依頼 1
明くる日。
店の開店準備は毎日手伝っているが、俺は父さん達に比べてまだまだ未熟なので、開店後は基本的に執筆の時間に当てている。
例外は執筆に行き詰まった時と店が忙しい時、そして水藤さんが来る昼過ぎだ。
店が空いているからか、水藤さんは十三時前後に来ることが多い。
俺が今日も店に出て水藤さんを待っていると、水藤さんは十三時過ぎに弾むように軽やかな足取りで『白姫』にやって来た。
白い手にはこの間と同じ白い日傘。
青みを帯びた紫の地に桃色の朝顔が描かれた和服に、赤に近い桃色の小縁の帯を締めた水藤さんは今日も綺麗で、どこか涼しげだ。
その姿を一目見た瞬間、俺の胸が高鳴り始める。
嬉しさと、ほんの少しの苦しさ、切なさが混ざり合った気持ちが胸に広がった。
恋をしているのだと、嫌でも自覚せざるを得ない幸せな気持ち。
ついにやけそうになる顔を苦労して引き締めながら、俺は言った。
「いらっしゃいませ」
水藤さんは満面の笑みを浮かべて軽く会釈した。
この店で白姫を食べた後は大抵こんな感じの上機嫌だが、食べる前からここまで機嫌がいいのは初めてな気がする。
白姫食べ放題と珈琲飲み放題が、余程嬉しいのだろう。間違っても俺に会えるのが嬉しい訳ではないと、冷静に判断できてしまえる自分が少し悲しい。
お客さんは一番奥の卓子の一組だけなので、俺は品書きを手に水藤さんを通路を挟んだ向かいの卓子へと案内した。
すぐ側にある扇風機が風を送り続けているおかげで、多少は涼しい。
壁際の椅子に腰を落ち着け、日傘の持ち手を卓子に掛けた水藤さんに持っていた品書きを手渡すと、水藤さんは品書きをざっと眺めてから言った。
「檸檬の白姫と水出し珈琲をお願い」
「畏まりました」
俺は厨房に注文を通すと、作り置きの檸檬の白姫に肉刺、水の入った洋杯だけを盆に乗せて、水藤さんの卓子に向かった。
水出し珈琲も予め冷やしておいた珈琲に氷の入った洋盃を添えて持ってくるだけではあるのだが、盆があまり大きくないので、一度にあまりたくさんは運べないのだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
俺は洋杯や皿を卓子に並べながら、待ち切れない様子の水藤さんに問いかける。
「あの、早速お話を聞かせて頂いても構いませんか?」
「いいわよ。そのつもりで来たんだし」
「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと着替えてきますね」
俺は再び厨房に引っ込むと、水藤さんが来たことを伝え、雇いの女給さんにお客さんを任せて、店の仕事を抜けさせてもらうことにした。
父さん達は快く許可してくれて、俺は礼を言うと、階段を上がる。
この店の一階と二階は喫茶店だが、三階には俺達家族の居住空間があるのだ。
俺は自分の部屋に戻って手早く着替えを済ませると、水藤さんがいつ来てもいいように筆記用具一式を入れて置いた鞄を手に、再び一階へと下りた。
俺が水藤さんの卓子に戻って来ると、水藤さんは至福の面持ちで切り分けた白姫を口に運んでいた。
水藤さんが食べている檸檬の白姫は夏限定の商品で、檸檬風味の牛酪凝乳が夏らしい爽やかな味わいだ。
定番の白い楂古聿の白姫と黒い楂古聿の黒姫もいいが、季節限定の白姫にはまた違った良さがある。
「お待たせしました」
俺が向かいに腰を下ろすと、水藤さんは行儀良く口の中の白姫を飲み下してから、口を開いた。
「ねえ、取材を受ける代わりに只で飲み食いさせてもらえるって話だったけど、本当にいいの? 私にとっては凄くいい条件だけど、あなたにとっては割に合わないなんてものじゃないわよね?」
「ご心配には及びませんよ」
水藤さんがこの店に来る時は、いつも決まって白姫一皿と何かの珈琲を頼んでいる。
奢りとなれば支払いの心配をしなくていいので、注文量が増える可能性はあるが、この細さならそこまで食べないだろう。
この程度で店が潰れるなら、武と奏多に毎日のように白姫を振舞っていた子供の頃に、とうに潰れているに違いない。
俺は鞄から手帖や筆箱を取り出しながら続けた。
「流石に常識外れの食欲を発揮されたら店が傾くでしょうけど、水藤さんはそこまで大食いじゃないですよね?」
「食べたくてもそんなに食べられないし、それにいくら美味しい岌希と珈琲が好きなだけ飲み食いできても、少しも遠慮しない程、私は図々しい女じゃないわよ。あんまり食べ過ぎると太るし」
「十分ほっそりして見えますし、体重なんて気にしなくても大丈夫だと思いますけど?」
「でも太ってから痩せるのは大変だし、それなら初めから太らないようにした方がいいでしょ? 本当は週に何度もここに来ることにも、少なからず葛藤があるのよ。でもこのお店は雰囲気もいいし、白姫も珈琲もとっても美味しいから、つい来ちゃうの。特に珈琲が凄くて、あの味は私には衝撃的だったわ」
最後の一言を、水藤さんはひどくしみじみとした口調で言った。
確かに父さんが淹れた珈琲は文句なく美味いが、「衝撃的」という言い方は些か大袈裟過ぎる気がして、俺は何とも面映い気持ちになる。
「そこまで言う程美味しいですか?」
「あなた、とんでもない親不孝者ね。親御さんの価値を知らないなんて。私、このお店に来て初めて、珈琲が美味しいなって思えたのよ」
俺はきょとんとして水藤さんを見た。
「珈琲、苦手だったんですか? いつも頼んでるのに?」
「そうよ。このお店の珈琲は平気だけど、ここ以外じゃまず飲まないわ。だって、苦いでしょ?」