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依頼 2

 どうやら水藤さんは甘い物が好きで、苦い物は苦手らしい。


 きちんと覚えておくことにしよう。


 できれば忘れないように今すぐ書き留めておきたいところだったが、水藤さんの個人的な食の好みを目の前で書いていたら、間違いなく変に思われるに違いない。

 

 俺がつい動かしたくなる鉛筆を押し留めていると、水藤さんは続けた。


「初めて飲んだ珈琲がとっても苦かったから、それ以来珈琲は飲まないようにしてたんだけど、ここは岌希だけじゃなくて珈琲も美味しいって聞いたから、試しに飲んでみたの。そうしたら、苦味はあるけど苦過ぎなくて、舌触りもまろやかで、びっくりするくらい美味しく飲めたのよ。お砂糖を入れなくても、牛乳を入れれば苦味は大して気にならないし、甘さ控えめの白姫にも合うから、このお店に来る時はいつも白姫と一緒に珈琲を頂いてるの。あんなに美味しい珈琲を、私は他に知らないわ。お店を出る前からまた来ようって思ったお店はここだけよ」


 俺の本を褒めてくれた時と同じくらい、水藤さんの言葉が嬉しかった。


 岌希を作ったり、珈琲を淹れたりすることは、俺にとっては小説を書くこと程楽しいことではないが、父さん達と同じことをすることがどれだけ難しいかはよくわかっているし、二人を尊敬してもいる。


 子供の頃から白姫の作り方や珈琲の淹れ方を習い続けていても、まだまだ父さんにも母さんにも敵わないのは、それだけ父さん達が毎日手を抜かずに頑張っているからだ。


 その頑張りをこんなに評価してくれる人がいる。

 

 水藤さんの今の言葉を、父さん達にも聞かせてあげたかった。


「ありがとうございます」


 俺が心からの感謝を込めてそう言った時、父さんが二人分の水出し珈琲と紙袋入りの麦藁ストロー、牛乳差し(ミルクピッチャー)と舎利別差し(シロップピッチャー)を盆に乗せて運んできた。


 父さんは我が父親ながら、不憫に思えるくらい平凡な中年男性だが、深い皺が刻まれつつあるその顔は柔和な印象で、俺のそれとよく似ていた。


 年は確か今年で四十九歳だっただろうか。短い髪には白い物が本格的に増えてきている。店の制服である白い襯衣シャツ、黒い飾紐締リボンタイ、黒い胴衣ベスト洋袴ズボンに黒い革靴。


 深緑色の腰巻き前掛エプロンという出で立ちだった。

 

 その後ろには、母さんの姿がある。

 

 母さんは父さんより二歳年下だが、父さんより五歳以上若く見えた。


 年の割に肌に張りがあるし、後ろで一つに束ねた背の半ばまである髪に父さん程白髪が混じっていないせいもあるだろう。


 その優しさが滲み出ているような面差しは今でも十分綺麗だが、若い時にはそれこそ誰もが振り返るくらいの美人で、見合い話が次から次へと舞い込んで来たらしい。


 それなのにわざわざ父さんみたいなぱっとしない男と結婚したのは、父さんが自分のやりたいことを理解してくれて、一緒に頑張ることを決意してくれたからなのだそうだ。


 この人なら好きになれると思ったから、結婚したのだと。

 

 母さんは厨房にいることが多く、こちらに出てくることはあまりないのだが、いつもきちんと店の制服姿だった。


 白い襯衣に、黒く長いスカート靴下ストッキングに包まれた細い足には黒い靴。


 胸元まで覆う、縁飾フリル付きの深緑色の前掛に加えて、黄色の三角巾を身に着けていた。


「お待たせしました。水出し珈琲です」


 父さんはそう言って軽く会釈をすると、慣れた手付きで水藤さんと俺の前にこれでもかと氷の入った洋盃グラスと紙袋入りの麦藁ストローを置いていく。


 この『白姫』で出している水出し珈琲は、氷の入った洋盃に別の洋盃の珈琲を注いで飲むようになっていて、父さんは盆の上の珈琲を氷の入った洋盃に注ぐと、空になった洋盃を盆に戻した。


 俺と水藤さんの前に二つの水出し珈琲が並んだところで、いかにも客商売らしい愛想の良さで言う。


「お客様は牛乳をご入り用でしたね?」


 流石父さん、常連のお客さんの好みはちゃんと頭に入っている。


 牛乳も砂糖も庶民に手が出ない程高価な物ではないのだが、お客さんに好きなだけ入れてもらう形にすると、別途料金を請求されないのをいいことに、使い過ぎるお客さんが少なくない。


 そのため、店の人間が入れさせてもらうのが一般的だった。

 

 俺は水藤さんの好みを補足しようと、父さんに言う。


「苦いのが苦手だそうだから、多めに入れてあげて」

「はいはい」


 父さんは盆の上から牛乳差しを取り上げると、水藤さんの珈琲に牛乳をたっぷりと注いだ。


 俺は珈琲には牛乳や砂糖を入れない主義なので、父さんはそのまま牛乳差しを盆に戻す。

 

 水藤さんが軽く頭を下げると、父さんは改まった口調で言った。


「いつもご贔屓にして下さって、ありがとうございます。ご挨拶が遅れましたが、玲の父の氷上直ひがみすなおです」

 

 父さんが丁寧に腰を折ると、母さんも簡単に自己紹介をする。


「玲の母の氷上蓮月ひがみはづきです」


 母さんが父さんと同じように一礼すると、静かに席を立った水藤さんも父さん達に深々と頭を下げた。


「こちらこそ、ご馳走になるのにご挨拶が遅れてしまってすみません。水藤雅と申します」

「まあまあ、ご丁寧にどうも。この度は息子の我儘を聞き入れて頂いたそうで、ありがとうございます。不出来な子ですから、何かとご迷惑をお掛けすることもあると思いますけれど、半分は親である私達の責任ですから、どうか多少のことは大目に見てあげて下さいね」

「不出来だなんてそんな……私の方こそ粗忽者だと母によく叱られていましたし、息子さんに何か粗相をしてしまうかも知れません。ごめんなさい。先に謝っておきますね。取材を受けるなんて初めてですから、上手く答えてあげられないかも知れませんし……」


 俺は母さんと水藤さんのやり取りを聞きながら、父さん達が自分の友達や知り合いと話していると、やっぱりどうにも居心地が悪くなるなあとぼんやり思った。


 多分いつまでも子供扱いされているのを目の当たりにするせいなのだろうが、これも俺が成長したということなのだろう。


 うんと子供の時は特に何とも思わなかった気がするし。






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