかにいその香りがする。

 それは、水揚(みずあ)げされた魚の泥っぽい生臭さと渾然一体となって、辺りに漂っていた。

 鳥のさえずりのような早口のキリキア語で会話する人々の間を縫い、でろりと大きい灰色のクーレやギル、ティローといった小魚の山を横目に、少年たちは湖畔に居を構える宿場群へ向かった。


「――お?」


 突然、声を上げてディーンが立ち止まった。

 何事かと袋から顔を覗かせる仔猫をよそに、少年はロブ湖の方へ走り出す。


桟橋さんばしだ、桟橋」


 嬉しそうに言いながら、ディーンは湖に張り出した木造の船着場に立った。

 数隻の小舟が浮かぶ湖面は、視界に収まりきらぬほど広々として、そのまままっすぐ空の青さに続いているように見える。さすが、セントゲア大陸でも十指に入る大きさだ。

 水面を弾く陽の光に眩しげに眼を細め、ディーンは湖を覗き込んだ。

 澄み切った水は幾層の青を重ねた奥深い色をたたえ、わずかに泥の湖底を覗かせていた。

 その中をいくつもの淡い影が、波のごとくよぎる。


「見ろよ、九曜! ティローの群れだ」


 ディーンは、細い足で支えられた小橋から身を乗り出して感嘆した。

 袋から出てきた九曜が、はいはいと受け流す。

 何を思ったかディーンは片方の靴を脱ぐと、靴紐を持って、おもむろに湖面にかざした。

 察した九曜が、冷ややかに制止する。


「やめとけば? 湖に落ちるのがいいとこだよ」

「まあ見てろって。今日の夕飯はティローの姿焼きだ」


 自信満々に言って、ディーンはそろそろと湖面に近付いた。桟橋の影に身を隠し、ティローの群れが近づくのを窺う。

 実際の深さは、光の加減などで、見た目とはかなり違う。それを知る九曜は、だが再度忠告しても無駄と分かっていたので、黙ってなりゆきを見守った。

 つい、と向きを変え、寄り集まった小魚たちがこちらへ向かってやってくる。

 ディーンが、素早く靴を振り下ろした。水飛沫が散る。

 だが、簡易の投網(とあみ)は、ティローのひれ一枚も掠めず、ざっぷりと水をすくった。

 さっと小さな影が波間に消える。


「ちっくしょー」


 びしょぬれの靴を持って毒突(どくづ)いたディーンは、次の瞬間。


「……わ? わわわっ」


 勢い余って平衡バランスを崩した。


――なーにをやってんだか、まったく。


 桟橋の角で手足をばたつかせる少年を眺め、九曜はため息を吐く。


――このまま落としたほうが薬になるんだろうけど……。


 もう一度息をついて、魔力を高めた。

 猫の眼が、鮮烈な輝きを放つ。刹那、桟橋から転げ落ちた少年の身体が、水上でぴたりと止まった。

 恐る恐る眼を開けたディーンは、目の前にやってくる白い仔猫の姿を認めた。


「だから言ったでしょ。やめときなって」


 背中から生えた翼をはばたかせながら、妖魔は(あき)れたように言う。

 安堵したディーンは、相手が空中に立っていることに気付いた。思わず、足元を見る。


「あわわわ」


 かじりついてくる少年に、九曜は冷めた口調で教えた。


「大丈夫だって。僕の魔力はそんなにやわじゃないんだから」

「俺は現実的な人間なんだっ」

「……このまま落ちたいの?」


 かちんときた九曜は、魔力を弱めた。

 途端、重力のままに少年の爪先が湖面に浸る。その先は、深さが分からないほど黒々と青かった。


「九曜ぉぉ」


 涙眼で哀願する少年に、九曜は再び落下を止める。


「――分かった?」

「うんうん分かった。すごい、えらい、さすが九曜、天才。だから落とさないでくれよな? なっなっなっ?」

「……」


 九曜は一瞬本当に湖に落とそうかと考えたが、それも可哀相かと思い直し、魔力でディーンを桟橋まで運んだ。


「はぁ~」


 命拾いをした少年は、桟橋にぺったりと膝を付いて動悸(どうき)を整えた。恩人の連れを顧み、首を傾げる。


「九曜。おまえ、首飾り(ペンダント)どうしたんだ?」

「え?」


 言われて自分の胸元を見た仔猫は、いつもぶら下げていた金の首飾りがないことに気が付いた。


「さっきまであったよな?」

「鎖が古かったからね。どこかで落ちたんでしょ」


 九曜は素っ気なく答える。ディーンはすまなそうに頭をかき、


「じゃあ、俺が捕まったときかな。水の中だぜ、きっと」


 濡れた靴を履いて、湖の中を覗き込んだ。ゆらゆらと揺れる水面に眼を凝らす。


「うーん。見えねぇな。しょうがない、潜るか」

「何言ってるの。どこで落としたかも分からないのに、見つかるわけないじゃない」

「見つかるか見つからないか、探してみなきゃ分からないだろう。この辺りのどこかなんだ。探してみる価値はある」

「溺れるのがせいぜいだよ。ついさっき湖に落ちるのをまぬがれたっていうのに、自分から溺れにいこうなんて、僕には考えられないね」


 早くも服を脱ぎはじめていた少年が、その言葉に驚く。


「だけどおまえ、あれ、気に入ってただろう?」

「……べつに」


 短く言い捨て、九曜は再び荷物の袋の中に潜り込んだ。


「九曜?」


 襯衣(シャツ)を捲り上げる手を止め、ディーンが呼びかける。

 だが、いくら呼んでも袋は微動だにせず、中からの返答も一切なかった。




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