始まり 4
俺を作家になれる才能付きでこの世に送り出してくれた上に、『白姫』を開いてくれた父さん達には本当にどんなに感謝してもし足りなかった。
もう死ぬまで親不孝はしないでおこう。
距離を縮めるきっかけが得られただけで、この先水藤さんとどうなるかは全くわからなかったが、それでも俺にとっては一生の親孝行を誓うに十分過ぎる出来事だった。
俺の二十二年の人生において、初めて結婚を考えた女性との縁を作ってくれたのだから。
俺が上機嫌で注がれた濁酒を飲み下していると、武が徳利を置いて言った。
「浮かれてるところに水差すようで悪りぃけど、まだ取材させてもらえることになっただけで、人柄なんてほとんどわからねえんだろ? もしかしたら稀代の悪女と縁ができちまったのかも知れねえぞ?」
「確かに人間見た目じゃわからないものだけど、彼女はそんな人には見えないけどなあ。今日彼女といろいろ話してて、この人と結婚したいって本気で思った」
「へえ?」
奏多は意外そうに片眉を跳ね上げ、武も些か呆れたような面持ちになった。
「おいおい。いくら何でも、今日初めてまともに話した間柄で結婚決めるのは早過ぎだろ。いくら今時珍しく息子の恋愛に理解がある親父さん達だって、流石にそれは反対すると思うぞ」
「そうかなあ? ウチの父さんだって、見合いで初めて母さんと会ったその日に結婚するって決めたんだ。結婚式の当日に初めて顔を合わせる人達だっているけど、それでも上手くやれたりするんだから、出会ってからの時間の長さは必ずしも重要じゃないよ」
「まあ、人を見る目があればね」
奏多が刺し身を箸で摘みながらそう言うと、近くに座っていた客の一人が突然怒鳴り声を上げた。
俺が思わず声の方に視線を向けると、中年の男性同士が睨み合っている。
今にも殴り合いが始まりかねない様子で、店の空気がぴんと張り詰めたが、店の主人が慣れた様子で仲裁に入り、ひとまずこの場は収まったようだ。
二人が渋々ながらも座り直すと、集まっていた視線が次第に逸れて、和やかな空気が再び戻ってくる。
この辺りは工場勤めのあまり裕福でない住民が多いので、客層もあまり良くなく、酒を出す店ともなるとちょっとした揉め事が起こるのはそう珍しくもなかった。
俺は武と奏多に視線を戻すと、気を取り直して厚揚げと筍の煮物を食べながら言う。
「さっきの話だけど、人を見る目がない人は結局何年側にいたって相手の本質には気付かないんじゃないかな? それこそ一緒に暮らし始めて手遅れになってから、やっと気付くんだと思うよ。俺は運良く今まで周りの人達がいい人達で、手酷く裏切られたりするようなことはなかったから、自分に人を見る目があるのかないのかよくわからないけど、わからないならとにかく試してみるっていうのもアリだと思うんだ。勿論相手がいることだから、彼女や彼女のご両親に気に入ってもらえないとどうにもならないけどね」
「まあ、確かに一緒に暮らして初めてわかることもあるんだろうから、結婚なんて出たとこ勝負の博打みてえなもんだと思うけど、その美人の何がそんなに良かったんだ? ちょっと話しただけで結婚したいって思うなんて、相当なもんだろ」
「だよねえ。よっぽど性格美人な訳?」
「性格美人ねえ……悪い人じゃなさそうだけど、さっき武が言ってた通り、人柄の良し悪しがわかる程話した訳じゃないんだ。大人しそうに見えて、意外と気が強そうだったし、俺以外の人にとってはそこまで魅力的な訳じゃないのかも」
俺が水藤さんの言動を思い出しながらそう答えると、武が怪訝そうに眉を皺めた。
「何だそれ? 全然意味わかんねえんだけど」
「実は彼女、俺の本の読者だったんだよ。俺の本を本当に気に入ってくれたみたいでさ、たくさん褒めてくれて、続編が出ることを話したら続きが楽しみだって喜んでくれた。それが凄く嬉しくて、彼女のために書いてあげたくなったんだ」
あの時の水藤さんの言葉を思い出すと、それだけでとても幸せな気持ちになれた。
時々読者から手紙をもらうことはあって、読む度にとても嬉しくなるし、頑張ろうと思えるが、水藤さんが俺の書いた本を「面白かった」と言ってくれて、続編が出ることをあんなにも喜んでくれた時の気持ちの前にはどうしても霞んでしまう。
きっと水藤さんにとっては深い意味なんて何もなく、ただ思ったことをそのまま口にしただけなのだろうが、それでも俺にとっては何より嬉しい言葉だった。
俺がついつい緩みそうになる口元を何とか引き締めていると、武が得心の行った様子で言う。
「あー、そういうことならお前が本気で惚れるのも道理だな」
「だね。作家みょう……何だっけ? 苗字じゃなくて、みょうがじゃなくて……」
奏多は勉強は得意ではなかったし、ほとんど本を読まないので、あまり難しい言葉は知らない。
それでも俺の本や連載の続きが出ると、辞書を引きながら必ず読んでくれるのだから、つくづくいい奴だ。
俺は頻りに首を捻る奏多に言う。
「冥利」
「それだ! 作家冥利に尽きるってやつだよね。いいなーって思ってる美人にそんなこと言われたら、僕も結婚考えちゃうよ」
「だろう? できればあの場で結婚を申し込みたいくらいだったよ」
とはいえ流石にそんな度胸はなかったし、仮に度胸があったところで只の顔見知りの男からの求婚を受けてくれる女性がこの世にいるとも思えないので、思い止まって正解だったろう。
あれだけの美人なので、うかうかしている間に横から誰かに掻っ攫われたらと思うと気が気ではなかったが、焦って関係を急ぎ過ぎたら結婚どころか嫌われかねなかった。
今まで女性との交際経験は全くないものの、小説家などという商売柄、読者に不自然さを感じさせない女性の心理や言動を日夜考えていたりするので、女性心理はある程度理解しているつもりだ。
まずは、少しずつ距離を縮めていくところから始めるべきだろう。
時には多少の強引さも必要かも知れないが、いきなりぐいぐい迫ろうものなら大抵の女性は恐れを為して逃げ出すに違いない。